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奇妙な共同生活
しおりを挟む塔に入ったアンリセラは、チグハグな段差を登った。少し経つと目の前に小さな扉が見えてくる。扉を開けると小さな使用人部屋が現れた。小さいがキッチンや寝台、トイレなど必要なものは揃っており、アンリセラはキラキラと目を輝かせた。
エスターに言われた通り、素早く身支度を整えたアンリセラは更に階段を上がった。長い時間をかけて段差がまちまちな階段を上がるのはひどく気を遣った。ヘロヘロになりながらもアンリセラはどうにか上まで登りきった。
扉を開くと小さな玄関が広がった。扉の前に乱雑に轢かれたラグは、古布と言われても納得してしまうほどボロボロだった。幾つかの靴が互い違いに散乱し、入口からしてひどい有様である。靴を踏まぬように気をつけながら玄関を越えると、キッチンダイニング、と思われる空間が広がった。そのような表現になったのは、ここもひどい有様だったからである。キッチンのコンロの上に積み上がっているのはあろうことか書物である。流しの中にも、果ては食事を取るべきはずのテーブルの上でさえ、本、本、本!
ダイニング全体を図書館に作り替えてしまったかのように本が溢れていた。その後に続く浴室も、リビングも、小さな物置部屋も、そして、やっと見つけた図書室のようなものも、全ての部屋に置いて訳のわからない文字が羅列した書物が散乱していた。
完全に異世界に来てしまった、と場の雰囲気に呑まれながらもアンリセラは歩みをすすめる。ここに来て随分経ったように思うが、この塔の主人には未だに会えていない。リビングの少し奥に扉を発見したアンリセラはレバーハンドル型のドアノブをガチャリと押し下げる。果たして、その扉は開かなかった。立て付けが悪いのか、何か障害物があるのか、なんとか体重をかけてドアを開け終えた頃には、アンリセラはくたくたになった。
ここでもアンリセラの邪魔をしていたのは本であった。それもアンリセラの胸の高さまでありそうな大きな本。巨人用の本かな、と興味を惹かれたアンリセラはそっと手を伸ばし、
「誰?」
その場に響いたひどくしわがれた声に、その手を勢いよく引っ込めた。
◆
風邪をひいた時のようなゴワゴワとした声の持ち主は、巨人用の本のその先、本の巣窟と言っても過言でない場所から現れた。まるで賢者のようにもしゃもしゃとうねった髪を腰の位置まで散らばし、真っ白な肌を持った男は、アンリセラにとってすごく年上にも、同い年くらいにも見えた。年齢不詳というやつだ。薄い色素の瞳はキラリとした光を帯びており少しだけ恐怖を感じる。
固まってしまったアンリセラに男はもう一度だけ「誰?」と告げた。根が鈍臭いアンリセラはようやっと、エスターに言われたことを思い出し、あわあわと口を動かす。
「し、失礼いたしました。あの本日から、こちらで働かせていただくことになりました」
「はあ、……君みたいな人にできるような仕事はここにはないんだが。……どうやって入ってきたんだ?」
ボソボソと話す男はアンリセラの上から下まで眺めて、そして首をかしげる。呆れたような、困ったような表情と声音からは、嫌悪や不機嫌さは感じられず、アンリセラは少しだけ肩の力を抜いた。
「あ、あの。エスター様からこちらの家事仕事を申しつかりまして、」
「……エスター?……あぁ、あの世話焼きか。余計なことを」
エスターの名さえ出して仕舞えば男は一切合切を理解したようだった。
「……この前の腹いせか?ヘルベニア苗の件はカタがついたと思ったが。……まさか、デルシシアの騒動の件?まだ臍を曲げているのか?」
ブツブツと話し続ける男は少々不本意な様子でしばらく考え込んでいた。次に男が顔を上げた時、その瞳は諦めの光を宿していた。
「名前は」
そう聞かれるまでアンリセラは名乗ることすらせずに他人の家に上がり込んでいたことに狼狽する。これで働かせてほしいなど失礼極まりない。
「す、すいません!アンリセラと申します!」
なんとかつっかえながら名乗ると男は弱り切ったように頭をかいた。
「アンリセラ……、ふむ、再生樹から取ったのか……?それはいいとして……。少々不躾だが、どうも名を覚えるのが苦手で……リセとでも呼ばせてもらおうか。と言ってもそんな機会はあるのかどうか……。あー、私は一日この部屋にいるから邪魔さえしなければどう過ごしても構わない。……あとは、カテ、だが……」
あまりにもモシャモシャと話すので独り言なのか、アンリセラに向けられたものなのか判断が付きかねた。じっと耳を澄ませて聞こえた内容から察するに、その両方らしかった。
その中でも聞きなれない言葉が聞こえたため、アンリセラは珍妙な顔をして尋ねる。
「カテ……?」
「あぁ、日の糧、だ。君は食事をしない?」
「します……けれど、」
「ふむ、困った……、確かここに……」
自らの顎を撫で付けた男がさも弱りきったと言う様子で渡したのはがまぐちの財布だった。ボロボロのそれはまるで先祖代々使用されてきたかのように年月を感じさせる。
「一種のマジックボックスになっている。当分の金はその中にあるから、それを使って調達するでも、外で済ませるでも好きにしてくれ」
「……??」
手渡された財布はずっしりと重く、……はなく、心許ない重さである。首を傾げながらも、アンリセラは頷いた。このまま身を翻してしまいそうな男になんとか思い浮かんだ疑問を尋ねる。
「あの、ご主人様の生活のサポート、……つまり、お掃除や、食事、お洗濯など身の回りのことを支援するよう申しつかりました。なにかご要望などはございますか」
ようやっと家政婦のような質問ができた。せっかく見つけた仕事だ。主人を不快にさせぬよう気を配らねば。そう息巻くアンリセラに、「僕の邪魔をしなければ。仕事なんてしなくたって構わない。好きなように過ごして」素気無く返した彼は、身を翻しかけ「あ、」と呟く。
具体的な指示の一つでも、と懇願するような視線を向けたアンリセラに男が告げたのは、「君の雇用主は、エスター。私の名はセテンスだ」これきりだった。
キッパリと言い切った男は今度こそ本の山の中に吸い込まれていった。
◆
アンリセラと男セテンスの共同生活は、当初の心配を他所に、思いの外すんなりと過ぎ去っていった。
うーんやっぱり、すんなりと、は語弊があるかな?
アンリセラがそう思うのは、かなり困惑すること続きだったからだ。
渡された財布からは見たこともない単位の紙幣が顔を出したし、(慌てて差し戻して、見覚えのある硬貨を思い浮かべて手を突っ込むと不思議なことにその額を取り出すことができた)
そのお金で手に入れた食物を調理して配膳をすれば男に断られたり、(食事を無駄にしないためにもアンリセラはそれから一人分しか作らなくなった)
部屋の片付けに着手したアンリセラが避けた書物の置き場に困ったり、(いつのまにか後ろにいたセテンスに告げられるまま図書室の棚に並べたら不思議なことに全て棚に収まった)
随分さっぱりとした部屋を見つめながらアンリセラはこの数日を思い返していた。一人でとる食事は少し寂しかったが、それ以外は概ね穏やかに過ごせていたと思う。食事を断ったセテンスも意地悪をしているわけではないことは、弱りきったその表情で理解できたし、アンリセラが困った時は呼びもしないのにどこからか急に現れて、ボソボソと掠れた声音で教えてくれる。
決して一人きりではない、そして、望まれてはいないはずのその空間は、アンリセラにとってなぜか心地よかった。
——多分、人の目がないからだろう。
アンリセラがそんなことを思い始めたのは最近のことだ。故郷の田舎町にいたときは、異性、同性、そしてその年代問わず全ての人の目を気にしていた。故郷から離れたことでその緊張感からは抜け出せたと思っていたが、店仕事を通して不特定多数の人間と関わる場面ではやはり緊張や恐怖感が先に立った。
どこに行くにも、そして何をするにも人の目を気にするようになってしまったアンリセラにとって、姿の見えない同居人との空間は、とても安らげる場所だったのだ。
自分のペースで働くことができて、カトリーネやアントンを救えるほどの給金ももらえる。これほど幸せなことなどないだろう。
感謝の気持ちを噛み締めた娘はこれからも精一杯邪魔にならぬ範囲でセテンス様にお仕えしよう、とそんなことを決意したのだった。
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