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第一章

第六十話 鎮魂

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 長い間、泣き続けたビクトリアはその場に座り込んでしまった。その顔は平穏そのものだが、瞳の焦点は合わず、力の無い安穏としたのっぺらぼう。

「ビクトリア……」
「リア嬢ちゃん」
「船長……」
「船長っ!」

 みんなが声を掛けるが反応が無い。まるで抜け殻のようだ。

(俺はどうすればいいんだ。こんなになってしまった)

 どんな言葉がビクトリアをここまで壊せるのか。

「ジョジョさん。何があったか、話してもらえますか」

 丁寧な疑問形だが、絶対の強制を意図した言葉。

 ジョジョはその命令に目を細めて微笑む。鷹揚に頷いて、事実を語り始めた。その声音にいつもの荒々しさは無く、静かだ。

「リア嬢ちゃん、船長がアルロー諸島連合首長の娘で、次期首長に内定していることは知ってるよな?」
「はい。アルローの姫君なんでしょう?」
「ああ。アルローの傾奇姫として有名だ。だが、元からこうだったわけじゃない。本来のリア嬢ちゃんはまごう事なき姫だ。可憐で、優雅で、心優しい乙女だな」
「…………。今のビクトリアからは想像も付きません」
「今の姿も、姫として相応しい。その苛烈な性格と振る舞いは尊敬と畏怖の対象だ。アルローのために身命を賭して働いている。民からの指示も厚い」
「それはわかります。ビクトリアはただのお姫様じゃない」
「だが、すべての民が好意的なわけでもない」

 アルロー諸島連合――、ムーア大陸から見て東の果てに位置する一〇八からなる諸島群の連合国家。

 およそ二百年前に近傍海域における戦乱が終結し、一五五の島のうち一四〇からなる連合体が組織された。後に三二の島が統廃合を繰り返し、現在の体制に落ち着いた。

 連合結成当時、連合に不参加の十五の島からなる勢力は、いくつかの別組織に分かれて今なお対立し、散発的な小競り合いや海賊行為を繰り返している。

「では、今回の海賊はその対立勢力の手の者で、ビクトリア号をまとにしたということですか?」
「いや、違うな。奴らの活動範囲はアルローの近海域に限られている。大陸まで出てくることはまずない」
「それでは……? アルローの出身者だと言ってましたか?」
「正確には違うな。奴らは『デッチ島』の出身らしい」

 マリーの息を吞む声が聞こえた。メリッサは知らないようだ。

「それは、アルローの島なんですか?」
「今は存在しない島だ。少なくとも、海図の上からは消えた」

 地図からは消えているが、実際には存在している島らしい。そこの出身者が海賊に身をやつして襲ってきたということだ。

「国として、公には存在を隠蔽したと?」
「かつて廃合された島だ。犯罪者の流刑地。島全体が貧民街となったスラム島。その最底辺は、最下層の下水道――この世の地獄だ」
「――っ。スラム……。島全体が……」
「二代前の首長。ビクトリアの曽祖父に当たる人物が島の存在の抹消を強行した。元からアルロー諸島でも特に貧しい島だったが、それ以降はどんどん酷くなった」
「領有していても貧し過ぎて税を取ることもできない。存在自体、都合が悪かった?」
「そういうことだろうな。治安は最悪。周辺海域にも海獣が多数出没するから逃げられない。だから流刑地に選ばれた。同じ理由で漁も満足にできない。島の状況は悪化の一途をたどって、遂には見捨てられた」

 人が集まれば貧富の差が生まれるのは当然だが、海に隔てられた島同士で徒党を組んだ連合国家なら地域格差が生まれるのは必然。

 貧しい島を支えるには物流の確保が不可欠だが、海獣の脅威は最近知ったばかりだ。その頻出海域に定期航路を設けるのは容易なことではないだろう。

「今は? どうなってるんです?」
「ビクトリアの父の代になってから方針が変わった。なんとか立て直そうと躍起になっている。多少はマシになったが、地下に根付いた犯罪組織の抵抗もあるし、何より島民感情が最悪だ」
「…………」

 アルローが身の内に抱えた膿。そこから噴き出した憎悪が、海賊となって襲い掛かってきた。

「リア嬢ちゃんが、たしか八歳か九歳。まだ『お姫様』だった頃だ。一度、首長のデッチ島視察に同伴したことがあった。ワシは別海域の小競り合いで付いていてやれんかった。その時に、島内の犯罪集団に攫われたのさ」
「――っ」
「すぐに見つかって、その集団は壊滅させられたがな。そこでリア嬢ちゃんが何を見たのかは、ワシも知らん。変わったのはそれからだ」

 それ以降、ビクトリアは何に対しても異常に貪欲になった。やがて口調も今のように変わっていったと言う。

 その変化には誰もが驚いたが、基本的には好意的に受け入れられた。他の候補を抑えて時期首長にも内定したのがその証拠だ。

「…………話していただいて、ありがとうございました」
「じょははっ! なぁに。構わんぞぉ。なんでも聞けぇ」

 今のビクトリアを作ったモノ。その根幹にある何かがビクトリアを傷付け、壊した。おそらく海賊の襲撃は切っ掛けに過ぎないのだ。

(相当に根深い傷なんだろう。今の俺に出来ることは…………無い)

「ふぅ……とにかくビクトリアをこのまま曳船に居させるわけにはいきません」
「…………そうだなぁ。ワシもまさか、こうなっちまうとは思わなんだぁ」
「早く魔力カートリッジを回収して、ビクトリア号に帰りましょう。日のある内に推進魔堰を起動できるまでにしておいた方がいい」
「その通りだが…………」
「予備魔力カートリッジはどこです?」

 ジョジョは推進室右奥の扉を指差して、

「そこがカートリッジの保管庫だが…………」

 締め切られた扉前の床には、――血痕。

「――っ!」

 ゆっくりと保管庫に向かっていく。

「ホヅミ。先に嬢ちゃんを連れて船に戻れ。ワシが回収して持ってく」

 扉の前に立つ。足元には大量の血だまり。強烈な血の臭いが鼻につく。これに気付かないとはどうかしていた。

「ホヅミ。止めとけぇ。きずになる」

 取っ手に手を掛ける。

「ホヅミ! 開けんじゃ――――――――――――」


 ――扉を開けた。


 噴き出す死臭。溢れ出す血。

 眼前に死体の山。

 入口は完全に死体で埋まっている。

 隙間なく。

 それは人間の缶詰。

 自分は缶詰の蓋を開けたのだろうか。

 目が合う。

 死んだ魚の目。目。目、目、目、目、目、目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目。

 彼らが誰かは知らない。知らない人たち。人とは思えない。それほどに酷い扱いだ。

 その場で蹲る。涙が頬を伝う。

 吐いた。泣きながら吐いた。嗚咽が止まらない。胃液まで吐き出しても、吐き気が収まらない。

(すみません……)

 しばらく吐き続け、ようやく収まった。無理矢理に収めた。申し訳なくて。

(……………………………………………………)

 立ち上がり、手を合わせた。

 トティアスの宗教はよく知らない。みんなが女神教徒なのだろうか。彼らも全員そうなのか。わからない。女神教の祈りの作法も知らない。恥じ入りつつ、手を合わせることしか出来ない。

(今、出します)

 合掌を解くと前に歩み出て、手前の遺体の肩に手を掛けた。

 冷たい。命の消えた肉体は冷え固まっていた。

 力の限り引っ張る。引っ張る。

 ずるりと一人が抜け出てくる。合わせて、雪崩のように扉を埋めていた遺体が崩れてきた。

(うぐぅ…………)

 雪崩に巻き込まれて遺体の下に埋まる。全身に死の冷やかさが染みてくる。

 力を振り絞って這い出した。

 一人を引っ張って、扉から離れた場所へ連れていき、推進室の床に仰向けに寝かせた。

 腕を動かし、胸の前に組ませようとしたが、硬直していてダメだった。目を閉じさせようと瞼を抑えたが、ダメだった。

 仕方がないので、彼の胸ポケットに入っていたハンカチーフで顔を覆った。


**********


 オレは曳船の視察に来て、愚かにも罠に掛かり、痛恨の記憶に砕かれた。

 必死に飲み込んできた。

 矜持も。思いも。願いも。王道も。目的も。立場も。脆く儚いものだった。思い知らされた。自分自身の狂気に、そう諭されてしまった。

 オレなど、どこにも存在しない。

 すべてを飲み込む? 人為の器? バカバカしい。もう、どうでもいい。

 ああ、ホヅミ。ホヅミが来てくれた。抱き締めてくれたんだ。もう大丈夫だと言ってくれた。ホヅミに任せておけばいい。きっと全部上手くやってくれる。もう、オレは、要らない。

 そういえば、わたくしのヤツはどこにいったんだ?

 もう出てきていいんだ。ホヅミに愛されるだけなら、わたくしの方がいい。

(ここはどこだ? これはなんだ?)

 広く、深い、途方もなく。

 身体が軽い。まるで海の中に浮かんで、漂っているようだ。

(大きいな。広すぎる。深すぎる。果てしない。これに比べて……なんと小さいこと)

 オレも、わたくしも、小さい。何者でもない。ただの小さな人間だ。

 これに包まれていると心地いい。溶けてしまいそうだ。

 怖くはない。温かくって気持ちいい。

(よく分からん。ホヅミめ。どこにいったんだ?)

(しかし、疲れたなぁ。ああ……オレは疲れてるんだ)

(疲れたときは寝るに限る……――――)

 意味不明の謎空間。ビクトリアも寝落ちした。


**********


 なんだぁ――?

(覇気じゃねえなぁ。もちろん殺気なんぞじゃねぇ)

 曳船の推進室。何も変わっていない。感じ方としては覇気を浴びた時と似ているが、これには圧迫感をまったく感じない。どこまでも自由で穏やかな感じだ。覇気ではあり得ない。

 なんじゃこりゃ――。

(でか過ぎんだろぉ。こりゃまるで海だぁ)

 途轍もない。終わりが見えない。その中に、砂粒の如き己が、ポツンと一人。
 発狂しておかしくないほどの威容だ。海獣の腹に呑まれた時ですら、これほどではなかった。これの中にあって、落ち着いている自分が信じられない。

 わからん――。

(何もわからん。曖昧過ぎだぁ。だが、悪いもんじゃなさそうだ……)

 もし、これが殺気や覇気のたぐいなら、自分は間違いなく死んでいる。十賢者の全員をまとめても、これほどではあるまい。

 静かで、穏やかな、凪いだ海のようなこれを、船乗りとしての本能が識る。これは敵意とか、殺意とか、願望とか、欲求とか、そういう諸々が通用しないもの。ただ、そこに在るものだ。

(気にしても意味ねぇや。なぎなら味方だぁ)

 ふと、思い出したかのように、

(ホヅミは何してんだぁ?)

 ずっと目に入っていたはずだが、

(泣きながら死体を並べてやがる…………手伝おう)

 ジョジョは穂積に向かってゆるりと動き出した。


**********


「ホヅミ。あんま無理すんなぁ。ワシが運び出して連れてくる」

「ジョジョさん。すみません……」

 ジョジョが動き出し、マリーとメリッサも我に帰って、弾かれたように駆け寄る。

「ホヅミさん……」

 マリーがガタガタ震える背中をさする。

 日本で普通に生活していれば、このような現場に行き合う事態などほぼ無い。

 脳裏にこびりつく死の匂いに促され、穂積は必死だった。

「ニイタカ殿。自分も弔います」

 幼い頃から軍人に囲まれて育ったメリッサの死生観は独特なもの。彼らが海賊であれば、何の感慨も無いだろう。だが、明らかに曳船の乗組員。ただの一般人だ。

「覚悟の無い者たちを……。なんとむごいことを……」
「二人とも。すみません……」

 四人で協力して保管庫から遺体を引き出し、床に並べて整えていく。推進室に死臭が漂う。一歩間違えていたら、自分たちも彼らと同じになっていた。

 三五人の遺体が、推進室の床いっぱいに並んだ。

 全員が揃いのハンカチーフを、思い思いの場所に身につけていた。雇い入れの時に支給されたものだろう。それは、彼らが仲間である証だ。

 今はそれぞれ、同じ場所を覆っている。

 四人で彼らの前に立ち、気をつけをして、右掌を左胸に当てる。ジョジョが教えてくれた、女神教の弔意を表す作法。黙祷を捧げ、冥福を祈る。

 広く深き鎮魂は生者の為に。

 穂積の心は護られた――。

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