「残念だけど、諦めて?」

いちのにか

文字の大きさ
上 下
12 / 29

呪いの再燃

しおりを挟む

 日々の気遣いはいつしか心労となっていった。気にしないように、気にしないように。そうは思うが、日に日に悪くなっていくセテンスの顔色が目について離れない。鬱々とした日々を過ごすアンリセラは、ある日、夢を見た。

 故郷の町に戻って来たアンリセラを出迎えたのは兄、だった。

「おかえり、私のアン」

 近しい距離で肩を抱かれ、アンリセラは身体をこわばらせる。懐かしいはずの家もどこか色褪せて見え、異変を感じたアンリセラは慌てて兄と距離を取ろうとした。肩に乗せられた腕はするりと落ち、アンリセラの身体に自由が戻る。距離を保ったまま、アンリセラは警戒するようにデゼルを睨みつけた。

「お父さんとお母さんは、」
「何を言っているんだ?二人とも隣町に出掛けたじゃないか?」

「……だから、今、この家には俺たち二人きりってこと、だ」

 笑みを深くしたデゼルに寒気を覚え、アンリセラは慌てて外に出ようとする。小さなダイニングから扉を挟み、数歩進めば家の外にたどり着ける程の狭い家、なのに。そのはずなのに。
長い廊下はいつまでも途切れることなくアンリセラを翻弄する。何度も転びそうになりながら、アンリセラは兄から逃れるため必死に走り続けた。

「なぜ?」

 不意に兄が隣に現れた。驚きのあまり体勢を崩したアンリセラはそれでも足を止めない。

「なぜ僕から逃げようとするの?」

「なぜ?無駄なだけなのに」

 廊下中に兄の笑い声が響く。何とか扉まで辿りついたアンリセラは藁をも掴む思いで必死にドアノブに手を伸ばす。

 もう少し、……もう少し!

 震える手でなんとかドアノブを掴み、ようやっと外に出れるというその時、生温い掌がドアノブごとアンリセラの手を握り込む。

「ひ、」

 思わず悲鳴を上げたアンリセラに笑みを深くしたデゼルはアンリセラの耳元に顔を寄せる。ぞくりと背筋を凍らせた彼女に構わず生温い息を吹き込む。

「アン、分かっているんだろう?僕が求めていることも。町で君を見ていた男たちが求めていることだって……、——ね、あの男がも、アンはちゃんと気がついているんだよね?」


「求められていることには、ちゃんと応えてあげるんだ。——じゃないと、」


「ッ!」



「あの男に、嫌われちゃうよ?」

やけに清明な夢は、うなされて飛び起きたアンリセラをその後も苛むことになった。





 「ふう……」

 その日、夕食の仕込みを終えたアンリセラは、ぼんやりとソファに座り込んでいた。塔の主はの最中である。ここのところ当たり前になってしまったそのサイクルのせいで、食事を除きセテンスと顔を合わせる時間は殆どなくなってしまった。

 まるで、以前のように戻ってしまったよう。そんなことを考えたアンリセラは、ふるふると首を振った。
 否、今までが近すぎたのだ。本来の主人と使用人の関係性はきっとこんなものだ。むしろ食事を共にしていることからして、あり得ないことである。

 不意に隣の部屋から風が舞い上がる音が聞こえた。びし、と年数を刻んだ窓枠やら扉が軋む音を立てた。きっと主人がどこかにのだろう。

 このところ、セテンス様はこうして外に出かけることも増えた。

 初めのうちは外に求めに行ったのかと邪推したこともあった。しかしその日の夕食の時間、彼女は自分の推理が擦りもしていないことに気付かされた。目の前に座った男、その眉間の皺の深さに彼女は目を見開いた。まるで、彼の絶えることのない苦悩を物語っているような。それほどまでに深く刻まれた皺にアンリセラは絶句してしまった。


 欲望を抱え続けることは、非常に苦しいものであることを彼女は知っている。アンリセラも兄の残した刺激にどれだけ精神を乱されたか。セテンスも同じ気持ちなのだろうか。それはきっととても辛いことに違いない。

 アンリセラだってセテンスのことは好ましく思っている。身分差など無いものとしてアンリセラのことを尊重してくれるし、申し訳なさそうに頼み事をしようとするあの表情も、どこか微笑ましいものとして映る。しかし、その好意自体あくまで、塔の主人とお仕えする者の間に成り立つ信頼関係でしかない。

 
 しかし、セテンスの求めるソレは本来であれば、想い合う恋人または夫婦同士で成される行為のはずだ。そういう関係になり得ないアンリセラももちろん彼の求めているお手伝いなど決してやりたいわけではない。でもふとした瞬間、考えてしまうのだ。私がやらなければこの人はずっと困ったままだろうし、場合によっては、目を背けた私のことなど嫌いになってしまうかもしれない。

 いや……、セテンス様はそんなことをされる方ではない。

 いつもここで彼女は考えを打ち切る。違う、決してそんなことはない、と強く言い聞かせる。しかしアンリセラに植え付けられたトラウマは酷く根深いものだった。








その日、久しぶりに私室から顔を出したセテンスに、居ても立ってもいられなかったアンリセラは思わず、声をかけてしまった。

「あの、……もしそういうお気持ちなら、お手伝い致しましょうか」

 セテンスであれば、アンリセラはそう思って告げた。
 自分の馬鹿げた勘違いであれば、それでもいい。そうも思った。
 しかし、もし彼が求めてきたら……。

 あくまで、自慰行為のお手伝いをする、もちろんそれ以上はしない。そんな覚悟で告げた言葉であったが、セテンスは何のことかと首を傾げている。珍妙な顔をした彼にアンリセラの告げた正確な意味が伝わっていないことはすぐに分かった。アンリセラは、もう一度、今度は直接的な表現で彼に告げた。


「セテンス様の抱えておられるをお慰めするお手伝いを致しましょうか、と申しました」



数秒ほど沈黙が流れる。相変わらず珍妙な顔をした男は一度口を開きかけ、そして閉じた。じ、と色素の薄い瞳でアンリセラを一度見つめる。彼女はその瞳を真正面から見つめ返した。


「……不躾なことを承知で尋ねたいのだが。お手伝い、とリセが称しているのは、その、性行為のことで間違いないだろうか?」

 至極真面目に、そしてどこか困惑したような表情で問うたセテンスにアンリセラはわずかに湧き上がる羞恥心に蓋をして済ました顔で口を開く。

「その認識で間違いはないかと」
「好きでもないのに?なぜ急に?私に好意がある訳ではないだろう」

 既にセテンスには見抜かれている。だからこそ彼は訳がわからないと言った様子だ。訝しげに細められる瞳にアンリセラは体を固くする。

「あなたが日々、悩ましげな顔をするから。
 気になって気になって仕様がなかったのです」
「悩ましい?」
「部屋に置いてある書物との内容といい、日々悪くなる顔色といい。セテンス様がお困りなのではないかと愚考致しました」
 「まさか……!」

 愕然としたセテンスは、隠しきれていたとでも思っていたのか、呻きながら頭を抱えた。

「あぁ、リセ、アンリセラ!君は大きな勘違いをしているようだ!」

 誤解かも知れないという可能性は、もちろんアンリセラだって視野に入れていた。 

 しかしこの否定の仕方は、あまりにも……!

 取ってつけられたような否定にアンリセラこそ顔色をなくす。


——自分では、役に立たない。

 そう言い放たれた気が、した。今度はアンリセラが愕然とする番だった。そんな彼女に気がつかないセテンスは尚も言葉を止めない。


「理由は伝えられないが、君が考えているようなことは、断じてない。あえて君に伝えることがあるとすれば、君が意味で好意を感じていない相手にまで、下世話なことを申し出るのかは、甚だ疑問だが。……もう少し、自分を大切にすべきだとは思う」


 アンリセラが勇気を出して絞り出した言葉があっけなくひっくり返される。日に日に悩ましい表情になっていく彼に何かできることはないかと考えた末の行動だったが、どうやら完全に裏目に出てしまったようだった。少しばかり男に声をかけられた経験があるからといって貧弱な自分では役不足だったのかもしれない。

 段々と惨めな気持ちになったアンリセラは棘の混じった言葉を吐き出してしまっていた。

「それでも、誰かが困っている際には、その人の求めていることをしてあげることで。その人は幸せになって、私に好意を持ってもらえるんです。だから、みんなに好かれるためには、そうしなきゃいけないんです」

 目の前の娘が必死な口調で告げた言葉に、セテンスは眉を顰めた。


しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

アルバートの屈辱

プラネットプラント
恋愛
妻の姉に恋をして妻を蔑ろにするアルバートとそんな夫を愛するのを諦めてしまった妻の話。 『詰んでる不憫系悪役令嬢はチャラ男騎士として生活しています』の10年ほど前の話ですが、ほぼ無関係なので単体で読めます。

極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~

恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」 そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。 私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。 葵は私のことを本当はどう思ってるの? 私は葵のことをどう思ってるの? 意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。 こうなったら確かめなくちゃ! 葵の気持ちも、自分の気持ちも! だけど甘い誘惑が多すぎて―― ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。

断る――――前にもそう言ったはずだ

鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」  結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。  周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。  けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。  他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。 (わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)  そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。  ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。  そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?

つまらなかった乙女ゲームに転生しちゃったので、サクッと終わらすことにしました

蒼羽咲
ファンタジー
つまらなかった乙女ゲームに転生⁈ 絵に惚れ込み、一目惚れキャラのためにハードまで買ったが内容が超つまらなかった残念な乙女ゲームに転生してしまった。 絵は超好みだ。内容はご都合主義の聖女なお花畑主人公。攻略イケメンも顔は良いがちょろい対象ばかり。てこたぁ逆にめちゃくちゃ住み心地のいい場所になるのでは⁈と気づき、テンションが一気に上がる!! 聖女など面倒な事はする気はない!サクッと攻略終わらせてぐーたら生活をGETするぞ! ご都合主義ならチョロい!と、野望を胸に動き出す!! +++++ ・重複投稿・土曜配信 (たま~に水曜…不定期更新)

淫らに、咲き乱れる

あるまん
恋愛
軽蔑してた、筈なのに。

妻の遺品を整理していたら

家紋武範
恋愛
妻の遺品整理。 片づけていくとそこには彼女の名前が記入済みの離婚届があった。

処理中です...