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序章
宰相閣下からの手紙
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王子様の教育係に任命された、と聞いて真っ先に頭に浮かんだのは「子作りの手ほどき」である。
このとき、この国のただ一人の王子であるフィリップスは十六歳。
伯爵家の離婚・出戻り娘であるジュディは二十二歳。
(王家の男子に対して「世継ぎのもうけ方」を伝授する女性がいるとの噂は耳にしたこともあるけれど、まさか本当にまわってくるなんて)
ジュディは、朝食の席で軽く打ち明けてきた父・リンゼイ伯爵を見つめて言った。
「断りきれるものでもないでしょう。もう決定事項なんですよね? それならば、私が気にするのは待遇面のことだけですわ。お父様、きちんと見返りについて交渉はなさいましたか? リンゼイ家がお兄様が爵位を継いだ後も向こう三代は安泰くらいの保証を頂かなくては」
「なるほど、大きく出たな」
感心したように言われたが、ジュディは自分の言い分が大きいとは、決して考えていない。
「かなり危険があるではありませんか。フィリップス殿下はまだ、婚約者もいらっしゃらないはず。当然、結婚の見通しも立っていません。そんな中で教育係が妊娠をすれば、いくら教育上必要だったとしても王家はその子の存在を許さないでしょう。穏便に処理するにしても、私と生家の関係をすべて断った上で丸裸にして市井に投げ出し、王子の庶子とすら認めない。過激な方法であれば……、用済みとして私ごと処分。まずい相手に目をつけられた場合は、一旦どこかの臣下の家にかくまわれ、後に王家打倒の不穏分子として利用される」
どう転んでも、妊娠した場合、詰む。
しかしながら、手ほどきにそういった過程が含まれるのならば、当然考えておかねばならぬことだ。
リンゼイ伯爵は茶色がかった口ひげを指先でしごきながら、なるほど、と再び言った。
「お前は、嫁ぎ先である子爵家で三年もの間子ができなかったのを理由に離縁された身だろう。妊娠の可能性はまぁまぁ低いんじゃないか」
「……っ」
むぐっとジュディは気合で言葉を呑み込む。
(たしかに、私のように「一度結婚していてすでに純潔ではなく、なおかつ子どもができないと離縁された女」であれば、閨事指導の適任に見えるかもしれません。ですが、子どもができない理由が、女性側の体の問題とばかりは限りませんことよ……!)
言えるのであれば言いたいところだが、これは離縁となった元夫との間で、決して口外しないという契約になっている。
ジュディのかつての夫であるヒースコート・アリンガム子爵には、結婚前から懇意にしている愛しいひと「儚き百合」の名で呼ばれる美女ユーニスがいた。
元々ユーニスは、子爵家の跡継ぎであるヒースコートの兄の婚約者であったが、結婚直前にその兄が不慮の死を遂げ、行かず後家となったのだ。ヒースコートとは、大切な相手を失った者同士、互いに慰めあっているうちに恋に落ちた――とは本人による申告であり、前後関係は杳として知れない。
(まさかお二人で共謀して、お兄様を「事故死に見せかけて謀殺」といった犯罪には手を染めていないと信じていますけど)
さすがに、婚約者の死から日が浅いユーニスと婚約者の弟であるヒースコートの結婚は難しく、なおかつヒースコート自身はジュディと婚約が整っていた。
そのため、ひとまず結婚をした、という。
なにしろヒースコートには、事を荒立ててまでジュディとの婚約を破談にする理由がなく、むしろ渡りに船だったのだ。
彼らの狙いは、つまりこうだ。「三年の間子どもができなければ離縁が認められる」という慣習を有効利用しよう、と。
ヒースコートは「絶対に体の関係を持たない」強い意志を持って、ジュディに事情を打ち明けてきたのである。
ほとぼりがさめた頃に好きな女性と一緒になるので、君を愛することはない、と。
ジュディとしては、そこまで面倒な打ち明け話を聞いたところで、なおも彼に愛されようと頑張る気概が特になかった。
よって、三年間の共同生活の末に、結婚関係は終わりを迎えたのである。
(世間的には私は離縁された出戻り女だけど、三年間今後の身のふりを考えてずいぶん勉強はしたし、それなりに楽しく暮らしていたわ。持参金も色を付けて返してもらえたのだし。父も、領地経営を学んだなら仕事を手伝うかと言ってくれていたのに。まさかここで「王子様の教育係」として王宮勤めになるなんて……)
変な嫁ぎ先からようやく戻ってきたと思ったら、断りにくい筋からきわどい案件を回されてしまった、という。受けてしまった父には嫌味のひとつでも言いたいところだが、それで決定事項が変わらないなら、言うだけ無駄だ。
「わかりました。そのお役目、拝命いたします。見事やりとげた際には、私がこの先の人生で楽しく暮らすのに困らないだけの対価を要求して参りますが」
何をもってうまくやり遂げたとみなすのか、その判定基準は定かではなかったが。
(殿下が無事に子作りできる技術を習得したかどうか? つまり、婚約者が定まり結婚後の初夜をつつがなく終えることができれば? そこまでは面倒見られないわよ)
第一に、ジュディには伝授する閨事の技術が何も無いのだ。しかしそれは元夫との密約に関わることであり、他人に知られてはならない。どうにかして、経験豊富な出戻り夫人を演じなければいけないのである。
その覚悟を決めているジュディに対し、リンゼイ伯爵はお茶を飲みながらのんびりと言った。
「雇用内容に関する書類には目を通しておいてくれ。少なくともそこには、職務を遂行する上で、妊娠の可能性があるとは触れられていない」
「それはそうでしょう」
まさか書類に残すようなことは、しないはず。何か代わりに当たり障りのないことが書いてあるに違いない。
ジュディは食後、父の執務室で書類を受け取り、屋敷のガラス張りの温室へと向かった。
日差しの中、籐の一人掛ソファにゆったりと座る。
箔押しされた高価な紙には、几帳面そうな整った筆致で、ジュディに仕事を頼みたい旨が綴られていた。
“フィリップス殿下の教育係に、教養が高く物怖じしない女性を探していました。私はあなたが適任であると考えています。直接にご説明差し上げたいと考えておりますので、一度王宮へお越しください ガウェイン・ジュール ”
(ガウェイン・ジュール……、聞いたことがあるわ。宰相閣下ではなくて? わざわざ私と会ってくださるの? どんな口止めをされるのかしら)
苦笑しながら、ジュディは書類をそばのテーブルに伏せて置き、足元にすり寄ってきた白猫の顎を撫でて笑顔のまま呟いた。
「望むところよ。できるだけふっかけて差し上げましょう。私、都合よく使われる気なんてありませんから」
にゃぁ、と猫は機嫌良さそうにひと鳴きした。
* * *
このとき、この国のただ一人の王子であるフィリップスは十六歳。
伯爵家の離婚・出戻り娘であるジュディは二十二歳。
(王家の男子に対して「世継ぎのもうけ方」を伝授する女性がいるとの噂は耳にしたこともあるけれど、まさか本当にまわってくるなんて)
ジュディは、朝食の席で軽く打ち明けてきた父・リンゼイ伯爵を見つめて言った。
「断りきれるものでもないでしょう。もう決定事項なんですよね? それならば、私が気にするのは待遇面のことだけですわ。お父様、きちんと見返りについて交渉はなさいましたか? リンゼイ家がお兄様が爵位を継いだ後も向こう三代は安泰くらいの保証を頂かなくては」
「なるほど、大きく出たな」
感心したように言われたが、ジュディは自分の言い分が大きいとは、決して考えていない。
「かなり危険があるではありませんか。フィリップス殿下はまだ、婚約者もいらっしゃらないはず。当然、結婚の見通しも立っていません。そんな中で教育係が妊娠をすれば、いくら教育上必要だったとしても王家はその子の存在を許さないでしょう。穏便に処理するにしても、私と生家の関係をすべて断った上で丸裸にして市井に投げ出し、王子の庶子とすら認めない。過激な方法であれば……、用済みとして私ごと処分。まずい相手に目をつけられた場合は、一旦どこかの臣下の家にかくまわれ、後に王家打倒の不穏分子として利用される」
どう転んでも、妊娠した場合、詰む。
しかしながら、手ほどきにそういった過程が含まれるのならば、当然考えておかねばならぬことだ。
リンゼイ伯爵は茶色がかった口ひげを指先でしごきながら、なるほど、と再び言った。
「お前は、嫁ぎ先である子爵家で三年もの間子ができなかったのを理由に離縁された身だろう。妊娠の可能性はまぁまぁ低いんじゃないか」
「……っ」
むぐっとジュディは気合で言葉を呑み込む。
(たしかに、私のように「一度結婚していてすでに純潔ではなく、なおかつ子どもができないと離縁された女」であれば、閨事指導の適任に見えるかもしれません。ですが、子どもができない理由が、女性側の体の問題とばかりは限りませんことよ……!)
言えるのであれば言いたいところだが、これは離縁となった元夫との間で、決して口外しないという契約になっている。
ジュディのかつての夫であるヒースコート・アリンガム子爵には、結婚前から懇意にしている愛しいひと「儚き百合」の名で呼ばれる美女ユーニスがいた。
元々ユーニスは、子爵家の跡継ぎであるヒースコートの兄の婚約者であったが、結婚直前にその兄が不慮の死を遂げ、行かず後家となったのだ。ヒースコートとは、大切な相手を失った者同士、互いに慰めあっているうちに恋に落ちた――とは本人による申告であり、前後関係は杳として知れない。
(まさかお二人で共謀して、お兄様を「事故死に見せかけて謀殺」といった犯罪には手を染めていないと信じていますけど)
さすがに、婚約者の死から日が浅いユーニスと婚約者の弟であるヒースコートの結婚は難しく、なおかつヒースコート自身はジュディと婚約が整っていた。
そのため、ひとまず結婚をした、という。
なにしろヒースコートには、事を荒立ててまでジュディとの婚約を破談にする理由がなく、むしろ渡りに船だったのだ。
彼らの狙いは、つまりこうだ。「三年の間子どもができなければ離縁が認められる」という慣習を有効利用しよう、と。
ヒースコートは「絶対に体の関係を持たない」強い意志を持って、ジュディに事情を打ち明けてきたのである。
ほとぼりがさめた頃に好きな女性と一緒になるので、君を愛することはない、と。
ジュディとしては、そこまで面倒な打ち明け話を聞いたところで、なおも彼に愛されようと頑張る気概が特になかった。
よって、三年間の共同生活の末に、結婚関係は終わりを迎えたのである。
(世間的には私は離縁された出戻り女だけど、三年間今後の身のふりを考えてずいぶん勉強はしたし、それなりに楽しく暮らしていたわ。持参金も色を付けて返してもらえたのだし。父も、領地経営を学んだなら仕事を手伝うかと言ってくれていたのに。まさかここで「王子様の教育係」として王宮勤めになるなんて……)
変な嫁ぎ先からようやく戻ってきたと思ったら、断りにくい筋からきわどい案件を回されてしまった、という。受けてしまった父には嫌味のひとつでも言いたいところだが、それで決定事項が変わらないなら、言うだけ無駄だ。
「わかりました。そのお役目、拝命いたします。見事やりとげた際には、私がこの先の人生で楽しく暮らすのに困らないだけの対価を要求して参りますが」
何をもってうまくやり遂げたとみなすのか、その判定基準は定かではなかったが。
(殿下が無事に子作りできる技術を習得したかどうか? つまり、婚約者が定まり結婚後の初夜をつつがなく終えることができれば? そこまでは面倒見られないわよ)
第一に、ジュディには伝授する閨事の技術が何も無いのだ。しかしそれは元夫との密約に関わることであり、他人に知られてはならない。どうにかして、経験豊富な出戻り夫人を演じなければいけないのである。
その覚悟を決めているジュディに対し、リンゼイ伯爵はお茶を飲みながらのんびりと言った。
「雇用内容に関する書類には目を通しておいてくれ。少なくともそこには、職務を遂行する上で、妊娠の可能性があるとは触れられていない」
「それはそうでしょう」
まさか書類に残すようなことは、しないはず。何か代わりに当たり障りのないことが書いてあるに違いない。
ジュディは食後、父の執務室で書類を受け取り、屋敷のガラス張りの温室へと向かった。
日差しの中、籐の一人掛ソファにゆったりと座る。
箔押しされた高価な紙には、几帳面そうな整った筆致で、ジュディに仕事を頼みたい旨が綴られていた。
“フィリップス殿下の教育係に、教養が高く物怖じしない女性を探していました。私はあなたが適任であると考えています。直接にご説明差し上げたいと考えておりますので、一度王宮へお越しください ガウェイン・ジュール ”
(ガウェイン・ジュール……、聞いたことがあるわ。宰相閣下ではなくて? わざわざ私と会ってくださるの? どんな口止めをされるのかしら)
苦笑しながら、ジュディは書類をそばのテーブルに伏せて置き、足元にすり寄ってきた白猫の顎を撫でて笑顔のまま呟いた。
「望むところよ。できるだけふっかけて差し上げましょう。私、都合よく使われる気なんてありませんから」
にゃぁ、と猫は機嫌良さそうにひと鳴きした。
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