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【前日譚】
※嘘です!!
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忽然と姿を現していたのは、見上げるような巨体。
湖面を大きく波立たせ、うっすらと発光した青銀色の鱗から水を滴らせながら長い首をもたげた生き物。
(水竜様……、水竜様ですよね!?)
最前まで目にしていた翼竜がいかに小型竜であるかがわかる。
暗がりの中にあって、双眸にも怪しい赤い光を宿し、目の前の人間を見下ろしていた。
「プリシラ様は」
ミシュレが目を凝らしてみれば、プリシラは湖に膝まで浸かりながら水竜の正面に立ち、両手の指を祈るように組み合わせながら目の前の相手と対峙している。
「へぇ。王家の『水竜様』か。それなりに強そうだな。手合わせしてもらおうかな」
ミシュレの横で、アルスが不敵な呟きをもらす。ミシュレが視線を流すと、口の端を吊り上げて笑っていた。
見惚れるほどの精悍な横顔。まとう空気はひたすら好戦的で物騒。
ミシュレは眉を寄せて切々と言った。
「お兄様、攻撃してきたわけでもない水竜様と、戦う理由はありません」
アルスは、ミシュレの全身に視線をすべらせて切なげに目を細めた。
「ひどい怪我、いま治癒魔法を。くっそ、仕事なんてしている場合じゃなかった。ミシュレからお願いをされるなんて滅多にないんだ。本当だったら寮まで迎えに行って朝から一日デートを」
「ありがとうございます、命に関わる怪我ではないので、あとで大丈夫です」
アルスはミシュレに手を差し伸べてきたが、指先が触れる前にミシュレは思わずかわしてしまう。目も合わせぬまま、身を翻してプリシラの元へと駆け出した。
途端、全身に痛みが走って顔をしかめる。細かな擦過傷や噛み跡、打ち身打撲。
(お義兄さまが心配するわけです……。少しばかり鍛えているからといって、護衛としてはすべてにおいて不足していました)
認識と下調べが甘すぎた。アルスが駆けつけるのが間に合わなかったら、どうなっていたかもわからない。いくらプリシラが王家を出し抜いて儀式を敢行しようとしていたからといって、関係各所に連絡をとり、アルス以外にもきちんと相談して助力を求めていなければならなかった。
考えれば考えるほどぞくぞくしてくる。
わがままを言いだしたのはプリシラであったが、止めることもできずにその話に乗ってしまった自分が悪い、とミシュレはいま大いに自分を責めていた。
アルスにそっけない態度をとってしまったのも、その気まずさゆえ。
(気まずい、なんて言っている場合じゃない。状況が落ち着いたら、時間をとってもらって、お兄さまにはきちんとお礼を言わないと。それにしても、水竜様は……)
ズキズキと痛みを訴える足を無視して走り、声を張り上げる。
「プリシラ様!」
「ミシュレ! 水竜様が歓迎してくれているわ!」
いつもながらの天真爛漫さで、プリシラがミシュレを振り返る。
怪我らしい怪我は見られない。
ミシュレは湖にざぶざぶと入りながら、ほっと息を吐き出した。モンスターに襲われていたはずだが、プリシラの逃げ足は一級だ。あるいは水竜が守ってくれたのか。
近くで見ても傷一つ無い可憐な顔に目を細めて、穏やかに問いかける。
「歓迎、とは?」
〈ずいぶん久しぶりだな、王家の姫がここに来るのは〉
ミシュレの問いかけに答えたのは、プリシラではなかった。
耳に届いたその声は、人間の言葉ではない。複雑な音を組み合わせた音楽的な響きで、それだけでは意味がわからなかったが、頭の中に直接意思のようなものが流れ込んでくる。
「七十年ぶりです。王家にはしばらく姫がいなかったので。プリシラと申します」
笑みを浮かべたプリシラは、水に浸かった状態ながら綺麗な淑女の礼をする。
一方のミシュレは直立不動で、水竜を見上げていた。
(神獣というのだろうか。理性的な印象を受ける。同じく魔力を帯びた生き物であっても、モンスターとはあきらかに違う。心があって、それを伝える術があるから?)
〈そこの娘、名は〉
水竜の赤い瞳が自分に向けられているのに気づき、ミシュレはわずかに目を見開いた。
「バトルズ侯爵家のミシュレと申します」
なぜ私? と訝りながら、必要最低限を答える。
水竜は、フウ、と人のような吐息を漏らしてから言った。
〈気に入った。その身を我に捧げよ〉
「私はただの付添です。今日の主役は姫様ですよ」
〈我にも好みというものがある。歯ごたえのない、柔らかいだけの姫には飽きた。そなたに興味があるのだ。滴る血から甘美な匂いがする。その瑞々しさ、生娘であろう?〉
歯ごたえ。生娘。
(文脈から言えば食料的な意味合い? でも生娘って言ってるし、そのセクハラ、なんの関係が? というか、水竜、王家の姫を本当に食べてたの? 生贄的な儀式だったってこと!?)
頭の冷えた部分で、すうっと納得しつつもあった。
(かつて王家と水竜の間で何らかの取り決めがあり、見返りとして姫君を捧げてきたものの、しばらく生まれなかったのをこれ幸いとばかりに無視を決め込もうとしていた? 現代では生贄なんて野蛮という考え方が普通だし、だから風習が一気に廃れたのかも)
「おい。黙って聞いているのはここまでだ、そこの水蜥蜴。俺の妹に無礼なことを言うようなら潰すぞ」
ばしゃばしゃと水音を立てながら、アルスが近づいてきてミシュレの前に立つ。
声にはっきりと険があるが、水竜は愉快そうに笑ったように見えた。
〈魔法使いか。邪魔立てするな。男に用はない〉
(ああ~~、勘違いじゃなくてこの水竜様の「食う」は本当に「食う(性的に)」だ。来るべきじゃなかった、失敗した)
神聖な儀式だと思っていたので何かとショックが大きい、とミシュレは落ち込んでしまう。
一方のプリシラは「アルス、お久しぶりです」と元気にアルスに挨拶をしてから水竜に向き直った。
「水竜と契った姫はその身に大いなる加護を得ると聞いています。私ではだめですか。どうしてもミシュレが良いんですか?」
「姫様。こんな口を開けば生娘だの食うだの言う輩は相手にしてはいけません。帰りましょう」
「いいえミシュレ。あなたはどうなの? 水竜の加護がほしくないの? せっかく水竜様から望まれているのに?」
「いりませんよ、こんな訳のわからない相手にいきなり見初められても何も嬉しくありません。自分の体は自分で鍛えます」
掛け値なしの本音だった。
プリシラは少しだけ思案顔になってから言った。
「そうは言っても、水竜様、諦めないかもしれないわよ。もっと諦めやすい理由を言った方が手っ取り早いと思うわ。ミシュレ……」
目が、何かを促している。
なんですか? といいそうになったミシュレであるが、考えてみた。
(やっぱり……、あれかな? あれだよね。あれだと思うけど。……言うの? だけど言わないと水竜が何をするかわからないし……)
見初められたあげく、断るために自分が多大な犠牲を払わねばならないというのは理不尽に思えたが、仕方ない。
意を決して、ミシュレはそれを口にした。
「私は、その、処女ではありませんので、水竜様のお好みには合わないかと」
嘘八百のはったり。だが背に腹は代えられないと恥ずかしさを黙殺して告げたというのに。
〈ほう……〉
(ほうって……なんでそんな「おもしれー女」みたいな反応なんで……すか)
さらには、凄まじい、寒波。
極寒の空気は、水竜からではない。
ミシュレは目の前のアルスを見上げる。まさにアルスが肩越しに振り返ったところだった。不自然な笑みが張り付いており、口の形が「え?」と疑問を呈している。
その背にした位置から、水竜が前のめりに尋ねてきた。
〈相手は誰だ?〉
(相手……!? 言わないと納得しない? 嘘だって疑ってかかってる?)
そのとき何を思ったのか、後から考えてもミシュレ自身よくわからない。
ただ、目の前にいたのがその人で、自分にとってはある意味一番近い男性でもあり、一番ありえる相手かもしれないと。
魔が差した。
ミシュレはアルスの腕にしがみつき、水竜に向かってきっぱりと言った。
「相手はこのひとです! 義兄のアルスです! 兄とはいえ、血も繋がっていませんので、思いを遂げさせてもらったんです!!」
虚を突かれたようなアルスの表情に(お義兄さまを利用して、ごめんなさい!)と心の中で謝り倒してから、ダメ押しのように言った。
「だから私、生娘ではありません!」
湖面を大きく波立たせ、うっすらと発光した青銀色の鱗から水を滴らせながら長い首をもたげた生き物。
(水竜様……、水竜様ですよね!?)
最前まで目にしていた翼竜がいかに小型竜であるかがわかる。
暗がりの中にあって、双眸にも怪しい赤い光を宿し、目の前の人間を見下ろしていた。
「プリシラ様は」
ミシュレが目を凝らしてみれば、プリシラは湖に膝まで浸かりながら水竜の正面に立ち、両手の指を祈るように組み合わせながら目の前の相手と対峙している。
「へぇ。王家の『水竜様』か。それなりに強そうだな。手合わせしてもらおうかな」
ミシュレの横で、アルスが不敵な呟きをもらす。ミシュレが視線を流すと、口の端を吊り上げて笑っていた。
見惚れるほどの精悍な横顔。まとう空気はひたすら好戦的で物騒。
ミシュレは眉を寄せて切々と言った。
「お兄様、攻撃してきたわけでもない水竜様と、戦う理由はありません」
アルスは、ミシュレの全身に視線をすべらせて切なげに目を細めた。
「ひどい怪我、いま治癒魔法を。くっそ、仕事なんてしている場合じゃなかった。ミシュレからお願いをされるなんて滅多にないんだ。本当だったら寮まで迎えに行って朝から一日デートを」
「ありがとうございます、命に関わる怪我ではないので、あとで大丈夫です」
アルスはミシュレに手を差し伸べてきたが、指先が触れる前にミシュレは思わずかわしてしまう。目も合わせぬまま、身を翻してプリシラの元へと駆け出した。
途端、全身に痛みが走って顔をしかめる。細かな擦過傷や噛み跡、打ち身打撲。
(お義兄さまが心配するわけです……。少しばかり鍛えているからといって、護衛としてはすべてにおいて不足していました)
認識と下調べが甘すぎた。アルスが駆けつけるのが間に合わなかったら、どうなっていたかもわからない。いくらプリシラが王家を出し抜いて儀式を敢行しようとしていたからといって、関係各所に連絡をとり、アルス以外にもきちんと相談して助力を求めていなければならなかった。
考えれば考えるほどぞくぞくしてくる。
わがままを言いだしたのはプリシラであったが、止めることもできずにその話に乗ってしまった自分が悪い、とミシュレはいま大いに自分を責めていた。
アルスにそっけない態度をとってしまったのも、その気まずさゆえ。
(気まずい、なんて言っている場合じゃない。状況が落ち着いたら、時間をとってもらって、お兄さまにはきちんとお礼を言わないと。それにしても、水竜様は……)
ズキズキと痛みを訴える足を無視して走り、声を張り上げる。
「プリシラ様!」
「ミシュレ! 水竜様が歓迎してくれているわ!」
いつもながらの天真爛漫さで、プリシラがミシュレを振り返る。
怪我らしい怪我は見られない。
ミシュレは湖にざぶざぶと入りながら、ほっと息を吐き出した。モンスターに襲われていたはずだが、プリシラの逃げ足は一級だ。あるいは水竜が守ってくれたのか。
近くで見ても傷一つ無い可憐な顔に目を細めて、穏やかに問いかける。
「歓迎、とは?」
〈ずいぶん久しぶりだな、王家の姫がここに来るのは〉
ミシュレの問いかけに答えたのは、プリシラではなかった。
耳に届いたその声は、人間の言葉ではない。複雑な音を組み合わせた音楽的な響きで、それだけでは意味がわからなかったが、頭の中に直接意思のようなものが流れ込んでくる。
「七十年ぶりです。王家にはしばらく姫がいなかったので。プリシラと申します」
笑みを浮かべたプリシラは、水に浸かった状態ながら綺麗な淑女の礼をする。
一方のミシュレは直立不動で、水竜を見上げていた。
(神獣というのだろうか。理性的な印象を受ける。同じく魔力を帯びた生き物であっても、モンスターとはあきらかに違う。心があって、それを伝える術があるから?)
〈そこの娘、名は〉
水竜の赤い瞳が自分に向けられているのに気づき、ミシュレはわずかに目を見開いた。
「バトルズ侯爵家のミシュレと申します」
なぜ私? と訝りながら、必要最低限を答える。
水竜は、フウ、と人のような吐息を漏らしてから言った。
〈気に入った。その身を我に捧げよ〉
「私はただの付添です。今日の主役は姫様ですよ」
〈我にも好みというものがある。歯ごたえのない、柔らかいだけの姫には飽きた。そなたに興味があるのだ。滴る血から甘美な匂いがする。その瑞々しさ、生娘であろう?〉
歯ごたえ。生娘。
(文脈から言えば食料的な意味合い? でも生娘って言ってるし、そのセクハラ、なんの関係が? というか、水竜、王家の姫を本当に食べてたの? 生贄的な儀式だったってこと!?)
頭の冷えた部分で、すうっと納得しつつもあった。
(かつて王家と水竜の間で何らかの取り決めがあり、見返りとして姫君を捧げてきたものの、しばらく生まれなかったのをこれ幸いとばかりに無視を決め込もうとしていた? 現代では生贄なんて野蛮という考え方が普通だし、だから風習が一気に廃れたのかも)
「おい。黙って聞いているのはここまでだ、そこの水蜥蜴。俺の妹に無礼なことを言うようなら潰すぞ」
ばしゃばしゃと水音を立てながら、アルスが近づいてきてミシュレの前に立つ。
声にはっきりと険があるが、水竜は愉快そうに笑ったように見えた。
〈魔法使いか。邪魔立てするな。男に用はない〉
(ああ~~、勘違いじゃなくてこの水竜様の「食う」は本当に「食う(性的に)」だ。来るべきじゃなかった、失敗した)
神聖な儀式だと思っていたので何かとショックが大きい、とミシュレは落ち込んでしまう。
一方のプリシラは「アルス、お久しぶりです」と元気にアルスに挨拶をしてから水竜に向き直った。
「水竜と契った姫はその身に大いなる加護を得ると聞いています。私ではだめですか。どうしてもミシュレが良いんですか?」
「姫様。こんな口を開けば生娘だの食うだの言う輩は相手にしてはいけません。帰りましょう」
「いいえミシュレ。あなたはどうなの? 水竜の加護がほしくないの? せっかく水竜様から望まれているのに?」
「いりませんよ、こんな訳のわからない相手にいきなり見初められても何も嬉しくありません。自分の体は自分で鍛えます」
掛け値なしの本音だった。
プリシラは少しだけ思案顔になってから言った。
「そうは言っても、水竜様、諦めないかもしれないわよ。もっと諦めやすい理由を言った方が手っ取り早いと思うわ。ミシュレ……」
目が、何かを促している。
なんですか? といいそうになったミシュレであるが、考えてみた。
(やっぱり……、あれかな? あれだよね。あれだと思うけど。……言うの? だけど言わないと水竜が何をするかわからないし……)
見初められたあげく、断るために自分が多大な犠牲を払わねばならないというのは理不尽に思えたが、仕方ない。
意を決して、ミシュレはそれを口にした。
「私は、その、処女ではありませんので、水竜様のお好みには合わないかと」
嘘八百のはったり。だが背に腹は代えられないと恥ずかしさを黙殺して告げたというのに。
〈ほう……〉
(ほうって……なんでそんな「おもしれー女」みたいな反応なんで……すか)
さらには、凄まじい、寒波。
極寒の空気は、水竜からではない。
ミシュレは目の前のアルスを見上げる。まさにアルスが肩越しに振り返ったところだった。不自然な笑みが張り付いており、口の形が「え?」と疑問を呈している。
その背にした位置から、水竜が前のめりに尋ねてきた。
〈相手は誰だ?〉
(相手……!? 言わないと納得しない? 嘘だって疑ってかかってる?)
そのとき何を思ったのか、後から考えてもミシュレ自身よくわからない。
ただ、目の前にいたのがその人で、自分にとってはある意味一番近い男性でもあり、一番ありえる相手かもしれないと。
魔が差した。
ミシュレはアルスの腕にしがみつき、水竜に向かってきっぱりと言った。
「相手はこのひとです! 義兄のアルスです! 兄とはいえ、血も繋がっていませんので、思いを遂げさせてもらったんです!!」
虚を突かれたようなアルスの表情に(お義兄さまを利用して、ごめんなさい!)と心の中で謝り倒してから、ダメ押しのように言った。
「だから私、生娘ではありません!」
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