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第六章 国難は些事です(前編)

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(え、嘘、なに?)

 不穏な会話が、不自然な途絶え方をした。
 どう考えても、何かまずいことが起きている。

 近衛隊士官舎の、二階建ての屋根の上から、クライスの連れ込まれた部屋の動向をうかがっていたロイドである。
 人間よりは鋭い聴覚が、不測の事態を伝えて来る。

「これ、襲われてるよね」

 思わず、声に出た。
 何かとクライスをかばっていた茶色髪の男。以前王宮で話した覚えがある。確か、クライスがアレクス王子のもとで一夜過ごしたことを気にかけていたはず。ただの同僚にしてはご執心だなとは思った記憶。

(クライスが女だと知って、深夜テンションで歯止めがきかなくなったってこと? 襲っている側は気の迷いだとしても、襲われている側からしたら許せる要素一つもなくない?)

 さすがにロイドも頭を抱える。
 このまま見過ごすくらいなら、さっさと踏み込んで助けるべきだ。
 しかしそれをやってしまうと、疑いをかけられている真っ最中のクライスの立場を、著しく悪化させるのは間違いない。

 屋根の端に立ち、下をのぞきこむ。ちょうど窓の下にあたるところに警備らしき人間が二人いるのだが、二階の物音に気付いている様子はない。
 廊下にも詰めている人間がいるはずだ。

(誰か気付かないのか? 本当に? 国内随一の精鋭部隊、鈍すぎだろー!)

 よほど叫びたい。
 クライスは、女性として見れば決して小さくはないし、腕っぷしもそれなりとはいえ、単純な腕力ではどうしたって不利なはず。

(なんであんなに危なっかしい奴が、元聖剣の勇者なのかね。周りがハラハラするんだっての)

 耳を澄ませても、物音はほとんど聞こえなくなっている。
 口をおさえられたか、気絶させられたか。
 もしくは小声で何か話している?

「わからない……。いいや、行こう」

 ロイドが決断した瞬間、それまでにない物音が響いた。

 * * *

 何が起きたのか、一瞬の間にめまぐるしく考えた。

(ずっとお前のことが好きだった。って、カインが僕を?)

 襲われそうな展開だなとは思ったけど、襲われてるよなこれ。
 気のせいじゃなくて口づけされているんだけど。
 理解した瞬間に、足を跳ね上げていた。

「っ」

 カインは押し殺した息をもらす。クライスを掴んでいた力が弱まる。
 その隙を逃さず、カインを突き飛ばして上体を起こしたクライスは、鋭いまなざしを投げた。

「反撃されたらやめるつもりだったの? それとも、反撃されないつもりだった?」

 あまりに簡単に振り払えてしまったことに対して苛立ち、声は厳しくなる。

「どうだろうな……」

 急所をしたたかに蹴り上げられたカインは、脂汗を流しつつ苦笑した。
 慎重に片膝を立てて後退しつつ距離を置きながら、クライスは濡れた唇を拳でぬぐった。

「この後はどうするつもりだった。服をひん剥いて、力づくで犯す?」
「想像するからやめてくれ」
「想像ですませてくれていたら、僕いまここまで怒ってないよね」

 言ってから、ああ、自分はいま怒っているのか、とクライスは再認識をした。

 ――好きだった。

(側にいればそういうこともあるよね。なんとなく好意は感じていたし、甘えていた自覚はある)

 だからといって、許せることではない。
 カインはクライスの意思を、はっきりと確認しなかった。
 受け入れられるつもりだったのか。受け入れられなくてもいいと思っていたのか。

(自分の気持ちだけが大切になっちゃった……?)

 膝に突っ伏して、泣いてしまいたかった。
 さすがに今この状況で、そこまで弱みはさらせない。

「『好き』は理由にならないからね。僕にはいま恋人がいて、他の人とこういうことするわけにはいかないんだ」

 クライスと同じく、膝を抱えて床に座ったカインはふと真顔になって言った。

「頻繁に会えるわけじゃないんだろう。あの男がお前のそばにいないときは、他で穴埋めしてもいいんじゃないか」

 顔を上げたクライスは、しばし友人の顔を凝視してしまった。やがて言った。

「愛人持つほど、たいそうな甲斐性ないんだよね、僕……」

 単純な拒絶ではない回答に、カインは軽く首を傾げた。

「愛人、甲斐性か。オレと付き合えないのは、つまり稼ぎの問題なのか?」
「僕の場合は気持ちの問題、一対一が良いから。だけど、王族には『側室』って普通にある話だから、一人対複数の交際を倫理観の問題にしてカインを責めるのも少しまずいかなと。僕たち王宮勤務だよ」
「それはそうだな。いまの国王夫妻がたまたま一対一なだけで、そうじゃなかった時代もあるわけだし。アレクス様やクロノス様もいまのところ浮いた噂もないが……なんだどうした?」

 クロノス。その名を聞いた瞬間、クライスはがつんと膝に顔を突っ伏した。

 ―――初めての相手は、オレにしておけよ。

 クロノス王子におかしなことを言われて以来、何度も頭の中をよぎる「その光景」。

(背は結構高め。肩幅も広い。焦げ茶色の髪に、黒っぽい法衣。顔は全然思い出せないけど、笑ったような口元だけ見える気がする。僕の、ルミナスの名前を呼んでいる)

 ――ルー。ルーナ。馬鹿だな。

 知らないはずの出来事を、思い出したりするわけがないのに。
 まるで呼び慣れているかのように、クライスの唇もその人の名を呼びたがる。
 ステファノ、と。

「べつに、僕は、クロノス王子のことなんか好きでもなんでもないし!? 側室……いやいやいや僕はルーク・シルヴァだけだし!?」
「側室? クロノス王子? なんでその名前が出てきたのか知らないけど、お前を正妃に望んでいたのはアレクス様だよな? そうだ、お前が女である以上、あの話って障害らしい障害もないんだな」
「は!? ここでなんでアレクス王子!?」

 顔を真っ赤にして焦るクライスを、カインは不思議そうに見る。
 全身を細かく震わせて、瞳は潤ませて。抑え込んだはずの劣情が溢れ出しそうになり、カインは目をそらした。

 クライスはクライスで、混乱の真っただ中であった。
 声や、指や、息遣い。
 まったく知らないはずの人のことを「思い出しそう」になっていて、ほとんど恐慌状態である。

(「初めて」なんか未経験なのに!! 記憶だけあるなんてやばくない!? これからクロノス王子に会うたびに思い出すわけ!? してもいない初体験のことを!? なぞの優しさを!?)

 ――安心しなよ。オレは全部覚えているから。ぐずぐずに泣くまで甘やかしてやる。

 目の前のカインを呆然と見ながら、クライスは自分の髪をぐしゃぐしゃっと掴んでかきまぜた。その尋常ならざるパニックぶりに、カインは声を低めて言った。

「落ち……着けるか?」
「無理!!」
「そう見える。何がきっかけになったか知らないが……クロノス王子?」
「言うなその名前っ!!」

 大正解であることを態度だけであからさまに示しつつ、クライスはその場にひっくり返った。

「ふざけんなよっ。僕が思い出さなくても向こうの記憶にはあるってどうなんだよ!? その記憶さっさと消去しろよっ。なんであっちだけ覚えてんだよーー!!」
「話が見えないが、あんまり騒いでいると外にいる奴にまで聞こえるぞ」

 がばっと起き上がったクライスが、昂ったせいで目の下をうっすら赤く染めたままカインを睨みつけた。

「騒ぐようなことしたのカインだろ!! いきなり獣になって襲い掛かってきやがって。お前、今まで恋人できても長続きしなかったよな。何か難でもあるのかなって思っていたけど、そういうこと!?」

 責められても仕方のないことをした自覚はあるカインであったが、もはや何も隠し立てすることがなくなった者特有の清々しさで饒舌に答えた。

「『そういうこと』がどういうことかわからないけど、他に好きな人がいるってことは、わりとすぐにバレていたな。相手がお前だってことはさすがに隠してきたが」
「え……、そんなに前から僕のことが好きだったの!? 同僚じゃない方の意味で!?」

 声大きいな、と思いつつカインは首肯した。

「野外演習で野宿した時なんか、一晩中お前の寝顔を見ていたぞ」
「変態だね……ッ」
「そう、変態なんだよ。変態ついでに、見ていただけですんだと思うか?」
「…………!!」

 実際に、クライスに手を出したことはないのだが、あまりにも衝撃が大きかったようで、カインはその事実を言い出しそびれた。

「とりあえず、だな。今日のところは」

 何か適当なところでいったんしめておこう。そんなつもりで紡がれた言葉は、ドンっと地面から伝わった突き上げるような衝撃によって止められた。

「揺れ……地震!?」

 二人が顔を見合わせたとき、窓がコンコンと叩かれた。二階なのに。

「オレが」

 すばやく答えたカインが窓辺に走る。クライスも後を追った。
 窓ガラスの向こうには、見知った美女の顔。名前を呼びそうになる。が、ぎりぎりで堪えた。
 彼は以前男性の姿で王宮に来ている。カインとも面識があるはずだ。

「窓、開けてあげて」

 言いつつ、ぐずぐずしているカインの横から身をねじこんで、クライス自ら窓を開けた。
 さらりと赤毛をなびかせて、ロイドが軽やかに部屋に乗り込んでくる。

「魔導士か?」

 露出多めの服装に、きわめつけの美女というロイドの出で立ちに気圧されつつ、カインが尋ねる。
 ロイドは軽く頷いてから、二人に視線をすべらせた。

「今の揺れ。王宮で何かあったぞ。力の強い魔導士が何かやらかした」

(レティか、クロノス王子!?)

 ロイドは片眼をすがめて渋い表情をしつつ、クライスに向けて「言うな」とばかりに指を唇の前にたてる。
 それから、入ってきたばかりの窓の外に視線を投げて呟く。

「あいつじゃないかって気がするんだよね。あの白髪に赤目」

 言い終えてから、思い出したように二人の騎士に目を向けた。曖昧な微笑みを浮かべて、何かを見透かしたように言った。「お邪魔だった? 取り込み中ごめんね? ずいぶん盛り上がっていたよね」と。
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