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第三章
第一六三話 ハーレムの王、かくやあらん
しおりを挟むホヅェールには安全な場所に退避しておくように言って、ビクトリアの下へと走る。
何をどう報告すべきか纏まっていないが、危急の事態が進行していることは間違いないと、ホヅェールの様子から強く感じられた。
「ホヅミさま……ホヅェールはなんて……?」
「……すごいのが来る、らしい。クリス。念のため、屋外配置の全員を食堂区画に集めてくれ。船長命令だって言っていい」
「分かりました……!」
穂積は居住区の階段を駆け上がり、屋上へ急ぐ。
これまでに遭遇したどんな脅威よりも、恐ろしい何かが近づいている。根拠は無いが、漠然とした不安がどんどん大きく膨れ上がっていた。
「ビクトリア! すごいのが来るらしい!」
「――ホヅミ。落ち着け」
鬼気迫る穂積の空気にただならぬものを感じたビクトリアは、努めて冷静に対応し、静かに説明を促した。
彼女の覇気に後押しされ、一つ、深呼吸をして、気持ちを落ち着ける。
ホヅェールから感じた断片的だが真摯な訴え。恐怖に駆られた心。それらを可能な限り、客観的に報告した。
「強大な何かがこの海域に接近中……か」
「ああ、少なくとも、アズラでも止められない何かだ」
アズラはそいつの進路を邪魔して大陸棚に追い込んだらしく、時間稼ぎには成功したものの止めることは出来なかった。
「むぅ……。ということはやはり……」
「多分な。同じ大型海獣だろう」
ジョジョとセーラは聞こえていないかのように、後方の第一艦隊の動きに注視している。
ずっと同じ陣形で追ってくるだけなのだから、熱心に見詰める理由は無いはずだが、
(あ。これ艦隊は見てないわ。どっか遠くを見てるだけだ)
屋上に並んで黄昏る二人には哀愁が漂っていた。
「とりあえず、大陸棚からは離れるか。漁民にまで累が及ぶかもしれん」
「そうだな。漁に出られなくなるとオプシーも大変だろう」
ビクトリアは追ってくる艦隊を見やり、悪そうに笑うと、
「第一艦隊も手ぶらでは帰れまい。花を持たせてやるとするか。カカっ!」
「あー、なるほど。そうだな。最精鋭だもんな。きっと楽勝だろう」
「さぁて、どんな海獣が出るか……楽しみだなぁ。次男坊殿の健闘を祈ろう」
「一応、屋外配置のクルーは食堂に集めてもらってる。あとは?」
「少し距離を詰めさせておいて、海獣が出たら、反転して艦隊の中に逃げ込む」
「逃げ込む?」
「カカっ! まぁ、見てろ……見事に擦り付けてやるから」
第一艦隊は相も変わらず綺麗に整った陣形を維持して、当たりもしない砲撃をしてくるだけだった。
ビクトリア号を的にして艦隊戦の演習でもしているのだろうか。
彼我の距離は徐々に小さくなっているので、その気になればいつでも拿捕出来る、と考えていても不思議ではない。
こちらとしては全く不毛な演習に付き合わされること、さらに一時間――、遂にそいつが姿を現した。
「――っ!」
「来たか!?」
右舷方向、西の海が歪んだ。
水平線が湾曲したかと錯覚するほどの巨大なうねりを伴って、黒い鼻先が海面を割って出た。
『グゥォオォオオオォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!』
海が鳴いている。
そいつの鳴き声が伝播し、まるで大海原が怒りに震えているかのようだ。
凪が時化に変わる。
快晴が曇天に変わる。
昼が夜に変わる。
そいつの出現により、すべてが黒く塗り潰された。
(――ダメだ)
本能的に直感した。
生物としての格が違う。
(討伐? ははっ……、冗談じゃない)
存在感が大きすぎて、畏敬の念すら覚える。
同種の姿を見たことがあるため、辛うじてそれが何であるかは分かった。
黒鯨――、漆黒のクジラだ。
その威容を表すには、大型海獣という言葉ですら生温い。
言うなれば、超弩級海獣、とでも呼ぶべきだろう。
(――逃げなければ)
それは、その瞬間に全員が抱いた、唯一の結論だった。
ビクトリア号は反転百八十度。
回頭が終わるのも待たずに即座に増速し、第一艦隊を目掛けて突っ込む。
発令など無い。オーダーも無い。声に出している暇など無い。
海面から上昇を続ける巨体は、全体の三分の一も見えていないだろう。
それでも、海上に現れている部分だけで、先の航海で狩った雌クジラよりも大きい。
おそらく、VLCCを縦に三隻並べても、まだ足りないのではないか。
全長は千メートルを優に超えている。
(アズラが大陸棚に誘い込んだ理由が分かった。アレには浅すぎる。無事だといいが……)
ビクトリア号が正面から接近して来ても、第一艦隊から反応は無い。
平時は外海に出ることもない彼らは、海獣に遭遇したことは無いはず。アレが何なのかすら判断出来ないのだろう。
彼らにとっての初遭遇が、あの超弩級海獣であったことには同情を禁じ得ない。
ビクトリア号は第一艦隊の陣形のど真ん中に割って入った。
船橋に駆け下りたビクトリアが通信魔堰にがなり立てる。
「こちらビクトリア号! 帝国海軍第一艦隊、応答せよ!」
『…………』
「近衛艦隊! こちらビクトリア号! 応答せよ!」
『……こ、こちら……神聖ムーア帝国海軍所属、第一艦隊司令、ドゥーム・イーシュタルだ』
「久しいなドゥーム殿。ご覧の通り、大型海獣が出た。討伐の誉れは貴殿にお譲りしよう」
『と、討伐ぅ? 我らの任務は貴様の船の拿捕だ。討伐などと、わけの分からんことを!』
「大型海獣とは天災だ。人の都合など関係がない。覚悟を決められよ」
『話を逸らすな! 我ら近衛艦隊は陛下の勅令を帯びてここにいるのだ! 貴様は大人しく捕まればよい!』
「ならば実力を持って成し遂げればいい。アレはクジラだ。つい最近見たばかりなので間違いない。第四艦隊が常日頃から相手にしているものだ。まさか、帝国海軍の最精鋭たる第一艦隊が、怖気づているのか?」
『馬鹿にしているのか!? 我ら近衛がノーマン如きに劣るものか!』
「そうでしょうな。さぁ、そろそろ来ますぞ? さっさと狩って、本船を拿捕でも撃沈でも、好きに為さればよろしい」
『よかろう! その言葉、覚えておけ! クジラの次は貴様だ! ビクトリア・アジュメイル!』
「いや勇ましいことで。首尾よく狩れたら、オプシーに持っていけば、いい金になりますぞ?」
『アルローの田舎者と一緒にするな! 貴様は隷属魔堰でも着けて、弟の情婦でもしていればよかったのだ!』
「――カカカカっ! イーシュタルの血筋は、いろいろと小さすぎて物足りませんな! 見たいとも思わんが!」
『き、貴様ぁ――――っ!!』
「いい事を教えてあげましょう。クジラの睾丸は生が一番らしいですぞ? 粗末なモノでも少しはマシになるのでは?」
『――いずれ、首輪とリードで犬のように引きずり回してやる! 覚悟しておけぃ!』
「あー、もし生き残れたらで構いません。弟君にお伝えください。婚約は破棄する故よしなにと。では、ご武運を」
十分に時間稼ぎができたビクトリアは通信を切る。その頃には、本船は第一艦隊の最後尾を抜け出していた。
通信を入れた目的は、艦隊司令を会話で釘付けにし、僚艦への指示を遅らせること、ただそれだけだった。
「――一杯っ!!」
「いっぱぁあ――い!!」
進路が開けた瞬間に一杯を引いた。フルチャージに近い三十日パックの魔力を全放出する勢いで、推進魔堰が爆音を上げる。
「舵、そのまま――――っ!」
「――――っ!!」
強烈な加速に船体がミシミシと悲鳴を上げる。航海士は舵輪にしがみつき、舵を中央に保持するだけで精一杯だ。
ビクトリア号が艦隊を突破するまでに掛かった数分間――、恐るべきことだが、これだけの時間、黒鯨は上昇と滞空を続けていた。
巨体が艦隊前衛の目前に落下する。いきなり、超弩級のブリーチングをかましてきたのだ。
『ドカァアアアアアアアアア――――――――ンッ!!!』
天が落ちてくる――海上から見上げる者にとっては、そうとしか思えなかっただろう。
それはもはや爆発だった。単純な大質量の落下で生じた衝撃波により、先鋒の駆逐艦三隻が木っ端微塵になり、両翼の四隻が横転した。
その後には、艦隊を丸ごと飲み込まんばかりの大津波が襲い掛かる。
戦艦、巡洋艦など、大型の艦艇は何とか耐えることが出来たが、それ以外の小型艦艇は、ほとんどが大波を乗り切れずに転覆した。
大自然の猛威の前に、魔堰船と木造船の違いなど無い。等しく無力な、波間に浮かぶ木の葉に過ぎない。
この時点で第一艦隊は艦隊の体を成していなかった。
艦隊司令は適切な指揮が出来なかった。そもそも、この状況に適した艦隊運用など知らなかった。
荒れ狂う海に沈んでいく僚艦。海面下に潜っていく漆黒の巨体。
ドゥーム・イーシュタルが選ぶべきは『撤退』だった。
それも通常の撤退戦ではなく、各艦それぞれに、三々五々に、即座に逃げることを命じるべきだったのだ。
ビクトリアの超特大火球を見た第五艦隊の艦長たちのように、圧倒的な存在を前にした人間として、至極真っ当な判断をすればよかった。
『艦隊各艦! 直ちに旗艦座標に集結せよ! 繰り返す! 直ちに集結! 密集陣形を組め!』
しかし、彼は陣形を整えることを選んだ。人間相手の艦隊戦であれば、それも上策と言える。残存する僚艦を一か所に集め、再編成し、陣形を組み直し、戦力を集中することで、打開できる局面もあるだろう。
だが、相手は大型海獣。根本的に間違っているのだが、彼がそれを知る機会は永久に訪れない。
帝国海軍が誇る最精鋭『第一艦隊』――、全艦艇を魔堰船で揃えた世界一の艦隊は、大型海獣クジラ――、そのトティアス最大の個体によって蹂躙された。
錯乱状態の砲手によって砲魔堰が連射され、至近距離にある黒い巨体に全弾直撃したが、強靭な皮膚には傷一つ、焦げ目一つも付けることは出来なかった。
艦隊の旗艦、全長二〇〇メートルの大型戦艦の船殻を覆っていた分厚い装甲板は、上顎一五対、下顎二五対の円錐形の巨大な歯によって紙のように貫通された。
旗艦は真っ先に轟沈して海の藻屑となり、その他の艦艇も尻尾に叩かれて潰れ、巨体に弾かれて拉げ、次々と暗い海底へと沈んでいった。
第一艦隊で生き残ったのは、二隻の巡洋艦と三隻の軽巡洋艦、最初の大津波で転覆した各艦から脱出した計百名弱の人員。
旗艦が沈み指揮能力を喪失した後、上空から強引に指揮を執った第四皇子の命令に従い、離脱した艦のみが難を逃れた形だ。
この日、帝国海軍第一艦隊、通称『近衛艦隊』は壊滅した。
**********
「はぁああ~~っ! 何とか巻いたか?」
「危なかったわさ! あんな化け物が居るとは!」
ビクトリア号は大津波の直前に一杯を引いたことにより上手く波に乗って、大陸棚の奥深くまで戻ることに成功していた。
出来るだけ水深の浅い海域を選んでシーアンカーを落として仮泊し、乗組員総出で損害確認を行っている。
「ビクトリア。アレはマッコウクジラだ。たぶん雄だと思う」
「あれだけデカいからな。まず間違いない。キンタマはキツそうだが」
「そう言う事じゃない。聞いたことがある。マッコウクジラの雄は、ハーレムを創るんだ」
ハーレムの雄は、雌や子供がシャチや捕鯨船などに襲われた場合、救出に動くことがある。また、ハーレムに属する群れを守るために、捕鯨船を攻撃して沈没させた実例も存在する。
「おい、ホヅミ……それって」
「アレはホヅェールの親父かもしれん。そして、ハーレムメンバーを狩ったのは俺たちだ」
「まさか……仇討ちか!?」
「その可能性もある。最初のブリーチングは明らかに本船を巻き込む軌道だった」
第一艦隊どころではない。途轍もなく厄介な相手に目を付けられたかもしれない。
不幸中の幸いは、巨大過ぎて浅瀬には入って来られないことだが、
「何処にも行けんじゃないか!」
「……一生ここで魚採って暮らそうか?」
「それは駄目だ!」
「……冗談だよ。でも、どうする?」
「…………はぁ」
ビクトリア号は外洋に出ることが出来なくなった。
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