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7 襖絵(2)
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寺の中は静謐に満ちていた。
木と漆喰の壁は、どんな音もゆるやかにしか遮断していない。
急に静けさを意識させられたのは、おそらくその薄暗さのせい。
ひんやりとした空気が淡く漂っている。
つややかな木目の床を、足音を立てず、凪人は進む。ならって香雅里も従う。有島はあれでかなり神経質だから、とは凪人の談。
やがて衣擦れのようなひそかな音が先の部屋から聞こえてくる。
「いる」
囁き声で凪人が言い、足を止めた。
「有島さん?」
「さて。貴重な生き物だ。絵描きっていう」
冗談とは思えぬ口調に、香雅里は口をつぐむ。
進む。
長い廊下。開け放たれた畳の間の奥。
襖の前に有島はいる。
足を止めて目を瞑り、その様を思い描く。
たぶん、頭には白いタオルを巻いている。あの色の褪せた黒いTシャツを着ている。そして。
「なんの用だ」
衣擦れのような音は止んでいて、比較的近い位置から声が降ってきた。
「おはよう有島」
機嫌があまり良いようには思えない有島の態度を、意に介さぬ凪人。
「朝飯のとき会ってる。二回目おはよう凪人。一回目おはよう高校生」
目を開けたら想像と違わぬ姿の有島が、仏頂面ひっさげて立っていた。ばっちり発見されていた。
「おはようございます有島さん」
抜群の笑顔だったはずなのに、有島は眉をひくりと動かし、ほとんど睨むようなまなざしを向けてきた。相変わらずの澄んだ黒瞳。
「高校生……、絵は」
その躊躇いの浮かんだ目に、打ち砕かれたキャンバスが思い起こされたのを感じる。
あれはもう思い出さないで欲しい。
あなただって、そうやって何枚も乗り越えてきたんじゃないですか。
「今日は見学しに来ました」
「何を」
「襖絵を」
「見ない方がいいと思うけど」
「なんでですか?」
「死ぬから」
以前どこかで聞いたなぁと思った。
記憶を探って出てきたのは煙草をやめない理由だった。
(このひとは、単純だ)
何もかも簡単な言葉で表現する。
好悪、愛憎、きっとそういうものも簡単に表現するに違いない。
それで通じると思っている。そういう生き物。
結論付けた香雅里の思考を裏切るように有島は両腕を広げ、何かの大袈裟な感情を表現する。そして言う。
「大体、こんなことしてる時間はないはずだ。絵を描け。間に合わないぞ」
背を向け、言い足りなかったように肩越しに振り返る。
「恋愛が忙しいってんなら止めないけど。青春だな」
捨て台詞。
それはもしかして。
理解するのに時間がかかった。
理解した後の香雅里の行動は、早かった。
走る。
走る、その背を追いかけて。
どこを掴めばいいのかわからなくて、軽く背に触れた。
振り返った顔が、驚いている。
時間はないからと香雅里は掴んだまま有島を見上げる。
「私はあなたの絵が好きです」
あぁ、やっぱりきれいな目をしているなと思った。あんなに性格悪そうなこと言うくせに、逸らしたくなくなる目をしているなと。
そのとき、心の奥底で感情が揺らめく。
見えたのは、蝋燭に灯った炎。
小さなほのかな朱色の光。
見つめているのは有島の目で、でも香雅里の目には奥底の炎が見えていた。
不意に、有島が目を細めた。
香雅里の目を見つめたまま、探るように。
何か言おうと唇を動かす。何も言えずに引き結ぶ。
その動きだけで十分だった。
細かな、粟立つような震えが湧き起こってきて、香雅里は背に触れていた手を下ろした。
捕まれた。
有島の、空いていた腕が、掌が、長い指が香雅里の手首を掴んでいた。
「そうだ、聞きたいと思ってたんだ。『音無しの底』を見たのか?」
押し殺した声。
捕まれている。逃げられないという事実が頭に沁みこんで来るにつれ、一端はひいていた恐慌が噴出しそうになる。
逃げたい。
怖い。
視線が痛い。
答えない香雅里の顔を、有島はわずかに身体を傾げて覗き込む。
蝋燭の光が、酸素を浴びたように一瞬輝きを増した。暗闇の中で、赤く炸裂する。
「……はいはーい、そこまでー!」
ひとり、夏の、寺の廊下に残っていた凪人の声が二人をそちら側へと引き戻す。
絡み合う二人の手に自分の手を添えて、さっと鮮やかに引き離す。
ジリリリリリと蝉の声が響く。
たっぷりと緑をはらんだ風が吹く。
光は静かに注いでいた。
長の年月を刻んだ庇に遮られ、厳かに。
「有島、確かにこの子には時間がない。お前にもない。だよな?」
「俺は、別に」
「週末には他のアーティストとのお絵描き教室の予定が入っているし、来週は講演会とワークショップ。イベント目白押し! ま、それはオレも参加するけど。純粋に絵を描ける時間は、お前だってそんなにないはずだ」
否定できなかったのか有島は押し黙った。凪人はにっこりと微笑む。
「有島の描きかけの絵は諦める。ってことで帰ろう香雅里ちゃん。君は君の絵を描くんだ」
凪人の手が香雅里の肩に触れた。回れ右を促すように。その手の、指の先を有島は見ていた。この上なく渋い顔。
「凪人、お前写真撮りに来たんじゃねぇの」
「あーりしまっ。オレたちを引き止めないで。なんか、見苦しいから」
有島の顔が歪む。
「何かまだ用がありますか」
ついつい香雅里も強気に便乗してしまった。
歪めきっていた顔を正して、有島は二人を切れ長の瞳で睨みつける。
凪人は香雅里の肩にかけた指に軽く力を込めた。
「帰ろう」
「待て」
「なに、いい加減うるさいよ有島」
羽虫をけむたがるように凪人は言って、小さく手で払う仕草をした。促されて歩き出していた香雅里は一応振り返る。
目が合ってしまった。
完全にガンつけだった。全然逸らさない。
見ている香雅里がくじけそうになるほど一途なまなざしを注いでくれてから、有島は凪人の後姿に目を向ける。
「喧嘩売られているような気がしているんだけど。絵で」
「それ、最終確認にしてね? イエス」
「条件を揃えることを提案する」
凪人は香雅里の肩から手を放す。
「条件?」
存在を主張するように、スコンと小気味良い音を立てて、獅子嚇しが鳴った。
木と漆喰の壁は、どんな音もゆるやかにしか遮断していない。
急に静けさを意識させられたのは、おそらくその薄暗さのせい。
ひんやりとした空気が淡く漂っている。
つややかな木目の床を、足音を立てず、凪人は進む。ならって香雅里も従う。有島はあれでかなり神経質だから、とは凪人の談。
やがて衣擦れのようなひそかな音が先の部屋から聞こえてくる。
「いる」
囁き声で凪人が言い、足を止めた。
「有島さん?」
「さて。貴重な生き物だ。絵描きっていう」
冗談とは思えぬ口調に、香雅里は口をつぐむ。
進む。
長い廊下。開け放たれた畳の間の奥。
襖の前に有島はいる。
足を止めて目を瞑り、その様を思い描く。
たぶん、頭には白いタオルを巻いている。あの色の褪せた黒いTシャツを着ている。そして。
「なんの用だ」
衣擦れのような音は止んでいて、比較的近い位置から声が降ってきた。
「おはよう有島」
機嫌があまり良いようには思えない有島の態度を、意に介さぬ凪人。
「朝飯のとき会ってる。二回目おはよう凪人。一回目おはよう高校生」
目を開けたら想像と違わぬ姿の有島が、仏頂面ひっさげて立っていた。ばっちり発見されていた。
「おはようございます有島さん」
抜群の笑顔だったはずなのに、有島は眉をひくりと動かし、ほとんど睨むようなまなざしを向けてきた。相変わらずの澄んだ黒瞳。
「高校生……、絵は」
その躊躇いの浮かんだ目に、打ち砕かれたキャンバスが思い起こされたのを感じる。
あれはもう思い出さないで欲しい。
あなただって、そうやって何枚も乗り越えてきたんじゃないですか。
「今日は見学しに来ました」
「何を」
「襖絵を」
「見ない方がいいと思うけど」
「なんでですか?」
「死ぬから」
以前どこかで聞いたなぁと思った。
記憶を探って出てきたのは煙草をやめない理由だった。
(このひとは、単純だ)
何もかも簡単な言葉で表現する。
好悪、愛憎、きっとそういうものも簡単に表現するに違いない。
それで通じると思っている。そういう生き物。
結論付けた香雅里の思考を裏切るように有島は両腕を広げ、何かの大袈裟な感情を表現する。そして言う。
「大体、こんなことしてる時間はないはずだ。絵を描け。間に合わないぞ」
背を向け、言い足りなかったように肩越しに振り返る。
「恋愛が忙しいってんなら止めないけど。青春だな」
捨て台詞。
それはもしかして。
理解するのに時間がかかった。
理解した後の香雅里の行動は、早かった。
走る。
走る、その背を追いかけて。
どこを掴めばいいのかわからなくて、軽く背に触れた。
振り返った顔が、驚いている。
時間はないからと香雅里は掴んだまま有島を見上げる。
「私はあなたの絵が好きです」
あぁ、やっぱりきれいな目をしているなと思った。あんなに性格悪そうなこと言うくせに、逸らしたくなくなる目をしているなと。
そのとき、心の奥底で感情が揺らめく。
見えたのは、蝋燭に灯った炎。
小さなほのかな朱色の光。
見つめているのは有島の目で、でも香雅里の目には奥底の炎が見えていた。
不意に、有島が目を細めた。
香雅里の目を見つめたまま、探るように。
何か言おうと唇を動かす。何も言えずに引き結ぶ。
その動きだけで十分だった。
細かな、粟立つような震えが湧き起こってきて、香雅里は背に触れていた手を下ろした。
捕まれた。
有島の、空いていた腕が、掌が、長い指が香雅里の手首を掴んでいた。
「そうだ、聞きたいと思ってたんだ。『音無しの底』を見たのか?」
押し殺した声。
捕まれている。逃げられないという事実が頭に沁みこんで来るにつれ、一端はひいていた恐慌が噴出しそうになる。
逃げたい。
怖い。
視線が痛い。
答えない香雅里の顔を、有島はわずかに身体を傾げて覗き込む。
蝋燭の光が、酸素を浴びたように一瞬輝きを増した。暗闇の中で、赤く炸裂する。
「……はいはーい、そこまでー!」
ひとり、夏の、寺の廊下に残っていた凪人の声が二人をそちら側へと引き戻す。
絡み合う二人の手に自分の手を添えて、さっと鮮やかに引き離す。
ジリリリリリと蝉の声が響く。
たっぷりと緑をはらんだ風が吹く。
光は静かに注いでいた。
長の年月を刻んだ庇に遮られ、厳かに。
「有島、確かにこの子には時間がない。お前にもない。だよな?」
「俺は、別に」
「週末には他のアーティストとのお絵描き教室の予定が入っているし、来週は講演会とワークショップ。イベント目白押し! ま、それはオレも参加するけど。純粋に絵を描ける時間は、お前だってそんなにないはずだ」
否定できなかったのか有島は押し黙った。凪人はにっこりと微笑む。
「有島の描きかけの絵は諦める。ってことで帰ろう香雅里ちゃん。君は君の絵を描くんだ」
凪人の手が香雅里の肩に触れた。回れ右を促すように。その手の、指の先を有島は見ていた。この上なく渋い顔。
「凪人、お前写真撮りに来たんじゃねぇの」
「あーりしまっ。オレたちを引き止めないで。なんか、見苦しいから」
有島の顔が歪む。
「何かまだ用がありますか」
ついつい香雅里も強気に便乗してしまった。
歪めきっていた顔を正して、有島は二人を切れ長の瞳で睨みつける。
凪人は香雅里の肩にかけた指に軽く力を込めた。
「帰ろう」
「待て」
「なに、いい加減うるさいよ有島」
羽虫をけむたがるように凪人は言って、小さく手で払う仕草をした。促されて歩き出していた香雅里は一応振り返る。
目が合ってしまった。
完全にガンつけだった。全然逸らさない。
見ている香雅里がくじけそうになるほど一途なまなざしを注いでくれてから、有島は凪人の後姿に目を向ける。
「喧嘩売られているような気がしているんだけど。絵で」
「それ、最終確認にしてね? イエス」
「条件を揃えることを提案する」
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