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第八章 国難は些事です(後編)
おはよう
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まだ朝が明けきらない時間。
冷たい風に身を浸そうと、吹きさらしの渡り廊下に出てきてみれば、見慣れた人影がひとつ。
簡素なシャツの肩に、軽くストールをのせて遠くを見ている。
無視しようにもさりげなく引き返すタイミングは逸していたので、クライスは諦めてそのまま近づいた。
「おはよう」
声が重なる。
これ以上気まずいのは御免だと互いに思った結果、呼吸がぴたりと合ってしまったらしい。
それが結局、どうしようもなく気まずい。
並んでいるというには微妙な距離を置いて、顔を合わせぬように眼下に広がる草地や木々を視界におさめつつ手すりにもたれかかって朝陽を待つ。
「お前……、喉どうかした?」
冷たい風に髪をなぶられ、目を細めながらクロノスが顔を向けてきた。
「飲んだ。そのせいかも」
話してみて、たしかに話しづらいと気付く。何度か小さく咳払いをしてから、首を覆っている立襟を、苦しくもないのに指先で摘まんでみる。
その動作の間、遠慮のない視線を感じた。
「なんで見てんの」
「いや。昨日はバタバタしていたから。レティシアの件は今日この後関係者を集めて話し合う。ルーナは無事か?」
「僕の部屋で寝ているよ」
掠れた声で言ってから、クライスはクロノスを見た。
うまく笑えないまま、問い返す。
「ロイドさんは」
クロノスは目にかかった髪をくしゃっとかきあげてから、口を開いた。
「俺の部屋で寝ている」
表情を作り損ねて、真顔で見つめ合ってしまう。
先に強張った笑みを浮かべるのに成功したのはクライスだった。
「何してんだろうね、僕たち。こんなところで話している場合じゃないよね」
対するクロノスは、ぼさっとした表情で見返してきた。
「そうか? 俺はお前が視界にいるとやっぱり嬉しいよ。朝から会えて良かったなって」
「えっと、大丈夫? 何言ってんの?」
「本心」
もう少し配慮の上、包み隠してほしい。
クライスは片手で目元を覆うと、小さく呻いた。
「ロイドさんのところに戻りなよ。目が覚めたときに隣にいないと、焦るよきっと」
「ルーナを置いてきたくせに」
それを言われると。
言い訳も思いつかずに視線を逸らしたところで、小さなくしゃみが出た。
クロノスは素早く肩に巻き付けていたストールを外して大股に歩み寄り、クライスの肩に乗せる。
「借りるわけには」
体温が残る布から頬に伝わるぬくもりはどこか生々しい。はぎ取ろうと手で掴んだら、清涼感のある香りが微かに立ち上った。まるで間近で肌を寄せているかのような感覚だった。
ひときわ強い風が吹いて、背中を手すりに預けて空を仰いだクロノスの黒髪を乱した。
ストールを外してしまったせいでさらされた首筋が、いかにも寒そうにも見える。
「返さなくていい。適当に処分しろ」
「うーん……」
王族の給料はどこから出ていると思ってるのと言ってやろうか考えて、結局何も言えなかった。
喉の奥に重い何かがあって、うまく言葉が話せない。
それでいて、自分からさっさとこの場を立ち去ることが出来ないのだった。
せめてクロノスがいなくなってくれたらとは思うのだが、そんな気配はない。
(偶然だし、何も悪いことなんかしていないのに。逢引しているみたいなこの罪悪感は何?)
吹きさらしの渡り廊下には、物見の塔からきちんと見張りが目を光らせている。
王宮の警備にあたるクライスはそのことをよく知っていたし、クロノスだって知っているはず。
今この瞬間にも人から見られているのだ。不測の事態など起きるはずもない。
これ以上クロノスと距離を詰めることもない。
そのことに安堵する反面、妙な胸騒ぎも覚えている。
「昨日は忙しかったね。僕は最後には酔いつぶれて寝ちゃったんだけど。イカロス様の件は解決しているんだよね?」
「アレクスが終わらせている。その後の襲撃の件は、襲撃者が逃亡中。今日も一日対策で忙しい。しかしお前が酔うのは珍しいな。何か、酒の勢いが必要なことでも?」
「カインと話す為にね。少しこじれて。長引かせたくなくてさ」
掠れた声でつっかえながら言うと、思いがけず穏やかなまなざしを向けられていたことに気付いた。
「友だちに戻れそう?」
艶めいた声に優しく問いかけられて、クライスは首もとのストールをぎゅっと握りしめる。
「……わからない」
正直なところを言うしかなかった。
本当はもっと話したいことがたくさんあった。
自分がどれだけルーク・シルヴァのことが好きなのか。昨日、カインに滔々と語って聞かせたように、クロノスにも言いたかった。
認めて欲しかった。
好きでいいよ、と。
(許して欲しいんだろうな)
前世の出来事を、何一つ思い出せず、すべて忘れてしまったことを。
自分は片田舎で双子の片割れとして生まれ、弟の死のタイミングで入れ替わり、騎士となるべく生きて来た。
前世とはなんの関係もない人生を歩んでいて、前世には出会わなかった人に出会い、好きになった。
そのことを、どうか許して欲しいと――。
(前世で僕はルーク・シルヴァに会ったことはないんだよな……? 「見たことはある。話したことはない」と言っていた……よな。知り合いじゃなさそうだけど、知っている感じではあった……)
「今でもずっと不思議なんだ。なんでルーク・シルヴァは僕と一緒にいてくれるのかなって。僕はあのひとのことが好きだけど、あのひとが僕の何を気に入ってくれているのかはいまいちわかっていなくて」
「参考までに俺がお前のどこを好きか聞くか?」
「前世。ルミナス。覚えてなくてごめんね。だけど今は聞きたい気分じゃない」
「小一時間語れるのに」
「聞いてもどうにもできない。僕にとってそのひとは知らないひとだから」
クライスは朝焼けの空に目を向けた。
精一杯そっけなく言ったのに、クロノスはくすくすと笑いながら腰高の手すりに正面からもたれかかると、肘をついて遠くを見る。その横顔は屈託なく、少年のような爽やかさすら漂っていた。
(嫌な奴でいてくれたら、楽だったのに。僕が覚えていないことをクロノス王子だけ覚えていて、大切にしている。そのことに僕は報いるころができない。ものすごく後味が悪い……)
出会い方が違っていたら、友達として好きになっていたと思う。
その幸せを当然のように願っていたはず。
だがクロノスの願いはおそらく「友達」じゃない。そしてクライスはそれを、受け入れることができない。
せめて他に幸せを見つけて欲しいと願うばかりなのだが、気安く「ロイドさんとどうだった?」と聞ける図太さはない。
どうにかなっていたとしても、それがクロノスの幸せにつながっているのかは未知数すぎて。
「あの……さ」
「どうした」
思い切って声をかけて注意を引くと、背伸びして肩にストールをのせた。
「返す!! で、僕は少し走りこんでくる!! 早朝稽古している人探して打ち込んでくる!!」
「おお……。さすがだな」
「考えすぎて頭痛いから、身体動かしたいんだよね!!」
宣言して、クライスはくるりと背を向けた。
「いやそれたぶん二日酔いじゃないのか? 動くともっとひどいことになるぞって。聞いてないなあいつ」
走り出した背中に届かぬ忠告をしつつ、クロノスはほんのりと笑みを浮かべた。
少年のような少女のような、前世のルミナスよりは一回り小柄な背中。
はずむ赤毛を見つめてから、クロノスは指を組み合わせて頭上に腕を突き上げ、軽く伸びをする。
その拍子にすべりおちたストールを素早く空で受け止めて「さてと」と小さく呟いた。
「あいつがいないうちに、ルーナと話でもつけてくるか」
冷たい風に身を浸そうと、吹きさらしの渡り廊下に出てきてみれば、見慣れた人影がひとつ。
簡素なシャツの肩に、軽くストールをのせて遠くを見ている。
無視しようにもさりげなく引き返すタイミングは逸していたので、クライスは諦めてそのまま近づいた。
「おはよう」
声が重なる。
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それが結局、どうしようもなく気まずい。
並んでいるというには微妙な距離を置いて、顔を合わせぬように眼下に広がる草地や木々を視界におさめつつ手すりにもたれかかって朝陽を待つ。
「お前……、喉どうかした?」
冷たい風に髪をなぶられ、目を細めながらクロノスが顔を向けてきた。
「飲んだ。そのせいかも」
話してみて、たしかに話しづらいと気付く。何度か小さく咳払いをしてから、首を覆っている立襟を、苦しくもないのに指先で摘まんでみる。
その動作の間、遠慮のない視線を感じた。
「なんで見てんの」
「いや。昨日はバタバタしていたから。レティシアの件は今日この後関係者を集めて話し合う。ルーナは無事か?」
「僕の部屋で寝ているよ」
掠れた声で言ってから、クライスはクロノスを見た。
うまく笑えないまま、問い返す。
「ロイドさんは」
クロノスは目にかかった髪をくしゃっとかきあげてから、口を開いた。
「俺の部屋で寝ている」
表情を作り損ねて、真顔で見つめ合ってしまう。
先に強張った笑みを浮かべるのに成功したのはクライスだった。
「何してんだろうね、僕たち。こんなところで話している場合じゃないよね」
対するクロノスは、ぼさっとした表情で見返してきた。
「そうか? 俺はお前が視界にいるとやっぱり嬉しいよ。朝から会えて良かったなって」
「えっと、大丈夫? 何言ってんの?」
「本心」
もう少し配慮の上、包み隠してほしい。
クライスは片手で目元を覆うと、小さく呻いた。
「ロイドさんのところに戻りなよ。目が覚めたときに隣にいないと、焦るよきっと」
「ルーナを置いてきたくせに」
それを言われると。
言い訳も思いつかずに視線を逸らしたところで、小さなくしゃみが出た。
クロノスは素早く肩に巻き付けていたストールを外して大股に歩み寄り、クライスの肩に乗せる。
「借りるわけには」
体温が残る布から頬に伝わるぬくもりはどこか生々しい。はぎ取ろうと手で掴んだら、清涼感のある香りが微かに立ち上った。まるで間近で肌を寄せているかのような感覚だった。
ひときわ強い風が吹いて、背中を手すりに預けて空を仰いだクロノスの黒髪を乱した。
ストールを外してしまったせいでさらされた首筋が、いかにも寒そうにも見える。
「返さなくていい。適当に処分しろ」
「うーん……」
王族の給料はどこから出ていると思ってるのと言ってやろうか考えて、結局何も言えなかった。
喉の奥に重い何かがあって、うまく言葉が話せない。
それでいて、自分からさっさとこの場を立ち去ることが出来ないのだった。
せめてクロノスがいなくなってくれたらとは思うのだが、そんな気配はない。
(偶然だし、何も悪いことなんかしていないのに。逢引しているみたいなこの罪悪感は何?)
吹きさらしの渡り廊下には、物見の塔からきちんと見張りが目を光らせている。
王宮の警備にあたるクライスはそのことをよく知っていたし、クロノスだって知っているはず。
今この瞬間にも人から見られているのだ。不測の事態など起きるはずもない。
これ以上クロノスと距離を詰めることもない。
そのことに安堵する反面、妙な胸騒ぎも覚えている。
「昨日は忙しかったね。僕は最後には酔いつぶれて寝ちゃったんだけど。イカロス様の件は解決しているんだよね?」
「アレクスが終わらせている。その後の襲撃の件は、襲撃者が逃亡中。今日も一日対策で忙しい。しかしお前が酔うのは珍しいな。何か、酒の勢いが必要なことでも?」
「カインと話す為にね。少しこじれて。長引かせたくなくてさ」
掠れた声でつっかえながら言うと、思いがけず穏やかなまなざしを向けられていたことに気付いた。
「友だちに戻れそう?」
艶めいた声に優しく問いかけられて、クライスは首もとのストールをぎゅっと握りしめる。
「……わからない」
正直なところを言うしかなかった。
本当はもっと話したいことがたくさんあった。
自分がどれだけルーク・シルヴァのことが好きなのか。昨日、カインに滔々と語って聞かせたように、クロノスにも言いたかった。
認めて欲しかった。
好きでいいよ、と。
(許して欲しいんだろうな)
前世の出来事を、何一つ思い出せず、すべて忘れてしまったことを。
自分は片田舎で双子の片割れとして生まれ、弟の死のタイミングで入れ替わり、騎士となるべく生きて来た。
前世とはなんの関係もない人生を歩んでいて、前世には出会わなかった人に出会い、好きになった。
そのことを、どうか許して欲しいと――。
(前世で僕はルーク・シルヴァに会ったことはないんだよな……? 「見たことはある。話したことはない」と言っていた……よな。知り合いじゃなさそうだけど、知っている感じではあった……)
「今でもずっと不思議なんだ。なんでルーク・シルヴァは僕と一緒にいてくれるのかなって。僕はあのひとのことが好きだけど、あのひとが僕の何を気に入ってくれているのかはいまいちわかっていなくて」
「参考までに俺がお前のどこを好きか聞くか?」
「前世。ルミナス。覚えてなくてごめんね。だけど今は聞きたい気分じゃない」
「小一時間語れるのに」
「聞いてもどうにもできない。僕にとってそのひとは知らないひとだから」
クライスは朝焼けの空に目を向けた。
精一杯そっけなく言ったのに、クロノスはくすくすと笑いながら腰高の手すりに正面からもたれかかると、肘をついて遠くを見る。その横顔は屈託なく、少年のような爽やかさすら漂っていた。
(嫌な奴でいてくれたら、楽だったのに。僕が覚えていないことをクロノス王子だけ覚えていて、大切にしている。そのことに僕は報いるころができない。ものすごく後味が悪い……)
出会い方が違っていたら、友達として好きになっていたと思う。
その幸せを当然のように願っていたはず。
だがクロノスの願いはおそらく「友達」じゃない。そしてクライスはそれを、受け入れることができない。
せめて他に幸せを見つけて欲しいと願うばかりなのだが、気安く「ロイドさんとどうだった?」と聞ける図太さはない。
どうにかなっていたとしても、それがクロノスの幸せにつながっているのかは未知数すぎて。
「あの……さ」
「どうした」
思い切って声をかけて注意を引くと、背伸びして肩にストールをのせた。
「返す!! で、僕は少し走りこんでくる!! 早朝稽古している人探して打ち込んでくる!!」
「おお……。さすがだな」
「考えすぎて頭痛いから、身体動かしたいんだよね!!」
宣言して、クライスはくるりと背を向けた。
「いやそれたぶん二日酔いじゃないのか? 動くともっとひどいことになるぞって。聞いてないなあいつ」
走り出した背中に届かぬ忠告をしつつ、クロノスはほんのりと笑みを浮かべた。
少年のような少女のような、前世のルミナスよりは一回り小柄な背中。
はずむ赤毛を見つめてから、クロノスは指を組み合わせて頭上に腕を突き上げ、軽く伸びをする。
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