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第三章 宮廷薬師として
幻を打ち破るは
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ヘンリーが、その場に膝をついて座り込む。
アリスは「おい」と咎めるエイルの声を聞きながら人垣をすり抜けて、飛び出した。
(なんてことを! 薬の効力を見る為だけに、わざと大怪我を負わせるなんて。たとえその被害者がヘンリーであったとしても、重傷者を見過ごすわけには。ヘンリーの薬は効かない……!)
シンプルなドレスにしめた布ベルトに括りつけた、小さな革の小物入れを掴む。普段から薬を持ち歩くのが常なので、そばに無いと落ち着かず、無理を言って身につけていたもの。稀少な薬草にアンブローズの魔法をのせた特効薬が入っている。それがあれば大丈夫とは思いつつも、大出血を目の当たりにした恐怖は大きく、心臓がぎゅっと掴まれたように痛い。小物入れの蓋を空けるだけで、指が震えている。
「魔法薬草とて万能ではないんです、もしものことがあったら!」
声まで震わせながら、血に濡れた床に膝をつき、ヘンリーの怪我をのぞきこもうとする。
綺麗なうなじから肩のライン。
怪我。
(無い?)
ナイフの切っ先が、吸い込まれるように首筋から背にかけて入ったように見えたが、視認出来る範囲で怪我はなかった。おかしい、ともう一度見直そうとしたそのとき、顔を上げたヘンリーの緑の双眸に、ぎらついた光が宿る。
「アリス、見つけた」
手首めがけて、腕が伸びてきた。
指が掠めた、その瞬間、アリスの顔の真横から伸びてきたすらりと長い足が、ヘンリーの顎をしたたかに蹴り上げた。
ぐえ、とひしゃげた呻き声を上げて、吹っ飛ばされたヘンリーが離れた床に転がり込む。
「……怪我人に、追い打ちを……」
「怪我人じゃない。幻覚だ」
耳の後ろで声が聞こえたと思ったときには、ひょいっと床から体が浮いていた。
足がつかない。抱きかかえ上げられている。
「ラファエロ、殿下」
近い距離で見下ろしてきたアイスブルーの瞳と見つめ合ってしまい、アリスは呆然とその名を呼んだ。
(私も怪我人ではないので、立てますし歩けますのでこれはちょっと。今の私と触れ合ったら、血に汚れますよ……!?)
声に出せぬまま胸の内だけでさかんに叫びつつ、首を伸ばして自分のドレスの裾を確認する。確かに血溜まりに膝をついたはずなのに、汚れはどこにもなかった。
「グリムズ様、お戯れが過ぎますよ。魔力のある人間にだけ見える幻ですか」
「そこの娘、アンブローズの家から特効薬の秘伝の製法を持ったまま逃げ出したという薬師ではないか。従兄弟であるこのヘンリーと結婚が決まっていたというのに身をくらませて、こんなところに潜んでいたとは。殿下、こちらに寄越してもらおう。我が国の人間だ。しかも罪人」
(ヘンリーと結婚の予定なんかないし、特効薬の製法だって持ち出したのではなく、元から私しかまともに作れなかったというだけで……!)
アリスが言い返そうとした瞬間、ラファエロの腕に強い力が込められた。
「どうもグリムズ様は偏った情報しかお持ちではないようです。私の知っている事実とそれは随分違います。アリスに関しては我が国が亡命を受け入れていますので、たとえ王弟殿下の仰せと言えど身柄を引き渡すことは有りえません。それにしても強引なことを。アリスが我が国にいると、何か不都合なことでもおありですか」
「アンブローズ子爵家には特効薬に関する功績で爵位を与えている。その恩恵を受けながら他国に出奔するなど」
咄嗟にアリスはラファエロの胸に手をつき、おろして欲しいと意思表示をして、床に足をつけた。
隣に佇むラファエロの熱を感じつつ、グリムズに向き合う。
「お言葉ですが、ハートフォードの貴族法により、女性が直接爵位を継ぐ方法はないため、私はすでに子爵家からは外れて平民身分となっています。王弟殿下が私を連れ戻す根拠が、『爵位に見合った働きを求めてのこと』というのであれば、それは現アンブローズ子爵家の者へ求めるべきであり、私ではないです」
すらすらっと言ってしまった後に、場が静まり返ったのを感じてアリスは(しまった)と内心冷や汗をかいた。
最初にくす、と小さく笑ったのは、ラファエロであった。
アリスが横を見上げると、ちらりと視線を流してきて、頷かれる。それからラファエロは正面に向き直った。
「どうあっても、グリムズ様はここにいるアリス嬢を取り戻したい理由があったみたいですが、今お聞きの通りです。この件はここまでということで。また、アンブローズの新薬の件ですが、ここに我が国の宮廷薬師エイルが同席しております。エイルに渡していただければその効力を確認することは可能です。効能に関する所見をまとめるのは、少し時間がかかるかと思いますので、フローラ様が一時帰国される際に王宮まで届くように手はずを整えておきます。どんな薬か楽しみです」
にこり、と邪気の無い笑みを添えて。
離れた位置に立っていたフローラも、ラファエロが言い終えるのを待っていたように、すかさず溌剌とした口調で言い放った。
「お任せください、叔父上。父上もすごく期待をかけていらしたので、叔父上肝いりの事業であると私も盛大にアピールさせて頂きますから。そんな素晴らしい薬ならば、どうせならアンブローズのお膝元だけではなく、国内に行き渡るようにしたいですものね。同様の分野で実績を上げつつあるエキスシェルが国の利害関係なく協力を申し出てくれるなんて素晴らしいことですわ。それもこれも、我が国とエキスシェルとの婚姻関係があってこそ。万が一にもハートフォードの不利益などないよう、私がこの王宮で何かと目を光らせていますからご安心を」
(そうか。フローラ様とラファエロ殿下が結ばれるにあたり、両国間の友好の証としての共同事業……。あれ、でもダルトン叔父上やヘンリーの薬はいわば偽薬でこの事業って)
最初から破綻するのが目に見えているのでは? とにわかに焦り、アリスはラファエロに必死に目配せをするのだが、どうにも通じない。
立ち上がったものの、暗い瞳をしているヘンリーや、唇を引き結んでいるグリムズを前に、フローラは念押しのように「たーのーしーみー」と言って、快活な笑い声を上げていた。
アリスは「おい」と咎めるエイルの声を聞きながら人垣をすり抜けて、飛び出した。
(なんてことを! 薬の効力を見る為だけに、わざと大怪我を負わせるなんて。たとえその被害者がヘンリーであったとしても、重傷者を見過ごすわけには。ヘンリーの薬は効かない……!)
シンプルなドレスにしめた布ベルトに括りつけた、小さな革の小物入れを掴む。普段から薬を持ち歩くのが常なので、そばに無いと落ち着かず、無理を言って身につけていたもの。稀少な薬草にアンブローズの魔法をのせた特効薬が入っている。それがあれば大丈夫とは思いつつも、大出血を目の当たりにした恐怖は大きく、心臓がぎゅっと掴まれたように痛い。小物入れの蓋を空けるだけで、指が震えている。
「魔法薬草とて万能ではないんです、もしものことがあったら!」
声まで震わせながら、血に濡れた床に膝をつき、ヘンリーの怪我をのぞきこもうとする。
綺麗なうなじから肩のライン。
怪我。
(無い?)
ナイフの切っ先が、吸い込まれるように首筋から背にかけて入ったように見えたが、視認出来る範囲で怪我はなかった。おかしい、ともう一度見直そうとしたそのとき、顔を上げたヘンリーの緑の双眸に、ぎらついた光が宿る。
「アリス、見つけた」
手首めがけて、腕が伸びてきた。
指が掠めた、その瞬間、アリスの顔の真横から伸びてきたすらりと長い足が、ヘンリーの顎をしたたかに蹴り上げた。
ぐえ、とひしゃげた呻き声を上げて、吹っ飛ばされたヘンリーが離れた床に転がり込む。
「……怪我人に、追い打ちを……」
「怪我人じゃない。幻覚だ」
耳の後ろで声が聞こえたと思ったときには、ひょいっと床から体が浮いていた。
足がつかない。抱きかかえ上げられている。
「ラファエロ、殿下」
近い距離で見下ろしてきたアイスブルーの瞳と見つめ合ってしまい、アリスは呆然とその名を呼んだ。
(私も怪我人ではないので、立てますし歩けますのでこれはちょっと。今の私と触れ合ったら、血に汚れますよ……!?)
声に出せぬまま胸の内だけでさかんに叫びつつ、首を伸ばして自分のドレスの裾を確認する。確かに血溜まりに膝をついたはずなのに、汚れはどこにもなかった。
「グリムズ様、お戯れが過ぎますよ。魔力のある人間にだけ見える幻ですか」
「そこの娘、アンブローズの家から特効薬の秘伝の製法を持ったまま逃げ出したという薬師ではないか。従兄弟であるこのヘンリーと結婚が決まっていたというのに身をくらませて、こんなところに潜んでいたとは。殿下、こちらに寄越してもらおう。我が国の人間だ。しかも罪人」
(ヘンリーと結婚の予定なんかないし、特効薬の製法だって持ち出したのではなく、元から私しかまともに作れなかったというだけで……!)
アリスが言い返そうとした瞬間、ラファエロの腕に強い力が込められた。
「どうもグリムズ様は偏った情報しかお持ちではないようです。私の知っている事実とそれは随分違います。アリスに関しては我が国が亡命を受け入れていますので、たとえ王弟殿下の仰せと言えど身柄を引き渡すことは有りえません。それにしても強引なことを。アリスが我が国にいると、何か不都合なことでもおありですか」
「アンブローズ子爵家には特効薬に関する功績で爵位を与えている。その恩恵を受けながら他国に出奔するなど」
咄嗟にアリスはラファエロの胸に手をつき、おろして欲しいと意思表示をして、床に足をつけた。
隣に佇むラファエロの熱を感じつつ、グリムズに向き合う。
「お言葉ですが、ハートフォードの貴族法により、女性が直接爵位を継ぐ方法はないため、私はすでに子爵家からは外れて平民身分となっています。王弟殿下が私を連れ戻す根拠が、『爵位に見合った働きを求めてのこと』というのであれば、それは現アンブローズ子爵家の者へ求めるべきであり、私ではないです」
すらすらっと言ってしまった後に、場が静まり返ったのを感じてアリスは(しまった)と内心冷や汗をかいた。
最初にくす、と小さく笑ったのは、ラファエロであった。
アリスが横を見上げると、ちらりと視線を流してきて、頷かれる。それからラファエロは正面に向き直った。
「どうあっても、グリムズ様はここにいるアリス嬢を取り戻したい理由があったみたいですが、今お聞きの通りです。この件はここまでということで。また、アンブローズの新薬の件ですが、ここに我が国の宮廷薬師エイルが同席しております。エイルに渡していただければその効力を確認することは可能です。効能に関する所見をまとめるのは、少し時間がかかるかと思いますので、フローラ様が一時帰国される際に王宮まで届くように手はずを整えておきます。どんな薬か楽しみです」
にこり、と邪気の無い笑みを添えて。
離れた位置に立っていたフローラも、ラファエロが言い終えるのを待っていたように、すかさず溌剌とした口調で言い放った。
「お任せください、叔父上。父上もすごく期待をかけていらしたので、叔父上肝いりの事業であると私も盛大にアピールさせて頂きますから。そんな素晴らしい薬ならば、どうせならアンブローズのお膝元だけではなく、国内に行き渡るようにしたいですものね。同様の分野で実績を上げつつあるエキスシェルが国の利害関係なく協力を申し出てくれるなんて素晴らしいことですわ。それもこれも、我が国とエキスシェルとの婚姻関係があってこそ。万が一にもハートフォードの不利益などないよう、私がこの王宮で何かと目を光らせていますからご安心を」
(そうか。フローラ様とラファエロ殿下が結ばれるにあたり、両国間の友好の証としての共同事業……。あれ、でもダルトン叔父上やヘンリーの薬はいわば偽薬でこの事業って)
最初から破綻するのが目に見えているのでは? とにわかに焦り、アリスはラファエロに必死に目配せをするのだが、どうにも通じない。
立ち上がったものの、暗い瞳をしているヘンリーや、唇を引き結んでいるグリムズを前に、フローラは念押しのように「たーのーしーみー」と言って、快活な笑い声を上げていた。
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