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馬鹿げた依頼
しおりを挟む『智の魔法士に秘密裏に頼みたいことがある』
そんな書き出しから続いた一文にセテンスは眉を顰めた。あの時、エスターがいたため、言葉に出すことは咄嗟に控えたが、既に夜も更けた今この時、室内には誰もいない。
「馬鹿げてる……!」
セテンスはため息と共に不敬罪一直線の罵倒を漏らした。
王からの書面には、とある古代書の解読を依頼する一文があった。指定された書籍は禁書扱いとされる代物で、王族であったとしても、より高位の者、それも王に認められた者以外は目を通すことが叶わない代物である。智の魔法士であるセテンス以外には。
智の魔法士という称号を賜った時点でこの国の書物全てを閲覧する権利を有する彼は、王城の古書室--それも禁書棚に保管されている--該当書を既に『持ち帰って』いた。何を隠そう、彼の私室には王城の古書室や図書室への転移門が存在するのだ。智の魔法士の塔専用の転移門それは先祖代々受け継がれており、もちろん王も承認済みでだからこそ、こんな依頼をしてきているのだ。
現代において禁書扱いとなっているその古書は原文全てが古代文字で記されていることに加え、解読にはやや特殊な知識が必要とされている。古書の解読の時点で自分にしか適合者がいない、そんなのは分かりきっているが、しかし、セテンスはこの任務の不条理さに戸惑いを隠しきれなかった。
『妻との夜がマンネリになった。噂では古代人たちのまぐわいが、夫婦円満の秘訣だと聞く。是非解読して教えてほしい』
王からの文は単純明快で非常にわかりやすいものだった。しかし、その理由や、依頼内容自体はひどく馬鹿げており、一国の王がこんな依頼を……?と頭を抱えたくなるほどだった。
非常にやるせない気持ちで、それでもセテンスは頁を捲る手を止めない。どうせならさっさと済ませたかったのだ。彼の怒りはそれだけに留まらなかった。
彼のやるせなさを引き立てる要因は尽きない。王に指定されたこの書物もかなり厄介な代物だった。この本の著者。余程のムッツリなのか、それとも恥ずかしがり屋なのかどうか知らないが、隠部や行為を表す際にとても回りくどい表現方法を用いるのだ。それはこの本の主旨を知らぬ者が読めば、古代人の生活について記されたいわば日記のようなものであると認識してしまうような代物だった。恐ろしいほど狡猾かつ、巧妙に秘された猥談にセテンスは頭を抱えた。まるで家族にさえバレぬように背後を気にしながら執筆したのではと疑ってしまうほど精巧な出来である。
そのため、セテンスはいくつもの古代辞書を引っ張り出して古代人の用いる『性的な』言い回しを洗い直すハメになった。
それからというものセテンスは興味も関心もない他人の猥談を、来る日も来る日も解読し続けた。
怒涛の日々が過ぎ去り二週間ほど経ったとある日。セテンスはげっそりとした顔で私室から溶け出してきた。アンリセラには確かにそう見えた。どろどろっと私室から出てきたセテンスは首から背骨、臀部に至るまでだらんと項垂れており、そのまま力無くソファに腰掛けた。首から足のつま先までソファにもたれかかるようにして座る彼は全身から力が抜け、完全に疲労困憊といった様子だ。アンリセラから茶を受け取ったセテンスはそれを一気に呷った。
「任務完了だ。今夜から食事を頼む」
そう一息に告げた彼は、ソファに横になりそのまますぐに意識を失った。可哀想に、ずっと打ち込んでいたのだろう。いつぞやの時程にはないにしろ、瞼の下には隈が出来ていた。それでもあの時とは比べ物にならない血色の良い肌色にアンリセラは少しだけ安心した。約束通りきちんと食事を摂ってくれていることが良い方向に作用したのだろう。セテンスとの約束通り、仕事中でも軽くつまめるような軽食は常に準備していた。気がつくと皿ごと消えており、彼がアンリセラの言いつけを守ってくれていることを知るたびに彼女はほっと胸を撫で下ろしていた。
疲労困憊の彼が目覚めたらすぐに手をつけられるよう暖かい食事や、風呂を用意しなければ。そう決意したアンリセラは同居人の肩口までブランケットをかけ音を出さないように気をつけつつ、忙しなく動き出した。
王の元へ出かけてくると言い残した男が塔を出たのは、翌日のことだった。前日に十分な食事と睡眠をとった男は、見違えるようだった。ボサボサだった髪の毛は櫛を通され後ろに結われている、王に謁見する際に身につけるという紋章付きの皺ひとつない黒衣は、王直属の魔法士としての威厳を放っていた。
白い滑らかな肌に、鋭い眼光は健在である。しかし初対面のおどろおどろしさは消え去り、ミステリアスな雰囲気に成り代わった彼は、アンリセラの知らない人物に見えた。
数刻もせずに帰宅する旨を告げた男の姿は一瞬で掻き消えた。未だ、臓器の一部を間借りして魔力を蓄える行為は続けているらしい。心配そうな顔をしたアンリセラに、この程度の魔法は許容の範囲内だと説明した男は、少しだけ罪悪感に揺れているように見えた。
男を見送った後一人残されたアンリセラは、久しぶりに彼の私室でも掃除しようかと考えた。
以前はやんわりと断られていた私室の掃除も、最近ではお願いされることが多くなった。私室に篭りっきりだった彼がいつからかダイニングソファに寝転がり午睡をすることも増え、その時間を見計らってアンリセラは彼の部屋を掃除するようになった。
アンリセラの出すわずかな生活音を聞いていると、途端に眠たくなるのだという男は、不思議そうに首を捻っていたが、朝起きた時にキッチンから聞こえる調理の音だったり、掃除や洗濯などの生活音だったり、そういうものを聞くと安心するのはアンリセラにも経験があることだ。孤独感が一瞬で解消されるその音はわずかな癒しを秘めていた。
不意にアンリセラは手を止めた。今朝の彼はどこか雰囲気が異なっていた。偉大な魔法士様の威厳を放った彼はそう、とても格好良かった。彼の持つ地位や功績を含め、きっと異性が放って置かないのではないだろう。そんな同居人にもいつか、将来を誓い合う相手が現れるのだろうか。そうなったらアンリセラはお役御免である。ちりり、と胸が痛んだような気がして、アンリセラは首を傾げる。
この気持ちは、
……焦、り、だろうか?
たしかに、とアンリセラは納得する。その時までにカトリーネを全快させられるほどのお金を稼いでおかなければ。そんな現金なことを考えたアンリセラは密やかに寂しさを訴える胸の痛みを自覚することはなかった。
得体の知れない胸の痛みを振り払ったアンリセラはセテンスの私室に入った。彼の扱う文献は古代書であるため、解読できないアンリセラが触れたところで、余程ぞんざいに扱わなければ直接害になるものはほぼないと説明を受けていた。それ以外にも近代的な魔法書などあるが、魔力のないアンリセラが、そういった魔法書を暴発させる可能性もほぼないとも。そもそもそういう危険性を孕む代物はセテンスが遠ざけているという。そんなわけで今日もアンリセラは少々の注意を払いつつ、穏やかな気持ちで掃除を開始した。
部屋の中は散乱した本以外にも、アンリセラが作ったサンドイッチの皿などがあちらこちらに放置されている。幸い、匂いを放つような代物は放置されていないようで安心した。アンリセラは虫が得意ではないのだ。用を終えている食器類はキッチンの流しに運び、散乱した筆記具はペン立てに、床に散らばった羊皮紙は棚の所定の場所に戻す。
セテンスの私室の奥には、寝台の他に、執務席のような立派な机や椅子がある。しかし彼が作業に使用するのは、石造りの立派な机だった。部屋の中央に置かれているそれは、古代の彫刻家たちが作ったものであるらしい。その上には、一文字も理解できない得体の知れない図形がびっしりと並べ立てられた本が積み重なっている。いくつかの、本は塔内の図書室で目にしたことがあるため、見覚えのあるものは、図書室の棚の上に戻すことにして、見覚えのないものは石机の脇に寄せておくことにした。
図書室とセテンスの私室を何往復かして、ようやっと最後の本の山を運びだそうというとき、アンリセラは誤って本を取り落としてしまった。やってしまったと思い本を傷つけていないか、パラパラと確認する。幸いにも敗れた箇所もなくほっと胸を撫で下ろす彼女は、本のとあるページに目を止めた。訳の分からない古代語は勿論読めないが、その本には挿絵が多く付けられていた。一見すると何が何だかわからないそれを、思わず凝視してしまったアンリセラは、不意に何を表しているのかに気がつき慌てて本を閉じる。
「なに、……これ」
耳まで真っ赤にした彼女はしばしその場に固まっていた。
その後部屋の中でいくつかそういった関連の本を見つけたアンリセラは酷く悩んだ。あれらの挿絵は明らかに夜伽を指しているものであったからだ。お互いの性器を慰めあうものから、道具を使ったイレギュラーな行為までありとあらゆるイラストが記載されている。その中には以前彼女が兄に強要された体位まで存在し、思わずよろめいてしまった。
何とか掃除を終えたアンリセラはそっと部屋を出る。それが彼の任務に直結する代物であることは夢にも考えず、アンリセラはどうにか自分を納得させた。セテンスも男だ。触れないようにしよう、と固く誓ったのだった。
その後間をおかずに帰宅したセテンスはいつもの皺まみれの黒衣に着替え直す。私室で身支度を終え、出てきたセテンスは気まずそうなアンリセラに気がつくこともせず「部屋を掃除してくれたんだな、助かった」と礼すらのたまってみせた。
本人は恥じることは何もないと感じているようなそれに、確かにそういった欲は生理現象だし、彼も男性だし……、とこちらが何か言うことでもないだろう、と彼女は黙って礼を受け入れた。
しかしアンリセラの悩ましい日々が終わることはなかった。
その日を境にセテンスが何度も何度もため息をつき、部屋に篭るようになったのだ。そんな時、決まって彼の机にはあの本が現れる。私室の中で時折唸り声を上げることも増えた。苛立ちが治まらないのか、舌打ちすら見せるようになったセテンスに、どこか体調が悪いのか尋ねても「直に落ち着く。気にしないでほしい」と言われて仕舞えばそれまでだった。
日々思い悩むアンリセラは一つの考えに辿り着く。
まさか、自分に遠慮してセテンスは自らを慰められないのでは。
非常に馬鹿げているようにも思えるその考えは、一度思いついてしまうともう止められなかった。
実は想い人がいるがアンリセラに遠慮しているとか?
もしかして道ならぬ恋?
体質か何かが影響している?
いくつもの考えが浮かんでは消え、しかし、個人的なことに踏み込むことは控えなければと自分を律する日々が続いた。
そんな彼女の悩ましい日々についに終わりが来ることになる。
否、終わらせたのは彼女自身だった。
「あの、……もしそういうお気持ちなら、お手伝い致しましょうか」
他の誰でもない、セテンスのためであれば。
心を決めたアンリセラは声を震わせながら、告げたのだった。
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