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第七章
空の近く
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「ほんとだ。空がすごく近い……」
燃えるような黄昏色が、紫紺に溶け込んで青く透き通っていく空には、まばらに星々が輝いていた。
首が痛くなるほど空を見上げていたステファンは、そのまま視線を巡らせて故郷の方角へと顔を向ける。長いこと帰っていない、成果を上げずして戻れない懐かしい場所。心の中に、いつも大切にとってある光景を思い起こしながら。
「怖気づいて部屋にこもっていた臆病者どもが、今さら何をしに来た」
幻想を打ち破るのは、耳障りでとげとげしい言葉。
視線を遮るように飛び込んできたのは、ジェラルドの姿。
屋上は篝火が焚かれていて、床は広く掘られており、空の紺色を映した湯がなみなみと湛えられて湯気が上がっていた。
あたりが薄暗く、湯が濁っていることもあり、裸身こそ見えないが、ジェラルドはしっかりと湯に浸かっていた。
ステファンは、上司に似通った面影を持つ青年に対して思わず何か言い返そうとしたが、かろうじて下着一枚身につけただけのラインハルトがのしのしと歩いてきて、横を通り過ぎていった。
「風呂に入りにですよ、坊っちゃん。ちょっといいですかね」
ざぶん、と盛大な水しぶきが上がる。顔まで飛んできたその飛沫に、ステファンは迷惑さを隠しもせずに眉を寄せて険しい表情をした。
それは、間近でさらに多くの水をくらったジェラルドもまた同じらしく、きつく顔を歪めて「良くない」と文句を口にしていた。
「坊っちゃんってなんだ。坊っちゃんて」
「いやあ、暗くて顔がよく見えなくて。ただどこか良いところの坊っちゃんが入ってるから挨拶をしたまでですよ」
「なんだそれは。俺がどこの誰だかわかってるくせに、白々しい」
ジェラルドは、ぶつぶつと言い捨てる。
しかしその横顔には、言葉ほどに苛立った様子もなく、ステファンは思わず「それでいいのか」と独り言を呟きそうになった。かろうじて耐えたが、納得いかない思いが胸の中で燻っている。
(ラインハルトは、単に「殿下」と呼ぶのを避けただけだろうが、「良いところの坊っちゃん」って言われて満更でもないって様子に見えるんだが?)
フィリップスに極端な思想を教示し、その背後にあって彼を意のままに操ろうとしていた謎めいた人物としてのジェラルドは、狡猾で抜け目がなく一筋縄ではいかない印象があった。
その人物像と、目の前の彼はどこかずれていて、噛み合わない。
腕っぷしもからっきしではないようだが、決して強いわけではなく、ステファンの相手ではない。
どうも、違和感がある。
「入りそびれるぞ。難しい顔をしていないで、お前も入れば良い」
立ち尽くしたステファンの横を、フィリップスが通り過ぎた。ラインハルトよりは慎ましい動作で片足ずつ湯に入っていく。
ジェラルドの付き人たちは三人ばかり、着衣のまま湯には浸からずに控えていた。
ステファンもまた、役割としては同じつもりで脱いではいなかったが、温泉に浸かった三人から交互に煽るように声をかけられた。
「後から女性たちと一緒に入るつもりか」「お前の魂胆はわかってるぞ」「むっつりめ」
気にしないでやり過ごそうとしたステファンであったが、仲間たちとジェラルドが休戦よろしくこのときばかりは仲良く自分を集中狙いで囃し立てていることに気づき、イラッとして言い返してしまう。
「いまむっつりって言ったのは誰だ。それは単に誹謗中傷だろ」
「まあまあ、言われても仕方ない。ここは黙って入っておけ。男は黙って温泉」
ラインハルトがどうしようもない言葉でとりなしてくるのが、余計に癇に障る。
思わず「馬鹿か」と短絡的な言葉で言い返しそうになったが、背後から肩をとんとんと叩かれて呑み込んだ。
「誰……ッ」
「俺。いま着いた」
その声。
篝火に照らし出された秀麗な面差しに、まさか、とステファンは目を見開いた。
「何しに? 遅いですよね?」
「仕事を片付けていたら、ジェラルドが行方をくらましたって話が耳に入ってきた。あ~これは行ったなと思って追いかけてきたら、この時間になった。後手に回ったのは認める。ところで温泉入らないのか?」
抗議めいたステファンの質問を軽く受け流して、枯れ草色の髪の青年は羽織っていたジャケットを脱いでステファンに渡してくる。
受け取ってしまい、さらにシャツを脱ごうとしているのをあっけにとられて見守ってしまってから、ステファンはそんな場合ではないと我に返った。
「閣下は温泉に入っている場合ではないでしょう! 先生とアルシア様のところにさっさと行ってください! なんでここに先に来たんですか!」
「こっちにジェラルドがいるから。ジュディの方は母上の護衛もいるんだろ?」
なぜ怒られているか、ぴんときていない顔をしていた。能天気ここに極まれり。
(だめだ。全然わかっていない。いきなり自分抜きで婚約者と母親を二人きりにしたことについて、危機感がゼロだ!)
どうしてこういうところは抜けているんだ、と呆れながらステファンはジャケットを叩き返して告げた。
「閣下が来るべきはここではありません。温泉は後にしてください。行きますよ」
燃えるような黄昏色が、紫紺に溶け込んで青く透き通っていく空には、まばらに星々が輝いていた。
首が痛くなるほど空を見上げていたステファンは、そのまま視線を巡らせて故郷の方角へと顔を向ける。長いこと帰っていない、成果を上げずして戻れない懐かしい場所。心の中に、いつも大切にとってある光景を思い起こしながら。
「怖気づいて部屋にこもっていた臆病者どもが、今さら何をしに来た」
幻想を打ち破るのは、耳障りでとげとげしい言葉。
視線を遮るように飛び込んできたのは、ジェラルドの姿。
屋上は篝火が焚かれていて、床は広く掘られており、空の紺色を映した湯がなみなみと湛えられて湯気が上がっていた。
あたりが薄暗く、湯が濁っていることもあり、裸身こそ見えないが、ジェラルドはしっかりと湯に浸かっていた。
ステファンは、上司に似通った面影を持つ青年に対して思わず何か言い返そうとしたが、かろうじて下着一枚身につけただけのラインハルトがのしのしと歩いてきて、横を通り過ぎていった。
「風呂に入りにですよ、坊っちゃん。ちょっといいですかね」
ざぶん、と盛大な水しぶきが上がる。顔まで飛んできたその飛沫に、ステファンは迷惑さを隠しもせずに眉を寄せて険しい表情をした。
それは、間近でさらに多くの水をくらったジェラルドもまた同じらしく、きつく顔を歪めて「良くない」と文句を口にしていた。
「坊っちゃんってなんだ。坊っちゃんて」
「いやあ、暗くて顔がよく見えなくて。ただどこか良いところの坊っちゃんが入ってるから挨拶をしたまでですよ」
「なんだそれは。俺がどこの誰だかわかってるくせに、白々しい」
ジェラルドは、ぶつぶつと言い捨てる。
しかしその横顔には、言葉ほどに苛立った様子もなく、ステファンは思わず「それでいいのか」と独り言を呟きそうになった。かろうじて耐えたが、納得いかない思いが胸の中で燻っている。
(ラインハルトは、単に「殿下」と呼ぶのを避けただけだろうが、「良いところの坊っちゃん」って言われて満更でもないって様子に見えるんだが?)
フィリップスに極端な思想を教示し、その背後にあって彼を意のままに操ろうとしていた謎めいた人物としてのジェラルドは、狡猾で抜け目がなく一筋縄ではいかない印象があった。
その人物像と、目の前の彼はどこかずれていて、噛み合わない。
腕っぷしもからっきしではないようだが、決して強いわけではなく、ステファンの相手ではない。
どうも、違和感がある。
「入りそびれるぞ。難しい顔をしていないで、お前も入れば良い」
立ち尽くしたステファンの横を、フィリップスが通り過ぎた。ラインハルトよりは慎ましい動作で片足ずつ湯に入っていく。
ジェラルドの付き人たちは三人ばかり、着衣のまま湯には浸からずに控えていた。
ステファンもまた、役割としては同じつもりで脱いではいなかったが、温泉に浸かった三人から交互に煽るように声をかけられた。
「後から女性たちと一緒に入るつもりか」「お前の魂胆はわかってるぞ」「むっつりめ」
気にしないでやり過ごそうとしたステファンであったが、仲間たちとジェラルドが休戦よろしくこのときばかりは仲良く自分を集中狙いで囃し立てていることに気づき、イラッとして言い返してしまう。
「いまむっつりって言ったのは誰だ。それは単に誹謗中傷だろ」
「まあまあ、言われても仕方ない。ここは黙って入っておけ。男は黙って温泉」
ラインハルトがどうしようもない言葉でとりなしてくるのが、余計に癇に障る。
思わず「馬鹿か」と短絡的な言葉で言い返しそうになったが、背後から肩をとんとんと叩かれて呑み込んだ。
「誰……ッ」
「俺。いま着いた」
その声。
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「何しに? 遅いですよね?」
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