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【前日譚】
出会いが出会いでしたので。
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侯爵の再婚が五年前。当時アルスニ十歳、ミシュレ十二歳。
思えば、初めて顔を合わせたタイミングが悪すぎた。
アルスは「子どもたちも含めた顔合わせをする」と、遠方に出かけていたところを呼び戻され、転移魔法を連続使用して一目散に帰ってきたということだが、日程を勘違いしていた。
侯爵家に、予定の前日に現れてしまったのだ。
しかも、目測を誤ったということで、現れたのが厩舎の中。
そのときミシュレは、およそ侯爵令嬢らしからぬほぼ男装に近いシャツにズボン姿で、厩舎の自分の馬の世話をしていた。
アルスはその眼前に突然出現してしまったのである。
ミシュレは手にしていた桶を取り落しながら、後ろの藁山に倒れ込んでしまった。
「悪い、小僧。怪我はなかったか?」
アルスはミシュレに気さくに手を差し伸べて、爽やかに言った。
(小僧)
たしかにミシュレはやや長身で、体つきに女性らしい特徴があまり見られず、顔に泥汚れまでつけていた。
かたやアルスはといえば、つややかな黒髪で水も滴るような美形。
深い群青の瞳を細め、藍色のロングコートが汚れるのも厭わず地面に片膝をつき、反応の鈍いミシュレを覗き込んできた。
「驚いて腰が抜けた? それとも、怪我でもしたのか。外傷なら俺の魔法で治せる。立てないようなら、……失礼」
あっさりと、アルスはミシュレをその腕に抱き上げた。
よく鍛え上げられた腕と固い胸の感触。「男の人に抱かれている」という事実に動転して、ミシュレは絶句し、もはや何も言えない。
「軽いな。骨ばってごつごつしている。ちょっと野暮用があるんだが、あとで迎えに来る。なんか食いに行こう。育ち盛りのガキが痩せているのは見るに堪えん」
少女を抱いているとは気付いていない様子のアルスは、ミシュレを見下ろして思いの外優しく言った。
それまで口がきけないでいたミシュレだが、そんな場合ではないと、ようやく声を絞り出す。
「私はミシュレと申しまして、その」
「ミシュレ? どこかで聞いた名前だな。たしか母の再婚相手の侯爵家の娘がそういう……」
訝しむような目で見つめられて、いたたまれない思いを抱きつつミシュレは正直に告げた。
「はい。この屋敷の娘です。見た目がこうですので、少年と間違えても無理からぬことですが」
「貴族の娘がこんなところで何をしていたんだ?」
「馬の世話を……。もちろん自分でする必要はないのですが、私はしたいのです。身の回りのことくらいは自分で」
「どうして。何不自由なく暮らしているんだろ」
本当に不思議そうに尋ねられて、ミシュレもつい本音で答えた。
「そうは言っても、一人で服を満足に着替えることもできないような大人にはなりたくありません。どこへ行くのも、何をするのも、自分で決められる人間になりたいのです」
「……それは、俺が今まで会ったことある令嬢とは少し違う気がする。母の再婚にはさほど興味がなかったが、娘がこうなら、父親も悪くない相手かもしれないな」
アルスは不意に、瞳を輝かせて破顔した。
ぼうっと見つめてしまってから、近すぎる距離に気づいてミシュレはようやく慌てだす。
「怪我をしたわけではないので、下ろしていただけますか」
「そうだな、悪かった。てっきり男だと思って、気安く抱えてしまった。失礼」
体を傾け、足が厩舎の土の床についてから、アルスはそうっと背にまわしていた腕を離した。
(この方が私の「お義兄様」……)
一人娘で兄弟のいなかったミシュレにとって、新たに「兄」が家族に加わるというのはまったく現実感のない出来事であったが。
初対面で気取らない会話をしたせいか、思いがけず心の距離が縮んだような気がしていた。
アルスもまたそれは同じだったのか、はにかむように笑って言った。
「それはそうと、痩せすぎだ。本当に男かと思ったんだ。俺はけっこう美味い店を知っている。侯爵の許しを得られるなら、今度案内するから一緒に飯でも食おう」
「嬉しいです。私も街を歩きたいとは思っていたんですが、なかなか許可が下りなくて。でも『お義兄様』が一緒ならもしかしたら……」
願ってもない申し出に、ミシュレも頬を染めて頷いた。
新たに兄妹となった二人の願いは、この後侯爵にあっさり許されることになる。
かくして、アルスは激務の合間をぬってはいそいそとミシュレに会いにくるようになった。
街で評判になっているパンケーキの店や、串焼き肉等の屋台にミシュレを連れ出しては、「たくさん食べるように」と何かと世話を焼く。格式張った店ではなくB級グルメを好む傾向があり、これがまたミシュレとも絶妙に趣味が合っていた。
恋人ではなく「兄妹」という気楽さ。
(さらに言えば、そもそも兄の目に私は「女」として映っていないので、「兄弟」の感覚に近いのではないでしょうか)
アルスとミシュレは相性の良さもあって急速に仲を深めていったが、それは義兄妹としてというより「評判の店を食べ歩きたい仲間」としての面が大きかった。
(アルスお兄様との仲が成立しているのは、私が「女」として見られていないから。この一線は絶対に守らねばならない……)
出会いのときよりミシュレは頑なにそう信じ続けてきたのだ。
だから、自分がアルスを「男」として見ることも、もちろんもってのほか。
(ですよね、お義兄様)
家族思いで親切な、血のつながらない兄。
いつかアルスがどこかの誰かと恋仲になって結婚するということがあっても、自分は真心こめて祝福する。
そう心に決めているのだ。
思えば、初めて顔を合わせたタイミングが悪すぎた。
アルスは「子どもたちも含めた顔合わせをする」と、遠方に出かけていたところを呼び戻され、転移魔法を連続使用して一目散に帰ってきたということだが、日程を勘違いしていた。
侯爵家に、予定の前日に現れてしまったのだ。
しかも、目測を誤ったということで、現れたのが厩舎の中。
そのときミシュレは、およそ侯爵令嬢らしからぬほぼ男装に近いシャツにズボン姿で、厩舎の自分の馬の世話をしていた。
アルスはその眼前に突然出現してしまったのである。
ミシュレは手にしていた桶を取り落しながら、後ろの藁山に倒れ込んでしまった。
「悪い、小僧。怪我はなかったか?」
アルスはミシュレに気さくに手を差し伸べて、爽やかに言った。
(小僧)
たしかにミシュレはやや長身で、体つきに女性らしい特徴があまり見られず、顔に泥汚れまでつけていた。
かたやアルスはといえば、つややかな黒髪で水も滴るような美形。
深い群青の瞳を細め、藍色のロングコートが汚れるのも厭わず地面に片膝をつき、反応の鈍いミシュレを覗き込んできた。
「驚いて腰が抜けた? それとも、怪我でもしたのか。外傷なら俺の魔法で治せる。立てないようなら、……失礼」
あっさりと、アルスはミシュレをその腕に抱き上げた。
よく鍛え上げられた腕と固い胸の感触。「男の人に抱かれている」という事実に動転して、ミシュレは絶句し、もはや何も言えない。
「軽いな。骨ばってごつごつしている。ちょっと野暮用があるんだが、あとで迎えに来る。なんか食いに行こう。育ち盛りのガキが痩せているのは見るに堪えん」
少女を抱いているとは気付いていない様子のアルスは、ミシュレを見下ろして思いの外優しく言った。
それまで口がきけないでいたミシュレだが、そんな場合ではないと、ようやく声を絞り出す。
「私はミシュレと申しまして、その」
「ミシュレ? どこかで聞いた名前だな。たしか母の再婚相手の侯爵家の娘がそういう……」
訝しむような目で見つめられて、いたたまれない思いを抱きつつミシュレは正直に告げた。
「はい。この屋敷の娘です。見た目がこうですので、少年と間違えても無理からぬことですが」
「貴族の娘がこんなところで何をしていたんだ?」
「馬の世話を……。もちろん自分でする必要はないのですが、私はしたいのです。身の回りのことくらいは自分で」
「どうして。何不自由なく暮らしているんだろ」
本当に不思議そうに尋ねられて、ミシュレもつい本音で答えた。
「そうは言っても、一人で服を満足に着替えることもできないような大人にはなりたくありません。どこへ行くのも、何をするのも、自分で決められる人間になりたいのです」
「……それは、俺が今まで会ったことある令嬢とは少し違う気がする。母の再婚にはさほど興味がなかったが、娘がこうなら、父親も悪くない相手かもしれないな」
アルスは不意に、瞳を輝かせて破顔した。
ぼうっと見つめてしまってから、近すぎる距離に気づいてミシュレはようやく慌てだす。
「怪我をしたわけではないので、下ろしていただけますか」
「そうだな、悪かった。てっきり男だと思って、気安く抱えてしまった。失礼」
体を傾け、足が厩舎の土の床についてから、アルスはそうっと背にまわしていた腕を離した。
(この方が私の「お義兄様」……)
一人娘で兄弟のいなかったミシュレにとって、新たに「兄」が家族に加わるというのはまったく現実感のない出来事であったが。
初対面で気取らない会話をしたせいか、思いがけず心の距離が縮んだような気がしていた。
アルスもまたそれは同じだったのか、はにかむように笑って言った。
「それはそうと、痩せすぎだ。本当に男かと思ったんだ。俺はけっこう美味い店を知っている。侯爵の許しを得られるなら、今度案内するから一緒に飯でも食おう」
「嬉しいです。私も街を歩きたいとは思っていたんですが、なかなか許可が下りなくて。でも『お義兄様』が一緒ならもしかしたら……」
願ってもない申し出に、ミシュレも頬を染めて頷いた。
新たに兄妹となった二人の願いは、この後侯爵にあっさり許されることになる。
かくして、アルスは激務の合間をぬってはいそいそとミシュレに会いにくるようになった。
街で評判になっているパンケーキの店や、串焼き肉等の屋台にミシュレを連れ出しては、「たくさん食べるように」と何かと世話を焼く。格式張った店ではなくB級グルメを好む傾向があり、これがまたミシュレとも絶妙に趣味が合っていた。
恋人ではなく「兄妹」という気楽さ。
(さらに言えば、そもそも兄の目に私は「女」として映っていないので、「兄弟」の感覚に近いのではないでしょうか)
アルスとミシュレは相性の良さもあって急速に仲を深めていったが、それは義兄妹としてというより「評判の店を食べ歩きたい仲間」としての面が大きかった。
(アルスお兄様との仲が成立しているのは、私が「女」として見られていないから。この一線は絶対に守らねばならない……)
出会いのときよりミシュレは頑なにそう信じ続けてきたのだ。
だから、自分がアルスを「男」として見ることも、もちろんもってのほか。
(ですよね、お義兄様)
家族思いで親切な、血のつながらない兄。
いつかアルスがどこかの誰かと恋仲になって結婚するということがあっても、自分は真心こめて祝福する。
そう心に決めているのだ。
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