息絶える瞬間の詩のように

有沢真尋

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4 感情

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 夏休みの駐輪場は、空いていた。
 勢いのままつっこみ、チャリを乗り捨てようとしてなんとか思いとどまる。いつもどおりスタンドを立て、鍵を抜き、チェーンをかける。
 その作業の間に、手の震えがおさまるようにと念じながら。
 止まらず。
 立ち上がろうとしたところで、チャリの鍵を落とす。
 拾おうとかがむも、一度腰を下ろすと、今度は立ち上がることが出来なくなっていた。

 トタン屋根の影。
 日差しは遮られているけれど、暑さはまとわりつくように漂っている。
 夏はまだまだこれからだと思い知らせるように。
 けれど、見上げた薄い青空に思う。
 夏は終わる。
 当たり前のようにある日を境に気温が下がり始め、気がついたら秋。その頃には芸術祭はとうに終わって思い出も薄れはじめていて、有島はこの町にはいない。

 遠くで、ホイッスルの音が高く響いていた。
 それを聞いて香雅里はようやく立ち上がった。
 その拍子に、ブルーのストライプのスカートの裾が目に入る。
「私服……」
 勢い余ってそのまま来てしまったのだ。
 学校に。
 来てしまった以上、なすべきことをせねばならない。
 せめて誰にも会わなければいいのに、と思い、小走りで校舎に飛び込む。
 向かう先は美術室。
 人気の無い廊下を走りぬけ、階段を上る。その間、頭の中を占めていたのは、有島の描いた壁のラクガキ。

 なんの芸もない、ただのペンキで描きなぐられた青。

 階段を一段飛ばしで駆け上がる。息が乱れる。
 その合い間に、脳裏に壁の青が閃く。
 瞬きの一瞬、暗い世界に青い海が広がる。
 それを振り払うために息を止め、目を見開き、踊り場に片足を踏み込む。
 正面には壁。
 上方に高い窓。
 青ざめた光が差し込んでいた。

 光。

 頭の中では海がもはやとめどなく広がり、あふれだした。
 遅れた片足が踊り場に乗り上げたときには、もう身体が前に進まなくなっていた。
 広がった海は目の前の壁に映し出されていて、幻だと知っているのに足が止まってしまっていた。
 
 ラクガキだった、と香雅里はいま一度自分自身に確認した。あれは絵でも何でもない。
 ただの寝ぼけて描かれたラクガキなのだと。
 なのに、思い出すだけで衝動に駆られる。

 叩きつけるように。

 歯を食いしばり、足を踏みしめて香雅里は幻の声に対峙した。目に見えぬ海を睨みつけて。
 去れ、と。
 まなざしに力をこめ、念じる。
 私を引きずるもの、変えようとするもの。
 否定しようとするもの! 去れ!

 まばたきはしない。
 目が反転しそうなほど痛み、涙がもりあがってくるまで睨み続けた。それしか出来なかったから。
 去れ。
 私をこの場からどこかへ引きずっていこうとするもの。
 念じる。ひたすらに念じ続ける。

 幻が去った後は、なんの変哲もないただの壁。冷えた灰色。
 けれど香雅里は金縛りにあったように、長いことそこから動けなかった。
 実際にそれがどの程度の時間かはわからなかったが。
「ただのラクガキ……」
 なのに、私の息の根を止めようとしている。
 額に浮かんだ汗を手の甲でぬぐい、香雅里は美術室へと向かうため、向きを変える。

 階段を駆け上がる。
 もう振り返らない。
 そう思いながら長い廊下を、無人の廊下を見つめたときに、わけもわからなくなるほどの脱力感、無力感に襲われて歯を食いしばった。
 足がよろけた。
 踏みとどまった。
 息が苦しくなってきた。深呼吸した。泣くかと思った。止められそうになかった。
 だから叫んだ。

「くやしーーーーーーーーーーーーーーっ」
 そのとき、ようやく。
 感情の正体を、戦うべき敵の正体を知った。


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