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第一章 旅立ち
訳ありの騎士
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キィ、と蝶番の軋む音が耳につく。
戸口に立っていた人影は、その場にゆっくりと膝をついた。
背に遮られていた夕陽がさっと差し込み、床の上で砕けたガラスがキラリと光る。
(様子がおかしい? 怪我をしているのかな……)
がっくりと頭を垂れた様子は、苦しみに耐えているかのようだ。
その横をすり抜けて外に出るのは、難しくはないだろう。こうなった以上、形見の指輪は諦めて、ひとまず脱出をはかったほうが良い。
頭ではわかっていたが、アリスは慎重な足取りでその人へと近づいた。
神経を研ぎ澄ませているせいか、すぐにハァ、ハァ、と荒い呼吸をしていることに気づく。
落陽に全身が染め上げられている、長い銀髪を広い背に流した男性。
躊躇いを振り切り、アリスは息を吸い込んだ。
「どうしましたか。お怪我を?」
「……ひとがいたのか。この荒れ方は、ひどい。無事か?」
ハァ、と大義そうな息をしながらであったが、低く澄んだ声が響いた。
アリスは素早く思考を巡らせた。
(身なりは悪くない。帯剣している。見た所旅装のようだけど、少なくとも雇われの荒くれ者という雰囲気ではないわ。ここを襲撃した人とは、別ということ?)
無事か、と気遣う一言はあったが、気を許すことなく、話を進めることにした。
「あなたは何故ここへ? 薬師の工房ですよ。薬をお探しですか」
「そうだ。何か盛られたらしい……。体の自由がきかない……」
「他に症状は。苦しいなら喋らなくても大丈夫。私が調べます」
慎重な足取りで近づき、そばに膝をつく。
苦しげな吐息に、微かに林檎のような匂いを感じた。
「……麻痺毒のようです。私の考えているもので正しければ、解毒薬はあります。魔法で効力を高めるので、飲んだらすぐに動けるようになるはず。薬が無ければ、少なくとも明日の朝までは動けない。どうしますか」
「金貨百枚と言われたら考えるけど、できれば今すぐ欲しいな……。この場所は、安全じゃない」
顔を上げた男が、冗談めいた口調で答え、にこりと微笑みかけてくる。
アイスブルーの鮮やかな瞳。くっきりと整った顔立ちに、清冽な香気が漂っている。市井に紛れそうな地味なマントをまとってはいても、全体的に品のある印象。
「たしかに、この場所は見ての通りの有様で、いつ襲撃者が戻ってくるかわかりません。私は今すぐ立ち去ろうとしていました。そこにあなたが来た。私には、あなたが襲撃者の一味ではないと断定する根拠はなく……」
「迂闊に助けたら、恩を仇で返されると、警戒している?」
青年は、目元にも唇にも笑みを絶やさぬまま、穏やかに問いかけてきた。
(その通り。でも、もしこのひとが無関係だった場合、私は薬を求めてきたひとを拒み、危険な場所に置き去りにしただけになってしまう。それはアンブローズの薬師一族の者としても、ひととしても、あり得ない)
「警戒はしていますが、見捨てることはできません。薬はお渡しします。動けるようになったら、あなたもすぐにこの場を離れて。何が起きるかわからないですから」
決断して、立ち上がる。
ひっくり返された薬草棚に思いを巡らせたが、万が一毒でも混ぜられていたらと思うと、使うのは怖い。
出先を回る際に肩から下げている鞄を探り、解毒薬の詰まった瓶を握りしめる。口の中で小さく祈りを唱えて、魔法をのせた。
「これを飲んでください。ああ、手の自由もきかないんですね。では私がゆっくり飲ませます。毒ではなく、本物の薬です。私はあなたが誰か知らないし、あなたの命を狙う理由もありません。抵抗しないで、身を任せてください」
(考えてみると、毒を盛られるということは、このひとも何か危機的状況から逃れてきた訳ありということよね?)
何があったのだろうとチラッと考えたが、深入りはしないものとする。
すぐそばに膝で立ち、首の後ろに左腕を差し入れて後頭部を支え、角度をつけた上で唇に小瓶を寄せた。
青年は目を瞑り、されるがままにゆっくりと薬を飲み込んでいく。
瞼を閉じると、なおいっそうその彫刻めいた白皙の美貌が際立った。
まったく見覚えはない。記憶をあたっても、該当しそうな人物は思いつきもしなかった。
「ありがとう。すごいな。もう指の感覚が戻ってきた。効いてる。おっとごめん、重いんじゃないかな」
嫌味のない爽やかさで言いながら、青年はアリスの腕からさりげなく逃れた。
必要があったとはいえ、青年を抱きかかえるような体勢になっていたことに気付き、アリスもぱっと離れて立ち上がる。
「良かったです。私はもう行きますね。あなたも気をつけて」
「それなんだけど、薬の代金がまだだ」
青年もまた立ち上がった。細身であったが、ずいぶん背が高い。
アリスはその顔を見上げながら、早口に告げた。
「もし、少しでも恩を感じてくれているなら、私がここに戻ってくるまで、ドアを気にしていて欲しいです。すぐに戻ってきます。どうしても取って来たいものがあるの。……無理にとは言わない」
「そのくらいなら、お安い御用だよ。こう見えて、剣も多少は使える旅の騎士だ。麻痺が解けた今なら、あなたを守るくらい、わけがない」
「今だけで大丈夫よ。他人を巻き込むわけにはいかないの。自分でなんとかするから」
背を向けるほどに警戒を解くことはできなくて、アリスは青年から目をそらさないまま後退する。
そのとき、青年がふっとドアの向こうに顔を向けた。
バラバラと複数の足音が近づいてきていた。
戸口に立っていた人影は、その場にゆっくりと膝をついた。
背に遮られていた夕陽がさっと差し込み、床の上で砕けたガラスがキラリと光る。
(様子がおかしい? 怪我をしているのかな……)
がっくりと頭を垂れた様子は、苦しみに耐えているかのようだ。
その横をすり抜けて外に出るのは、難しくはないだろう。こうなった以上、形見の指輪は諦めて、ひとまず脱出をはかったほうが良い。
頭ではわかっていたが、アリスは慎重な足取りでその人へと近づいた。
神経を研ぎ澄ませているせいか、すぐにハァ、ハァ、と荒い呼吸をしていることに気づく。
落陽に全身が染め上げられている、長い銀髪を広い背に流した男性。
躊躇いを振り切り、アリスは息を吸い込んだ。
「どうしましたか。お怪我を?」
「……ひとがいたのか。この荒れ方は、ひどい。無事か?」
ハァ、と大義そうな息をしながらであったが、低く澄んだ声が響いた。
アリスは素早く思考を巡らせた。
(身なりは悪くない。帯剣している。見た所旅装のようだけど、少なくとも雇われの荒くれ者という雰囲気ではないわ。ここを襲撃した人とは、別ということ?)
無事か、と気遣う一言はあったが、気を許すことなく、話を進めることにした。
「あなたは何故ここへ? 薬師の工房ですよ。薬をお探しですか」
「そうだ。何か盛られたらしい……。体の自由がきかない……」
「他に症状は。苦しいなら喋らなくても大丈夫。私が調べます」
慎重な足取りで近づき、そばに膝をつく。
苦しげな吐息に、微かに林檎のような匂いを感じた。
「……麻痺毒のようです。私の考えているもので正しければ、解毒薬はあります。魔法で効力を高めるので、飲んだらすぐに動けるようになるはず。薬が無ければ、少なくとも明日の朝までは動けない。どうしますか」
「金貨百枚と言われたら考えるけど、できれば今すぐ欲しいな……。この場所は、安全じゃない」
顔を上げた男が、冗談めいた口調で答え、にこりと微笑みかけてくる。
アイスブルーの鮮やかな瞳。くっきりと整った顔立ちに、清冽な香気が漂っている。市井に紛れそうな地味なマントをまとってはいても、全体的に品のある印象。
「たしかに、この場所は見ての通りの有様で、いつ襲撃者が戻ってくるかわかりません。私は今すぐ立ち去ろうとしていました。そこにあなたが来た。私には、あなたが襲撃者の一味ではないと断定する根拠はなく……」
「迂闊に助けたら、恩を仇で返されると、警戒している?」
青年は、目元にも唇にも笑みを絶やさぬまま、穏やかに問いかけてきた。
(その通り。でも、もしこのひとが無関係だった場合、私は薬を求めてきたひとを拒み、危険な場所に置き去りにしただけになってしまう。それはアンブローズの薬師一族の者としても、ひととしても、あり得ない)
「警戒はしていますが、見捨てることはできません。薬はお渡しします。動けるようになったら、あなたもすぐにこの場を離れて。何が起きるかわからないですから」
決断して、立ち上がる。
ひっくり返された薬草棚に思いを巡らせたが、万が一毒でも混ぜられていたらと思うと、使うのは怖い。
出先を回る際に肩から下げている鞄を探り、解毒薬の詰まった瓶を握りしめる。口の中で小さく祈りを唱えて、魔法をのせた。
「これを飲んでください。ああ、手の自由もきかないんですね。では私がゆっくり飲ませます。毒ではなく、本物の薬です。私はあなたが誰か知らないし、あなたの命を狙う理由もありません。抵抗しないで、身を任せてください」
(考えてみると、毒を盛られるということは、このひとも何か危機的状況から逃れてきた訳ありということよね?)
何があったのだろうとチラッと考えたが、深入りはしないものとする。
すぐそばに膝で立ち、首の後ろに左腕を差し入れて後頭部を支え、角度をつけた上で唇に小瓶を寄せた。
青年は目を瞑り、されるがままにゆっくりと薬を飲み込んでいく。
瞼を閉じると、なおいっそうその彫刻めいた白皙の美貌が際立った。
まったく見覚えはない。記憶をあたっても、該当しそうな人物は思いつきもしなかった。
「ありがとう。すごいな。もう指の感覚が戻ってきた。効いてる。おっとごめん、重いんじゃないかな」
嫌味のない爽やかさで言いながら、青年はアリスの腕からさりげなく逃れた。
必要があったとはいえ、青年を抱きかかえるような体勢になっていたことに気付き、アリスもぱっと離れて立ち上がる。
「良かったです。私はもう行きますね。あなたも気をつけて」
「それなんだけど、薬の代金がまだだ」
青年もまた立ち上がった。細身であったが、ずいぶん背が高い。
アリスはその顔を見上げながら、早口に告げた。
「もし、少しでも恩を感じてくれているなら、私がここに戻ってくるまで、ドアを気にしていて欲しいです。すぐに戻ってきます。どうしても取って来たいものがあるの。……無理にとは言わない」
「そのくらいなら、お安い御用だよ。こう見えて、剣も多少は使える旅の騎士だ。麻痺が解けた今なら、あなたを守るくらい、わけがない」
「今だけで大丈夫よ。他人を巻き込むわけにはいかないの。自分でなんとかするから」
背を向けるほどに警戒を解くことはできなくて、アリスは青年から目をそらさないまま後退する。
そのとき、青年がふっとドアの向こうに顔を向けた。
バラバラと複数の足音が近づいてきていた。
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