壮年賢者のひととき

９月・勇者は容赦ない

3

「失礼します」

　事務所の扉を開けると、

「チーフ、待ってましたよ～」

と長机に着席した陽菜子がはじける笑顔を見せる。

「お疲れ様、」

あぁいい笑顔だな、しかし入室した嘉島は面食らった。

　新庄の向かいには、中番で20時には退勤したはずの松井まついが座っていたからだ。


　生活家電担当の松井は８年目・32歳の中堅社員で、人当たりの良さと豊富な商品知識で固定客も多い営業のエースだ。

　彼も中途採用だが、現場の方が好きだからと昇進話を蹴った過去がある。

　プライベートでは、日帰り旅行やホームパーティーのためのサークル『松井会』を主宰しているリア充独身貴族だ。

　嘉島も誘われてドライブへ付いて行った事があるが、観光ルートや高速SAサービスエリアのリサーチなど抜かりないプランで、参加者の中で断トツのオジサンである嘉島の為に専用座布団を用意してくれるような周到さであった。


　男女仲の良い職場の中においても特に女性スタッフと交流が多い松井だが、恋人は長らく居ないという。

　自尊心が高い彼は失敗を恐れて危険な橋は渡らない。

　カラオケで前奏中に「これ初めて歌うわ～」と保険をかけるタイプの男である。

　これまで携帯コーナーの女の子・レジの学生アルバイト・メーカー派遣スタッフなど彼女未満はいたが、「なんだかいい感じの仲」から発展しなかったらしい。

　それは告白という勝負に出ないためである。

　松井のアプローチは実に分かりやすく、今はこの子がお気に入りなんだな、と傍目に分かる行動ばかり起こす。

　その恋はレジのパートさんにまで広く周知されて、「今どき、学生でももっと進んでるわよ」と揶揄やゆされる残念さであった。


　松井の最もわかりやすいアプローチは「待ち伏せ」で、今日も彼は事務所でターゲットを張っていた。

　そのターゲットはもちろん、モテ女子陽菜子である。


　地盤固めが済んだのか、遂に大本命に勝負を挑むらしい…退勤後２時間も在店している現状だけでも本気度が伝わってくる。


「最後の方、長かったですね。お疲れさまです」

陽菜子は立ち上がり嘉島を労ねぎらい、売上金の入った袋を受け取る。

「はい、お願いします…うん、また戻って来て下さるといいけど。成田なりたくんが頑張ってくれたし」

「応援に降りようと思ったんですが…」

　両手で袋をがっちり掴んだ彼女は何故か困り顔をして、すぐに

「釣り銭作りも済んでるので、あとはこの袋分を片付けるだけです」

と、お返しに管理職要確認書類を渡してきた。

「うん」

　松井と陽菜子、両人の手元の紙カップには湯気のたつコーヒーがまだ半分以上入っていて、席に着いてから然程時間が経ってないようだった。

　さて閉店後の事務所で、松井は彼女との時間をどれだけ楽しめたのだろうか。

　カップを見つめる視線に気づいた彼女が

「時間外の休憩までとってしまい…」

と申し訳なさそうにするので、

「いや、待たせちゃったし、水分は摂ってよ」

と余裕を見せて少しネクタイを緩め、嘉島は自身のデスクに着いて書類を広げた。


「僕の奢りでね！新作が出たんで買ってあげたんですよ、なー？」

松井はここぞとばかりに貢ぎ物の主張をする。


「（なるほど、降りようとした彼女をコーヒーで引き留めたわけか。しかも奢りで…抜け目のない奴…）」

　自分が買ってあげるつもりだったコーヒーが彼女を釣る道具にされて面白くない。

　そんな感情を抱いた後、嘉島は書類を確認し判を押し始める。

　新庄が売上金袋と紙カップを持って金庫室に入り、程なくして計数機からパサパサと紙幣を数える音がたち始めた。