王子様の教育係、承りました! ~純情で腹黒な宰相閣下の策略から始まる溺愛、実は重い。すごく。~

有沢真尋

文字の大きさ
上 下
3 / 104
序章

枯れ草色の青年

しおりを挟む
 ジュディの足も判断も、少年の予想を上回ったらしい。
 少年は廊下の先の曲がり角で、迫りくる足音に「まさか」といった顔で振り返る。そのときにはもう、ジュディの指先がその背に届いていた。
 レース編みの手袋をはめたジュディの手は、見るからに仕立ての良いジャケットの背面を滑り降りて、裾を無造作にひっつかむ。

「うわっ」
「ああっ」

 引っ張られた少年はつまずき、自分の青いドレスを勢いよく踏み抜いたジュディもまたバランスを崩した。
 そのまま、両者ひどい転び方をする、とジュディは痛みを覚悟して息を止める。
 だが、横からぐいっと腰に腕を回して掴まれたことで、床に転倒することはなかった。ジュディに掴まれたままの少年も、なんとか踏みとどまる。勢いを殺しきれずにジュディの体は引きずられかけたものの、絶対に指を離さなかった。
 かなりの力がかかったはずだが、ジャケットが裂けることもなかった。

(破れなくて良かったわ。ずいぶんと丈夫ね。金属箔の糸の織り込みかしら?)

 一見するとシンプルな銀灰色のジャケットだが、光の当たり方によってつややかな光沢感があり、複雑な織模様が浮かび上がって見える。かなりの値打ちものだ、と直感した。
 すーっと、頭の中で仮説が組み立てられていく。

 この王宮に出入りする、もしくは住んでいるで、こんな高級品を身にまとう者は、おそらく何人もいない。泥棒ではなく自前の持ち物だというのなら、かなりの身分のはずだ。
 それこそ、王族クラス。
 ジュディがその結論に至るまでに要したのは、瞬きほどのごく短い時間。
 止めていた息を吐き出し、すばやく体勢を立て直しながら、横から自分を支えている相手の姿を確認した。


 * * *


 目に飛び込んできたのは、枯れ草色の髪だった。
 あまり艶がなく、乾いた印象で、他に美しい表現も思い当たらない。深緑色のジャケットの肩に、結ばれぬまま流されている。
 視線を上向けると、優美な印象の顎に、薄い唇。すらりと高く通った鼻筋には、銀のフレームの眼鏡が乗っているのが見えた。
 レンズの向こうの瞳は煌めきを帯びた金色で、視線がぶつかると実に感じよく微笑まれる。

 そのときになってようやく、ジュディは自分の腰をしっかりと捉えている腕の力強さに気付いた。
 穏やかな面差しをしていて、いかにも宮仕えの文官といった見た目ながら、相手はれっきとした男性であった。
 そのことに、自分でもびっくりするくらいのショックを受ける。世間的には「子無し」で離婚出戻り女のジュディであるが、かつての夫にもここまでの接近・接触をされたことなどほとんどないのだ。
 あまりに近い。
 意識した途端、体が固まって、身動きができなくなった。
 相手はそれを、ジュディが自分の足でしっかり立っていて転倒の心配はもうない状態とでも受け取ったらしく、さりげなく腕を離して解放してくれた。
 そして、笑みを絶やさぬままの唇を開いた。

「はじめまして。ようこそ王宮へ。お会いできてとても嬉しいです。ガウェイン・ジュールです。リンゼイ嬢ですね」

 淀みのない口調で名乗られ、面識もないのに素性を正確に言い当てられる。

(この方が手紙の差出人の……!)

 ジュディは苦い思いから複雑な笑みを浮かべそうになったが、すぐに気を取り直して口角をきゅっと持ち上げてみせた。

「はじめまして、ジュール侯爵。お招き頂き、ありがとうございます。わたくしのことはジュディとでも呼んでください。その、もし職務上今後私と話す機会がおありなら。リンゼイの名を持つ父も兄も、登城することもございますから」

 ガウェインは凛々しい眉をわずかにひそめて、ジュディを見つめてきた。

「ジュディ嬢とお呼びしても?」
「お気遣いありがとうございます。ですが、私はお嬢さんという年齢でも経歴でもありませんのよ。とはいえ、アリンガム子爵夫人はもうお役御免になっていますし、さりとて未亡人でもなく」

 ジュディは、公的な場における呼び方一つとっても、なかなか難しい存在となってしまっている。
 それゆえに、面倒なことになる前に自分から呼び捨てでと申し出ることにしたのだ。本来ならそれは、かなり親しい仲とみなされかねないきわどい悪手だ。ガウェインが戸惑ったのもわかる。だが、ジュディとしてはぜひとも押し通したいところであった。

(王子の閨事の指南役だなんて。人前で家名呼びをされて変に印象に残るくらいなら、誰にとっても『なんだかそんな御婦人が出入りしていた』くらいのぼやっとした記憶に留めたいのよ。身分の不確かな者を王子のそばにおけないとして、仕事で仮名はさすがに使えないでしょうけど、それは構わないわ。職を辞してから違う名前を名乗ればいいだけですもの)

 いずれここを去って別人にでもなるつもりなのだ。そのため、いまはジュディとだけ呼んで欲しいのである。
 それだけの意味であったが、ガウェインの受け止め方は斜め上であった。胸に手をあて、おっとりとした口ぶりで言う。

「わかりました。では私のことは、ぜひガウェインとお呼びください」
「宰相閣下。ご冗談を。私は閣下をそのように呼ぶ間柄にはございません」

 予想外とはいえ、ジュディは笑顔のままノータイムで言い返す。

(それはさすがにおかしいでしょう! あなたと親しい仲になりたいから「名前で呼んでください」と申し上げたのではなくてよ? 私まで宰相閣下と名前で呼び合っていたら、悪しき意味でのスキャンダルまっしぐらです! 私は! 皆さんの記憶に残りたくないんです!)

 にこにことしたまま、心の中ではめいっぱい叫んでいた。
 ガウェインはなおも何か言いたそうにしていたが、その視線がすっとジュディから逸れた。
 さきほどまで、ぴんと突っ張っていたジャケットの手応えが軽い。
 ジュディもそちらに視線を向ければ、まさにジャケットの袖から腕を抜いて、少年が走り去ろうとしているところだった。

「逃がさないわ!」

 遠ざかりかけた背中にすぐさま体当たりをする。
 勢いあまって、ジュディは相手を廊下に押し倒してその背に乗り上げてしまった。ばたばた、と少年は体の下で暴れる。抜け出されまいと、ジュディはドレスの裾がふわりと広がるのを気にすることもなく、少年に体重をかけて押し潰した。
 頭上から、ガウェインの呟きが聞こえた。

 殿下、と。

 そこでジュディは、少年の正体を間違えようもなく知った。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

【掌編集】今までお世話になりました旦那様もお元気で〜妻の残していった離婚受理証明書を握りしめイケメン公爵は涙と鼻水を垂らす

まほりろ
恋愛
新婚初夜に「君を愛してないし、これからも愛するつもりはない」と言ってしまった公爵。  彼は今まで、天才、美男子、完璧な貴公子、ポーカーフェイスが似合う氷の公爵などと言われもてはやされてきた。  しかし新婚初夜に暴言を吐いた女性が、初恋の人で、命の恩人で、伝説の聖女で、妖精の愛し子であったことを知り意気消沈している。  彼の手には元妻が置いていった「離婚受理証明書」が握られていた……。  他掌編七作品収録。 ※無断転載を禁止します。 ※朗読動画の無断配信も禁止します 「Copyright(C)2023-まほりろ/若松咲良」  某小説サイトに投稿した掌編八作品をこちらに転載しました。 【収録作品】 ①「今までお世話になりました旦那様もお元気で〜ポーカーフェイスの似合う天才貴公子と称された公爵は、妻の残していった離婚受理証明書を握りしめ涙と鼻水を垂らす」 ②「何をされてもやり返せない臆病な公爵令嬢は、王太子に竜の生贄にされ壊れる。能ある鷹と天才美少女は爪を隠す」 ③「運命的な出会いからの即日プロポーズ。婚約破棄された天才錬金術師は新しい恋に生きる!」 ④「4月1日10時30分喫茶店ルナ、婚約者は遅れてやってきた〜新聞は星座占いを見る為だけにある訳ではない」 ⑤「『お姉様はズルい!』が口癖の双子の弟が現世の婚約者! 前世では弟を立てる事を親に強要され馬鹿の振りをしていましたが、現世では奴とは他人なので天才として実力を充分に発揮したいと思います!」 ⑥「婚約破棄をしたいと彼は言った。契約書とおふだにご用心」 ⑦「伯爵家に半世紀仕えた老メイドは伯爵親子の罠にハマり無一文で追放される。老メイドを助けたのはポーカーフェイスの美女でした」 ⑧「お客様の中に褒め褒めの感想を書ける方はいらっしゃいませんか? 天才美文感想書きVS普通の少女がえんぴつで書いた感想!」

真実の愛は、誰のもの?

ふまさ
恋愛
「……悪いと思っているのなら、く、口付け、してください」  妹のコーリーばかり優先する婚約者のエディに、ミアは震える声で、思い切って願いを口に出してみた。顔を赤くし、目をぎゅっと閉じる。  だが、温かいそれがそっと触れたのは、ミアの額だった。  ミアがまぶたを開け、自分の額に触れた。しゅんと肩を落とし「……また、額」と、ぼやいた。エディはそんなミアの頭を撫でながら、柔やかに笑った。 「はじめての口付けは、もっと、ロマンチックなところでしたいんだ」 「……ロマンチック、ですか……?」 「そう。二人ともに、想い出に残るような」  それは、二人が婚約してから、六年が経とうとしていたときのことだった。

【完結】仰る通り、貴方の子ではありません

ユユ
恋愛
辛い悪阻と難産を経て産まれたのは 私に似た待望の男児だった。 なのに認められず、 不貞の濡れ衣を着せられ、 追い出されてしまった。 実家からも勘当され 息子と2人で生きていくことにした。 * 作り話です * 暇つぶしにどうぞ * 4万文字未満 * 完結保証付き * 少し大人表現あり

愛することをやめたら、怒る必要もなくなりました。今さら私を愛する振りなんて、していただかなくても大丈夫です。

石河 翠
恋愛
貴族令嬢でありながら、家族に虐げられて育ったアイビー。彼女は社交界でも人気者の恋多き侯爵エリックに望まれて、彼の妻となった。 ひとなみに愛される生活を夢見たものの、彼が欲していたのは、夫に従順で、家の中を取り仕切る女主人のみ。先妻の子どもと仲良くできない彼女をエリックは疎み、なじる。 それでもエリックを愛し、結婚生活にしがみついていたアイビーだが、彼の子どもに言われたたった一言で心が折れてしまう。ところが、愛することを止めてしまえばその生活は以前よりも穏やかで心地いいものになっていて……。 愛することをやめた途端に愛を囁くようになったヒーローと、その愛をやんわりと拒むヒロインのお話。 この作品は他サイトにも投稿しております。 扉絵は、写真ACよりチョコラテさまの作品(写真ID 179331)をお借りしております。

【完結済】結婚式の夜、突然豹変した夫に白い結婚を言い渡されました

鳴宮野々花@軍神騎士団長1月15日発売
恋愛
 オールディス侯爵家の娘ティファナは、王太子の婚約者となるべく厳しい教育を耐え抜いてきたが、残念ながら王太子は別の令嬢との婚約が決まってしまった。  その後ティファナは、ヘイワード公爵家のラウルと婚約する。  しかし幼い頃からの顔見知りであるにも関わらず、馬が合わずになかなか親しくなれない二人。いつまでもよそよそしいラウルではあったが、それでもティファナは努力し、どうにかラウルとの距離を縮めていった。  ようやく婚約者らしくなれたと思ったものの、結婚式当日のラウルの様子がおかしい。ティファナに対して突然冷たい態度をとるそっけない彼に疑問を抱きつつも、式は滞りなく終了。しかしその夜、初夜を迎えるはずの寝室で、ラウルはティファナを冷たい目で睨みつけ、こう言った。「この結婚は白い結婚だ。私が君と寝室を共にすることはない。互いの両親が他界するまでの辛抱だと思って、この表面上の結婚生活を乗り切るつもりでいる。時が来れば、離縁しよう」  一体なぜラウルが豹変してしまったのか分からず、悩み続けるティファナ。そんなティファナを心配するそぶりを見せる義妹のサリア。やがてティファナはサリアから衝撃的な事実を知らされることになる────── ※※腹立つ登場人物だらけになっております。溺愛ハッピーエンドを迎えますが、それまでがドロドロ愛憎劇風です。心に優しい物語では決してありませんので、苦手な方はご遠慮ください。 ※※不貞行為の描写があります※※ ※この作品はカクヨム、小説家になろうにも投稿しています。

完結 そんなにその方が大切ならば身を引きます、さようなら。

音爽(ネソウ)
恋愛
相思相愛で結ばれたクリステルとジョルジュ。 だが、新婚初夜は泥酔してお預けに、その後も余所余所しい態度で一向に寝室に現れない。不審に思った彼女は眠れない日々を送る。 そして、ある晩に玄関ドアが開く音に気が付いた。使われていない離れに彼は通っていたのだ。 そこには匿われていた美少年が棲んでいて……

【短編】旦那様、2年後に消えますので、その日まで恩返しをさせてください

あさぎかな@電子書籍二作目発売中
恋愛
「二年後には消えますので、ベネディック様。どうかその日まで、いつかの恩返しをさせてください」 「恩? 私と君は初対面だったはず」 「そうかもしれませんが、そうではないのかもしれません」 「意味がわからない──が、これでアルフの、弟の奇病も治るのならいいだろう」 奇病を癒すため魔法都市、最後の薬師フェリーネはベネディック・バルテルスと契約結婚を持ちかける。 彼女の目的は遺産目当てや、玉の輿ではなく──?

好きでした、さようなら

豆狸
恋愛
「……すまない」 初夜の床で、彼は言いました。 「君ではない。私が欲しかった辺境伯令嬢のアンリエット殿は君ではなかったんだ」 悲しげに俯く姿を見て、私の心は二度目の死を迎えたのです。 なろう様でも公開中です。

処理中です...