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第三章

第一七一話 対話作戦

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 デント教皇との通信が終わり、豊かな谷間に通信魔堰が潜り込んだ頃には、朝日が海面に青く照り返していた。

「やっと終わった?」
「ええ。ちょっと疲れたわ」
「帰れって言われたでしょ?」
「そう命じられたわ」

 地位のあるジジイの話は何処の世界でも長いようだが、教皇はちゃんとフィーアに命じてくれたらしい。

 これで心置きなく黒鯨と対面できると思っていたのだが、

「帰らないわ」
「なんでよ。教皇の命令でしょうが」
「イヤだからよ」

(おい教皇。手駒がおかしな事を言い出したぞ)

「異端審問官って命令に逆らってもいいの?」
「ダメよ。猊下に逆らうなんて」
「今、逆らってるだろ?」
「…………見聞を広げるためよ」

 珍しいことに、というか初めてのことだが、フィーアの動揺が顔に出ている。

 教皇の別個の命令から小さな矛盾を引っ張り出し、揚げ足を取る形で反抗していた。

「……それが許されるなら、もうフィーアさんの好きにしていいことにならない?」
「どういう意味?」
「だから、見聞を広げるためって言えば好き勝手できるでしょ」
「……そうなの?」
「今回の教皇の帰船命令に従わないなら、そうなるよね。マズいよね、それは」
「……」

 命令に優先順位がある場合を除き、どんな組織でも最新の指示に従うものだ。

 指示を出す方も過去の命令を覆すようなケースではそれに触れて破棄を明言するか、最低でも把握していなければならない。

(何をそんなに悩んでる?)

 命令・指示には幅がある。現場判断が迫られる職場ではある程度の裁量を認めなければ仕事にならない。

 船はその最たるものだが、異端審問官は教皇の直属であり、フィーアにはトップとの直通回線を通じて、たった今、命が下ったばかり。

(その履行に悩むってことは、フィーアさん自身が納得していない?)

 女神教会の組織形態は教皇を頂点としたピラミッドのはずだ。偉くなるほどに席は少なくなり権威が強まる。

「教皇の命令は絶対だろ? 早く帰った方がいい」
「イヤよ」
「それ、教皇に言えるか?」
「……待ってなさい」
「え?」

 フィーアは再び通信魔堰を胸から引っ張り出すと教皇を呼び出し、繋がるや「イヤ」と言って通話を切った。

 開いた口が塞がらないとはこの事だ。自分が部下からやられたら解雇を上申するだろう。

「おま、お前ぇ! 何やってんだ!」
「イヤって言ったのよ」
「知ってるよ! クビになるぞ!」
「誰の首が転がるのよ?」
「お前だよ!」
「イヤよ。何言ってるの?」

(ダメだ、コイツ)

「俺が教皇ならお前をクビにしてるよ」
「あなたには無理よ」
「それも知ってる。クビってのは解雇するって意味だ」
「私が異端審問官じゃなくなるってこと?」
「そうだよ。業務命令に『イヤ』の一言で背かれたら誰だって怒るわい」
「そうなの? ……早く言ってよ」
「……何を泣きそうになってんだよ。バカか?」
「……泣いてないわ。バカじゃないわ」

 フィーアはこんな感じでも仕事が大事だったのだろう。泣いてないと言いつつ、灰色の瞳が潤んで目からは涙の雫が溢れそうだ。それでも無表情なのは不思議を通り越して少し怖い。

「はぁ~。まぁ、やっちまったもんはしょうがない。後の祭りってやつだ」
「……猊下に怒られる」
「解雇した奴には指導もしない」
「……どうすればいいの?」
「謝れば?」
「そうするわ」

 フィーアはまたまた、胸元から通信魔堰を取り出し、教皇の呼び出しを始めた。

(なんでそこに仕舞うんだ? 毎回、揺れて弾んでこぼれそうじゃないか……けしからん)

 なかなか繋がらないようだ。やがて顔を上げ「切れた」と言ってかけ直すも、今度はコール音が聞こえない。

『この通信はお繋ぎ出来ません』

 電子音声が流れた。

(……着拒されたじゃねぇか)

 通信魔堰にこんな機能があるとは知らなかった。フィーアも首を傾げているので、翻訳してやった。

「……そう言ってるの?」
「うん」
「……なんで?」
「受信側で着拒されてるから」
「……チャッキョって何?」
「着信拒否の略」

 暫しの沈黙が流れ、遂にフィーアの涙腺が決壊した。ボロボロ涙が溢れて無表情の頬を伝う。

「まぁ、その、なんだ……ドンマイ」
「……ドンマイってにゃに?」
「Don't mindの略。気にするなってこと」
「……気ににゃる」

 異端審問官とはいえ、フィーアは何処か幼い感じがする。日本なら女子大生くらいの歳周りだが、能力が高いだけで情緒面は小学生並みだ。ムヅキたちの方がよほどしっかりしている。

「フィーアよ。人生はいろいろだ。お前はまだ若いし、魔法もスゴいんだから、これからは好きに生きればいいんじゃないか?」
「……好きに生きる?」
「そうだ。人間は勝手に生きてるんだ。どこかの島で魚を獲ってもいい。船員になるのもいいだろうし、フィーアには難しいかもしれんが、商売を始めるのもアリだ」
「……生きてるだけ」
「人生はそんなもんだ。俺は一回全部無くして死に掛けたが、運良く生きてる。今、手元にあるものだけがすべてじゃないんだ」
「……でぼぉ」

 目からドバドバ涙が出てきた。涙腺が心配になるほど泣きながらも無表情。表情筋が死んでいるのかもしれない。

 穂積は慌ててフォローに努めることにした。

「それに、ほら、あれだ、フィーアは女性だし。美人だからきっとモテるし結婚もできる」
「……モテる? 結婚?」
「そうそう。レットとブルがずっとジェンガに付き合ってただろ? あれはフィーアに気に入られたくて頑張ってたんだ。アイツらはチャラいからオススメしないが、タフラとかどうだ? あいつはいい奴だぞ?」
「……誰?」

 どうやら認識すらされていなかったようだ。乗組員は全員を紹介されたはずだが。憐れタフラ。

「だから元気出せ! 元気出して本船に帰れ! なっ!」
「イヤ」

(ちっ。ドサクサで帰らせようとしたがダメか)

 フィーアは無表情に泣き続けているので、とりあえず後部座席に座らせて高速艇を進めることにした。

 時刻は〇六三〇時に差し掛かる。そろそろ穂積の不在に気付いた頃合いだろう。船内サーチが始まっているかもしれない。

『キュウ』
「そうだな。もうすぐ大陸棚の縁か。あっちも気付いたかな?」
『キュキュウ』
「そうか」

 座標魔堰を見ると深度に変化があった。上がってきているようだ。

 先日の咆哮を思い出して脚が震える。

 声が届くだろうか。そもそもすべての海獣と意思疎通が可能なのか。腹に刺さったトビウオの目を思うと、そうとは思えなかった。

『キュ――!』
「なっ!?」

 咆哮は聞こえないが相変わらず圧倒的なスケールだ。

 突然、水平線付近に影がかかり、スコールのカーテンが空の一部を塗り潰した。

 上空は快晴で雨雲は見えない。つまりアレは潮吹きだろう。偵察に出ていたジョジョがアレを見逃すはずが無いので、黒鯨は肺活量も規格外ということだ。

「ホヅェール! 大陸棚ギリギリで止まれ! 深いところまで行くな!」
『キュ!』

 まだ距離はあるが、大陸海溝からの移動速度を考えるとこの程度の間合いはあっという間に詰められる。

 水平線が歪み、海面が盛り上がる。先日のようにいきなりブリーチングが来たら終わりだ。

「叫べ! お前の存在を示せ!」
『――キュウゥウウウウゥウウウウウウウウウッ!』

 艇の底板がビリビリ震える。

 体躯の大きくなったホヅェールは地球の一般的なクジラほどの大きさになっていた。クジラの鳴き声は海中を伝播して遠方まで届く。黒鯨にも届いているはずだが、問題は向こうの反応だ。

『キュキュウゥウウウウゥウウウウウウウウウッ!』

 ホヅェールは鳴き声を上げ続けているが、海面下の影は速度を落とす事なく近づいてきていた。

 海面のその部分だけが上空から濃い影を落としたように切り取られ、暗い死を予感させる。

「止まれ――っ! 止まってくれぇ――――っ!」

 大陸棚が近づくに連れて、巨影が僅かに減速し始めた。

「ぐぅっ、うぐ、ぉおぇええぇええ――っ!」

 しかし、接近するほどに肌が泡立ち、臓物が掻き回されるような殺気を感じて思わず吐いた。

「ゲホっ! グェホッ!」
『キュ――――ッ! キュウッ!』
「ダ、ダメだ! ホヅェール! それ以上近づくな!」

 ホヅェールが前に出て鳴き声を張り上げる。

「下がれぇ! これはダメだ! 一旦引くぞ!」
『ギュウゥウウウウゥウウウウウ――――ッ!』

 黒鯨の殺気に当てられ興奮したホヅェールに声が届かない。図らずも親子が同じような状態になってしまった。

(いかん!)

 黒鯨の漆黒の頭が海面を破って出た。山のような鼻先が海を押し除けて突き進んでくる。

 ホヅェールとの距離は二百メートルも無い。このままではホヅェールにぶつかる。あの巨体に撥ねられては大怪我では済まない。


 ――後部座席のフィーアを突き落とした。


 無表情な顔を涙で濡らし、穂積を見ながら海に落ちて行く。

 推進魔堰を起動しフルスロットルに入れた。

 暴れる艇を左手に持ったハンドルと体重移動で懸命に制御し、ホヅェールの前に出る。

「――――!!」

 声にもならない叫びを目の前を塞ぐ漆黒に叩きつけた。

 左手はハンドル操作で手一杯。スロットルレバーの操作まで手が回らない。下手に舵を切れば操縦し切れずに横転してしまう。

 巨大な質量は止まらなかった。ここまで接近されたら黒鯨の意思がどうあれ、もう止まれない。

(ホヅェール!!)

 後方を見た。ホヅェールと目が合った気がする。

 と、その時、ホヅェールの白い身体が下から上がってきた何かに弾かれた。かなりの勢いで飛ばされて黒鯨の進路から外れる。

 水線下を泳ぐ黒い影がとんでもない速度で高速艇の真下を抜け、直後に穂積も高速艇ごと跳ね飛ばされた。

 視界に見慣れた表皮が通り過ぎる。

「アズラぁあぁああああ――――っ!!」

『ジシャアァアアアァ――――――――ッ!!』

 勢いに乗ったアズラはそのまま黒鯨の鼻先に突貫し、壮絶な体当たりをかました。

『ドゴォオオォオンッ!』

 血飛沫の入り混じった海水が舞う。

 巨大生物同士のぶつかった衝撃波を至近距離で喰らい、穂積の意識は呆気なく刈り取られた。

 穂積を乗せた高速艇はバラバラに壊れながら海面を水切り石のように跳ねていき、シートベルトに縛られた穂積を連れて海中に沈んでいった。

 穂積とホヅェールによる黒鯨との対話は失敗に終わった。

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