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第四章

砂糖菓子のシロップ漬け

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 リンゼイ家のタウンハウスに至る角を馬車が曲がった頃、街路でヴァイオリンの音色が響いていた。

 薄暮の空へと向かい、力強く、繊細に奏でられる調べ。胸の中に流れ込んできて、心の深い部分を呼び覚ますような鮮やかな音。

(人通りも多くないのに、こんなところで珍しい。かなりの腕前じゃなくて? どこかのご令息かしら?)

 屋敷の前で馬車を降りるときに、ジュディは道の先のその姿に目を凝らした。
 距離があり、薄暗いこともあって、人相はハッキリわからない。ハンチング帽を目深にかぶり、シャツの袖をまくって、ベストを身に着けた長身の青年であるのが確認できただけだ。
 曲を弾き終え、ほんの少し無音となる。
 彼は再びヴァイオリンを構え、弓を弦に滑らせる――

 溢れ出す艷やかな音が紡ぎ出すのは、何度も耳にしたことのあるなじみの曲だった。
 優しい調べのカノン。

「先生、どうしました。あの奏者が気になります?」

 ジュディの手を取って降車を助けていたステファンが、身を屈めてジュディの耳元で囁く。
 不意打ち過ぎて、ジュディは「きゃっ」と小さく悲鳴を上げた。

「びっくりさせないでください。近いですよ」
「すみません。なんだかずいぶん気もそぞろだったので。驚かしてみようかなって」

 人の悪いことを爽やかに言ってのけて、ステファンはジュディの手を離す。黄昏の光を頬に浴び、思いがけないほど穏やかな顔でジュディを見ていた。
 向かい合う形になり、ジュディも自然と口元をほころばせて告げた。

「今日は一日、本当に楽しかったです。急なことでしたのに、お付き合い頂きありがとうございました」

 ステファンは胸に手を当てると、片目を細めて噛んで含めるように言った。

「閣下たってのお願いでしたので。準備して待っている先生を、中止連絡でがっかりさせたくないと。それで俺にデートの代理を頼むのがよくわからないんですけどね。デートのつもりなら、本人同士がしないと意味がないはずなんですが」

 デート、という言葉の響きだけで心臓がぎゅっと引き絞られるように痛み、ジュディはドキドキとしながら上ずった声で返す。

「とても素晴らしい『練習』になりました! あの、本当に、今日の今日で閣下を前にして二人きりだと、心の準備ができていなくて、何がどうなったかわからないので……。私、今までデートってまともにしたこともないんです。ステファンさんに色々教えてもらって、良かったです」

 ははっとステファンが軽やかな笑い声を響かせた。

「それマジで言ってます? 元旦那はいったい何をしていたんだって言うか、閣下も現在進行系で何やってんだっていうか。先生がその気なら、俺がこのまま全部予行練習お付き合い致しますよ。夜会も舞踏会もオペラも結婚式も、全部俺で練習しておきますか」

「結婚式……、一度しているはずなんですけどね。もうよく覚えていません。ステファンさんは経験あるんですか?」

「あいにく経験は無いです。それでも、手順くらいは押さえていますから、心配しないで身を任せてください。まずは、キスを」

 言うなり、ステファンが強引な仕草でジュディの腰を引き寄せた。もう片方の手でほっそりとした顎を掴み、上向かせる。一瞬の出来事で、抵抗もできずにジュディは捕らえられて、ステファンを見上げる形になった。
 切なげな瞳で射すくめるように見つめられ、とっさに声が出ない。

 遠くで、甘やかでいてどこか悩ましいヴァイオリンの音色が、恋の名のつく曲を歌い上げている。
 その音に、ひづめが石畳を蹴る音が重なる。車輪の音はなく、不思議に思ってジュディがそちらへ顔を向けると、青鹿毛の馬が一騎で駆けてくるのが目に入った。
 すでに間近に迫っている。
 タイムアップ、とステファンが呟いてジュディを解放し、身を引いた。

「遅いですよ、閣下」

 馬上のひとは、ガウェイン・ジュール。
 枯れ草色の髪を無造作にひもで束ね、顔にはいつもの眼鏡をかけており、ジャケットはなくシャツにウエストコート姿。ひらりと降りてくる仕草が実に様になっていて、乗馬技術の高さが知れた。
 心得たように腕を伸ばしたステファンに手綱を預け、ガウェインはジュディに向かって開口一番、速やかに謝罪をした。

「大変申し訳ありませんでした。お誘いしておきながら、予定の調整がつかず」

「いえ、いえいえ、全然大丈夫です。ステファンさんのおかげで所用を済ませることができましたし、美味しい食事も堪能しました。閣下のお心遣いに感謝申し上げます」

 真面目に言ったのに、ガウェインは横に立つステファンに視線を流し、どことなく情けなさの漂う顔ながら、責める口ぶりで言った。

「お前はうまくやりすぎるんだ。そういうところ、可愛げがない」
「そんなの、わかっていたことじゃないですか。女性の扱いともなれば、閣下より俺の方が全然いけてますから。任せたら何がどうなっても知らねぇよって俺言いましたよ?」

 にこにこと答えるステファンであるが、その笑みは親しげというには邪悪で、嗜虐的だった。
 言われたガウェインは「むっ」と呻き声をもらしたものの、ステファンには言い返さずに、ジュディへと向き直る。

「本当ならここであなたを、さっと馬上にさらって夜の部を開始したいところなんですが……、丸二日ほど仕事先で足止めをくらってまして、あまり清潔ではなく。できればまた次の機会に」

 そういうこと言っていると永遠に機会がないよ、とステファンが皮肉っぽく呟いたが、ガウェインは頬をわずかに引きつらせただけで反応はしなかった。
 二人のやりとりを見ながら、ジュディは深く頷く。

「ひとめだけでも、閣下にお会いできて嬉しいです。無理を押してわざわざお越し下さり、ありがとうございました。監獄塔から出られなくなっていると聞いていましたが」

「決して、悪事を働いて捕まったわけではないです。仕事です。仕事」

 力強く念押しをされて、わかっています、との意味でジュディは頷き返した。

「アリンガム子爵の件、自ら取り調べに向かわれたのではないですか。その……、もしかしてそれは私のせいでもあるのでは、と考えていました。子爵は、私が閣下や殿下と顔見知りであることを把握してしまいました。自由にしゃべらせておけば、私が子爵の悪事に加担していると、捏造した証言を始めるかもしれませんよね。それで閣下も決着がつくまで、同席なさったのかも、と」

 元夫であるヒースコートの命が助かったことに関しては、ジュディとしてもコメントが難しい。死ねば良かったとは思わないが、生きていることをことさら喜ぶ間柄でもない。
 ただ、多少なりともその性格を知っている身としては、腹立ち紛れに嘘を吐かれて巻き込まれる恐れがあるとは、少しだけ考えていた。

(影を落とす。消えない過去が、いまも私に)

 うまく離婚にこぎつけたはずが、ヒースコートが想像以上の悪事に手を染めていたことで、ジュディも無関係とは見られない状況が出来上がってしまっている。 
 ジュディの父、リンゼイ伯爵が損得を棚上げしてもガウェインに靡《なび》いたのは、娘への贖罪の意味も多分にあるのだろう。ヒースコートとの縁談を進めたことに関して。

「隠しても仕方ないので言いますが、たしかにそれも考えました。もっとも、大きな理由としては、殿下です。子爵が関わった人身売買に関しては、自分で聞くと言って譲らず、目を離せなかった。その場で、俺も殿下も、子爵があなたまで巻き込む発言をしないかは、気にしていました。一度名前が挙がれば、調べないわけにはいかなくなる。確実に無関係だと信じている俺にとってそれは、看過できることではありません」

 三年も婚姻関係にあったのだ。白い結婚だった、ろくに顔を合わせなかった、連れ立って出かけることもなかったと言っても、ヒースコートの態度如何で取り調べはジュディにも及んだだろう。
 ジュディは、ガウェインのいつになく疲労の滲んだ顔を見上げてから、深々と頭を下げた。

「どうもありがとうございました。とても助かりました」
「顔を上げてください。礼を言われるようなことではありません。すべて、自分の仕事をしたまでです」

 抑制のきいた声で告げてから、ガウェインは手を伸ばしてジュディの手を取る。

「あなたがあの男と結婚していた事実は消えない。ですが、そのことによって、いまを生きるあなた自身の何かが損なわれるわけではありません。……もう無関係な男に、あなたの心身が煩《わずら》わせられることがあってはならないんです。こんなことくらいしか出来ませんが、俺にあなたを守らせてください」

 金色の瞳には、真摯な輝きが宿っている。
 ぼうっと見つめてから、ジュディは手と手が触れ合っていることを急に意識してしまい、顔に血を上らせた。

「そ、そんなこと、言われたこと、なくてですね……っ。び、びっくりして。すみません、言葉出てこなくて」

 好き。このひとのことが。
 たどり着いたばかりの単純な想いが胸の中から溢れ出しそうで、ジュディはばくばくと心臓を高鳴らせたまま固まる。
 ガウェインは、ふっと目を細めてから身を屈め、ジュディの手の甲に唇で触れた。

「あなたを守りたいし、甘やかしてみたいんです。次はぜひ俺と」

 顔を上げたガウェインにまっすぐに見つめられ、ジュディは震えながらなんとか返事をする。

 いつの間にか、ヴァイオリンの調べはやんでいた。




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