「残念だけど、諦めて?」

いちのにか

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困惑する魔法士

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 目の前には珍妙な顔をした塔の主人セテンスの顔がある。恐る恐る、といった様子で、震える手を伸ばす彼に、智の魔法士たる威厳は無い。視線は自らの持つスプーン一点のみを捉えていた。ようやっとひと匙掬われた木のスプーンには、黄金色の液体と共に、細かく刻まれた野菜が乗せられている。こく、と小さく喉を鳴らしたセテンスはゆっくりとスプーンを口に運ぶ。ゆっくり、ゆっくり食を進めるセテンスのことをアンリセラは固唾を飲んで見守る、ことはせず、粛々と自らの食事を進める。会話など一切ないその時間、二人は和やかとは程遠い食事の時間を共にしていた。


 智の魔法士ぶっ倒れ事件は、後の塔生活に大きな変化をもたらす結果となった。なんと、セテンスが食事を摂るようになったのだ。さらに付け加えるとしたら、日に二度、アンリセラと食事を共にすることが決まった。エスターからも懇願されたそれは、セテンスの人としての生命活動を確たるものに改善するという意味が大きかった。

 長く食事を摂っていなかったセテンスの胃は真っ当な食事を受け付けず、いつかまた魔力頼みの生活に逆戻りしてしまうのではないかとエスターは考えているようだった。


 セテンスの度を超えた合理化、——又は魔力に対する執着とも言う——を知らずにいたアンリセラが、先日の騒動の時に作ったパン粥に至ってもセテンスが手をつけられたのはせいぜい数口程度で完食には程遠い状態であった。済まなそうな顔をするセテンスから事情を聞き終えたアンリセラは首を横に振った。

 食事を絶ってまで魔法を使える様になりたいというセテンスの気持ちは分からない。それほどまでに魔法という存在はアンリセラから遠かった。そもそも凡人のアンリセラとセテンスを比べること自体間違っている。一国を背負っている魔法士の考えることは、きっとアンリセラなんかの理解が及ばないことまで及ぶのだ。

 ただ一つだけアンリセラが解ること。
 それはセテンスが今回の件で大いに反省したということだった。

 翌朝、いつも通りの時間に仕事に着手しようとしたアンリセラを扉の前で出迎えた同居人は、ぼしょぼしょと「食事を摂ろうと思う」と告げた。まるでこれから親に怒られるのを待っている子どものように自信のなさそうな瞳で、「手間を増やすようだが、協力してほしい」と年下の娘に頭を下げたのだ。

 それを受けたアンリセラは慌てて頭を上げるよう訴えた。そもそも、この塔に必要な一切の家事がアンリセラの仕事であり、もちろんその中には調理だって含まれているのだ。アンリセラは、ゆったりとした笑みを浮かべ、「勿論、御力になります」とセテンスに告げ、それを聞いた同居人がほっと眉尻を下げるのを眺めた。

 とにもかくにも、これは良いことだ。

 今まで死人同然の生活をしていた人間が、自ら生命を維持することに前向きになっているのだ。やっと前を向いた同居人を他の誰でもない、世話役を任された私がサポートしなければ!

 アンリセラは気合を入れ直した。

 固形物など今はとても受け入れられない彼の胃を考え、最初は柔らかく煮込んだ野菜スープの上澄みや、重湯から慣れさせることにした。アンリセラの献身は良い方向に働き、ひと月ほどもすれば少々の固形物も受け付けられる様になってきた。相変わらず食事量は少ないが、まずまずの結果であろう。栄養満点の食事を摂ることで、セテンスの顔色は目に見えて明るくなった。黒衣の下を窺い知ることはできないが、この調子だったら身体にも肉がついてくるだろう。

 ようやく雇用主エスターから任された一通りの業務内容がこなせる様になったとアンリセラ自身もほっと胸を撫で下ろした。

 その月に満足そうに微笑んだエスターから支給された初任給は、以前から書いていたとはいえ裕福な暮らしを経験したことのないアンリセラには信じられないほどの額だった。慌てて受け取れないと伝えたが、いい笑顔をしたエスターに突っ返される。「これだけの仕事をしてくれた、と思ってくれ」そう告げたエスターは、流行病に詳しいという医者への紹介状までくれた。紹介状と共に、調べておいた治療費の相場よりも少し多めの額を夫婦へ送る。アンリセラの手元には微々たる額が残るのみである。しかし、アンリセラが気を落とすことなどなかった。むしろ、自らにもこうしてできることがある、と得意げになったほどだ。

 気になることといえば、先日汚してしまったカウチソファの弁償代に関してだが「もう綺麗になってるから不要だよ」とエスターから笑顔で言われ、「それよりもあの男をもっと太らせてくれ!」と声高に告げられた。それから、週に一度エスターから生肉やら生魚、新鮮な野菜や果物がどっさり送られてくるようになり、苦い顔をしたセテンスがエスターに抗議文を送るまでに至ったが、それは割愛しよう。







 穏やかな日々が続くある日のことだった。アンリセラは食後のお茶をセテンスに配膳し、一礼してセテンスの私室から出ようとして、

「すまないが、私にも一杯頂けるかな?」
「!」

 急にその場に存在しないはずの男の声が聞こえ、危うくトレイを取り落としそうになった。

「来る前は、一声寄越せといつも言っているはずだが」
そんなアンリセラを心配そうに一瞥しながら、セテンスがぶっきらぼうに告げる。

「驚かせてしまったのなら謝罪をしなければ!店子ちゃん、申し訳なかった」

 茶目っ気たっぷりの笑みをみせたエスターはアンリセラにそう声をかけた。アンリセラは「いえ、ただ今お持ち致します」と慌てて部屋を出ていく。

 途端に部屋の温度が数度下がった様な気がして、エスターは笑みを深くした。少し見ない間に、随分と懐柔されてしまったかな?そんなことを考えつつ、しかし決して口には出さない。

「要件は」

 端的に放り投げられた言葉に、エスターはす、と表情を消した。がらりと雰囲気を変えた男は、懐から一枚の封書を取り出す。

「……王からだ」

 よほど重要な任務なのだろう。慎重な顔をしたエスターに封書を差し出され、セテンスの肩に力が入る。封を切り中身を確認し、セテンスは目を見開いた。

「……」
「何が書いてあった?僕に出来ることなら何でもいってくれ」

 昨夜の討伐任務の報告に上がったエスターが王から預かったのだというその封書には、信じられない内容が記載されていた。固まる同僚に、エスターもそんなに大変な任務なのかと勘繰った。

 同僚の気遣う声をセテンスは完全に聞き流した。それほどまでに強すぎる衝撃が彼を襲っていた。次いで来たのは途方もない脱力感。王命のため口外など許されるはずもないそれを、セテンスはが、と奥歯を噛み締めることで堪えた。

 深く深くため息をついたセテンスは、「大事ない。一人で事足りる内容だった」と告げる。それを証明するかの様に、素早く王へ了承を告げる旨の手紙を記し、今日も登城する用があるというエスターに託ける。すべきことを終えたセテンスは心配性の男を塔から追い出した。

 狡猾、且つ悪質極まりない。エスターの前で有ればセテンスが了承の返事を寄越すことは折り込み済みだったのだろう。王にそんなことを思うセテンスは怒りと呆れをごちゃまぜにした表情になっていた。一人になった部屋でセテンスはもう一度ため息をつく。本棚から該当する幾つかの書物を引っ張り出し作業台に重ねた。思い当たる二、三冊が見当たらないため、後で図書室も確認せねば。

 以前は塔内の全ての部屋を練り歩いて書物を探さなければいけないことが多くあったが、最近は本を探すことに時間をかける必要がなくなってきた。全てあの娘が図書室に並び立ててくれるからである。食事の点といい掃除の点といい、生活を整えてもらっているというのも中々居心地がいい。

 そこまで考えた彼はふと奇妙な方向に流れゆく思考を止めた。彼女もいずれは出ていく存在である。あまり馴れ合い過ぎるのも良くないのかも知れない。こんなことを考える程度には、彼女の存在が大きくなっている。それが何故か気に食わずに、彼は小さく舌打ちをした。




「王から任務を仰せつかった」

 その日の夜、使用人部屋に下がるため挨拶をしに来たアンリセラは同居人からそう告げられた。その表情は、やや不機嫌そうにも、呆れ果てているようにも見える。

「申し訳ないが、集中を途切れさせたくないのでしばらく食事は不要になった」

 そう告げたセテンスに、アンリセラは一度瞬きをする。その瞬間、セテンスはほんのわずかに部屋の温度が下がったように感じた。途端に冷え切った声が耳を打つ。

「お食事を召し上がらないとは」

 わずかに首を傾げて、こちらを覗き込むように尋ねるアンリセラは口角を柔らかく持ち上げ穏やかに微笑んでいるように思う、が、なぜだろう。セテンスの背筋がぶるり、と震えた。

「い、いや、その。食事はいらないが、……か、簡単につまめるものをダイニングテーブルの上に用意しておいてくれると、た、助かる。腹が減ったら自分で取りに行く」

 つっかえながら告げられた言葉に、アンリセラはにっこりと頷く。途端に、首の皮一枚つながったかのような錯覚に襲われる。セテンスは無意識にため息をつきながら、話は終わったとばかりに机に向きなおった。


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