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前編
しおりを挟むシウレリア・ガーフィリオンの人生を語る上で、聖痕は欠かせない題材であろう。
生まれてすぐに寂れた孤児院の前に放置された彼女は、どちらかというと持ち得ぬ側の人間であった。にも関わらず、彼女は年端も行かぬうちに貴族の養女として迎え入れられた。手入れなど出来ぬ状況においても目を引くような美しさと、平民らしからぬ気品を持ち合わせていた彼女だが、引き取られた理由は他にあった。
彼女が引き取られた唯一の理由。
それは、利き手に聖痕を有していたからに他ならない。
幼少期から孤児院の仲間が怪我をするたびにその傷を癒していたシウレリアは、噂を聞きつけた耳聡い貴族の目に止まり貴族の一員となった。彼女を引き取ったガーフィリオン侯爵家は優秀な神官を多数輩出し、その分野の知見も幅広いものであった。彼女の右手の痣を確認した瞬間、ガーフィリオン侯爵はそれが聖痕であることを確信したのだ。
孤児院ではただの痣としてしか認識されていなかったそれは、聖書に印字された『二対聖痕』そのものであった。
数百年に一度の割合で出現するらしいそれは、相対する聖痕を宿した二人が出会い想いを交わすことで大いなる神の力を得ることができるという。さらに伝承によると、二対聖痕を有する国は末永く繁栄するという。
すぐさまシウレリアの存在は公にされ、聖女としてその力を国に捧げる日々が始まった。以前は擦り傷を治す程度であった力は彼女が歳を重ねるごとにその威力を増した。地方に災害や飢饉があれば、そちらに赴き傷病者を癒した。時折見る夢の内容を告げ、幾つもの事故を未然に防いだ。対の聖痕を持った相手などいなくとも、彼女は立派にその地位の仕事を全うし、彼女に心酔する者は多岐に渡った。
彼女の存在を重視した王家は元々決まっていた婚約者の座を空席にしてまで第一王子との縁談を申し入れたが、彼女は笑みを浮かべ丁寧に断った。
理由を問われると「お待ちしている方がおりますので」と繰り返すのみだ。きっと、対の聖痕を持った相手の存在を待ち侘びているのだろう。伝承を理解していた王は彼女との縁談を諦めた。
事態が急変したのはシウレリアが成人を迎えた頃だった。
ついに、聖痕を持った男が名乗りをあげたのだ。これまでもそう言った偽の報告をする輩は多くいたため、彼も一度はその類として片づけられかけた。が、彼は他の者達とは違い、皆の目の前でその力を披露してみせた。辺境付近を荒らしていた大型の魔物をたった一人で討ち取ったのだ。魔物に手を焼いていた辺境伯も、彼の能力を認めざるを得なかった。貴族の後押しを得た彼は、いくつもの功績をあげ王から剣聖の名を賜り、彼女の元へと馳せ参じた。
二対の聖痕が揃った瞬間、二人は運命のように恋に落ち、辺りには眩い光に包まれたという。神の祝福と名付けられたその日を境に、彼らの力は更に強力なものとなった。間をおかず夫婦となった彼らはこれまで以上に国の繁栄に寄与したという。
誰もが憧れる二対聖痕の救世主の伝承。その裏側にあった憎悪と復讐の物語は決して知られることはなかった——
◆◇◆
話はシウレリアが剣聖と出会う半月前に遡る。
「何もかも、馬鹿げているわ」
苦虫を噛み潰したような顔で、シウレリアは吐き捨てた。侍女を下がらせた今、シウレリアは自室に一人きりだった。だからこそ、本音を吐いたのだ。後数分もすれば、また不作法な神官たちが訪れて都市部から外れた地域の慰安訪問を言い付けにくるだろう。
「こんなことのために転生したわけではないのに」
彼女には時間がなかった。
その時が来て仕舞えば今以上に動きづらくなるだろう。その前に彼女には成さねばならぬことがあったのだ。
「早くあの男を見つけて——」
殺さねば。
最後の言葉は声にはならなかった。薄暗い部屋の中で憎々しげに顔を歪めた彼女の瞳には、復讐の炎が揺らめいていた。
◆◇◆
シウレリア・ガーフィリオンは転生者である。それも二度も転生していた。彼女の数奇な人生を語るには少々複雑な経緯がある。
一度目の生において、彼女は貴族夫人だった。
スーザレナと呼ばれていた彼女は夫であるベルジウスと良い関係を築けていた。ベルジウスはスーザレナだけではなく、スーザレナの家族も大切にしてくれていた。特にスーザレナの妹をまるで自身の妹のように可愛がってくれた。二人の間になかなか子が出来なかったこともあるかもしれない。それでも、ベルジウスに甘やかされて病弱な妹が喜んでいるのを見るとスーザレナも救われるようだった。
そして。
……そして、二人は死んだ。
当時、体調を崩していたスーザレナの代わりにベルジウスは義妹を仮面舞踏会へ誘った。妻の代わりに義妹をエスコートするのは顰蹙を買いかねないが、身分を隠して参加する舞踏会ではある程度の非常識が許される場であった。普段、夜会に出る機会の少ない妹は飛び上がらんばかりに喜んだ。ベルジウスが持参した仮面に合うドレスを念入りに選んだほどだ。当日になり外出する直前まで、スーザレナを気遣っていた二人は、その後屋敷に戻ることはなかった。
次にスーザレナが対面したのは、変わり果てた姿の二人だった。現場は、薄暗い路地裏で、犯人が特定できるような大した証拠もでなかった。通り魔の犯行と結論づけられたその事件は、貴族社会を震撼させた。調査にあたった者から、二人の遺体は折り重なるようにして倒れていたことを知る。つまり、最後のその瞬間までベルジウスは義兄たらんとその命を投げ出してスーザレナの妹を守ろうとしてくれたのだ。
結局犯人は捕まらず、事件は忘れ去られて行った。スーザレナだけは一人諦めずに事件の真相を追った。真実を知りたいという純粋な目的は、時間が経つと共に犯人に対する憎悪へと形を変え、次第に復讐の二文字がちらつくようになった。寝食を忘れ犯人探しに打ち込むスーザレナの鬼気迫る様子を見て、同情していたはずの周囲はいつしか距離を置くようになった。優先順位を違えた結果、貴族としての責務を果たすことすら出来なくなり、スーザレナは貴族籍を返上した。平民になり、日々の糧にも困るようになったとしても彼女は自らの身体を顧みることなく信念を貫き続け、……結果、若くしてこの世を去った。
命を散らすその瀬戸際まで、彼女は犯人を探し続けていた。
真実が知りたかった。
家族の、愛する者の無念を晴らしてやりたかった。
そんな強い気持ちを持った彼女が、次に目覚めたのは、天界だった。
驚くべきことに二度目の生で、彼女は天使となったようだった。状況が飲み込みきれない彼女に、目の前に立った四対羽を持つ大天使が告げたのは、彼女の家族の命を奪った男の名であった。眉を顰める彼女に大天使は全ての真実を告げた。
どんなに頑張っても見つからないはずだ。
男は人ならざるものだったのだ。
悪魔。天使達の天敵とされる存在。彼らは一時の好奇心で簡単に人を殺めるという。そんな彼らを討伐してほしいというのが天使になった彼女に課された使命であった。信じられないような事実の数々に、目を白黒させた彼女を眺めた大天使は、穏やかな笑みを浮かべ言葉を続けた。
『悪魔を百人滅したのなら、願いを一つだけ叶えよう』
何ひとつ理解できない状況の中、その言葉だけはシウレリアの耳に残った。
初めは例の悪魔の討伐に並々ならぬ執念を燃やし、幾度も死にかけながら探索を続けた。しかし肝心の悪魔はなかなか姿を見せず、無駄な時間ばかりが過ぎ去って行った。圧倒的に効率が悪いことに気づいた彼女は、軌道修正をした。何も彼を殺す方法は一つだけではない。大天使の呟いた条件を思い出したのだ。それから彼女は、目に入る悪魔全てを滅することにした。
結果、シウレリアは見事にやり遂げた。
もちろん容易に、とは言い難かった。悪魔を滅するたびに枚数を増やし強靭になっていたはずの二対羽は一枚を残してボロボロになり、右腕は既に肩から下が消失していた。狡猾な悪魔達に幾度も呪いをかけられたことで、肌の至る所にヒビが入り、彼女の身体は今にも壊れ消える寸前だった。生を保っていることすら不思議なほどである。それでも彼女は持ち前の執念でもって、確かにやり遂げたのだ。
その身を引きずるようにして天界に舞い戻った彼女は、その場に崩れ落ちかけ、———しかしその身は柔らかく受け止められた。彼女を抱き止めたのは、いつぞやの大天使である。ひどく感動した様子で、彼女の功績を讃える大天使に彼女は告げた。
「願いをひとつ、……叶えてほしい」
「忠実なる神の子よ、何なりと申してみよ。このアズエニラエルの名にかけていかなる希望も叶えて見せよう」
既に身体の一部が崩れ落ち始めていることを感じながら、彼女は「どうか」と呟きかけ、最期の力を振り絞るように一息で告げた。
「どうか。あの男と私を、同じ世界へ転生させてほしい」
シウレリアの願いが予測したものとは違ったのだろう。
大天使が驚愕した表情を浮かべた。その顔を眺めシウレリアは胸の中で毒づいた。
――この復讐を赤の他人に託すわけがない。
自分の手で仇を打たなければ。
自分自身の憎悪をあの男の臓腑に打ち付けなければ。
何の意味もないのだ。
大天使の力であればその悪魔は一瞬で破滅するのだろう。なんて、生温い。場合によっては罷り間違って浄化され、輪廻転生の輪に舞い戻ってしまう可能性だってある。
……そんな馬鹿げた復讐があってたまるものか!
想像もしていなかったであろう。アズエニラエルのあっけに取られた無様な顔を眺めながら、彼女は最期にしてやったりという顔をして崩れ消えた。
次に目が覚めた時、シウレリアは小さな揺籠の中にいた。正確には孤児院前に捨て置かれた揺籠の中ではあったが、小さな彼女には確かめようもなかった。シウレリアの視界に広がるのは鈍色の雲が重なり合う空だった。天界とは明らかに異なる、しかしどこか懐かしい鬱々とした空模様は、彼女が確かに人間界に転生した証だった。
どうやらアズエニラエルは彼女の願いを叶えてくれたらしい。そう理解した彼女は、わずかに息を吐き、自らの存在を知らしめようと大きな声で泣き始めた。それから彼女はすぐに孤児院の者たちに保護されることになった。
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