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ユールイース・メレリーは、"口煩く粗雑な女"として有名である。
社交場に出たら漏れなくヒソヒソされる類の淑女であった。彼女が人目を引く理由は、身持ちが悪いとか、見目が悪いとかではなく、その世話好きなところにあった。
二男三女の、長女として生まれた彼女はまあまあやかましい家庭で育った。貴族とは名ばかりの貧乏男爵家に生まれた彼女はほぼ一人で弟妹を育て上げた。口うるさい姉に躾けられた彼らは、そのお陰で気品漂う紳士、淑女へと成長を遂げた。麗しいその見た目も作用して、今夜も社交界の華としていくつかの人だかりを築いている。
一方長女のユールは、立派に行き遅れと称される年齢になっていた。持参金になるはずだったお金を勝手に弟妹の食費や教育費に当ててしまったのだ。困り果てた父が頭を下げて回ってやっと得た見合いの機会も、末の子が発熱したためその看病を理由におじゃんとなった。夜会に出ると自らの相手そっちのけで、見目麗しい弟妹のボディガードと化し彼らに近づいてきた輩に卑しい点はないか常にチェックする徹底ぶりである。
彼女の二つ名が轟くきっかけとなった事件が起きたのは、末の子がデビュタントを飾った夜会であった。弟妹の中でもとびきり愛らしい妹に粗相をしようとした輩をぶっ飛ばしたのだ。
あまりの珍事である。ユールはその不躾な輩をそれはもう遠慮なくぶっ飛ばした。一部彼はもう使い物にならないと言う噂が流れたほどだった。
王家主催の夜会で起きたその事件は、相手の男の罪が重く見られたことからユールはお咎めなしとなった。しかしその噂は瞬く間に広がり、以降社交場でユールに近づく男性は綺麗に消え去ったと言うわけだ。
父母や、物事の判断がつく年齢になった弟妹達に心配されつつも、当のユールは嫁ぎ先がほぼ絶望的であることをあまり気にしていなかった。というより、ユール自身は嫁ぐことについて早々に諦めていた、と言うのが正しい。
持参金の問題だったり、兄弟達の教育環境だったり。
金策に走り回る父や末の子を産んだきり病弱の母だったり。
物心ついた時には、自分が動かなきゃこの家潰れるわ、という考えが浮かんでいた。子育てなんて先を読んでなんぼである。末の子がデビュタントを終えるまでと鑑みても、ユールが行き遅れになるであろうことは、本人が一番理解していたのだ。
そして、彼女はそれでもいいと思った。つまり自分でそれを選択した。見知らぬ男の家に入り、見知らぬ人間達の中で貴族夫人というお勤めをするよりも、大切な家族の家のために弟妹たちの成長を見守る方が絶対に幸福だと思ったのだ。むしろ自分が嫁ぎ先を見つけられなくなった今、外に嫁ぐことが強制されるであろう妹達に、罪悪感すら抱いていたほどだった。
と言っても家に行き遅れの女がいるだけでも醜聞の元になる。先を読むことに長けているユールは、末の子が社交に慣れたくらいに父に縁切りを願い出て、ベビーシッターやら、家庭教師やらそんな仕事をしながら一人気ままに生きていこうと考えてもいた。
今は、その末っ子の巣立ちを見守っている最中である。少し遠くから様子を伺っていたが、明らかに下品な誘いにも、そつなく返している末っ子の姿を確認できた。内心ほろりとしてしまうが、同時に自分の役割は終えたと達成感を感じてもいた。決断から行動までは早い方が良い。父に願い出た後の行動を頭の中で考え始める。既に引越し先のアパートは算段の中に含まれていた。明日には入居の申請を綴った手紙を出してしまおう。そう考えながら、不意に顔を上げると末の子の前に見覚えのない男が立つのが見えた。
気がついた時には既に足を踏み出していた。細身に見える男は首の太さや、節くれだった指から言っても鍛えられていることが見て取れた。着痩せするタイプなのかもしれない。しかし巧妙に力を隠すタイプである可能性もあった。斜め後ろから見えた笑みは感情を読み取らせぬよう僅かに口角を上げただけのものである。まだ社交の経験の浅い未子には御せない類の男だ。すぐに男の真後ろまで移動したユールは「失礼」と声をかけた。
爵位の差によっては非常に不躾な行為になりかねない行動であったが、既に貴族藉を抜けることも視野に入れている彼女にとっては妹の安全を於いて気にする点ではなかった。
「私の妹が、何か粗相をしてしまいましたでしょうか」
柔らかな笑みをたたえ小さく目礼をしたユールは、小さく目を見張る。振り返った男の先、末の妹が満面の笑みで彼女を迎えたためだ。
「ユールお姉様、ちょうどお姉さまのことをお話ししていたのです」
妹の言葉に疑問符を浮かべつつ、振り返った男の正体を解き明かそうとしたユールはそのままガッチリと固まった。
「君がメレリー男爵家の御息女である、ユールイース嬢だね」
こちらに向かってクスリと微笑んでいるのはあろうことか、次期国王になることが決まっている現王弟殿下であった。
「た、大変な失礼をっ……!申し訳ございません!」
ば、と腰を落とし深く頭を下げたユールに王弟ゼルーヴァは小さく人差し指を口元に当てて小さな声で呟いた。
「驚かせてしまったね。特殊な事情があって今の私には認識阻害魔法がかけられている。君以外には私の正体はわからないことになってるからあまり大事にはしたくないんだ」
ご丁寧にも周囲の者には、新興貴族の男に見えるように細工してあることまで耳元で呟かれ、ユールはさらに顔を白くした。確かに妹は首を傾げているし、他の貴族も王弟がホールにいると言うのにこちらを伺う様子もない。
「少し君と話したいことがある。時間をもらってもいいかい?」
メレリー男爵には話をつけてあるんだ、と笑顔で伝える男に、ユールが否と伝える選択肢は残されていないようだった。
「ユールイース嬢。面白い噂のある君に頼みたいことがあるんだ」
全ての不要な会話を取り除いた命令が降ったのはそれから五分後のことだった。ホール会場の上の階に用意された客間で、ゼルーヴァとユールは向かい合っていた。
「面倒見のいい君のことだから、最後には家を出る心算があると思うんだ。そんな君に就職先を用意したんだけど」
初対面のはずの王弟が、なぜか家族にさえ黙していた計画を把握していることに冷や汗をかきながら、ユールは頭をフル回転させる。
このお願いは断れない代物だ。
……それならば。今のうちに業務内容を確認できるだけしておいた方が得策であろう。
子育てを一通り経験してきたユールは切り替えも早かった。一々引きずっていては、やっていけなかったと言うのも大きい。意を決してユールは口を開いた。
「一介の男爵家の娘である私にどう言ったお話でしょうか」
「率直に伝えよう。ある一人の男の面倒を見て欲しいんだ」
王弟から繰り出された言葉に疑問符が浮かんだ。それを解消してくれる優しさを持ち合わせているらしいゼルーヴァはさらに言葉を続けた。
「表向きは罪を犯して幽閉されていたんだが、調査を終えた結果、冤罪であることが判明した。かといって釈放できるほど話は簡単ではなくてね。俗世に戻れたとしても彼の命が狙われる危険もあり、滅多なことで釈放できないんだ」
つまり重要人物のお守り、と言うことだろうか。
罪を犯して投獄?どんな罪?
手が出やすい人物なのだろうか?
いや、でも冤罪と言った?
命が狙われる?……つまりその世話人になる私も同じく?
ぐるりと思考がひと回りした頃、言葉を捕捉するように王弟が告げた。
「彼自身は虫の1匹だって殺せない男だ。そうそう、先の面倒なしがらみから解放するために、既に偽装の処刑も済ませた体だ。今は見た目も全て変えて、城下から少し離れたところに用意した住処にいるんだ。自然豊かなところでね。結界も張っているから、危険はないよ。きっと君も気に入る」
心が読めるのかと思うほどに、一瞬ですべての不安事を解消する情報を告げた男に、ユールは、小さく了承の意を告げる他なかった。ここまで聞いて断る選択肢などありはしないのだ。次期国王の含みある笑みがそれを物語っていた。
そして。その翌日。家族にお別れを言う間も無く、ユールは、冤罪男の住む森に佇む一軒家の前に転移させられていた。
小さな造りの木造の家はまるで御伽噺に出てくる小人の住処のように可愛らしく柔らかな印象を与えた。ナチュラルな色合いの壁にとんがり帽子の赤い屋根なんて、まだ幼かった弟妹が作った積み木で作ったお家を思い起こさせる。家の周りは色とりどりの花が、咲き乱れており、植物や自然が好きなユールは、ワクワクする気持ちが抑えられなかった。ちなみに実家では効率重視で食べられるものしか育てられなかった。安価なハンドクリームと白粉の下に隠した日焼けした手で、たくさんの野菜を収穫していたのだ。日当たりも良く植物を育てるのにも申し分なさそうな家だな、と思いつつ、この家主は許してくれるだろうか、と言う疑問も湧く。
――悩んでいたってしょうがない。
やっぱり思い切りの良いユールは、扉を品よくノックした。数度叩いたが返事がなかったため、「殿下から申し付けられて参った者です」と大きな声を上げたのち、扉を開けた。鍵はかかっていなかった。一切が魔法で管理されているこの家には持ち主であるという男と、ユールしか入ることしかできないと説明を受けていた。
扉が開いたその先、小さな玄関ホールが目の前に広がりその奥にリビングに続くのだろうドアが見えた。小さいが必要な家具や物品があつらえられたリビングダイニングにも、洗面所にも、浴室に立って対象者の姿は見えなかった。それどころか家はシンと静まりかえっている。
首を傾げたユールは、寝室に続くのであろう階段を見上げた。流石に寝室にいきなり侵入するのは失礼であろう。
そうは思うが、別れ際に言われた王弟殿下の言葉が気にかかる。
『初日にきちんと顔合わせをしておくように。自分の名前を伝えることも忘れないでね』
まるで子供に言い聞かせるように、数度繰り返されたその言葉は、決して例外は許さないと言われているようだった。やはり、思い切りの良いユールは意を決して階段を登り始めた。あっという間に登り終えた階段の先には三つの扉が待ち受けていた。初めに開けた扉は空っぽの寝室であった。次は納戸として使えそうな広さの部屋が待ち受けていた。もちろん無人だ。
そして最後の扉。無意識に肩の力を入れたユールは前の二つの扉を開ける時と同じくノックをした。やはり返事はない。一声かけたのちに扉を開いた。果たして、探し人は寝台の上にいた。
どこか王弟殿下に似た雰囲気のある華奢な体格の男は、ぐっすりと眠り込んでいるようだった。クリーム色の髪は窓から入った光を反射させキラキラと光りながら肩口まで流れている。
薄く開いた唇はみずみずしく潤っており、若々しさを感じさせた。しっかりと閉じた瞼の先には髪と同じ色の長いまつ毛が存在を主張している。
これは。随分な美少女だこと。
そうなのだ。王弟から事前に男と言われていなければ、女性と見紛うほどの美人さんであった。ユールは変な罪悪感に囚われ始めていた。声をかけたとはいえ勝手に部屋に入り、あまつさえ寝顔を盗み見るなんて、彼・女・が目覚めたとして、叫ばれてもおかしくないほどの罪を犯している錯覚に陥る。
それにしても。
不意にユールの世話焼きな一面がむくむくと姿を現した。彼女ー彼だとしてもーはすやすや眠っているが、既に陽が高く上がり始めている。こんな時間まで眠りこけるのは、あまり誉められたことではないだろう。下手をしたら昼夜逆転生活のはじまりになってしまう!
そう、ユールはこういうところがある。彼女の献身を受けた弟妹達も苦い表情になるほど、世話焼きなのである。そこに相手の都合など一切存在しない。相手が明確な拒否を示さない限り、彼女の世話焼きスキルが爆進することも珍しくなかった。既に仕事モードに入った彼女は、そっと話しかける。
「もし、……もし、」
声かけだけでは目を覚ますことに至らなかったようだった。
彼女は、相手の肩に触れてみる。優しくポンポンとさすり、「もし、」と声をかけ続ける。睡眠中であるから少し暖かいが、発熱している様子もない。顔色もいいことから体調が悪いわけではなさそうだ。
「……ん」
声をかけ続けると、相手から返答があった。やや身じろぎをする。目覚める合図のようだ。そうしてそれから少し経ってから、美女の目が開いた。
ぱかっと開いた瞳はミントグリーン色だった。透明度の高いそれは宝石のようにキラキラと光り、言いようの知れぬ美しさを感じる。やっぱり美人だわ、と思いつつ、ぼんやりとする相手にユールは王弟からの指示を済ませてしまおう、と口を開いた。
結果としてこれがよくなかった。もう少しやりようがあった。この時のことを後から思い返すたびにそんなことを考えるユールがいる。
「貴方様の世話役をおおせつかりました。ユールイースと申します。お申し付けの際はユールとお呼びください」
小さく腰を落とし礼をしたユールに、目を擦っていた相手は、ゆっくりと顔を上げた。気のせいか、その瞳がとろりと濁った気がする。
「ゆー、る?」
鸚鵡返しのように発された声を聞くと、男性なのだな、と理解する。変声期を終えた明らかな男性であることを示す声帯は、寝起きのためか掠れていた。どこか色気すら感じされる気だるげな声音に、寝起きの声もそんなふうに変換されてしまうなんて、美人は得だわね、とそんなことを考えながら、ユールは頷いた。
「はい。これからよろしくお願いいたします」
そして契約は成った。成ってしまったのだ。
社交場に出たら漏れなくヒソヒソされる類の淑女であった。彼女が人目を引く理由は、身持ちが悪いとか、見目が悪いとかではなく、その世話好きなところにあった。
二男三女の、長女として生まれた彼女はまあまあやかましい家庭で育った。貴族とは名ばかりの貧乏男爵家に生まれた彼女はほぼ一人で弟妹を育て上げた。口うるさい姉に躾けられた彼らは、そのお陰で気品漂う紳士、淑女へと成長を遂げた。麗しいその見た目も作用して、今夜も社交界の華としていくつかの人だかりを築いている。
一方長女のユールは、立派に行き遅れと称される年齢になっていた。持参金になるはずだったお金を勝手に弟妹の食費や教育費に当ててしまったのだ。困り果てた父が頭を下げて回ってやっと得た見合いの機会も、末の子が発熱したためその看病を理由におじゃんとなった。夜会に出ると自らの相手そっちのけで、見目麗しい弟妹のボディガードと化し彼らに近づいてきた輩に卑しい点はないか常にチェックする徹底ぶりである。
彼女の二つ名が轟くきっかけとなった事件が起きたのは、末の子がデビュタントを飾った夜会であった。弟妹の中でもとびきり愛らしい妹に粗相をしようとした輩をぶっ飛ばしたのだ。
あまりの珍事である。ユールはその不躾な輩をそれはもう遠慮なくぶっ飛ばした。一部彼はもう使い物にならないと言う噂が流れたほどだった。
王家主催の夜会で起きたその事件は、相手の男の罪が重く見られたことからユールはお咎めなしとなった。しかしその噂は瞬く間に広がり、以降社交場でユールに近づく男性は綺麗に消え去ったと言うわけだ。
父母や、物事の判断がつく年齢になった弟妹達に心配されつつも、当のユールは嫁ぎ先がほぼ絶望的であることをあまり気にしていなかった。というより、ユール自身は嫁ぐことについて早々に諦めていた、と言うのが正しい。
持参金の問題だったり、兄弟達の教育環境だったり。
金策に走り回る父や末の子を産んだきり病弱の母だったり。
物心ついた時には、自分が動かなきゃこの家潰れるわ、という考えが浮かんでいた。子育てなんて先を読んでなんぼである。末の子がデビュタントを終えるまでと鑑みても、ユールが行き遅れになるであろうことは、本人が一番理解していたのだ。
そして、彼女はそれでもいいと思った。つまり自分でそれを選択した。見知らぬ男の家に入り、見知らぬ人間達の中で貴族夫人というお勤めをするよりも、大切な家族の家のために弟妹たちの成長を見守る方が絶対に幸福だと思ったのだ。むしろ自分が嫁ぎ先を見つけられなくなった今、外に嫁ぐことが強制されるであろう妹達に、罪悪感すら抱いていたほどだった。
と言っても家に行き遅れの女がいるだけでも醜聞の元になる。先を読むことに長けているユールは、末の子が社交に慣れたくらいに父に縁切りを願い出て、ベビーシッターやら、家庭教師やらそんな仕事をしながら一人気ままに生きていこうと考えてもいた。
今は、その末っ子の巣立ちを見守っている最中である。少し遠くから様子を伺っていたが、明らかに下品な誘いにも、そつなく返している末っ子の姿を確認できた。内心ほろりとしてしまうが、同時に自分の役割は終えたと達成感を感じてもいた。決断から行動までは早い方が良い。父に願い出た後の行動を頭の中で考え始める。既に引越し先のアパートは算段の中に含まれていた。明日には入居の申請を綴った手紙を出してしまおう。そう考えながら、不意に顔を上げると末の子の前に見覚えのない男が立つのが見えた。
気がついた時には既に足を踏み出していた。細身に見える男は首の太さや、節くれだった指から言っても鍛えられていることが見て取れた。着痩せするタイプなのかもしれない。しかし巧妙に力を隠すタイプである可能性もあった。斜め後ろから見えた笑みは感情を読み取らせぬよう僅かに口角を上げただけのものである。まだ社交の経験の浅い未子には御せない類の男だ。すぐに男の真後ろまで移動したユールは「失礼」と声をかけた。
爵位の差によっては非常に不躾な行為になりかねない行動であったが、既に貴族藉を抜けることも視野に入れている彼女にとっては妹の安全を於いて気にする点ではなかった。
「私の妹が、何か粗相をしてしまいましたでしょうか」
柔らかな笑みをたたえ小さく目礼をしたユールは、小さく目を見張る。振り返った男の先、末の妹が満面の笑みで彼女を迎えたためだ。
「ユールお姉様、ちょうどお姉さまのことをお話ししていたのです」
妹の言葉に疑問符を浮かべつつ、振り返った男の正体を解き明かそうとしたユールはそのままガッチリと固まった。
「君がメレリー男爵家の御息女である、ユールイース嬢だね」
こちらに向かってクスリと微笑んでいるのはあろうことか、次期国王になることが決まっている現王弟殿下であった。
「た、大変な失礼をっ……!申し訳ございません!」
ば、と腰を落とし深く頭を下げたユールに王弟ゼルーヴァは小さく人差し指を口元に当てて小さな声で呟いた。
「驚かせてしまったね。特殊な事情があって今の私には認識阻害魔法がかけられている。君以外には私の正体はわからないことになってるからあまり大事にはしたくないんだ」
ご丁寧にも周囲の者には、新興貴族の男に見えるように細工してあることまで耳元で呟かれ、ユールはさらに顔を白くした。確かに妹は首を傾げているし、他の貴族も王弟がホールにいると言うのにこちらを伺う様子もない。
「少し君と話したいことがある。時間をもらってもいいかい?」
メレリー男爵には話をつけてあるんだ、と笑顔で伝える男に、ユールが否と伝える選択肢は残されていないようだった。
「ユールイース嬢。面白い噂のある君に頼みたいことがあるんだ」
全ての不要な会話を取り除いた命令が降ったのはそれから五分後のことだった。ホール会場の上の階に用意された客間で、ゼルーヴァとユールは向かい合っていた。
「面倒見のいい君のことだから、最後には家を出る心算があると思うんだ。そんな君に就職先を用意したんだけど」
初対面のはずの王弟が、なぜか家族にさえ黙していた計画を把握していることに冷や汗をかきながら、ユールは頭をフル回転させる。
このお願いは断れない代物だ。
……それならば。今のうちに業務内容を確認できるだけしておいた方が得策であろう。
子育てを一通り経験してきたユールは切り替えも早かった。一々引きずっていては、やっていけなかったと言うのも大きい。意を決してユールは口を開いた。
「一介の男爵家の娘である私にどう言ったお話でしょうか」
「率直に伝えよう。ある一人の男の面倒を見て欲しいんだ」
王弟から繰り出された言葉に疑問符が浮かんだ。それを解消してくれる優しさを持ち合わせているらしいゼルーヴァはさらに言葉を続けた。
「表向きは罪を犯して幽閉されていたんだが、調査を終えた結果、冤罪であることが判明した。かといって釈放できるほど話は簡単ではなくてね。俗世に戻れたとしても彼の命が狙われる危険もあり、滅多なことで釈放できないんだ」
つまり重要人物のお守り、と言うことだろうか。
罪を犯して投獄?どんな罪?
手が出やすい人物なのだろうか?
いや、でも冤罪と言った?
命が狙われる?……つまりその世話人になる私も同じく?
ぐるりと思考がひと回りした頃、言葉を捕捉するように王弟が告げた。
「彼自身は虫の1匹だって殺せない男だ。そうそう、先の面倒なしがらみから解放するために、既に偽装の処刑も済ませた体だ。今は見た目も全て変えて、城下から少し離れたところに用意した住処にいるんだ。自然豊かなところでね。結界も張っているから、危険はないよ。きっと君も気に入る」
心が読めるのかと思うほどに、一瞬ですべての不安事を解消する情報を告げた男に、ユールは、小さく了承の意を告げる他なかった。ここまで聞いて断る選択肢などありはしないのだ。次期国王の含みある笑みがそれを物語っていた。
そして。その翌日。家族にお別れを言う間も無く、ユールは、冤罪男の住む森に佇む一軒家の前に転移させられていた。
小さな造りの木造の家はまるで御伽噺に出てくる小人の住処のように可愛らしく柔らかな印象を与えた。ナチュラルな色合いの壁にとんがり帽子の赤い屋根なんて、まだ幼かった弟妹が作った積み木で作ったお家を思い起こさせる。家の周りは色とりどりの花が、咲き乱れており、植物や自然が好きなユールは、ワクワクする気持ちが抑えられなかった。ちなみに実家では効率重視で食べられるものしか育てられなかった。安価なハンドクリームと白粉の下に隠した日焼けした手で、たくさんの野菜を収穫していたのだ。日当たりも良く植物を育てるのにも申し分なさそうな家だな、と思いつつ、この家主は許してくれるだろうか、と言う疑問も湧く。
――悩んでいたってしょうがない。
やっぱり思い切りの良いユールは、扉を品よくノックした。数度叩いたが返事がなかったため、「殿下から申し付けられて参った者です」と大きな声を上げたのち、扉を開けた。鍵はかかっていなかった。一切が魔法で管理されているこの家には持ち主であるという男と、ユールしか入ることしかできないと説明を受けていた。
扉が開いたその先、小さな玄関ホールが目の前に広がりその奥にリビングに続くのだろうドアが見えた。小さいが必要な家具や物品があつらえられたリビングダイニングにも、洗面所にも、浴室に立って対象者の姿は見えなかった。それどころか家はシンと静まりかえっている。
首を傾げたユールは、寝室に続くのであろう階段を見上げた。流石に寝室にいきなり侵入するのは失礼であろう。
そうは思うが、別れ際に言われた王弟殿下の言葉が気にかかる。
『初日にきちんと顔合わせをしておくように。自分の名前を伝えることも忘れないでね』
まるで子供に言い聞かせるように、数度繰り返されたその言葉は、決して例外は許さないと言われているようだった。やはり、思い切りの良いユールは意を決して階段を登り始めた。あっという間に登り終えた階段の先には三つの扉が待ち受けていた。初めに開けた扉は空っぽの寝室であった。次は納戸として使えそうな広さの部屋が待ち受けていた。もちろん無人だ。
そして最後の扉。無意識に肩の力を入れたユールは前の二つの扉を開ける時と同じくノックをした。やはり返事はない。一声かけたのちに扉を開いた。果たして、探し人は寝台の上にいた。
どこか王弟殿下に似た雰囲気のある華奢な体格の男は、ぐっすりと眠り込んでいるようだった。クリーム色の髪は窓から入った光を反射させキラキラと光りながら肩口まで流れている。
薄く開いた唇はみずみずしく潤っており、若々しさを感じさせた。しっかりと閉じた瞼の先には髪と同じ色の長いまつ毛が存在を主張している。
これは。随分な美少女だこと。
そうなのだ。王弟から事前に男と言われていなければ、女性と見紛うほどの美人さんであった。ユールは変な罪悪感に囚われ始めていた。声をかけたとはいえ勝手に部屋に入り、あまつさえ寝顔を盗み見るなんて、彼・女・が目覚めたとして、叫ばれてもおかしくないほどの罪を犯している錯覚に陥る。
それにしても。
不意にユールの世話焼きな一面がむくむくと姿を現した。彼女ー彼だとしてもーはすやすや眠っているが、既に陽が高く上がり始めている。こんな時間まで眠りこけるのは、あまり誉められたことではないだろう。下手をしたら昼夜逆転生活のはじまりになってしまう!
そう、ユールはこういうところがある。彼女の献身を受けた弟妹達も苦い表情になるほど、世話焼きなのである。そこに相手の都合など一切存在しない。相手が明確な拒否を示さない限り、彼女の世話焼きスキルが爆進することも珍しくなかった。既に仕事モードに入った彼女は、そっと話しかける。
「もし、……もし、」
声かけだけでは目を覚ますことに至らなかったようだった。
彼女は、相手の肩に触れてみる。優しくポンポンとさすり、「もし、」と声をかけ続ける。睡眠中であるから少し暖かいが、発熱している様子もない。顔色もいいことから体調が悪いわけではなさそうだ。
「……ん」
声をかけ続けると、相手から返答があった。やや身じろぎをする。目覚める合図のようだ。そうしてそれから少し経ってから、美女の目が開いた。
ぱかっと開いた瞳はミントグリーン色だった。透明度の高いそれは宝石のようにキラキラと光り、言いようの知れぬ美しさを感じる。やっぱり美人だわ、と思いつつ、ぼんやりとする相手にユールは王弟からの指示を済ませてしまおう、と口を開いた。
結果としてこれがよくなかった。もう少しやりようがあった。この時のことを後から思い返すたびにそんなことを考えるユールがいる。
「貴方様の世話役をおおせつかりました。ユールイースと申します。お申し付けの際はユールとお呼びください」
小さく腰を落とし礼をしたユールに、目を擦っていた相手は、ゆっくりと顔を上げた。気のせいか、その瞳がとろりと濁った気がする。
「ゆー、る?」
鸚鵡返しのように発された声を聞くと、男性なのだな、と理解する。変声期を終えた明らかな男性であることを示す声帯は、寝起きのためか掠れていた。どこか色気すら感じされる気だるげな声音に、寝起きの声もそんなふうに変換されてしまうなんて、美人は得だわね、とそんなことを考えながら、ユールは頷いた。
「はい。これからよろしくお願いいたします」
そして契約は成った。成ってしまったのだ。
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