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第三章
赤く染まる
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「おかしなことを言うものだな、子爵。金を出す以上、当然俺にもメリットがあるのではないか? 『わが国の民のために自分は高潔なことをしている』と自尊心が満たされる以外にも、なんらかの実利があってしかるべきだろう? 実際に、子爵に金を渡している者たちは相応の対価を得ているはずだ。そうでなければなぜ、自領の民に使うべき金をわざわざ東地区につぎこむのだ」
これまで被《かぶ》っていた仮面を、フィリップスが脱ぎ捨てた。闇を引き裂く声が、冷たいものになる。
(アリンガム子爵は殿下を侮《あなど》り過ぎていたのよ。実態のない事業で詐取《さしゅ》する信用も才覚もないからこそ、人身売買に手を染め、商品として人間を売り渡すことで利益を上げていたでしょうに、殿下には「架空の慈善事業」として話を持ちかけたのね。それで騙せると踏んで……)
それは、フィリップスの敏《さと》さに考えが及ばなかったヒースコートの手落ちだ。おそらくフィリップスの方が上手《うわて》だったのだろう。「良いことをできると聞いて無心に喜ぶ、理想に燃えた初心《うぶ》な若者」を装ったに違いない。ヒースコートの目に彼は、いかにも騙しやすそうに見えたことだろう。
そんなわけがないのに。
「この国の王侯貴族は『高い社会的地位は、義務を伴う』を、その行動規範としている。そういう建前がある。しかし実際のところ、身分社会の恩恵に浴す強者として、下層の者を人間とはみなさないことで切り捨てる。それがいまのこの国であり、東地区の現状だ。その状況を正しく変えようと考える貴族であれば、議会で法案を通すのが筋であり、隠れて支援という形にはならないだろう。なぜ隠すのかといえば、隠さねばならぬほどの悪事がそこにあるからだ。そうだな?」
白黒をつけるつもりなのか、フィリップスの舌鋒は鋭い。
喉元に刃を突きつけられたヒースコートは、事実を明かすのかそれともこの期に及んでもまだ誤魔化すのか。
「なるほど……。そこまでお見通しなのに、敢えて殿下がこの話に乗ったのは、あなたさまの教育係の教えにより『この件に関わることで、王権を弱体化させることができる』とお考えになったから、それで間違いがございませんか。つまりそれこそが殿下の真の目的であり、メリットであると」
ヒースコートなりに、フィリップスの思考の流れを追おうとしているらしい。そこに活路があると、よもや本気で考えているのだろうか。
ふふ、とフィリップスが笑う気配があった。空気はどこまでも冷ややかであった。
「どう思う、アリンガム子爵。その線で俺を説得できそうか? たしかにこの件に俺が関わり、それが明るみに出た暁には王権よりもまず俺へのダメージが計り知れないだろう。生涯に渡る汚点として、廃嫡されるほどの失態だ。なぜならこれは慈善事業ではなく、ひとをひととも思わぬ悪事だからだ」
ヒースコートが東地区で何をしているのか、フィリップスは確実に気づいている。その指摘を受けてなお、ヒースコートは朗々として余裕を漂わせた声で答えた。
「殿下はお若い。悪事とは言いますが、我々は実際にかなり多くの民をすでに救っているのですよ。今日食べるものがなく、安心できる家も裸を隠す衣服もない。常に不安を抱え、暴力にさらされているか弱い子どもたちを、女性を。それがたとえ形こそ『隷属』であったとしても、東地区に住み続けるよりはどれだけマシなことか。恵まれたお生まれの殿下には、想像もつかないのでしょうな!」
強気だった。ジュディは息を詰めて耳をそばだてる。
強烈な違和感が胸の中に広がっていた。まだ何か、見誤っている、という感覚。
(違う……。殿下は何かが違う。初心《うぶ》な若者ではなく、城下の事情に通じていて、強烈に王権を憎んでいる。恵まれた生まれに安住している者には、決してたどりつけない発想を持っている方よ)
ガウェインは、平民のブレーンがついていると睨んでいた。それが誰かわからぬ以上、無用な憶測はしないようにとジュディは自分を戒めてきたが、どうしても考えずにはいられない。
どこで出会い、なぜそこまで意気投合したのか? どんな経験がそこに付随しているのか。
「王権を倒すのは俺の宿願だが、我が国の民を危険にさらす悪事に俺は加担などしない。見過ごすこともしない」
フィリップスの宣言。
胸が痛いほど鳴っていて、ジュディはこっそりと深呼吸をした。ヒースコートは、なおも事態を甘くみているらしく、フィリップスに落ち着いた様子で語りかける。
「ぜひ、お考え直しください。殿下は誤解しておいでだ。これは」
鈍い音とともに、ヒースコートの言葉が不自然なところで途絶えた。ジュディはハッと息を呑み、そばに立つステファンを見上げる。
二人を窺っていたステファンは、仄かな光だけの暗がりで、ひどく厳しい顔をしていた。
がは、とヒースコートが喉を鳴らし、膝をつくような音が耳に届く。
暗闇に、フィリップスの声が、響き渡った。
「考え直しても変わらない。お前は馬鹿だ。なぜ『恵まれた生まれ』の俺が、東地区の事情に通じているのか。お前の仕事をどこで知ったのか。よほど金に困っていたのか、俺をろくに疑わなかったようだが。お前は先代に比べて何もかもが杜撰《ずさん》だ。何も引き継いでいないのか? それとも、お前は足切り要員で、この事業を取り仕切っている者は他にいるのかな。……まあ、そう考えるのが妥当か」
殿下、と苦しげな声がフィリップスを呼んだ。
それに対して、いっそ清々しいほど爽やかな口ぶりでフィリップスが答えた。
「お前はもういらないな。これ以上探っても、お前からは何も出てこない」
泳がせることすらせず、ここで始末を。
意図を察したジュディは、ステファンに止められる前に棚の間から通路に飛び出す。
「殿下!」
細い光の中で、うずくまるヒースコート。その横に傲然と立つフィリップス。ジュディの叫びに、フィリップスが鋭い視線をくれる。
「いたのか、先生」
「その者から、すぐに手を引いてください!!」
呼びかけは虚しく、フィリップスは足を振り上げ、ヒースコートの首を強く踏みつける。
折れても構わないというその仕草に、ジュディは息を止めて目を見開いた。
けれど、黙ってはいられない。さらに足早に近づく。
「暴力で解決をはかろうとしてはなりません!! ありがたくも私の教えを胸に刻んで時折思い出してくださっている殿下であれば、この忠告が二度目ということは言われずともおわかりですね!」
よほど初手でひどい殴られ方をしたのか、そこに追撃を受けたゆえか、ヒースコートは立ち上がる気配がない。その様子をちらりと確認しつつ、ジュディは瞳に力を込めてフィリップスを睨みつけた。
フィリップスは、実に良い笑顔だった。
「覚えていますよ、先生。たしかあなたはこう言った。『暴力はお金がかかる』と。あとはそうだ、『怪我をすると、生産性が落ちます』だな。その通りだ。中途半端な怪我とその後の不自由な生は、無駄飯食らいの無生産者を生み出すだけ。生かす価値もない者を。その点、死は安くて済む。最小限だ」
あのときフィリップスは言ったのだ。
――この世に綺麗な暴力はない。必要な暴力はある。ゆえに俺は、腐った人間を始末するんだ。この手で
(いま彼が足蹴にしている男は、まぎれもなく腐った人間。生かしておいても、もはや悪事から手を引けぬ者。ひいては、いずれ殿下のお命すら狙おうとするかもしれない。ここで始末をして幕引きにしたいというのは、わかる。それがすべてのリスクとコストを「最小限」にする方法)
それでも。
「いけません。ここは法治国家です。無秩序な殺人は許されません。殿下はなぜそれが、ご自身に許されているとお考えなのですか。それこそ、特権に甘んじた傲慢さの現れではありませんか」
深く呼吸をして、一息に言った。
情状酌量も正当防衛もある。だが殺人は殺人であり、加害者が誰であれ、被害者が誰であれ、決して見逃すことはできない。
その一線は、守り抜かねばならない。
決意を胸に、毅然と背筋を伸ばしたジュディに対し、フィリップスはにこやかに言い放った。
「それは本心からなのか、先生。実のところ、この男をかばいたいだけではないのか? アリンガム子爵は以前、先生の夫だったんだろう。その目は情愛でくもり、この男の罪を目の当たりにしてさえ、命乞いをすることに気を取られているだけではないのか? なあ、先生」
怒りで目の前が、真っ赤に染まった。
これまで被《かぶ》っていた仮面を、フィリップスが脱ぎ捨てた。闇を引き裂く声が、冷たいものになる。
(アリンガム子爵は殿下を侮《あなど》り過ぎていたのよ。実態のない事業で詐取《さしゅ》する信用も才覚もないからこそ、人身売買に手を染め、商品として人間を売り渡すことで利益を上げていたでしょうに、殿下には「架空の慈善事業」として話を持ちかけたのね。それで騙せると踏んで……)
それは、フィリップスの敏《さと》さに考えが及ばなかったヒースコートの手落ちだ。おそらくフィリップスの方が上手《うわて》だったのだろう。「良いことをできると聞いて無心に喜ぶ、理想に燃えた初心《うぶ》な若者」を装ったに違いない。ヒースコートの目に彼は、いかにも騙しやすそうに見えたことだろう。
そんなわけがないのに。
「この国の王侯貴族は『高い社会的地位は、義務を伴う』を、その行動規範としている。そういう建前がある。しかし実際のところ、身分社会の恩恵に浴す強者として、下層の者を人間とはみなさないことで切り捨てる。それがいまのこの国であり、東地区の現状だ。その状況を正しく変えようと考える貴族であれば、議会で法案を通すのが筋であり、隠れて支援という形にはならないだろう。なぜ隠すのかといえば、隠さねばならぬほどの悪事がそこにあるからだ。そうだな?」
白黒をつけるつもりなのか、フィリップスの舌鋒は鋭い。
喉元に刃を突きつけられたヒースコートは、事実を明かすのかそれともこの期に及んでもまだ誤魔化すのか。
「なるほど……。そこまでお見通しなのに、敢えて殿下がこの話に乗ったのは、あなたさまの教育係の教えにより『この件に関わることで、王権を弱体化させることができる』とお考えになったから、それで間違いがございませんか。つまりそれこそが殿下の真の目的であり、メリットであると」
ヒースコートなりに、フィリップスの思考の流れを追おうとしているらしい。そこに活路があると、よもや本気で考えているのだろうか。
ふふ、とフィリップスが笑う気配があった。空気はどこまでも冷ややかであった。
「どう思う、アリンガム子爵。その線で俺を説得できそうか? たしかにこの件に俺が関わり、それが明るみに出た暁には王権よりもまず俺へのダメージが計り知れないだろう。生涯に渡る汚点として、廃嫡されるほどの失態だ。なぜならこれは慈善事業ではなく、ひとをひととも思わぬ悪事だからだ」
ヒースコートが東地区で何をしているのか、フィリップスは確実に気づいている。その指摘を受けてなお、ヒースコートは朗々として余裕を漂わせた声で答えた。
「殿下はお若い。悪事とは言いますが、我々は実際にかなり多くの民をすでに救っているのですよ。今日食べるものがなく、安心できる家も裸を隠す衣服もない。常に不安を抱え、暴力にさらされているか弱い子どもたちを、女性を。それがたとえ形こそ『隷属』であったとしても、東地区に住み続けるよりはどれだけマシなことか。恵まれたお生まれの殿下には、想像もつかないのでしょうな!」
強気だった。ジュディは息を詰めて耳をそばだてる。
強烈な違和感が胸の中に広がっていた。まだ何か、見誤っている、という感覚。
(違う……。殿下は何かが違う。初心《うぶ》な若者ではなく、城下の事情に通じていて、強烈に王権を憎んでいる。恵まれた生まれに安住している者には、決してたどりつけない発想を持っている方よ)
ガウェインは、平民のブレーンがついていると睨んでいた。それが誰かわからぬ以上、無用な憶測はしないようにとジュディは自分を戒めてきたが、どうしても考えずにはいられない。
どこで出会い、なぜそこまで意気投合したのか? どんな経験がそこに付随しているのか。
「王権を倒すのは俺の宿願だが、我が国の民を危険にさらす悪事に俺は加担などしない。見過ごすこともしない」
フィリップスの宣言。
胸が痛いほど鳴っていて、ジュディはこっそりと深呼吸をした。ヒースコートは、なおも事態を甘くみているらしく、フィリップスに落ち着いた様子で語りかける。
「ぜひ、お考え直しください。殿下は誤解しておいでだ。これは」
鈍い音とともに、ヒースコートの言葉が不自然なところで途絶えた。ジュディはハッと息を呑み、そばに立つステファンを見上げる。
二人を窺っていたステファンは、仄かな光だけの暗がりで、ひどく厳しい顔をしていた。
がは、とヒースコートが喉を鳴らし、膝をつくような音が耳に届く。
暗闇に、フィリップスの声が、響き渡った。
「考え直しても変わらない。お前は馬鹿だ。なぜ『恵まれた生まれ』の俺が、東地区の事情に通じているのか。お前の仕事をどこで知ったのか。よほど金に困っていたのか、俺をろくに疑わなかったようだが。お前は先代に比べて何もかもが杜撰《ずさん》だ。何も引き継いでいないのか? それとも、お前は足切り要員で、この事業を取り仕切っている者は他にいるのかな。……まあ、そう考えるのが妥当か」
殿下、と苦しげな声がフィリップスを呼んだ。
それに対して、いっそ清々しいほど爽やかな口ぶりでフィリップスが答えた。
「お前はもういらないな。これ以上探っても、お前からは何も出てこない」
泳がせることすらせず、ここで始末を。
意図を察したジュディは、ステファンに止められる前に棚の間から通路に飛び出す。
「殿下!」
細い光の中で、うずくまるヒースコート。その横に傲然と立つフィリップス。ジュディの叫びに、フィリップスが鋭い視線をくれる。
「いたのか、先生」
「その者から、すぐに手を引いてください!!」
呼びかけは虚しく、フィリップスは足を振り上げ、ヒースコートの首を強く踏みつける。
折れても構わないというその仕草に、ジュディは息を止めて目を見開いた。
けれど、黙ってはいられない。さらに足早に近づく。
「暴力で解決をはかろうとしてはなりません!! ありがたくも私の教えを胸に刻んで時折思い出してくださっている殿下であれば、この忠告が二度目ということは言われずともおわかりですね!」
よほど初手でひどい殴られ方をしたのか、そこに追撃を受けたゆえか、ヒースコートは立ち上がる気配がない。その様子をちらりと確認しつつ、ジュディは瞳に力を込めてフィリップスを睨みつけた。
フィリップスは、実に良い笑顔だった。
「覚えていますよ、先生。たしかあなたはこう言った。『暴力はお金がかかる』と。あとはそうだ、『怪我をすると、生産性が落ちます』だな。その通りだ。中途半端な怪我とその後の不自由な生は、無駄飯食らいの無生産者を生み出すだけ。生かす価値もない者を。その点、死は安くて済む。最小限だ」
あのときフィリップスは言ったのだ。
――この世に綺麗な暴力はない。必要な暴力はある。ゆえに俺は、腐った人間を始末するんだ。この手で
(いま彼が足蹴にしている男は、まぎれもなく腐った人間。生かしておいても、もはや悪事から手を引けぬ者。ひいては、いずれ殿下のお命すら狙おうとするかもしれない。ここで始末をして幕引きにしたいというのは、わかる。それがすべてのリスクとコストを「最小限」にする方法)
それでも。
「いけません。ここは法治国家です。無秩序な殺人は許されません。殿下はなぜそれが、ご自身に許されているとお考えなのですか。それこそ、特権に甘んじた傲慢さの現れではありませんか」
深く呼吸をして、一息に言った。
情状酌量も正当防衛もある。だが殺人は殺人であり、加害者が誰であれ、被害者が誰であれ、決して見逃すことはできない。
その一線は、守り抜かねばならない。
決意を胸に、毅然と背筋を伸ばしたジュディに対し、フィリップスはにこやかに言い放った。
「それは本心からなのか、先生。実のところ、この男をかばいたいだけではないのか? アリンガム子爵は以前、先生の夫だったんだろう。その目は情愛でくもり、この男の罪を目の当たりにしてさえ、命乞いをすることに気を取られているだけではないのか? なあ、先生」
怒りで目の前が、真っ赤に染まった。
応援ありがとうございます!
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