60 / 463
第一章
第六十話 鎮魂
しおりを挟む
長い間、泣き続けたビクトリアはその場に座り込んでしまった。その顔は平穏そのものだが、瞳の焦点は合わず、力の無い安穏としたのっぺらぼう。
「ビクトリア……」
「リア嬢ちゃん」
「船長……」
「船長っ!」
みんなが声を掛けるが反応が無い。まるで抜け殻のようだ。
(俺はどうすればいいんだ。こんなになってしまった)
どんな言葉がビクトリアをここまで壊せるのか。
「ジョジョさん。何があったか、話してもらえますか」
丁寧な疑問形だが、絶対の強制を意図した言葉。
ジョジョはその命令に目を細めて微笑む。鷹揚に頷いて、事実を語り始めた。その声音にいつもの荒々しさは無く、静かだ。
「リア嬢ちゃん、船長がアルロー諸島連合首長の娘で、次期首長に内定していることは知ってるよな?」
「はい。アルローの姫君なんでしょう?」
「ああ。アルローの傾奇姫として有名だ。だが、元からこうだったわけじゃない。本来のリア嬢ちゃんは紛う事なき姫だ。可憐で、優雅で、心優しい乙女だな」
「…………。今のビクトリアからは想像も付きません」
「今の姿も、姫として相応しい。その苛烈な性格と振る舞いは尊敬と畏怖の対象だ。アルローのために身命を賭して働いている。民からの指示も厚い」
「それはわかります。ビクトリアはただのお姫様じゃない」
「だが、すべての民が好意的なわけでもない」
アルロー諸島連合――、ムーア大陸から見て東の果てに位置する一〇八からなる諸島群の連合国家。
およそ二百年前に近傍海域における戦乱が終結し、一五五の島のうち一四〇からなる連合体が組織された。後に三二の島が統廃合を繰り返し、現在の体制に落ち着いた。
連合結成当時、連合に不参加の十五の島からなる勢力は、いくつかの別組織に分かれて今なお対立し、散発的な小競り合いや海賊行為を繰り返している。
「では、今回の海賊はその対立勢力の手の者で、ビクトリア号を的にしたということですか?」
「いや、違うな。奴らの活動範囲はアルローの近海域に限られている。大陸まで出てくることはまずない」
「それでは……? アルローの出身者だと言ってましたか?」
「正確には違うな。奴らは『デッチ島』の出身らしい」
マリーの息を吞む声が聞こえた。メリッサは知らないようだ。
「それは、アルローの島なんですか?」
「今は存在しない島だ。少なくとも、海図の上からは消えた」
地図からは消えているが、実際には存在している島らしい。そこの出身者が海賊に身をやつして襲ってきたということだ。
「国として、公には存在を隠蔽したと?」
「かつて廃合された島だ。犯罪者の流刑地。島全体が貧民街となったスラム島。その最底辺は、最下層の下水道――この世の地獄だ」
「――っ。スラム……。島全体が……」
「二代前の首長。ビクトリアの曽祖父に当たる人物が島の存在の抹消を強行した。元からアルロー諸島でも特に貧しい島だったが、それ以降はどんどん酷くなった」
「領有していても貧し過ぎて税を取ることもできない。存在自体、都合が悪かった?」
「そういうことだろうな。治安は最悪。周辺海域にも海獣が多数出没するから逃げられない。だから流刑地に選ばれた。同じ理由で漁も満足にできない。島の状況は悪化の一途をたどって、遂には見捨てられた」
人が集まれば貧富の差が生まれるのは当然だが、海に隔てられた島同士で徒党を組んだ連合国家なら地域格差が生まれるのは必然。
貧しい島を支えるには物流の確保が不可欠だが、海獣の脅威は最近知ったばかりだ。その頻出海域に定期航路を設けるのは容易なことではないだろう。
「今は? どうなってるんです?」
「ビクトリアの父の代になってから方針が変わった。なんとか立て直そうと躍起になっている。多少はマシになったが、地下に根付いた犯罪組織の抵抗もあるし、何より島民感情が最悪だ」
「…………」
アルローが身の内に抱えた膿。そこから噴き出した憎悪が、海賊となって襲い掛かってきた。
「リア嬢ちゃんが、たしか八歳か九歳。まだ『お姫様』だった頃だ。一度、首長のデッチ島視察に同伴したことがあった。ワシは別海域の小競り合いで付いていてやれんかった。その時に、島内の犯罪集団に攫われたのさ」
「――っ」
「すぐに見つかって、その集団は壊滅させられたがな。そこでリア嬢ちゃんが何を見たのかは、ワシも知らん。変わったのはそれからだ」
それ以降、ビクトリアは何に対しても異常に貪欲になった。やがて口調も今のように変わっていったと言う。
その変化には誰もが驚いたが、基本的には好意的に受け入れられた。他の候補を抑えて時期首長にも内定したのがその証拠だ。
「…………話していただいて、ありがとうございました」
「じょははっ! なぁに。構わんぞぉ。なんでも聞けぇ」
今のビクトリアを作ったモノ。その根幹にある何かがビクトリアを傷付け、壊した。おそらく海賊の襲撃は切っ掛けに過ぎないのだ。
(相当に根深い傷なんだろう。今の俺に出来ることは…………無い)
「ふぅ……とにかくビクトリアをこのまま曳船に居させるわけにはいきません」
「…………そうだなぁ。ワシもまさか、こうなっちまうとは思わなんだぁ」
「早く魔力カートリッジを回収して、ビクトリア号に帰りましょう。日のある内に推進魔堰を起動できるまでにしておいた方がいい」
「その通りだが…………」
「予備魔力カートリッジはどこです?」
ジョジョは推進室右奥の扉を指差して、
「そこがカートリッジの保管庫だが…………」
締め切られた扉前の床には、――血痕。
「――っ!」
ゆっくりと保管庫に向かっていく。
「ホヅミ。先に嬢ちゃんを連れて船に戻れ。ワシが回収して持ってく」
扉の前に立つ。足元には大量の血だまり。強烈な血の臭いが鼻につく。これに気付かないとはどうかしていた。
「ホヅミ。止めとけぇ。瑕になる」
取っ手に手を掛ける。
「ホヅミ! 開けんじゃ――――――――――――」
――扉を開けた。
噴き出す死臭。溢れ出す血。
眼前に死体の山。
入口は完全に死体で埋まっている。
隙間なく。
それは人間の缶詰。
自分は缶詰の蓋を開けたのだろうか。
目が合う。
死んだ魚の目。目。目、目、目、目、目、目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目。
彼らが誰かは知らない。知らない人たち。人とは思えない。それほどに酷い扱いだ。
その場で蹲る。涙が頬を伝う。
吐いた。泣きながら吐いた。嗚咽が止まらない。胃液まで吐き出しても、吐き気が収まらない。
(すみません……)
暫く吐き続け、漸く収まった。無理矢理に収めた。申し訳なくて。
(……………………………………………………)
立ち上がり、手を合わせた。
トティアスの宗教はよく知らない。みんなが女神教徒なのだろうか。彼らも全員そうなのか。わからない。女神教の祈りの作法も知らない。恥じ入りつつ、手を合わせることしか出来ない。
(今、出します)
合掌を解くと前に歩み出て、手前の遺体の肩に手を掛けた。
冷たい。命の消えた肉体は冷え固まっていた。
力の限り引っ張る。引っ張る。
ずるりと一人が抜け出てくる。合わせて、雪崩のように扉を埋めていた遺体が崩れてきた。
(うぐぅ…………)
雪崩に巻き込まれて遺体の下に埋まる。全身に死の冷やかさが染みてくる。
力を振り絞って這い出した。
一人を引っ張って、扉から離れた場所へ連れていき、推進室の床に仰向けに寝かせた。
腕を動かし、胸の前に組ませようとしたが、硬直していてダメだった。目を閉じさせようと瞼を抑えたが、ダメだった。
仕方がないので、彼の胸ポケットに入っていたハンカチーフで顔を覆った。
**********
オレは曳船の視察に来て、愚かにも罠に掛かり、痛恨の記憶に砕かれた。
必死に飲み込んできた。
矜持も。思いも。願いも。王道も。目的も。立場も。脆く儚いものだった。思い知らされた。自分自身の狂気に、そう諭されてしまった。
オレなど、どこにも存在しない。
すべてを飲み込む? 人為の器? バカバカしい。もう、どうでもいい。
ああ、ホヅミ。ホヅミが来てくれた。抱き締めてくれたんだ。もう大丈夫だと言ってくれた。ホヅミに任せておけばいい。きっと全部上手くやってくれる。もう、オレは、要らない。
そういえば、わたくしのヤツはどこにいったんだ?
もう出てきていいんだ。ホヅミに愛されるだけなら、わたくしの方がいい。
(ここはどこだ? これはなんだ?)
広く、深い、途方もなく。
身体が軽い。まるで海の中に浮かんで、漂っているようだ。
(大きいな。広すぎる。深すぎる。果てしない。これに比べて……なんと小さいこと)
オレも、わたくしも、小さい。何者でもない。ただの小さな人間だ。
これに包まれていると心地いい。溶けてしまいそうだ。
怖くはない。温かくって気持ちいい。
(よく分からん。ホヅミめ。どこにいったんだ?)
(しかし、疲れたなぁ。ああ……オレは疲れてるんだ)
(疲れたときは寝るに限る……――――)
意味不明の謎空間。ビクトリアも寝落ちした。
**********
なんだぁ――?
(覇気じゃねえなぁ。もちろん殺気なんぞじゃねぇ)
曳船の推進室。何も変わっていない。感じ方としては覇気を浴びた時と似ているが、これには圧迫感をまったく感じない。どこまでも自由で穏やかな感じだ。覇気ではあり得ない。
なんじゃこりゃ――。
(でか過ぎんだろぉ。こりゃまるで海だぁ)
途轍もない。終わりが見えない。その中に、砂粒の如き己が、ポツンと一人。
発狂しておかしくないほどの威容だ。海獣の腹に呑まれた時ですら、これほどではなかった。これの中にあって、落ち着いている自分が信じられない。
わからん――。
(何もわからん。曖昧過ぎだぁ。だが、悪いもんじゃなさそうだ……)
もし、これが殺気や覇気の類なら、自分は間違いなく死んでいる。十賢者の全員をまとめても、これほどではあるまい。
静かで、穏やかな、凪いだ海のようなこれを、船乗りとしての本能が識る。これは敵意とか、殺意とか、願望とか、欲求とか、そういう諸々が通用しないもの。ただ、そこに在るものだ。
(気にしても意味ねぇや。凪なら味方だぁ)
ふと、思い出したかのように、
(ホヅミは何してんだぁ?)
ずっと目に入っていたはずだが、
(泣きながら死体を並べてやがる…………手伝おう)
ジョジョは穂積に向かってゆるりと動き出した。
**********
「ホヅミ。あんま無理すんなぁ。ワシが運び出して連れてくる」
「ジョジョさん。すみません……」
ジョジョが動き出し、マリーとメリッサも我に帰って、弾かれたように駆け寄る。
「ホヅミさん……」
マリーがガタガタ震える背中をさする。
日本で普通に生活していれば、このような現場に行き合う事態などほぼ無い。
脳裏にこびりつく死の匂いに促され、穂積は必死だった。
「ニイタカ殿。自分も弔います」
幼い頃から軍人に囲まれて育ったメリッサの死生観は独特なもの。彼らが海賊であれば、何の感慨も無いだろう。だが、明らかに曳船の乗組員。ただの一般人だ。
「覚悟の無い者たちを……。なんと惨いことを……」
「二人とも。すみません……」
四人で協力して保管庫から遺体を引き出し、床に並べて整えていく。推進室に死臭が漂う。一歩間違えていたら、自分たちも彼らと同じになっていた。
三五人の遺体が、推進室の床いっぱいに並んだ。
全員が揃いのハンカチーフを、思い思いの場所に身につけていた。雇い入れの時に支給されたものだろう。それは、彼らが仲間である証だ。
今はそれぞれ、同じ場所を覆っている。
四人で彼らの前に立ち、気をつけをして、右掌を左胸に当てる。ジョジョが教えてくれた、女神教の弔意を表す作法。黙祷を捧げ、冥福を祈る。
広く深き鎮魂は生者の為に。
穂積の心は護られた――。
「ビクトリア……」
「リア嬢ちゃん」
「船長……」
「船長っ!」
みんなが声を掛けるが反応が無い。まるで抜け殻のようだ。
(俺はどうすればいいんだ。こんなになってしまった)
どんな言葉がビクトリアをここまで壊せるのか。
「ジョジョさん。何があったか、話してもらえますか」
丁寧な疑問形だが、絶対の強制を意図した言葉。
ジョジョはその命令に目を細めて微笑む。鷹揚に頷いて、事実を語り始めた。その声音にいつもの荒々しさは無く、静かだ。
「リア嬢ちゃん、船長がアルロー諸島連合首長の娘で、次期首長に内定していることは知ってるよな?」
「はい。アルローの姫君なんでしょう?」
「ああ。アルローの傾奇姫として有名だ。だが、元からこうだったわけじゃない。本来のリア嬢ちゃんは紛う事なき姫だ。可憐で、優雅で、心優しい乙女だな」
「…………。今のビクトリアからは想像も付きません」
「今の姿も、姫として相応しい。その苛烈な性格と振る舞いは尊敬と畏怖の対象だ。アルローのために身命を賭して働いている。民からの指示も厚い」
「それはわかります。ビクトリアはただのお姫様じゃない」
「だが、すべての民が好意的なわけでもない」
アルロー諸島連合――、ムーア大陸から見て東の果てに位置する一〇八からなる諸島群の連合国家。
およそ二百年前に近傍海域における戦乱が終結し、一五五の島のうち一四〇からなる連合体が組織された。後に三二の島が統廃合を繰り返し、現在の体制に落ち着いた。
連合結成当時、連合に不参加の十五の島からなる勢力は、いくつかの別組織に分かれて今なお対立し、散発的な小競り合いや海賊行為を繰り返している。
「では、今回の海賊はその対立勢力の手の者で、ビクトリア号を的にしたということですか?」
「いや、違うな。奴らの活動範囲はアルローの近海域に限られている。大陸まで出てくることはまずない」
「それでは……? アルローの出身者だと言ってましたか?」
「正確には違うな。奴らは『デッチ島』の出身らしい」
マリーの息を吞む声が聞こえた。メリッサは知らないようだ。
「それは、アルローの島なんですか?」
「今は存在しない島だ。少なくとも、海図の上からは消えた」
地図からは消えているが、実際には存在している島らしい。そこの出身者が海賊に身をやつして襲ってきたということだ。
「国として、公には存在を隠蔽したと?」
「かつて廃合された島だ。犯罪者の流刑地。島全体が貧民街となったスラム島。その最底辺は、最下層の下水道――この世の地獄だ」
「――っ。スラム……。島全体が……」
「二代前の首長。ビクトリアの曽祖父に当たる人物が島の存在の抹消を強行した。元からアルロー諸島でも特に貧しい島だったが、それ以降はどんどん酷くなった」
「領有していても貧し過ぎて税を取ることもできない。存在自体、都合が悪かった?」
「そういうことだろうな。治安は最悪。周辺海域にも海獣が多数出没するから逃げられない。だから流刑地に選ばれた。同じ理由で漁も満足にできない。島の状況は悪化の一途をたどって、遂には見捨てられた」
人が集まれば貧富の差が生まれるのは当然だが、海に隔てられた島同士で徒党を組んだ連合国家なら地域格差が生まれるのは必然。
貧しい島を支えるには物流の確保が不可欠だが、海獣の脅威は最近知ったばかりだ。その頻出海域に定期航路を設けるのは容易なことではないだろう。
「今は? どうなってるんです?」
「ビクトリアの父の代になってから方針が変わった。なんとか立て直そうと躍起になっている。多少はマシになったが、地下に根付いた犯罪組織の抵抗もあるし、何より島民感情が最悪だ」
「…………」
アルローが身の内に抱えた膿。そこから噴き出した憎悪が、海賊となって襲い掛かってきた。
「リア嬢ちゃんが、たしか八歳か九歳。まだ『お姫様』だった頃だ。一度、首長のデッチ島視察に同伴したことがあった。ワシは別海域の小競り合いで付いていてやれんかった。その時に、島内の犯罪集団に攫われたのさ」
「――っ」
「すぐに見つかって、その集団は壊滅させられたがな。そこでリア嬢ちゃんが何を見たのかは、ワシも知らん。変わったのはそれからだ」
それ以降、ビクトリアは何に対しても異常に貪欲になった。やがて口調も今のように変わっていったと言う。
その変化には誰もが驚いたが、基本的には好意的に受け入れられた。他の候補を抑えて時期首長にも内定したのがその証拠だ。
「…………話していただいて、ありがとうございました」
「じょははっ! なぁに。構わんぞぉ。なんでも聞けぇ」
今のビクトリアを作ったモノ。その根幹にある何かがビクトリアを傷付け、壊した。おそらく海賊の襲撃は切っ掛けに過ぎないのだ。
(相当に根深い傷なんだろう。今の俺に出来ることは…………無い)
「ふぅ……とにかくビクトリアをこのまま曳船に居させるわけにはいきません」
「…………そうだなぁ。ワシもまさか、こうなっちまうとは思わなんだぁ」
「早く魔力カートリッジを回収して、ビクトリア号に帰りましょう。日のある内に推進魔堰を起動できるまでにしておいた方がいい」
「その通りだが…………」
「予備魔力カートリッジはどこです?」
ジョジョは推進室右奥の扉を指差して、
「そこがカートリッジの保管庫だが…………」
締め切られた扉前の床には、――血痕。
「――っ!」
ゆっくりと保管庫に向かっていく。
「ホヅミ。先に嬢ちゃんを連れて船に戻れ。ワシが回収して持ってく」
扉の前に立つ。足元には大量の血だまり。強烈な血の臭いが鼻につく。これに気付かないとはどうかしていた。
「ホヅミ。止めとけぇ。瑕になる」
取っ手に手を掛ける。
「ホヅミ! 開けんじゃ――――――――――――」
――扉を開けた。
噴き出す死臭。溢れ出す血。
眼前に死体の山。
入口は完全に死体で埋まっている。
隙間なく。
それは人間の缶詰。
自分は缶詰の蓋を開けたのだろうか。
目が合う。
死んだ魚の目。目。目、目、目、目、目、目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目。
彼らが誰かは知らない。知らない人たち。人とは思えない。それほどに酷い扱いだ。
その場で蹲る。涙が頬を伝う。
吐いた。泣きながら吐いた。嗚咽が止まらない。胃液まで吐き出しても、吐き気が収まらない。
(すみません……)
暫く吐き続け、漸く収まった。無理矢理に収めた。申し訳なくて。
(……………………………………………………)
立ち上がり、手を合わせた。
トティアスの宗教はよく知らない。みんなが女神教徒なのだろうか。彼らも全員そうなのか。わからない。女神教の祈りの作法も知らない。恥じ入りつつ、手を合わせることしか出来ない。
(今、出します)
合掌を解くと前に歩み出て、手前の遺体の肩に手を掛けた。
冷たい。命の消えた肉体は冷え固まっていた。
力の限り引っ張る。引っ張る。
ずるりと一人が抜け出てくる。合わせて、雪崩のように扉を埋めていた遺体が崩れてきた。
(うぐぅ…………)
雪崩に巻き込まれて遺体の下に埋まる。全身に死の冷やかさが染みてくる。
力を振り絞って這い出した。
一人を引っ張って、扉から離れた場所へ連れていき、推進室の床に仰向けに寝かせた。
腕を動かし、胸の前に組ませようとしたが、硬直していてダメだった。目を閉じさせようと瞼を抑えたが、ダメだった。
仕方がないので、彼の胸ポケットに入っていたハンカチーフで顔を覆った。
**********
オレは曳船の視察に来て、愚かにも罠に掛かり、痛恨の記憶に砕かれた。
必死に飲み込んできた。
矜持も。思いも。願いも。王道も。目的も。立場も。脆く儚いものだった。思い知らされた。自分自身の狂気に、そう諭されてしまった。
オレなど、どこにも存在しない。
すべてを飲み込む? 人為の器? バカバカしい。もう、どうでもいい。
ああ、ホヅミ。ホヅミが来てくれた。抱き締めてくれたんだ。もう大丈夫だと言ってくれた。ホヅミに任せておけばいい。きっと全部上手くやってくれる。もう、オレは、要らない。
そういえば、わたくしのヤツはどこにいったんだ?
もう出てきていいんだ。ホヅミに愛されるだけなら、わたくしの方がいい。
(ここはどこだ? これはなんだ?)
広く、深い、途方もなく。
身体が軽い。まるで海の中に浮かんで、漂っているようだ。
(大きいな。広すぎる。深すぎる。果てしない。これに比べて……なんと小さいこと)
オレも、わたくしも、小さい。何者でもない。ただの小さな人間だ。
これに包まれていると心地いい。溶けてしまいそうだ。
怖くはない。温かくって気持ちいい。
(よく分からん。ホヅミめ。どこにいったんだ?)
(しかし、疲れたなぁ。ああ……オレは疲れてるんだ)
(疲れたときは寝るに限る……――――)
意味不明の謎空間。ビクトリアも寝落ちした。
**********
なんだぁ――?
(覇気じゃねえなぁ。もちろん殺気なんぞじゃねぇ)
曳船の推進室。何も変わっていない。感じ方としては覇気を浴びた時と似ているが、これには圧迫感をまったく感じない。どこまでも自由で穏やかな感じだ。覇気ではあり得ない。
なんじゃこりゃ――。
(でか過ぎんだろぉ。こりゃまるで海だぁ)
途轍もない。終わりが見えない。その中に、砂粒の如き己が、ポツンと一人。
発狂しておかしくないほどの威容だ。海獣の腹に呑まれた時ですら、これほどではなかった。これの中にあって、落ち着いている自分が信じられない。
わからん――。
(何もわからん。曖昧過ぎだぁ。だが、悪いもんじゃなさそうだ……)
もし、これが殺気や覇気の類なら、自分は間違いなく死んでいる。十賢者の全員をまとめても、これほどではあるまい。
静かで、穏やかな、凪いだ海のようなこれを、船乗りとしての本能が識る。これは敵意とか、殺意とか、願望とか、欲求とか、そういう諸々が通用しないもの。ただ、そこに在るものだ。
(気にしても意味ねぇや。凪なら味方だぁ)
ふと、思い出したかのように、
(ホヅミは何してんだぁ?)
ずっと目に入っていたはずだが、
(泣きながら死体を並べてやがる…………手伝おう)
ジョジョは穂積に向かってゆるりと動き出した。
**********
「ホヅミ。あんま無理すんなぁ。ワシが運び出して連れてくる」
「ジョジョさん。すみません……」
ジョジョが動き出し、マリーとメリッサも我に帰って、弾かれたように駆け寄る。
「ホヅミさん……」
マリーがガタガタ震える背中をさする。
日本で普通に生活していれば、このような現場に行き合う事態などほぼ無い。
脳裏にこびりつく死の匂いに促され、穂積は必死だった。
「ニイタカ殿。自分も弔います」
幼い頃から軍人に囲まれて育ったメリッサの死生観は独特なもの。彼らが海賊であれば、何の感慨も無いだろう。だが、明らかに曳船の乗組員。ただの一般人だ。
「覚悟の無い者たちを……。なんと惨いことを……」
「二人とも。すみません……」
四人で協力して保管庫から遺体を引き出し、床に並べて整えていく。推進室に死臭が漂う。一歩間違えていたら、自分たちも彼らと同じになっていた。
三五人の遺体が、推進室の床いっぱいに並んだ。
全員が揃いのハンカチーフを、思い思いの場所に身につけていた。雇い入れの時に支給されたものだろう。それは、彼らが仲間である証だ。
今はそれぞれ、同じ場所を覆っている。
四人で彼らの前に立ち、気をつけをして、右掌を左胸に当てる。ジョジョが教えてくれた、女神教の弔意を表す作法。黙祷を捧げ、冥福を祈る。
広く深き鎮魂は生者の為に。
穂積の心は護られた――。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
男女比がおかしい世界の貴族に転生してしまった件
美鈴
ファンタジー
転生したのは男性が少ない世界!?貴族に生まれたのはいいけど、どういう風に生きていこう…?
最新章の第五章も夕方18時に更新予定です!
☆の話は苦手な人は飛ばしても問題無い様に物語を紡いでおります。
※ホットランキング1位、ファンタジーランキング3位ありがとうございます!
※カクヨム様にも投稿しております。内容が大幅に異なり改稿しております。
※各種ランキング1位を頂いた事がある作品です!
貞操逆転世界に転生したのに…男女比一対一って…
美鈴
ファンタジー
俺は隼 豊和(はやぶさ とよかず)。年齢は15歳。今年から高校生になるんだけど、何を隠そう俺には前世の記憶があるんだ。前世の記憶があるということは亡くなって生まれ変わったという事なんだろうけど、生まれ変わった世界はなんと貞操逆転世界だった。これはモテると喜んだのも束の間…その世界の男女比の差は全く無く、男性が優遇される世界ではなかった…寧ろ…。とにかく他にも色々とおかしい、そんな世界で俺にどうしろと!?また誰とも付き合えないのかっ!?そんなお話です…。
※カクヨム様にも投稿しております。内容は異なります。
※イラストはAI生成です
スライム10,000体討伐から始まるハーレム生活
昼寝部
ファンタジー
この世界は12歳になったら神からスキルを授かることができ、俺も12歳になった時にスキルを授かった。
しかし、俺のスキルは【@&¥#%】と正しく表記されず、役に立たないスキルということが判明した。
そんな中、両親を亡くした俺は妹に不自由のない生活を送ってもらうため、冒険者として活動を始める。
しかし、【@&¥#%】というスキルでは強いモンスターを討伐することができず、3年間冒険者をしてもスライムしか倒せなかった。
そんなある日、俺がスライムを10,000体討伐した瞬間、スキル【@&¥#%】がチートスキルへと変化して……。
これは、ある日突然、最強の冒険者となった主人公が、今まで『スライムしか倒せないゴミ』とバカにしてきた奴らに“ざまぁ”し、美少女たちと幸せな日々を過ごす物語。
ギャルい女神と超絶チート同盟〜女神に贔屓されまくった結果、主人公クラスなチート持ち達の同盟リーダーとなってしまったんだが〜
平明神
ファンタジー
ユーゴ・タカトー。
それは、女神の「推し」になった男。
見た目ギャルな女神ユーラウリアの色仕掛けに負け、何度も異世界を救ってきた彼に新たに下った女神のお願いは、転生や転移した者達を探すこと。
彼が出会っていく者たちは、アニメやラノベの主人公を張れるほど強くて魅力的。だけど、みんなチート的な能力や武器を持つ濃いキャラで、なかなか一筋縄ではいかない者ばかり。
彼らと仲間になって同盟を組んだユーゴは、やがて彼らと共に様々な異世界を巻き込む大きな事件に関わっていく。
その過程で、彼はリーダーシップを発揮し、新たな力を開花させていくのだった!
女神から貰ったバラエティー豊かなチート能力とチートアイテムを駆使するユーゴは、どこへ行ってもみんなの度肝を抜きまくる!
さらに、彼にはもともと特殊な能力があるようで……?
英雄、聖女、魔王、人魚、侍、巫女、お嬢様、変身ヒーロー、巨大ロボット、歌姫、メイド、追放、ざまあ───
なんでもありの異世界アベンジャーズ!
女神の使徒と異世界チートな英雄たちとの絆が紡ぐ、運命の物語、ここに開幕!
※不定期更新。最低週1回は投稿出来るように頑張ります。
※感想やお気に入り登録をして頂けますと、作者のモチベーションがあがり、エタることなくもっと面白い話が作れます。
旧校舎の地下室
守 秀斗
恋愛
高校のクラスでハブられている俺。この高校に友人はいない。そして、俺はクラスの美人女子高生の京野弘美に興味を持っていた。と言うか好きなんだけどな。でも、京野は美人なのに人気が無く、俺と同様ハブられていた。そして、ある日の放課後、京野に俺の恥ずかしい行為を見られてしまった。すると、京野はその事をバラさないかわりに、俺を旧校舎の地下室へ連れて行く。そこで、おかしなことを始めるのだったのだが……。
男女比1:15の貞操逆転世界で高校生活(婚活)
大寒波
恋愛
日本で生活していた前世の記憶を持つ主人公、七瀬達也が日本によく似た貞操逆転世界に転生し、高校生活を楽しみながら婚活を頑張るお話。
この世界の法律では、男性は二十歳までに5人と結婚をしなければならない。(高校卒業時点は3人)
そんな法律があるなら、もういっそのこと高校在学中に5人と結婚しよう!となるのが今作の主人公である達也だ!
この世界の経済は基本的に女性のみで回っており、男性に求められることといえば子種、遺伝子だ。
前世の影響かはわからないが、日本屈指のHENTAIである達也は運よく遺伝子も最高ランクになった。
顔もイケメン!遺伝子も優秀!貴重な男!…と、驕らずに自分と関わった女性には少しでも幸せな気持ちを分かち合えるように努力しようと決意する。
どうせなら、WIN-WINの関係でありたいよね!
そうして、別居婚が主流なこの世界では珍しいみんなと同居することを、いや。ハーレムを目標に個性豊かなヒロイン達と織り成す学園ラブコメディがいま始まる!
主人公の通う学校では、少し貞操逆転の要素薄いかもです。男女比に寄っています。
外はその限りではありません。
カクヨムでも投稿しております。
【完結】幼馴染にフラれて異世界ハーレム風呂で優しく癒されてますが、好感度アップに未練タラタラなのが役立ってるとは気付かず、世界を救いました。
三矢さくら
ファンタジー
【本編完結】⭐︎気分どん底スタート、あとはアガるだけの異世界純情ハーレム&バトルファンタジー⭐︎
長年思い続けた幼馴染にフラれたショックで目の前が全部真っ白になったと思ったら、これ異世界召喚ですか!?
しかも、フラれたばかりのダダ凹みなのに、まさかのハーレム展開。まったくそんな気分じゃないのに、それが『シキタリ』と言われては断りにくい。毎日混浴ですか。そうですか。赤面しますよ。
ただ、召喚されたお城は、落城寸前の風前の灯火。伝説の『マレビト』として召喚された俺、百海勇吾(18)は、城主代行を任されて、城に襲い掛かる謎のバケモノたちに立ち向かうことに。
といっても、発現するらしいチートは使えないし、お城に唯一いた呪術師の第4王女様は召喚の呪術の影響で、眠りっ放し。
とにかく、俺を取り囲んでる女子たちと、お城の皆さんの気持ちをまとめて闘うしかない!
フラれたばかりで、そんな気分じゃないんだけどなぁ!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる