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第五章

愛ゆえの実利

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 荒れた部屋の中につかつかと踏み込んできたステファンは、「ああもう」と嘆息しながら、ガウェインの正面に立った。

「閣下、ねじぶっ飛んでる。廊下に聞こえていましたが、とらわれのお姫様に正論パンチしている暇があったら、もっと言うこともやることもあるでしょう。それとも、俺が手本を見せた方が良いんですか? 『甘やかす』ってやつ」

 きつい眼差しでステファンを睨みつけたガウェインは、全身の強張りを解くように、ゆっくりと息を吐きだして目を閉ざした。そして、小さく呟いた。

「だめだ。譲らない」

 ステファンが、ぽん、とガウェインの肩に手を置いた。

「あっそ。じゃあ、さっさと正気に戻ってください。いまの閣下、ひどい顔してますよ。こういうときこそ、紳士でいてください。あなたは法治国家の官僚です。あの青年は、まぎれもなくこの国の民ですよ。不当に踏み躙《にじ》ってはいけません」

 不当ではない、とガウェインが小声で抗議らしきものをした。それに対し、ステファンは人好きのする華やかな笑みを浮かべて、ガウェインの顔を覗き込んだ。

「閣下、俺に頭突きされておきますか?」
「調子に乗るなばか」

 張り詰めていた空気が、ほんの少しずつ、ほどけていく。
 そのとき、男が動いた。
 ガウェインとステファンは同時に反応をした。
 二人の呼吸はよく噛み合っていて、ガウェインの肩に置いた手に力を込めて押さえつけつつ、ステファンがガウェインより前に出る。
 立ち上がり、走り出そうとした男の行く手をふさぎ、風切音とともに繰り出された拳を軽い動きでかわした。
 そして、ジュディの目では捉えきれない動きで男に打撃を加え、よろめいて折れ曲がった体を、片腕で受け止めた。

「ほら。こういうのは自分以外の人間にやらせなきゃだめですよ、閣下。頭に血が上っても、あなたは手を汚すな」

 奇妙に優しい響きを持つ声だった。
 言葉もなく見つめていたジュディと目が合うと、ステファンは微笑を浮かべてから顔を逸らした。

「意識が戻る前に縛り上げて、監獄塔に届けておきます。閣下はまず、やるべきことを終えてください。そこまでこっちは手が回らないんで」

 男を抱えあげて、部屋を横切る。
 その背に向かって、ジュディは声を張り上げた。

「そのひと、悪いひとかもしれないけど、私のこと殴ろうとして殴れなかったり、ガラスからかばってくれたりしました! 私をさらったけど、そこまで悪いことはしていなくて!」

 口にしたそばから、猛烈な無力感に襲われて、四肢から力が抜けていった。
 この言葉に、意味などない。
 ジュディ自身わかっていた。
 上っ面で、薄っぺらくて、自分が良い人間でありたいだけの、自己満足。

(解放すべきとは、言えない……。私が触れた彼の一面が悪ではなかったとしても、見えていない大半は悪かもしれなくて、信じて解き放ったら次の悪事に手を染めるかもしれない。被害や、犠牲者が出る。その責任を、私は負えない)

 後先をすべて見通す見識を持った上で、自ら戦う道を選び取る彼らには、根本的に覚悟の深さがかなわない。
 まだ固い表情をしたままのガウェインが、低い声で切々と訴えかけてくる。

「ジュディ、あなたは悪党の手口を知らなすぎる。さらって痛めつけた被害者に対して、優しく手当てを施し、死なないように調整しながら拷問を繰り返す手合いだって世の中にはたくさんいる。それこそ、美しさや若さゆえに買い叩かれた奴隷たちは、そうやって搾取と虐待の連鎖の中で精神を破壊されて」

 戸口で足を止めていたステファンは、肩越しに振り返ってジュディを見た。

「閣下が先生に言いたいのは、『簡単にほだされるな、いままさに君がその犠牲者になるところだったんだ』です。閣下は仕事上、悲惨な例をいくつも見ています。先日のアリンガム子爵の人身売買の件でも、惨《むご》い事実が出てきている。ただの悪党に対して、ここまでキレ散らかす人間ではないとわかるなら、怖がらずに信じてあげてください。あなたをさらった悪党ではなく、あなたの為に手を汚している閣下のことを。間違わないで、敵と味方を」

 言い終えると、廊下へと消えていく。

「ジュ、ジュディ~! 無事か~!」

 戸口から覗き込んでいたアルフォンスが、入れ違いに室内へと踏み込んできた。
 ベッドの上で体を起こしていたジュディは、見慣れた兄の姿に、なんとか笑みを浮かべて頷き返す。

「お兄様まで……。危ないのに」

「危ないのはジュディだよ、いったい何に巻き込まれているんだ? あっ、まさかアリンガム子爵の件か? まったく、いつまでうちの可愛いジュディに迷惑をかければ気が済むんだあいつは」

 重苦しい空気を吹き飛ばすように、やかましく早口でまくしたてる。ひとりしかいないのに、妙に空気が騒々しくなり、ガウェインが横を向いて噴き出した。

「だいたい、なんだよ閣下、さっきの男は! 弟君か? やけに似ていたな。困るよ~弟のしつけは兄の責任!」

 言われたガウェインは、妙に楽しげに瞳を輝かせて「親じゃなく、兄なんですか?」と尋ねる。
 アルフォンスは自信いっぱいに胸を叩き、断言をした。

「ジュディは私が育てた」
「さすがです。完璧です」

 二人の会話に耳を傾けつつ、そ、そうかな? とジュディは内心では首を傾げたいところであったが、話の腰を折らぬようにじっとしていた。

(悪党の……、おそらくジェラルドさんに関しては、私は変に心を残してはいけないわ。敵と味方を間違えてはいけない)

 気持ちの問題だけではなく、さりげなく頭痛がぶりかえしてきていたのと、服の上からとはいえ、他人に体を触られた気持ち悪い感触が思い出されて、おとなしくなってしまったのもある。
 かばうように胸元に腕をあてていると、気付いたガウェインが一歩、近づいてきた。

「怖い思いをさせてしまいまして。もしかしなくても、その大半は俺かもしれませんが。というか俺ですね、すみません」

 悲しげに言われて、ジュディは「そんなことありません!」ととっさに否定をした。勘違いされてはたまらない。

「ぶつけたり、触られたりが嫌で、その、閣下が来てくださって本当に助かりました。閣下には感謝しかないです」
「……どこを? 怪我は?」
「頭と、む、胸を」

 ひゅう、と冷たい風が吹いて体感室温がまたたく間に下がった。

「尋問はやはり、俺が行います。よーく話し合っておかないと。弟じゃねえけど」

 乱れていた。気持ちの乱れが言葉に出ていて、らしくない悪態をついていた。
 ジュディはどきどきとしながら、アルフォンスに向かって、小声で願い出た。

「足も痛めていて。お兄様、手を貸して頂けますか」

 もちろん、と答えたアルフォンスの前を横切り、ベッドの側まで進んだガウェインが、「俺がいます」と短く告げてジュディを抱き上げた。

 やはり恐ろしく着痩せをするタイプらしく、腕は鋼のように力強く安定感があり、布越しでさえ触れ合う体のどこもかしこも引き締まって固いのがわかる。
 まるで重みを感じていないように軽く抱えられ、ジュディは近すぎるガウェインの顔を見ることもできずに、遠い目をしてしまった。

(今さらこんなこと言えないけど、男の人の体……緊張します……!)

 心臓の音が聞こえませんようにと、そわそわしてしまう。
 そのジュディを抱え直して、ガウェインは思い詰めたような声で切り出してきた。

「ずっと言いたいことがあったんです」
「はい」

 え、あれ、俺ここにいていいの? とアルフォンスが挙動不審になっている気配を感じつつ、ジュディは返事をして、顔を上げる。
 金色の瞳を痛ましげに細めたガウェインは、ジュディと視線を合わせて告げた。

「一緒に暮らしませんか。このまま屋敷に連れ帰ろうと思います」
「えっ」

 ジュディとアルフォンスの声が重なった。
 先に口を開いたのはアルフォンスで、咳払いとともに詰め寄ってくる。

「閣下、物事には順序というものがある。よく考えてほしい。男女関係を進めたいのであればまずは周辺の根回しや本人への働きかけが必要だ。つまり親きょうだいと良好な関係を築きつつ、意中の相手をデートに誘うなどだね、一般的には」

 元婚約者から「この年数放置だなんて、常識的に考えてありえない」と婚約破棄されたばかりとは思えないほどまっとうな一般論を口にしていた。
 お兄様、手順はわかってらっしゃるんですね、とジュディはひそかに感動をしかけたが、いまはそんな場合ではない。

「閣下、それはつまり」

 ジュディが問いかけると、ガウェインは生真面目な顔で答える。

「我が家は要塞並みに安全です。もう誰にも手出しはさせない」
「そうなるともうそれは事実上の結婚といいますか、その前に私たちはデートもまだでお茶会の約束も」

 まだ何も進んでいないんです、という意味でジュディが尋ねると、ようやく何か大切なことを思い出したように、ガウェインは顔をしかめた。またステファンに怒られる、意訳するとそんな顔だった。
 ジュディは慌てて「緊急処置って意味ですよね?」とその意を汲んでフォローしようと試みたが「違います」とやけにきっぱりと断言される。そのまま、息もつかずに続けられた。

「好きです。一緒に暮らしてください。あなたが標的にされるなら、逃げてとも隠れてとも言わない。俺のすぐそばにいてください。結婚がいいです」

 それは、やがてこの国の歴史にその名を刻む稀代の政治家のプロポーズとしてはいささか不格好なほど、たどたどしくも実利に満ち溢れた愛の告白だった。



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