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第四章
第二五二話 魔獣 vs ゴルド
しおりを挟む艦後方の水平線に目視してから一時間余り、海獣との相対距離は徐々に縮まり、本艦後方およそ三マイルまで迫って来ていた。
『『『キャアァ゛アアアァ゛アアァアアアァ゛アアア゛アアアアァ゛アアア――――!』』』
「「「ひぃいいい――っ!」」」
人の心を掻きむしるような悍ましい鳴き声が背後から響き、複数の声音が重なって聴こえる澱んだ和音が凪いだ海面を震わせる。
艦橋屋上から遠目に見える薄ら青い巨体は丸みを帯びた長方形で、無理矢理に海水を押し退けて進んでいるような印象を受けた。
「ゴルドさん! ビクトリア様は!? なんと!?」
「終わり次第、駆け付けてくださいますから、落ち着いて」
「しっかしデカいです……アレが大型海獣ですか……」
「聞きしに勝る恐ろしさですね……この世のモノとは思えません……」
「ビクトリア様がオプシーに曳いて来られたクジラは、あのくらいだったと思います」
しかし、アレは何と言う海獣なのだろう。港町で長く暮らしていれば、その脅威と共にそれなりに耳にする機会はあった。
出現頻度にも依るのだろうが、ゴルドが聞いたことがあるのは、クジラ、ダイオウイカ、大ウミヘビ、サメ、マンボウくらいだ。
危険度で言えばシャチが断トツに高く、海獣にしては小振りながらも、積極的に襲ってくることで知られていた。
「――そうですよ。大陸海溝にでも入らない限り、自ら船舶を襲う海獣は限られるはずです」
「ウチの親父はトビウオに襲われて亡くなりましたよ!」
「トビウオはただ移動しているだけらしいですよ? 航走波を小魚の群れと誤認しているという説もありますが」
海獣はいずれも海の生き物として自然な姿をしている。その形状は流体力学に則った理想的な流線形であり、新船型の開発に活かせないかと注目されていた時期もあった。
対して、後方から迫る海獣は明らかに、海洋生物として非合理な形状をしている。
「アレは我々を追って来ています! というか、また速くなってませんか!?」
「……そのようですね。何とか足を止められないものか」
あの変な鳴き声を発すると、海獣は加速する。その後方には推進魔堰が作り出すのとよく似た水流が生じており、海獣自体は身動きをしておらず、ヒレで漕いでいるようにも見えない。
違和感をヒシヒシと感じるが、考えていても仕方の無いことだ。確実に言えることは、本艦はこれ以上に増速できない事と、このままでは追いつかれてしまう事。そして追いつかれれば、死あるのみだという事だけだった。
「配置換えをしましょう。攻撃魔法を撃てる人を艦尾に集めてください。慌てずにゆっくりと動くように」
「た、戦うつもりですか!? 無理です!」
「無謀でしょうが無理ではありません。アレの鼻先……何処が鼻か分かりませんが……前面にばら撒けば進みにくくはなるでしょう?」
「そんな……効きます……?」
「分かりません。無意味かもしれませんし、運が良ければ驚いて逃げてくれるかも。いずれにしても追いつかれたら終わりです」
ゴルドは屋上から降りて、そのまま艦橋出口へ向かう。
「ゴルドさん、どちらへ?」
「船尾楼上甲板に行きます。私も小さい火弾なら撃てますから」
引き止めないで貰いたい。立ち止まると膝が震えて動けなくなるではないか。
「……どうして、そこまで出来るんです? 怖くないんですか?」
「怖いですよ。怖いから近づけたくないんです。あんな怖いモノを家族に見せられますか?」
海兵でもないのにまともに戦えるわけがない。海戦も海獣も攻撃魔法もよく知らない。魔法も普段は金属部材の溶接や蝋付け作業で使う程度だ。
ただ、一般的な少年の例に漏れず、幼い時分には強力な魔法に憧れがあった。近所に住んでいた憲兵に教えてもらった『火弾』が、ゴルドが使える唯一の攻撃魔法だった。
鳴き声に怯えて蹲る人々を避けながら、廊下を渡り階段を降りていく。デッキフロアからは泣き喚く幼な子の声が響いていた。
(無理もない……)
人質の中には五歳に満たない小さな子供たちも含まれている。あのくらいの年齢の子供はすぐに泣く。男女の別無く、身分を問わず、個人差も無い。
ゴルドは子宝に恵まれなかったので実体験ではないが、世間一般の常識だ。泣き止ませるには気分を変えてやる必要があるらしいが、今の最悪な気分を変えたいのは皆同じだった。
「ちょっと! 邪魔ですわ!」
「あんたら道空けな! 昼間から寝てんじゃない!」
泣き声が近づいてくるとそこに、水桶を抱えた何人かの女性たちがやって来て、僅かに空いた通り道に突き出された脚を蹴飛ばして叱咤している。
先頭を歩いているのはエイテルケイト。元妻だった。
「あ……ゴルド様。お疲れ様でございますわ」
「やあ、ご苦労様。その水桶は?」
「気分転換になればと思いまして……」
エイテルケイトは艫側の医務室扉に目を逸らして言った。
医務室には泣く盛りの子供たちが集められている。母親があやしても駄目で、換気しようと魔法を使ったら更にギャン泣きし始めたらしい。
「もう身体を拭くくらいしか、思い付かなくて……」
「そうか……。私が温めよう。お湯の方がいいだろう?」
「あ、そうですわね。お願いできますでしょうか?」
彼女の後ろに続く女性たちがニヤニヤしているが、敢えて無視して紳士を気取ってみた。
「お、重たいだろう? 水桶を貸しなさい」
「い、いえ、ここでお願いします。聖痕の光が怖いらしいので……」
「そ、そうなのか? わかった」
水桶の中の真水を熱量魔法で順番に温めていく。少し熱いくらいの湯加減にしておいた。
「このくらいでいいだろうか?」
「ええ、ありがとうございます」
湯気の立つ水桶を抱えてお辞儀をすると、医務室に向かって立ち去ろうとする背中に声を掛けた。
「エ、エイテルケイト!」
「は、はい? 何でございましょう?」
「後で話がある。時間を作ってもらいたい」
「……承知しました」
「ありがとう」
居住区から甲板に出て艦尾へ向かって歩きながら、ヘタレな己に肩を落とした。時間は嫌になるほど有ったというのに、この土壇場になってもまだ言い出せないとは。
(……思春期の餓鬼でもあるまいに)
何と言えばいいのか、言うべき台詞が決まらないのだから仕方ないが、拒絶されなかっただけ良しとしよう。
今はその時間を作ることが肝要だと、気持ちを切り替えて上甲板への階段を登る。
(……近いな)
たかだか数十メートル移動しただけだが、海獣との距離はかなり近く感じた。実際にはアチラから近づいているのだろう。
目算で二マイル圏内に入られているが、自分の『火弾』ではあそこまで届かない。
周囲の職工たちに声を掛けて、熱量魔法適性者を後ろに集めるように指示した。あちこちから狼狽や非難の声が上がったが、もう他に手が無いことを訴えると、何人かが覚悟を決めて最後尾に並び海獣を睨む。
「届く人は海面を狙ってみてください。少しでも行き足が鈍ればいい」
「……やってみます」
若い職工が両手を突き出して火の玉を出すと、徐々に小さくなっていく。なんと『圧縮火球』だ。
ある程度まで圧縮したところで、バシュっと音がして海獣に向かって赤い球が飛んでいき、
『ドパ――ン』
海獣の手前に水柱が上がった。
「おお~!」
「やるじゃねぇか!」
「へへっ。海兵になるつもりでしたが、両親に反対されまして」
「いい感じです! どんどん撃っていきましょう!」
若手を中心に士気が上がった職工たちからポンポン『火球』や『火弾』が飛んでいく。
海獣の目前にいくつもの水柱が上がり海面が荒れるが、怯んだ様子は見られない。
(……逃げてはくれないか)
表皮が凸凹した四角い海獣は不気味なほどに動かない。どうやって進んでいるのか分からないが、その形状に箱舟の船影が重なり怖気が走った。
(ん? 前の方で何か動いたような……)
『『『キャアァ゛アアアァ゛アアァアアアァ゛アアア゛アアアアァ゛アアア――――!』』』
「「「ひっ!?」」」
また鳴き声が響いた。やはり海獣から発せられている。
(な……!? 増速した!?)
海獣が鳴いた直後、巨体がグンっと前に出て、後方の海面に残る水流も勢いを増した。
海獣はどんどん近づき、もう後方一マイルまで距離を詰めている。不得手な攻撃魔法でも届く距離だ。
ゴルドは手を突き出して魔法を行使し、ポムポムと連続で『火弾』を放った。海面が小さく爆ぜ、いくつかは海獣の表皮に当たるが相手はまったく怯まない。
「みんな! とにかく撃ち続けるんだ!」
「くそぅ! この! このぉ!」
「こっち来るんじゃねぇ!」
船尾楼上甲板だけでなく後部甲板からも小さな魔法が飛び、迫り来る海獣に降り注ぐ。
体表からいくつもの煙を上げながら、痛くも痒くもないように真っ直ぐ進む海獣を見て、皆から悲鳴が上がった。
「カハッ……ゴホゴホ……」
「ヒュー、ヒュー……」
「ううっ……も、もう……」
魔力欠乏に陥った者たちがバタバタ倒れていく。素人が放つ攻撃魔法は徐々に衰え、数を減らし、その密度を下げていった。
(ビクトリア様! 早く! 早く来てくれ!)
怖い。ひたすらに怖い。もはや心が感じる怖れを無視できなくなっていた。
もう、アレがただの海獣ではないことを本能が察している。
「何だ!? アレは何だよ!」
近づくほどに輪郭が露わになって、凸凹の仔細が見えて来た。
「ひぃいいい! 化け物! 化け物だ!」
貌だ。無数の人の顔が表皮に浮かび上がり、全面を覆い尽くしている。
全身の肌に鳥肌が立って、べったりと汗が凍る。
その時、最前線で魔法を放つゴルドたちは見た。
化け物の前面が盛り上がり、多くの貌を押し退けて女性の陰部のような切れ込みが入ると、『ぐぱぁ』と薄紫色の肉が開き、中から人間の上半身が出てきたのだ。
『『『キャアァ゛アアアァ゛アアァアアアァ゛アアア゛アアアアァ゛アアア――――!』』』
貌が一斉に鳴いた。魂を掻き乱す和音に全員が息を止めて、魔法の行使も出来なくなる。
現れた人間の身体に光の線が走り、化け物の後方で水飛沫が爆発すると、ぐんぐん近づいて来た。
脚がガタガタ震え、そのまま膝を付く者が多数。
さらに追い討ちを掛けるように、化け物に動きがあった。
全身の表皮がさざめいたかと思ったら、あちこちの肉が出っ張り、長く伸びて、先端が人の手になった。
「「「…………」」」
誰も声が出ない。
化け物の手が伸びてくる。
蠢めく無数の手が目指すのは、自分たちが乗る二番艦だった。
『ポポポポポポポポポポポポ……』
膝が震える。歯の根が震える。
全身を震わせながら、ゴルドは魔法を行使した。
『ボン、ボボン、ボボンバン、ボボボボン』
無我夢中で魔法を行使し続ける。
掲げた両手からは『火弾』が出っ放し。聖痕は光りっぱなし。
化け物の手や腕に着弾するが、表皮が焦げる程度で、千切れるまでの威力は無い。それでも当たれば爆発し、手の進行が一瞬だけ止まる。
後悔が募る。機会はいくらでもあった。オプシーにいた時も、再会してからも、ついさっきだって。
まだ何も伝えていない。このままでは絶対に終われない。この想いを伝えるまでは絶対に。要するに――、
「死んでたまるかぁ――――っ!」
身体中から脂汗が噴き出し、顔面は蒼白に染まり、今にもぶっ倒れそうだが無理を通す。
思えば今までの人生、惰性で過ごしてきた。立場に溺れ、金に溺れ、女に溺れて、安穏と時をやり過ごし、それを幸福だと思っていた。
世の富豪たちは皆そうだろう。シルバのように自覚と才覚を兼ね備え、積極的に動く者は少数派だ。そうした者でも、基本的に自身の権威を維持することに腐心する。
「うわああああああああああっ!」
無理を通した事は無い。権威に逆らった事も無い。常識に従い、周囲の流れに乗っかって、出来るだけ甘い潮流に向けて舵を切るだけだった。
この極度に塩辛い流れに行き着いたのはそのツケだ。抜け出すには自分で漕ぐしかない。
魔力欠乏を気合でねじ伏せて、ゴルドは『火弾』を撃ち続けた――。
**********
「ぜひゅ~! ぜひゅ~! ぜひゅ~! ぜひゅっ――ゴホッ!」
二十分後、百メートル後方まで迫る手型の触手群と、ゴルドの『火弾』の拮抗が崩れようとした、その時――、
『……ィィィイイイイ――――キュドドドドドドドドドドドドドォオオオ~~ンっ!』
上空から蒼い火弾群が滝の如く降り注ぎ、化け物の腕を群れごと引き裂いた。
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