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呪いの再燃
しおりを挟む日々の気遣いはいつしか心労となっていった。気にしないように、気にしないように。そうは思うが、日に日に悪くなっていくセテンスの顔色が目について離れない。鬱々とした日々を過ごすアンリセラは、ある日、夢を見た。
故郷の町に戻って来たアンリセラを出迎えたのは兄、だった。
「おかえり、私のアン」
近しい距離で肩を抱かれ、アンリセラは身体をこわばらせる。懐かしいはずの家もどこか色褪せて見え、異変を感じたアンリセラは慌てて兄と距離を取ろうとした。肩に乗せられた腕はするりと落ち、アンリセラの身体に自由が戻る。距離を保ったまま、アンリセラは警戒するようにデゼルを睨みつけた。
「お父さんとお母さんは、」
「何を言っているんだ?二人とも隣町に出掛けたじゃないか?」
「……だから、今、この家には俺たち二人きりってこと、だ」
笑みを深くしたデゼルに寒気を覚え、アンリセラは慌てて外に出ようとする。小さなダイニングから扉を挟み、数歩進めば家の外にたどり着ける程の狭い家、なのに。そのはずなのに。
長い廊下はいつまでも途切れることなくアンリセラを翻弄する。何度も転びそうになりながら、アンリセラは兄から逃れるため必死に走り続けた。
「なぜ?」
不意に兄が隣に現れた。驚きのあまり体勢を崩したアンリセラはそれでも足を止めない。
「なぜ僕から逃げようとするの?」
「なぜ?無駄なだけなのに」
廊下中に兄の笑い声が響く。何とか扉まで辿りついたアンリセラは藁をも掴む思いで必死にドアノブに手を伸ばす。
もう少し、……もう少し!
震える手でなんとかドアノブを掴み、ようやっと外に出れるというその時、生温い掌がドアノブごとアンリセラの手を握り込む。
「ひ、」
思わず悲鳴を上げたアンリセラに笑みを深くしたデゼルはアンリセラの耳元に顔を寄せる。ぞくりと背筋を凍らせた彼女に構わず生温い息を吹き込む。
「アン、分かっているんだろう?僕が求めていることも。町で君を見ていた男たちが求めていることだって……、——ね、あの男が求めていることも、アンはちゃんと気がついているんだよね?」
「求められていることには、ちゃんと応えてあげるんだ。——じゃないと、」
「ッ!」
「あの男に、嫌われちゃうよ?」
やけに清明な夢は、うなされて飛び起きたアンリセラをその後も苛むことになった。
「ふう……」
その日、夕食の仕込みを終えたアンリセラは、ぼんやりとソファに座り込んでいた。塔の主は巣篭もりの最中である。ここのところ当たり前になってしまったそのサイクルのせいで、食事を除きセテンスと顔を合わせる時間は殆どなくなってしまった。
まるで、以前のように戻ってしまったよう。そんなことを考えたアンリセラは、ふるふると首を振った。
否、今までが近すぎたのだ。本来の主人と使用人の関係性はきっとこんなものだ。むしろ食事を共にしていることからして、あり得ないことである。
不意に隣の部屋から風が舞い上がる音が聞こえた。びし、と年数を刻んだ窓枠やら扉が軋む音を立てた。きっと主人がどこかに跳んだのだろう。
このところ、セテンス様はこうして外に出かけることも増えた。
初めのうちは外に求めに行ったのかと邪推したこともあった。しかしその日の夕食の時間、彼女は自分の推理が擦りもしていないことに気付かされた。目の前に座った男、その眉間の皺の深さに彼女は目を見開いた。まるで、彼の絶えることのない苦悩を物語っているような。それほどまでに深く刻まれた皺にアンリセラは絶句してしまった。
そういう欲望を抱え続けることは、非常に苦しいものであることを彼女は知っている。アンリセラも兄の残した刺激にどれだけ精神を乱されたか。セテンスも同じ気持ちなのだろうか。それはきっととても辛いことに違いない。
アンリセラだってセテンスのことは好ましく思っている。身分差など無いものとしてアンリセラのことを尊重してくれるし、申し訳なさそうに頼み事をしようとするあの表情も、どこか微笑ましいものとして映る。しかし、その好意自体あくまで、塔の主人とお仕えする者の間に成り立つ信頼関係でしかない。
しかし、セテンスの求めるソレは本来であれば、想い合う恋人または夫婦同士で成される行為のはずだ。そういう関係になり得ないアンリセラももちろん彼の求めているお手伝いなど決してやりたいわけではない。でもふとした瞬間、考えてしまうのだ。私がやらなければこの人はずっと困ったままだろうし、場合によっては、目を背けた私のことなど嫌いになってしまうかもしれない。
いや……、セテンス様はそんなことをされる方ではない。
いつもここで彼女は考えを打ち切る。違う、決してそんなことはない、と強く言い聞かせる。しかしアンリセラに植え付けられたトラウマは酷く根深いものだった。
◆
その日、久しぶりに私室から顔を出したセテンスに、居ても立ってもいられなかったアンリセラは思わず、声をかけてしまった。
「あの、……もしそういうお気持ちなら、お手伝い致しましょうか」
セテンスであれば、アンリセラはそう思って告げた。
自分の馬鹿げた勘違いであれば、それでもいい。そうも思った。
しかし、もし彼が求めてきたら……。
あくまで、自慰行為のお手伝いをする、もちろんそれ以上はしない。そんな覚悟で告げた言葉であったが、セテンスは何のことかと首を傾げている。珍妙な顔をした彼にアンリセラの告げた正確な意味が伝わっていないことはすぐに分かった。アンリセラは、もう一度、今度は直接的な表現で彼に告げた。
「セテンス様の抱えておられる欲をお慰めするお手伝いを致しましょうか、と申しました」
数秒ほど沈黙が流れる。相変わらず珍妙な顔をした男は一度口を開きかけ、そして閉じた。じ、と色素の薄い瞳でアンリセラを一度見つめる。彼女はその瞳を真正面から見つめ返した。
「……不躾なことを承知で尋ねたいのだが。お手伝い、とリセが称しているのは、その、性行為のことで間違いないだろうか?」
至極真面目に、そしてどこか困惑したような表情で問うたセテンスにアンリセラはわずかに湧き上がる羞恥心に蓋をして済ました顔で口を開く。
「その認識で間違いはないかと」
「好きでもないのに?なぜ急に?私に好意がある訳ではないだろう」
既にセテンスには見抜かれている。だからこそ彼は訳がわからないと言った様子だ。訝しげに細められる瞳にアンリセラは体を固くする。
「あなたが日々、悩ましげな顔をするから。
気になって気になって仕様がなかったのです」
「悩ましい?」
「部屋に置いてある書物との内容といい、日々悪くなる顔色といい。セテンス様がお困りなのではないかと愚考致しました」
「まさか……!」
愕然としたセテンスは、隠しきれていたとでも思っていたのか、呻きながら頭を抱えた。
「あぁ、リセ、アンリセラ!君は大きな勘違いをしているようだ!」
誤解かも知れないという可能性は、もちろんアンリセラだって視野に入れていた。
しかしこの否定の仕方は、あまりにも……!
取ってつけられたような否定にアンリセラこそ顔色をなくす。
——自分では、役に立たない。
そう言い放たれた気が、した。今度はアンリセラが愕然とする番だった。そんな彼女に気がつかないセテンスは尚も言葉を止めない。
「理由は伝えられないが、君が考えているようなことは、断じてない。あえて君に伝えることがあるとすれば、君がそういった意味で好意を感じていない相手にまで、下世話なことを申し出るのかは、甚だ疑問だが。……もう少し、自分を大切にすべきだとは思う」
アンリセラが勇気を出して絞り出した言葉があっけなくひっくり返される。日に日に悩ましい表情になっていく彼に何かできることはないかと考えた末の行動だったが、どうやら完全に裏目に出てしまったようだった。少しばかり男に声をかけられた経験があるからといって貧弱な自分では役不足だったのかもしれない。
段々と惨めな気持ちになったアンリセラは棘の混じった言葉を吐き出してしまっていた。
「それでも、誰かが困っている際には、その人の求めていることをしてあげることで。その人は幸せになって、私に好意を持ってもらえるんです。だから、みんなに好かれるためには、そうしなきゃいけないんです」
目の前の娘が必死な口調で告げた言葉に、セテンスは眉を顰めた。
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