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第二章

遺恨などあろうはずも

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 別れた元夫とその現奥様が、連れ立って来る。
 もてなすべきゲストとして。

(私が公爵家のメイド姿でのこのこ現れたら、お二人がどう思うことか……)

 ジュディは誓って、現在の二人に対して思うところは何もない。元夫に心残りも未練も恨みも何もなく、無事に結婚した二人を祝福したい気持ちでいっぱいである。
 顔を合わせたなら会話をするのも、やぶさかではない。
 そう思う一方で、今回はあまりにも状況が特殊だ。
 王子のお付きとして出張中で、業務上の必要から公爵家のメイドをしているという複雑怪奇なこの場面において、いったいどこから何をどう説明しろというのか。

「憐れまれたり同情されたり『離婚したことによって君はこんなところまで働きに出ているんだね、可哀想に』みたいな目で見られたら、どうしよう」

 思わず、声に出た。

(どうしようどころか、確実にムカつく。その再会はさすがに、私も避けたい)

 元夫であるヒースコートは、ジュディの知る限り性格なのだ。いささか傲慢で自意識が高く、慈悲深い。
 結婚式の後、夫婦の寝室でジュディに「白い結婚」を言い渡したときなど、まさに彼のその性格が遺憾なく発揮された発言のオンパレードだった。

 ――我々の結婚が、愛のないものであることは君も知っていることだろう。そしてそれは、これからも変わらない。君と私の間に、愛が育つことはありえない。だが、幾ばくかの友情は生まれるかもしれない。私はそれを大切にしたいと考えている。

 初夜にのぞむべく心身の準備を整えていたジュディは、寝室で夫になったばかりの相手から寝耳に水の発言をされて、呆然としたものだ。

(この方は一体何を言っているの? 「愛はなくても友情は生まれる」ですって? それはどちらも「あなたひとりでは成立しないもの」だと、ご存知ないの? 私の心がそこになければ、すべては「無」よ?)

 当時、ジュディは若かったのだ。
 仲の良い家族の間で大切にされて育ち、自分が結婚式当日の夜にそんな仕打ちをされるなど想像もしたことがない、十代の乙女だったのだ。大切にしてくれると信じていた九歳年上の夫が、まさか突然「君を愛することはないそんなこと」を言い出すなんて。
 傷つかないはずがない。
 顔色を失ったジュディに対し、ヒースコートは苦しげに眉をひそめて、慈悲深くも丁寧な謝罪をしてきた。

 ――すまない。夫の愛を得られない妻が、どれほど不幸なことか、私もわからないわけではない。しかし、私には君と出会う前からこの心のすべてを捧げている女性がいる。君は魅力的だよ、出会う順番さえ違えばあるいはと思わないでもなかった。だが、現実に私には、君ではなく他に愛する女性がいるのだ。彼女には、いつか必ず正式な結婚をして妻に迎えると誓っている。

 ジュディは念のため、確認をした。

 ――あなた、今日結婚しましたよね? 私と。

 途端、ヒースコートは絶望したように両手で顔を覆い、呻きながら答えた。

 ――そうだ。私はやむにやまれず君と結婚した。不本意ながら、いまは彼女ではなく君と結婚するしかなかった。後悔はしていない。しかし私の心は常に彼女とともにある。君を抱くことはない。その点に関しては、わがままを言って私を困らせないように。友情で満足してほしい。欲を出されても、私は応えることができないからね。

 ――あの、それはシンプルにあなたの不貞では。

 当然の反応として、ジュディはその事実を指摘したが、ヒースコートはひとが変わったように怒鳴りつけてきたのだ。

 ――私と彼女の愛をそんな言葉で汚すな! 君はしょせん、我々の人生においては途中退場の脇役なんだ、分をわきまえなさい!

 正妻とは。
 ジュディは、伯爵家の娘としてきちんとしたしつけを受けてきた自分にも知らぬ貴族の作法、結婚後の暗黙の了解なるものがあるのだろうか、と考えを巡らせてみた。
 罵倒されるほど、自分は無知なのかと。
 年齢差が九歳あったことも大きかった。ジュディは婚約期間中、ヒースコートから小娘扱いをされていると感じることがたびたびあった。だからこのときも、自分が知らずに悪いことをしたのではと考えてしまったのだ。あまりにも、ヒースコートが悪びれなかったがゆえに。

 本当に、若かったのだ。後から知った事実と照らし合わせればなんのことはない、ヒースコートは比べていただけなのだ。ジュディよりも年上の、彼の想い人である女性と。「儚き百合」と呼ばれるその美女と比較すると、ジュディは幼く見劣りすると考えていたのだろう。
 初夜の晩のジュディは、そんなことは知らなかった。ただ勢いに気圧され、自分にも非があるのではと考えたことにより、言い返す気力も失ってしまった。

 ヒースコートは、激高した自分を恥じるように「怒鳴ってすまなかった」と紳士的に謝りつつ、最後に念押しをしてきた。

 ――三年の間、私と君の間に子どもができなければ、次期当主の妻として君は不適格とみなされ、穏便な形で離婚できる。子どもができなかった理由が私にあると、世間から憶測されることは絶対にあってはならない。つまり、私が君を抱いていないという秘密は、墓まで持っていってほしい。

(あれ、私、殺されそう……?)

 突然の「墓」という単語に、ジュディは身の危険を感じた。その怯えをどう受け取ったのか、ヒースコートは不意に安心させるように優しく笑いかけてきた。

 ――その三年間、私は君を大切に遇するつもりだ。できる限り君の希望を聞き、可能な範囲で出費も惜しまない。「夫婦仲は良い、だが子どもはできなかった」のほうが同情を得る形で離婚ができるからね。だから、君もそのつもりで楽しく生活をしてほしい。一点気をつけてほしいのは、浮気だ。他の男と通じて身ごもられるようなことがあれば、そのときはしかるべき対処が必要になる。なに、たった三年のことだ。そこは私の妻として貞淑であってほしい。

 どの口が貞淑などと言うのかこの不倫男が。
 やはり、これはヒースコートがおかしいのではないか? と、ジュディはこの段階になると疑い始めていた。しかし、言い返すことまではできなかった。それを自分に都合よく理解したらしいヒースコートは、物分りの悪い妻に優しく言い聞かせるような口ぶりで、続けて要望を述べてきた。

 ――離婚してすぐに、君が誰かの子を孕むのも少々問題だ。その意味ではできるだけ結婚は避けてほしい。するとしても、可能な限り遅く。あくまで、この結婚に関しては君の側の問題で子どもができなくて離婚したという体裁を大事にしたい。

 それ以降少しだけ話し、ジュディはこの晩、早々にヒースコートに寝室からお引取り願った。

 そして、ヒースコートの思い描いたように三年後、離婚は成立。
 結婚期間中、ジュディは予算ギリギリまで使い切る勢いで、自己投資をした。まったく遠慮なく、楽しく暮らした。ヒースコートはその件について、自分から言い出した通り約束を守ってくれたのだ。
 そのおかげで、いつの間にか宰相閣下の目に止まり、晴れて離婚後はこうして仕事を手にしてセカンドライフを満喫している。

 ただし、恋はしていない。
 できるとも、思っていない。心はすっかり枯れている。
 それを、「すぐに結婚されたら困る」という夫の呪いだとは思いたくなくて、自分で選んで独り身を生きていると、ジュディは信じるようにしている。

 一方のヒースコートは、念願かなってかねてより愛していた相手とさっさと再婚していて、こうして楽しく催事にも夫婦揃って出席しているらしい。

(大丈夫大丈夫、私に遺恨はない。あの夫と縁が切れたのは素晴らしいことだし、結婚期間中はお金も十分使わせてもらった。今は何も思っていない)

 自分に言い聞かせていたところで、「おい」とフィリップスから声をかけられた。
 家令の説明を最後まで聞き、ティーハウスまでの移動中である。

「さっきから何をぶつぶつ言っている? 出席名簿を見たときから、変だった。知り合いでもいたのか?」
「個人的なことですので、殿下に気にかけて頂く必要はございません」

 ジュディは即座に言い返した。それで納得するわけではないフィリップスは、いぶかしげに目を細めて、なおも深掘りしてきた。

「さては、因縁の相手か。そういえば、先生は離婚歴があったな。過去の嫁ぎ先はアリンガム子爵家だったか。ゲストのリストに名前があったよな」

 最初から結論ありきで「知り合いでもいたのか?」と聞いてきたのかと思うほど、ど真ん中だった。
 ジュディは顔を背けながら、ぼそぼそと答える。

「いましたけど、私には関係ありません。未練も何もないですから。会えば挨拶する程度です。会いたいとは思っていませんが」

 土壇場で適当にごまかすのが苦手な性格のせいで、限りなく本音を口にしてしまった。フィリップスは「ふーん」と相槌を打ってから、さりげない調子で言った。

「それはまあ、そうだろうな。いまの先生はガウェインだろ。他の男に目がいくはずがない」
「そこでどうして、閣下の名前が」

 すぐさまジュディは反論をしたが、フィリップスは歩く速度を早めてジュディを置いて、先を行く。
 日差しの中、肩で跳ねる黄金色の髪から煌めきがこぼれる。フィリップスは、振り返らぬまま「あいつがそういう男だから」とそっけなく答えてきた。
 そして、ジュディが重ねて尋ねる前に、足を止めた。

「あいつに熱を上げる女は多い。先生もそのひとりだろうって、それだけの話だよ。図星か?」

 肩越しに目に焼き付くほどの鮮やかな笑みを残して、フィリップスはさっさと歩みを再開した。
 何も言えなかったジュディは、余計なことを考えるまいと心に決めて、フィリップスに追いつくべく足早に前に進んだ。
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