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第六章

第三七二話 サイドムーア③

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 ハンバルはカルケル監獄に囚われている危険なドロシーの情報を前々から集めていた。

 その中に含まれていたのが二人組の遊女。帝国の総力を挙げて事実は隠蔽されたが、イース遊郭を恐怖のドン底に叩き込んだ女たちだ。

「イース遊郭の遊女ですか?」
「説明のために便宜上、背の高いキレイ系を遊女A。背の低いカワイイ系を遊女Bとしようか」
「名はわからないのですか?」
「外見と魔法の特徴だけで十分。名前と言っても、どうせ源氏名でしょ?」
「そうですね。適性は何ですか?」

 痛んだ内心を少しも見せず冷静にハンバルの解説を聞くナツを思い、背を向けたメリッサはガラス窓の端から後方を監視する事にした。

 相当無礼な感じになっているに違いない自分の顔をハンバルに見られるわけにはいかない。

「彼女たちはどちらも生体魔法適性だ」
「ならば殿下。定石通り遠距離から攻めればよろしいのでは?」
「そうですとも。ウォーレス卿に手柄を譲るのは残念ですが風刃を当てれば終いです」
「だから、アレはドロシーなんだって。油断すると……て言うか、知らないと死ぬから」

 彼女たちは一般的な遊女と同じで魔力容量が小さく、弱々しい魔法しか行使できなかった。俗に言う遊女の性技に活かす程度でしかなかったと言う。

『ヒヒィン……ブルル……ビヒヒ……』
「ん? ブラド号?」

 馬のいななきが聞こえ、ルイージが首を傾げる。

 馬車を曳いていたのはブラド子爵領から連れてきたルイージの愛馬だった。幼い頃から世話をして、初めてあぶみを踏んだ相棒でもある。

「ブラド卿。残念だが馬は諦めたまえ」
「――え?」

『ビヒヒン……ビヒ……ピィイ……ブブプ……プパッ……』

 明らかに様子がおかしい愛馬の鳴き声にルイージが慌て始めたところで、ハンバルの冷徹な命令が繰り返された。

「ブラド卿。新しい馬を買ってやるから強化に専念せよ。死にたくなければ従いたまえ」
「ぐっ……ははっ!」
「これは遊女Bの生体魔法だよ」

 遊女Bの魔法は、梅毒菌の活性化と散布しかできない。

「――っ!? それは誠ですか!!」
「ナツ殿。貴女はもう遊女ではない」
「その通り……ですが……これは……っ!」
「些事に囚われるな。範囲攻撃を受けている事実だけ認識すればいい」

 普通の梅毒は空気感染しない。しかし、遊女Bは体内の梅毒菌を活性化させ、生きたまま周囲に散布する。対象は無差別。効果が無いのはこの世にただ一人、遊女Aだけだ。

「遊女Bの体外に出た梅毒菌はなぜか目に見えるから、それがせめてもの救いだね。聖痕と同じ青色に光る霧状物質だから、決して触れないように。触れたら最後、体内で急速に増殖してあっという間に末期に至り、全身の肉が溶け落ちる」
「そんな魔法を……っ」
「ナツさん……」

 普段なら決して表に出さない怒りをたたえて窓越しに遊女Bを睨むナツの背中をさすりながら、メリッサの表情も険しく歪んでいた。

 梅毒に苦しみながら生き抜いた人間を何人も見てきて、その恐怖に怯えつつ戦い続けた彼女が受けた衝撃はどれほどのものか、想像もつかない。

「狂っていす……」

 遊郭における恐怖の権化とも呼ぶべき病を、事もあろうに活性化してばら撒く。そんな魔法を自分と同じ遊女が産み出したという事実を認めたくなかった。

「そんな自爆魔法を行使する遊女Bがいつまで経っても死なない……いや、死なせないのは遊女Aだ」

 遊女Aの魔法は、遊女Bの梅毒治療しかできない。

「いやホント、遊女ってのは怖い生き物だね。聴取の写しを入手して読んだんだけど、どうも男を巡るイザコザが原因らしいよ。身請け間近だった遊女Aの男を遊女Bが寝取って、ついでに梅毒を感染うつしちゃったんだと」

 遊女Aの間夫は梅毒で死に、それを見届けた遊女Bが笑って死ぬ直前――、遊女Aに完治させられた。本来なら数ヶ月掛かるはずの治療が必要で、それも手遅れなはずの末期を過ぎた患者が一瞬で治った。

 それ以降、二人はそれまで通り同じ店で働いて、遊女Bは売れっ子になった。数年後、イース遊郭に梅毒が蔓延している事実が明るみとなり、感染経路が確認された時には遅かった。

 防止すべき感染症を拡大させた罪で憲兵に捕まる際、遊女Bは梅毒菌の無差別散布魔法を発現させ、遊女Aは彼女を治し続けた。

「遊女Aが脱水症状で倒れるまで散布は続き、大量の遊郭関係者と憲兵隊五個師団が全滅した」
「ご、五個師団が全滅!? それほどの損害を隠せたのですか!?」
「故イーナン元公爵の大手柄だよ。遊女Aの……なんだっけ? おゆかり? それが憲兵の足止めをしちゃったのが被害を拡大させた要因かな」
「……おゆかり様が?」
「遠距離攻撃魔法を撃っても相殺してくるわ、最後は捨て身で肉壁になるわ。肉体関係の無かった遊郭の男たちまで遊女Aを守ったらしい。馬鹿な男が大勢いたもんさ」

 もう声も出ない。一体、何百人を巻き込んだのだろう。そんな超級遊女はオプシーにはいないし、聞いたこともない。

「遊女としては掛け値無しに超一流……ですがっ」

 悔しいことに、ナツには遊女Aの気持ちが手に取るように分かった。一歩間違えば、自分もそうなっていたかもしれないと思えて怖気が走る。

 もしも、遊女時代の自分が今感じているような気持ちを抱いていたら、万難を排して身請けに向けてひた走るに決まっている。それが遊女の恋の終着であり、唯一許された幸福な未来だからだ。

 その未来が見えていたはずが、肝心の男を別の女に寝取られた。しかも梅毒付きで。

「あん遊女ひとは……間夫の意に沿い損ねたんでありんすね」
「男が馬鹿だったんじゃない? やっとの事で金を工面したのに……あ。その金も遊女Aのだったかな? そんな時期に梅毒持ちに引っ掛かるとか……ねぇ? 遊女Aも治してくれなかったわけだよ」

 ナツは思わずハンバルを睨んだ。

 それは違う。彼女は治そうとしたはずだ。

 でも出来なかった。ただそれだけの事で、その時まで彼女はドロシーなんかじゃなかったはずだ。

 祈りは届かず、女神は答えず、間夫は呆気なく死んでしまって、狂った途端に奇跡は起きた。

 遊女Bはどうだったのだろう。

 なんとなくだが、普通にその辺にいる、二流の性悪だったんじゃないだろうか。

 そういう意地の悪い遊女は大勢いる。

 自分は恋を知らなかったから、ただ養生処に邁進していたからその手の悪意とは無縁だったが、最後の日に門をくぐる時、たくさんの嫌な視線を感じた。

(いえ……私はお身代無料のミソッカス。おかさんのおかげで、あの程度で済んだ)

 キサラが言っていたとおり、最後の最後でミソがついた。だからこそ見下して、見逃してもらえた。

 本当に一億ムーアで買われていたら、高い女のままだったら、地獄に置き去られた遊女たちの怨念が今でも付き纏っていたに違いない。

 これは遊女Aの復讐なのだ。

 遊女Bの魔法が彼女だけ対象外になっているのも、心の底では敵わないと分かっているから。

「――ハンバル様。狙うは遊女Aです」

 ナツは涼やかな双眸を吊り上げて断言した。

「いやいや、何を言ってるんだい」

 ハンバルはその目を見もせずに彼女の献策を切って捨てる。

「行使者を殺せば魔法は消えるんだ。考えるべきは毒霧に触れずに、如何に素早く遊女Bの首を落とすかだよ。ウォーレス卿」
「はっ」
「幸いなことに外はほぼ無風だ。風を起こさず、毒霧を乱さずに遠距離攻撃を放てるかい?」
「むっ。それは……無理です」

 『風刃』で遊女Bは斃せるだろうが、同時に梅毒の霧が拡散する。ピノキオを感染覚悟で使い捨てるなら話は別だが、味方が居なくなった今のハンバルにとって彼は貴重な戦力。大使館側を完全に信用するわけにもいかないため出来れば失いたくはない。

「彼女は監獄を出されたばかり。殺るなら今しかありません」
「……どういう意味? 危険なのは遊女Bの方でしょ?」

 遊女Bを殺しても遊女Aが生き残れば、第二第三の遊女Bが現れる。

「…………はぁ。呆れたよ。ドロシーがそう簡単に生まれるわけがないだろ」
「本当に恐ろしいのは遊女Aに向けられる嫉妬です。彼女なら遊女として何処でもやり直せますが、復讐は止まりません。今度は意図的に遊女Bを作ろうとするでしょう」
「いい加減にしたまえよ。女の勘だか何だか知らないが、合理性の無い想像には付き合えない」
「ハンバル様!」
「思考の邪魔だから黙っていてくれ」

 そう断じるとハンバルは沈思黙考に入ってしまった。

 もう馬のいななきは聞こえず、ルイージは口惜しさを噛み殺して車両に強化魔法を付与し続ける。

 ガラス窓の外を見れば扉のすぐ近くまで青く光る毒霧が漂い、逃げ場を塞ぐように全周を覆っていた。

「メリッサさん」

 ナツの蒼天を見たメリッサはニカッと暑苦しい笑みを浮かべるや、シャランと長剣を抜いた。

 ピノキオはギョッとして身構えたが思考に沈むハンバルは気付かない。

「ナツさん。ご武運を」
「ふふっ……相手になりんせん」

 蒼い聖痕がナツの全身を駆け巡り、ルイージの脇を抜けて扉を取っ手に手を掛けた。

「なっ!?」

 たったそれだけの事でルイージの強化魔法は相殺され、ナツは『ガチャリ』と普通に扉を開けた。

 ようやく事態に気付いたハンバルが見たのは、馬車から降り立つ蒼天の髪と、直後に閉まった扉の木目。

「強化ぁ!!」
「はっ!!」

 ピノキオは大慌てで綿を詰め直し、即座にルイージが強化し直す。

「なんてことを……っ!」
「殿下、大人しくなされよ。貴卿らも余計なことはするな」

 長剣の切っ先を向けられた三人が押し黙る。

「よく見ておかれよ。あれなるはニホン国大使館の筆頭外交官――ナツ・ニイタカ殿である」

 メリッサの台詞に息を呑み、強化されて淡く光るガラス窓から外を見た。

 馬車の傍に立つナツのすぐ横には梅毒の青霧がゆらりと流れ、微風そよかぜが吹けば即座に呑まれる。その危機的な状況にあって、ナツの瞳は真っ直ぐに遊女Aを見詰めていた。

「「「――――なあぁああっ!?」」」

 車内に籠る男たちが騒然となった。

 ナツがしゃなりと歩を進めたのだ。すぐ目の前には薄っすら光る毒霧が揺らぎ、倒れたルイージの愛馬を呑み込んでいる。

 自ら梅毒に当たりに行く彼女を血走った目で追うハンバルは、信じられないものを見た。

 遊女A以外の動物をことごとく侵し尽くすはずの、無差別範囲攻撃魔法の毒霧がナツの歩みに合わせて引いていく。

「…………馬鹿な。一体なぜ?」

 そのまま、しゃなりしゃなりと進む彼女の足元には微かな土埃も舞っていない。その歩く姿は涎が出るほど色っぽく、息も止まるほどに美しい。

 梅毒の霧を身に纏い、されど触れることを許さず蹂躙するのは、ただ一流の遊女の足運び。

 緊張など微塵も感じさせず、悠然と遊女Aを間合いに収めた所で立ち止まる。

「初めまして。わちきはナツと申しんす」
「ようおいでになりんした。あちきはツクヨでありんす」

 ナツは遊女Aに挨拶をした。ツクヨと名乗る女は即座に返す。

 互いに敵と相対している様には見えなかった。まるで向かいの店の遊女と挨拶を交わしているだけのようだが、誰にも割り込めない独特の風情が香る。

 隣には身体中から膿を噴き出す遊女Bが視線を彷徨わせ、口を開けたり閉じたりしているが完全に蚊帳の外。

 器量と芸達に裏打ちされた華だけがものを言う、残酷なまでの実力の世界。遊郭ではよく見られる光景だった。

「ツクヨ姉さん」
「なんでありんすか?」

 長く引き止めるのは粋じゃない。

「いい雨だっけね」
「お茶挽きしんす」

 ナツの全身に聖痕が駆けては消えて、淡く光る真白の扇子が美しく弧を描き、音も無くツクヨの首筋に流れた。

「「おさらばえ」」

 ナツとツクヨ。二人の高級遊女の邂逅は僅か数分で終わりを告げた。

 鮮やかに頸動脈を断ち切られ、最適な角度で噴き出した鮮血はスラムの砂利に降り注ぎ、ツクヨの一張羅には一滴も掛からない。

 ナツは懐中に忍ばせていたクッションの白綿を手に、首から血を噴きふらつくツクヨの元へ歩み寄ると、既に致死量の血を失った彼女の首筋に当てた。

 命を刈り取った女の意識が途絶えるその瞬間まで、蒼天の瞳は涼やかなままで、今際いまわのツクヨが見たのは色恋に狂う前の、かつての自分の姿だった。

「ツクヨ姉さんは逝かれんした」

 血の滲み一つない綺麗な遺体を抱き上げると、それだけ告げて馬車に向かって踵を返す。

「あ……あぁ……?」

 スラムの路傍で尻餅をつき、ツクヨの血に塗れて身体中を掻き毟る遊女Bだけが残された。

 自分の梅毒を拡散させる概念の具現――遊女Bの生体魔法の顕現は消え失せていた。

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