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自覚
しおりを挟む軽く地面を蹴った次の瞬間には、塔に戻っていた。
娘を抱え、跳ぶ少し前——、幼い自らとの対話を終えたその瞬間からセテンスは混沌とした思考に支配されていた。
自らの唯一を見つけ、取り戻したことは幸福なことだった。
しかし、それと同時に満たされることのない焦燥感が彼を襲っていた。幾ら満たされても、足りないのだ。酷く不安で恐ろしいことだった。
今回は無事に取り戻すことが出来た。
しかし、次にこんなことがあったら?
今は私を頼ってくれている。
しかし、愛想を尽かされてしまったら?
幾つもの不安が、不確定要素が、セテンスの脳裏に現れては消えていく。
今となっては、父はよく我慢した方だと思う。
それは、先ほど経験してよく、わかった。理解した。
それはもう、文字通り、吐き気を催すほどに解らされた。
自分以外の男に触られるなど、あり得ない、のだ。
それが誰であろうと、もう、ダメなのだ。相手が『下心を持っている』と察してしまった時点で、もう。
彼女に休暇を与えたのは、セテンスもよくよく考えてのことだった。彼女の想いを明示され、そしてその手を取ることができなかったその瞬間から、彼はずっと考えていたのだ。
決して嫌いなわけではない。どちらかといえば好意はあった。生真面目に仕事をこなす姿や、自らの身を投げ打ってセテンスを救おうとする行動を見せる彼女のことを嫌いになるはずなどなかった。しかし、差し出された手を取るかと言ったら話は別だった。自分のせいでアンリセラが不幸になることだけは、避けたかった。
ウジウジとしたセテンスは、塔から降りた彼女のことをずっと、視ていた。一目散に家族のような存在だと言う夫婦の家に向かい、再会を喜びあっている彼女はとても愛らしかった。
自らの古巣に戻ろうと、彼女がやることは変わらなかった。部屋を片付け、食事を作る。なんなら増えている。自分より少しだけ背の高い奥方の姿勢変換を手伝ったり、立ち上がりを介助したりと力仕事が追加された。その全てを笑顔でこなす彼女はさながら天使のようだった。
勿論仕事をこなし、無粋な来訪者の相手をするという日常をこなしながらの観察だった。暖かな家族の営みはセテンスにさまざまな感情を抱かせた。訪ねてきたエスターをおざなりに追いやったそのすぐ後で、視界の中に映ったその男が新鮮な食物を差し入れするその所業をみて、自分の気の利かなさを痛感した。また、夫婦がアンリセラのことを心配し、塔の仕事について不安そうに尋ねたときは、彼女がいなくなってしまうかもしれない不安に身を竦ませた。
そう、こんな未来も予期していなかったわけではない。それすら、アンリセラが自らの幸せを見直すきっかけだと思って決断をしたのだ。しかし当の本人はカラカラと笑って、夫婦の誘いを断った。それだけではない、セテンスについて温かな言葉をくれた。塔に戻りたい、と自ら決断してくれたのだ。その言葉を感知した瞬間、セテンスは膝から崩れ落ちそうになった。胸がひどく痛み、全身を鼓動が脈打つ感覚に襲われる。それ以上、無垢な笑顔を見ていられずにセテンスは視界を切った。
彼はようやっと、自らの想いを自覚したのだ。
正直、呪いの血に対しては未だ不安が残っている。しかし、それをおいても、……それどころか、どんな壁を乗り越えなくてはいけなかったとしても彼女と共に生きたい、とそんなことを考えるまでになった。
彼女が老夫婦の家を出ると告げていた予定日、塔に戻った彼女にどんな言葉をかけよう、とソワソワしていたセテンスは今回も初動が遅れた。
気がつくと彼女の姿を追えなくなっていたのだ。彼女の意識を通して場所を把握していた彼は、異常な事態に彼女が何らかの事件に巻き込まれ、意識を失ったことまで把握した。
異変に気が付いてすぐにしらみつぶしに彼女の居場所を探ったが思うようにいかない。慌てて、該当地区にいる対象者以外の全てを木っ端微塵にする古代魔法を探し始めた彼の元に、何かを察したのだろう、顔色を悪くしたエスターが駆け込んできた。そこでペンダントの存在に気付かされ、一も二もなく慌てて跳んだ。
目の前には凄惨な光景が広がっていた。大切な娘は上掛けをかけられてはいたが、その下は霰もない姿にされており、目の前には酷く軽薄な笑みを浮かべた男が突っ立っていた。すぐさま駆け寄ってやりたい気持ちをやっとかき集めた理性で抑えて、現状把握に努める。あろうことか憲兵服を纏っている男は、彼女の義兄だという。まるで道理の通っていない身勝手な理屈を垂れ流す彼に、会話の流れから彼女にトラウマを与えたであろう相手であることを何となく察する。そのあとすぐに無理矢理行為を迫りはじめた男に我慢ならず、セテンスは姿を現した。あとは感情のままに男を蹂躙するだけだった。
デゼルというらしいあの男。アンリセラを眺める瞳といい、身勝手な行為といい、そもそも兄と名乗ってはいるが血縁関係などないそれは明らかに異質で穢らわしく、許されない業を孕んでいた。
本来庇護されるべき相手から日々与えられる毒は、非常に辛かっただろう。アンリセラの境遇を思い、セテンスはやりきれない気持ちになる。
こんなことなら、もっと早く彼女を救い出してやればよかった。
セテンスはポツリとそんなことを思った。どう考えても難しいその思いつきは、しかし、セテンスには可能だった。少しばかり時空を歪めて過去の人物に干渉する方法が、古代書に載っていた気がする。幸い古代書の解読はお手のものである。そうしたら古代文字で基軸を立ち上げて、彼女の年齢から逆算して……。
「セテンスさ、……、っ」
暴論にぶっ飛んだ彼の思考を止めたのは、愛しい者の上ずった声だった。慣れ親しんだ場所へと戻り、張り詰めていた気持ちが一気に緩んだのだろう。彼女は子どものようにべそべそ泣き出していた。セテンスの黒衣を皺が出るほどまでに握りしめた彼女の掌も、華奢な肩も、小さな背も等しくカタカタ震えている。
随分怖い思いをしたのだろう。加えてセテンスの私用が効いたのかもしれない。どこまで酷いことをされようと、一緒に育った兄なのだ。そんな兄があんな仕打ちを受けて平常心でいられるわけもない。あれこそトラウマになってもおかしくなかった。
「リセ、リセ、怖い思いをさせてすまなかった。……怖かったろう。悍ましかったろう」
セテンスの労わる声にふるふると首を横に振った彼女は震える声で言葉を返した。
「助けに来てくれて、本当に嬉しかった、です」
健気にも無理矢理笑みを作った口元で、そんなことを呟く彼女の頬からは誤魔化しきれなかった綺麗な一雫が後から後からこぼれ落ちた。透き通った雫は彼女が縋り続ける彼の黒衣に染み込んでいく。彼はそっとそれを見守った。
ようやっと彼女が落ち着き、黒衣からその手が外れた。泣き腫らした顔を隠すように俯いた彼女は「お恥ずかしいところをお見せしました」と、照れたように苦笑する。その顔を覗き込むようにして娘の表情を確かめる。確かに恐怖は落ち着いたかもしれない。
しかし。
全てを乗り越えようと、忘れようと、諦めようと足掻いているその瞳の中。今までセテンスに向けられていたはずの熱も、消えかかっているように見えた。
「あぁ、これではいけない」
自らの思いが口をついて出た。今となっては最大の障壁となる自らの呪われた血すら受け入れた彼は、もう何も恐れるものはなかった。首を傾げたアンリセラを抱き抱え直したセテンスはその顔をそっと近づける。
鼻先が擦り合いそうな距離に、流石のアンリセラも動揺したように目を見開いた。その表情を心底愛しく想いながら、セテンスはそっと呟いた。
「リセ、私はこれからひどいことをしてしまう。すまない、もう君を逃してあげることはできないんだ」
急な宣言に、さらに困惑したようにアンリセラは首を傾げた。
そうそう、大切な言葉が抜けていた。こう言うことを他者に告げるのは彼にとって初めての経験だった。不思議と羞恥心などはなく、アンリセラを真正面から見つめたセテンスは、キッパリと告げた。
「リセ、君が好きだ。愛している」
君にとっては、もう遅いかもしれないが……。
その胸中、諦めさえ感じながら歩みを進めたセテンスはそっと自室の寝台の上に彼女を下ろした。
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