5 / 24
第一章 旅立ち
おやすみなさい
しおりを挟む
(普段なら、今の時間はもう夕食を済ませて、戸締まりを確認して、ゆっくりお茶を飲んでいる頃ね)
行きましょう、と言いながらドアの前に立ったラファエロ。
真鍮のノブにかけられた手を、アリスはぼんやりと見つめた。
長い指。骨ばっていて、触れたら固そうであるが、柔らかな物腰の外見同様に優美さが漂っている。
その手を見ていたら、不思議と、全身から力が抜けた。
アリスは無言のまま、ゆっくりとその場で膝を折る。
「アリスっ」
ほとんど反射のようにラファエロが反応して、腕を伸ばしてきた。
抱きかかえるように支えられる。自分でもどうにもできないほど重い頭が、ごつんと引き締まって固い胸にぶつかった。
目の前が暗い。
「ごめんなさい。急に、足に力が入らなくなっちゃって……」
「わかった。謝らなくていい。そのまま身を任せて」
言うなり、さっと両腕で抱き上げられた。抵抗など考える間もなく、されるがままに運ばれる。
ラファエロは早足で部屋の中へと引き返し、ベッドの上にアリスの体をそっと横たえた。
アリスは起き上がろうと試みたが、どこもかしこも脱力しきっていて、意のままにならない。
諦めて、片腕を持ち上げる。目を閉ざして、手の甲を瞼にのせた。
張り詰めていた糸が切れたように、大きな溜息が出てしまう。
「疲れていたみたいです。色々あったので。ここまで安全に連れてきてくれて、ありがとう。ごめんなさい、あなたも疲れているのに……」
「俺は大丈夫。気づかなくて悪かった。あんなことがあって平気なわけないな。もっと気を配っているべきだった。ここは安全だから、楽にしていて。落ち着くまでそのまま」
アリスは目を瞑ったまま、ラファエロの声を聞くことだけに意識を集中した。
(優しい話し方。綺麗な発音。手も、剣を持つひとの力強さがあったけど、嫌な感じが全然なかった。このひとのことは、信じたい)
自分のひとを見る目は確かだと、自信を持って言うことなど、とてもではないができない。
それでも、荒らされた工房を目にしてからずっと抑え込んできた強い感情が溢れ出しそうで、そばにこのひとがいてくれて良かった、と素直に感じた。
「せめて食事まで気力が持てば良かったんですが。あまり食欲はないみたいです。私はここに残ります。あなただけで」
「アリスを一人にするわけにはいかない。食堂に声をかけて何かもらってくるから、部屋ですませよう。食べることができなくても、せめて飲み物だけでも。まずはゆっくり休んだ方が良いね。今日のことや、明日以降の話は起きてからで十分だ。今はアリスが回復することが大切」
決して、押し付けがましくない口ぶり。
聞いているうちに安らかな気分になってきて、ほっと安堵の吐息がもれた。
一日の出来事を思い出すのは辛く、記憶に蓋をして良いならしてしまいたい。ほんのいっときでも忘れて、楽になりたい。
思いとは裏腹に、恐怖や不安が絶え間なく襲いかかってくる。
何か気を紛らわすことはできないものかと記憶を探ってみたら、ふと先程の宿の主人との会話が思い出された。つい、笑ってしまった。
「新婚と、駆け落ち、結構違うと思ったんですけど。二人とも雰囲気で会話しているから。結局、どちらということになったのかな……」
瞼にのせていた手をずらしながら、目だけでラファエロを探す。
顎に手を当てて、考えるようなまなざしになっていたラファエロは、すぐに気付いて顔を向けてきた。前置きもなかったのに、なんの話かはすぐにわかったらしい。
「駆け落ちして、二人きりで誓いを立てたところだ。あなたと俺であれば、無理なくそう見えるはずだ」
「見えるでしょうか」
「見える」
(断定されてしまった)
「……変な会話ですね」
正直に告げると、ラファエロはやや慌てた様子で「あれは向こうから話をふられたので……」と言い訳するように呟き、途中で口をつぐむ。
アイスブルーの瞳でアリスをじっと見つめてから、ふっと息を吐き出した。
「話せるくらい回復したみたいで安心した。そのまま横になっていて。食べる物をもらってくる。すぐ戻るけど、眠いなら寝ていていいよ。鍵を持っていくから、もし俺以外が部屋を尋ねてきても、決して開けないように」
言い終えて、さっと身を翻す。
背で、束ねた銀髪がはねた。
その様子を見ながら、アリスはゆっくりと目を閉じた。
ラファエロが戻ってくるまでに、少しでも体力を回復させようと。決して、寝るつもりではなかった。
しかし、力が抜けたせいか、あっという間に眠りに引きずり込まれてしまった。
目を覚ましたのは、一夜過ごした後。
翌朝すでに空が白み始めた頃であった。
行きましょう、と言いながらドアの前に立ったラファエロ。
真鍮のノブにかけられた手を、アリスはぼんやりと見つめた。
長い指。骨ばっていて、触れたら固そうであるが、柔らかな物腰の外見同様に優美さが漂っている。
その手を見ていたら、不思議と、全身から力が抜けた。
アリスは無言のまま、ゆっくりとその場で膝を折る。
「アリスっ」
ほとんど反射のようにラファエロが反応して、腕を伸ばしてきた。
抱きかかえるように支えられる。自分でもどうにもできないほど重い頭が、ごつんと引き締まって固い胸にぶつかった。
目の前が暗い。
「ごめんなさい。急に、足に力が入らなくなっちゃって……」
「わかった。謝らなくていい。そのまま身を任せて」
言うなり、さっと両腕で抱き上げられた。抵抗など考える間もなく、されるがままに運ばれる。
ラファエロは早足で部屋の中へと引き返し、ベッドの上にアリスの体をそっと横たえた。
アリスは起き上がろうと試みたが、どこもかしこも脱力しきっていて、意のままにならない。
諦めて、片腕を持ち上げる。目を閉ざして、手の甲を瞼にのせた。
張り詰めていた糸が切れたように、大きな溜息が出てしまう。
「疲れていたみたいです。色々あったので。ここまで安全に連れてきてくれて、ありがとう。ごめんなさい、あなたも疲れているのに……」
「俺は大丈夫。気づかなくて悪かった。あんなことがあって平気なわけないな。もっと気を配っているべきだった。ここは安全だから、楽にしていて。落ち着くまでそのまま」
アリスは目を瞑ったまま、ラファエロの声を聞くことだけに意識を集中した。
(優しい話し方。綺麗な発音。手も、剣を持つひとの力強さがあったけど、嫌な感じが全然なかった。このひとのことは、信じたい)
自分のひとを見る目は確かだと、自信を持って言うことなど、とてもではないができない。
それでも、荒らされた工房を目にしてからずっと抑え込んできた強い感情が溢れ出しそうで、そばにこのひとがいてくれて良かった、と素直に感じた。
「せめて食事まで気力が持てば良かったんですが。あまり食欲はないみたいです。私はここに残ります。あなただけで」
「アリスを一人にするわけにはいかない。食堂に声をかけて何かもらってくるから、部屋ですませよう。食べることができなくても、せめて飲み物だけでも。まずはゆっくり休んだ方が良いね。今日のことや、明日以降の話は起きてからで十分だ。今はアリスが回復することが大切」
決して、押し付けがましくない口ぶり。
聞いているうちに安らかな気分になってきて、ほっと安堵の吐息がもれた。
一日の出来事を思い出すのは辛く、記憶に蓋をして良いならしてしまいたい。ほんのいっときでも忘れて、楽になりたい。
思いとは裏腹に、恐怖や不安が絶え間なく襲いかかってくる。
何か気を紛らわすことはできないものかと記憶を探ってみたら、ふと先程の宿の主人との会話が思い出された。つい、笑ってしまった。
「新婚と、駆け落ち、結構違うと思ったんですけど。二人とも雰囲気で会話しているから。結局、どちらということになったのかな……」
瞼にのせていた手をずらしながら、目だけでラファエロを探す。
顎に手を当てて、考えるようなまなざしになっていたラファエロは、すぐに気付いて顔を向けてきた。前置きもなかったのに、なんの話かはすぐにわかったらしい。
「駆け落ちして、二人きりで誓いを立てたところだ。あなたと俺であれば、無理なくそう見えるはずだ」
「見えるでしょうか」
「見える」
(断定されてしまった)
「……変な会話ですね」
正直に告げると、ラファエロはやや慌てた様子で「あれは向こうから話をふられたので……」と言い訳するように呟き、途中で口をつぐむ。
アイスブルーの瞳でアリスをじっと見つめてから、ふっと息を吐き出した。
「話せるくらい回復したみたいで安心した。そのまま横になっていて。食べる物をもらってくる。すぐ戻るけど、眠いなら寝ていていいよ。鍵を持っていくから、もし俺以外が部屋を尋ねてきても、決して開けないように」
言い終えて、さっと身を翻す。
背で、束ねた銀髪がはねた。
その様子を見ながら、アリスはゆっくりと目を閉じた。
ラファエロが戻ってくるまでに、少しでも体力を回復させようと。決して、寝るつもりではなかった。
しかし、力が抜けたせいか、あっという間に眠りに引きずり込まれてしまった。
目を覚ましたのは、一夜過ごした後。
翌朝すでに空が白み始めた頃であった。
12
お気に入りに追加
100
あなたにおすすめの小説
【完結】お見合いに現れたのは、昨日一緒に食事をした上司でした
楠結衣
恋愛
王立医務局の調剤師として働くローズ。自分の仕事にやりがいを持っているが、行き遅れになることを家族から心配されて休日はお見合いする日々を過ごしている。
仕事量が多い連休明けは、なぜか上司のレオナルド様と二人きりで仕事をすることを不思議に思ったローズはレオナルドに質問しようとするとはぐらかされてしまう。さらに夕食を一緒にしようと誘われて……。
◇表紙のイラストは、ありま氷炎さまに描いていただきました♪
◇全三話予約投稿済みです

今、私は幸せなの。ほっといて
青葉めいこ
ファンタジー
王族特有の色彩を持たない無能な王子をサポートするために婚約した公爵令嬢の私。初対面から王子に悪態を吐かれていたので、いつか必ず婚約を破談にすると決意していた。
卒業式のパーティーで、ある告白(告発?)をし、望み通り婚約は破談となり修道女になった。
そんな私の元に、元婚約者やら弟やらが訪ねてくる。
「今、私は幸せなの。ほっといて」
小説家になろうにも投稿しています。
婚約破棄されて辺境へ追放されました。でもステータスがほぼMAXだったので平気です!スローライフを楽しむぞっ♪
naturalsoft
恋愛
シオン・スカーレット公爵令嬢は転生者であった。夢だった剣と魔法の世界に転生し、剣の鍛錬と魔法の鍛錬と勉強をずっとしており、攻略者の好感度を上げなかったため、婚約破棄されました。
「あれ?ここって乙女ゲーの世界だったの?」
まっ、いいかっ!
持ち前の能天気さとポジティブ思考で、辺境へ追放されても元気に頑張って生きてます!

【完結】巻き戻したのだから何がなんでも幸せになる! 姉弟、母のために頑張ります!
金峯蓮華
恋愛
愛する人と引き離され、政略結婚で好きでもない人と結婚した。
夫になった男に人としての尊厳を踏みじにられても愛する子供達の為に頑張った。
なのに私は夫に殺された。
神様、こんど生まれ変わったら愛するあの人と結婚させて下さい。
子供達もあの人との子供として生まれてきてほしい。
あの人と結婚できず、幸せになれないのならもう生まれ変わらなくていいわ。
またこんな人生なら生きる意味がないものね。
時間が巻き戻ったブランシュのやり直しの物語。
ブランシュが幸せになるように導くのは娘と息子。
この物語は息子の視点とブランシュの視点が交差します。
おかしなところがあるかもしれませんが、独自の世界の物語なのでおおらかに見守っていただけるとうれしいです。
ご都合主義の緩いお話です。
よろしくお願いします。
婚約破棄? 私、この国の守護神ですが。
国樹田 樹
恋愛
王宮の舞踏会場にて婚約破棄を宣言された公爵令嬢・メリザンド=デラクロワ。
声高に断罪を叫ぶ王太子を前に、彼女は余裕の笑みを湛えていた。
愚かな男―――否、愚かな人間に、女神は鉄槌を下す。
古の盟約に縛られた一人の『女性』を巡る、悲恋と未来のお話。
よくある感じのざまぁ物語です。
ふんわり設定。ゆるーくお読みください。
冤罪を受けたため、隣国へ亡命します
しろねこ。
恋愛
「お父様が投獄?!」
呼び出されたレナンとミューズは驚きに顔を真っ青にする。
「冤罪よ。でも事は一刻も争うわ。申し訳ないけど、今すぐ荷づくりをして頂戴。すぐにこの国を出るわ」
突如母から言われたのは生活を一変させる言葉だった。
友人、婚約者、国、屋敷、それまでの生活をすべて捨て、令嬢達は手を差し伸べてくれた隣国へと逃げる。
冤罪を晴らすため、奮闘していく。
同名主人公にて様々な話を書いています。
立場やシチュエーションを変えたりしていますが、他作品とリンクする場所も多々あります。
サブキャラについてはスピンオフ的に書いた話もあったりします。
変わった作風かと思いますが、楽しんで頂けたらと思います。
ハピエンが好きなので、最後は必ずそこに繋げます!
小説家になろうさん、カクヨムさんでも投稿中。
呪いを受けて醜くなっても、婚約者は変わらず愛してくれました
しろねこ。
恋愛
婚約者が倒れた。
そんな連絡を受け、ティタンは急いで彼女の元へと向かう。
そこで見たのはあれほどまでに美しかった彼女の変わり果てた姿だ。
全身包帯で覆われ、顔も見えない。
所々見える皮膚は赤や黒といった色をしている。
「なぜこのようなことに…」
愛する人のこのような姿にティタンはただただ悲しむばかりだ。
同名キャラで複数の話を書いています。
作品により立場や地位、性格が多少変わっていますので、アナザーワールド的に読んで頂ければありがたいです。
この作品は少し古く、設定がまだ凝り固まって無い頃のものです。
皆ちょっと性格違いますが、これもこれでいいかなと載せてみます。
短めの話なのですが、重めな愛です。
お楽しみいただければと思います。
小説家になろうさん、カクヨムさんでもアップしてます!

「股ゆる令嬢」の幸せな白い結婚
ウサギテイマーTK
恋愛
公爵令嬢のフェミニム・インテラは、保持する特異能力のために、第一王子のアージノスと婚約していた。だが王子はフェミニムの行動を誤解し、別の少女と付き合うようになり、最終的にフェミニムとの婚約を破棄する。そしてフェミニムを、子どもを作ることが出来ない男性の元へと嫁がせるのである。それが王子とその周囲の者たちの、破滅への序章となることも知らずに。
※タイトルは下品ですが、R15範囲だと思います。完結保証。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる