5 / 38
「時の薔薇」
【5】
しおりを挟む
「侯爵様は、まだお着きではないのです。急用でお出になられていて、姫様をお出迎えできないことをそれはそれは気にされていましたが」
初夏の澄んだ陽射しの下、石造りの城館の正面には、おそらく手すきの使用人たちが一堂に集められていてざわざわと賑わっていた。
その騒がしさを恥じるかのように気にしつつ、家令が切々と言う。
「それほど頑張って出迎えてくれなくても……」
若草色のドレスの裾をさばきながら、ディアドラは慎重に歩き出す。手には杖。
女嫌いと噂の侯爵殿と突然婚約がまとまり、どうにでもしてという気持ちのまま訪れたら、思いがけない歓迎を受けて戸惑っている真っ最中。
自分は王家の厄介者なのだ。それなのに。
ふと、遠くから雷鳴のような足音を轟かせて近づいてくる騎影が見えた。
振り返って、ボンネットの影から見ていると、その姿がすぐにくっきりと見えてくる。
乗馬向きではなさそうな裾の長いジャケットを羽織った青年が、黒髪を振り乱しながら馬を飛ばし、近づいてきていた。
前庭に走り込んできてから、駆け寄った馬丁をみとめて急停止し、ひらりと飛び降りて早足でディアドラの元まで近づいてくる。
ここまで相当飛ばしてきたのだろう、髪も服装も乱れており、額やこめかみに汗まで浮かべている。
(そこまでしなくても……)
ハンカチで拭いてさしあげたい、と思っているディアドラの前で、青年は黒い瞳に炯々とした光を浮かべ、胸に手を当てた。
「ライラ、会いたかった……。ようやく見つけた」
名前。
間違えていますけど?
一瞬悩んでから、はっきりとそれを口にした。
「ディアドラです。女嫌いと噂の侯爵様は、どこの思い人と勘違いされているのかしら。もちろん、わたくしだってこの結婚に愛情なんか求めていませんし、思い人の一人や二人いても構わないのですけれど」
ランズバーン侯爵が、その年齢まで独り身でいた理由。それはおそらく「ライラ」のせいなのだ。
あまりにも甘やかに微笑まれた瞬間、理解してしまった。
同時に、それは自分へ向けられたものではないのだと……。
つんとすましたディアドラのつれない態度など意に介した様子もなく、侯爵はさらに距離を詰めると、唐突にディアドラを抱き上げる。
「!?」
「手がかりが少なくて。最後の決め手になったのはあなたの足のことだった。あなたの兄君が酔って漏らさなければ、一生出会えなかったかもしれない」
間近で、親し気に微笑まれる。
「人違いではなくて?」
どなたかを探していたのだとしても、わたくしの名前は「ライラ」ではないですよ。
喉元まできたその言葉を、飲み込む。
侯爵が、あまりにも嬉しそうな表情をしていたから。
「まったく、その意地悪のおかげで本当に苦労した。ずっと近くにいたのに気づかないし。という恨み言はここまで。いま、良い季節ですよ。あのときあなたにお見せした薔薇がちょうど今日見頃なんです。行きましょう。お茶の準備も整っています」
「あのとき?」
確信を持って語られる内容。わかりそうでわからない。
わかりたい。
その思いから尋ねると、ディアドラを軽々と抱き直して、侯爵は低い笑い声を響かせた。
「レイですよ。この年まで独り身で、趣味は庭いじりです。毎年見事な薔薇を咲かせると評判の庭師で、侯爵は副業。お久しぶりです、ディアドラ」
なぜか初めて会った気がしないほどの、ありったけの親しみを込めて、名を呼ばれた。
(了)
初夏の澄んだ陽射しの下、石造りの城館の正面には、おそらく手すきの使用人たちが一堂に集められていてざわざわと賑わっていた。
その騒がしさを恥じるかのように気にしつつ、家令が切々と言う。
「それほど頑張って出迎えてくれなくても……」
若草色のドレスの裾をさばきながら、ディアドラは慎重に歩き出す。手には杖。
女嫌いと噂の侯爵殿と突然婚約がまとまり、どうにでもしてという気持ちのまま訪れたら、思いがけない歓迎を受けて戸惑っている真っ最中。
自分は王家の厄介者なのだ。それなのに。
ふと、遠くから雷鳴のような足音を轟かせて近づいてくる騎影が見えた。
振り返って、ボンネットの影から見ていると、その姿がすぐにくっきりと見えてくる。
乗馬向きではなさそうな裾の長いジャケットを羽織った青年が、黒髪を振り乱しながら馬を飛ばし、近づいてきていた。
前庭に走り込んできてから、駆け寄った馬丁をみとめて急停止し、ひらりと飛び降りて早足でディアドラの元まで近づいてくる。
ここまで相当飛ばしてきたのだろう、髪も服装も乱れており、額やこめかみに汗まで浮かべている。
(そこまでしなくても……)
ハンカチで拭いてさしあげたい、と思っているディアドラの前で、青年は黒い瞳に炯々とした光を浮かべ、胸に手を当てた。
「ライラ、会いたかった……。ようやく見つけた」
名前。
間違えていますけど?
一瞬悩んでから、はっきりとそれを口にした。
「ディアドラです。女嫌いと噂の侯爵様は、どこの思い人と勘違いされているのかしら。もちろん、わたくしだってこの結婚に愛情なんか求めていませんし、思い人の一人や二人いても構わないのですけれど」
ランズバーン侯爵が、その年齢まで独り身でいた理由。それはおそらく「ライラ」のせいなのだ。
あまりにも甘やかに微笑まれた瞬間、理解してしまった。
同時に、それは自分へ向けられたものではないのだと……。
つんとすましたディアドラのつれない態度など意に介した様子もなく、侯爵はさらに距離を詰めると、唐突にディアドラを抱き上げる。
「!?」
「手がかりが少なくて。最後の決め手になったのはあなたの足のことだった。あなたの兄君が酔って漏らさなければ、一生出会えなかったかもしれない」
間近で、親し気に微笑まれる。
「人違いではなくて?」
どなたかを探していたのだとしても、わたくしの名前は「ライラ」ではないですよ。
喉元まできたその言葉を、飲み込む。
侯爵が、あまりにも嬉しそうな表情をしていたから。
「まったく、その意地悪のおかげで本当に苦労した。ずっと近くにいたのに気づかないし。という恨み言はここまで。いま、良い季節ですよ。あのときあなたにお見せした薔薇がちょうど今日見頃なんです。行きましょう。お茶の準備も整っています」
「あのとき?」
確信を持って語られる内容。わかりそうでわからない。
わかりたい。
その思いから尋ねると、ディアドラを軽々と抱き直して、侯爵は低い笑い声を響かせた。
「レイですよ。この年まで独り身で、趣味は庭いじりです。毎年見事な薔薇を咲かせると評判の庭師で、侯爵は副業。お久しぶりです、ディアドラ」
なぜか初めて会った気がしないほどの、ありったけの親しみを込めて、名を呼ばれた。
(了)
36
お気に入りに追加
81
あなたにおすすめの小説
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
【完結】もう…我慢しなくても良いですよね?
アノマロカリス
ファンタジー
マーテルリア・フローレンス公爵令嬢は、幼い頃から自国の第一王子との婚約が決まっていて幼少の頃から厳しい教育を施されていた。
泣き言は許されず、笑みを浮かべる事も許されず、お茶会にすら参加させて貰えずに常に完璧な淑女を求められて教育をされて来た。
16歳の成人の義を過ぎてから王子との婚約発表の場で、事あろうことか王子は聖女に選ばれたという男爵令嬢を連れて来て私との婚約を破棄して、男爵令嬢と婚約する事を選んだ。
マーテルリアの幼少からの血の滲むような努力は、一瞬で崩壊してしまった。
あぁ、今迄の苦労は一体なんの為に…
もう…我慢しなくても良いですよね?
この物語は、「虐げられる生活を曽祖母の秘術でざまぁして差し上げますわ!」の続編です。
前作の登場人物達も多数登場する予定です。
マーテルリアのイラストを変更致しました。
命を狙われたお飾り妃の最後の願い
幌あきら
恋愛
【異世界恋愛・ざまぁ系・ハピエン】
重要な式典の真っ最中、いきなりシャンデリアが落ちた――。狙われたのは王妃イベリナ。
イベリナ妃の命を狙ったのは、国王の愛人ジャスミンだった。
短め連載・完結まで予約済みです。設定ゆるいです。
『ベビ待ち』の女性の心情がでてきます。『逆マタハラ』などの表現もあります。苦手な方はお控えください、すみません。
月が隠れるとき
いちい千冬
恋愛
ヒュイス王国のお城で、夜会が始まります。
その最中にどうやら王子様が婚約破棄を宣言するようです。悪役に仕立て上げられると分かっているので帰りますね。
という感じで始まる、婚約破棄話とその顛末。全8話。⇒9話になりました。
小説家になろう様で上げていた「月が隠れるとき」シリーズの短編を加筆修正し、連載っぽく仕立て直したものです。

【完結】番である私の旦那様
桜もふ
恋愛
異世界であるミーストの世界最強なのが黒竜族!
黒竜族の第一皇子、オパール・ブラック・オニキス(愛称:オール)の番をミースト神が異世界転移させた、それが『私』だ。
バールナ公爵の元へ養女として出向く事になるのだが、1人娘であった義妹が最後まで『自分』が黒竜族の番だと思い込み、魅了の力を使って男性を味方に付け、なにかと嫌味や嫌がらせをして来る。
オールは政務が忙しい身ではあるが、溺愛している私の送り迎えだけは必須事項みたい。
気が抜けるほど甘々なのに、義妹に邪魔されっぱなし。
でも神様からは特別なチートを貰い、世界最強の黒竜族の番に相応しい子になろうと頑張るのだが、なぜかディロ-ルの侯爵子息に学園主催の舞踏会で「お前との婚約を破棄する!」なんて訳の分からない事を言われるし、義妹は最後の最後まで頭お花畑状態で、オールを手に入れようと男の元を転々としながら、絡んで来ます!(鬱陶しいくらい来ます!)
大好きな乙女ゲームや異世界の漫画に出てくる「私がヒロインよ!」な頭の変な……じゃなかった、変わった義妹もいるし、何と言っても、この世界の料理はマズイ、不味すぎるのです!
神様から貰った、特別なスキルを使って異世界の皆と地球へ行き来したり、地球での家族と異世界へ行き来しながら、日本で得た知識や得意な家事(食事)などを、この世界でオールと一緒に自由にのんびりと生きて行こうと思います。
前半は転移する前の私生活から始まります。

【完】瓶底メガネの聖女様
らんか
恋愛
伯爵家の娘なのに、実母亡き後、後妻とその娘がやってきてから虐げられて育ったオリビア。
傷つけられ、生死の淵に立ったその時に、前世の記憶が蘇り、それと同時に魔力が発現した。
実家から事実上追い出された形で、家を出たオリビアは、偶然出会った人達の助けを借りて、今まで奪われ続けた、自分の大切なもの取り戻そうと奮闘する。
そんな自分にいつも寄り添ってくれるのは……。
あなたのためなら
天海月
恋愛
エルランド国の王であるセルヴィスは、禁忌魔術を使って偽の番を騙った女レクシアと婚約したが、嘘は露見し婚約破棄後に彼女は処刑となった。
その後、セルヴィスの真の番だという侯爵令嬢アメリアが現れ、二人は婚姻を結んだ。
アメリアは心からセルヴィスを愛し、彼からの愛を求めた。
しかし、今のセルヴィスは彼女に愛を返すことが出来なくなっていた。
理由も分からないアメリアは、セルヴィスが愛してくれないのは自分の行いが悪いからに違いないと自らを責めはじめ、次第に歯車が狂っていく。
全ては偽の番に過度のショックを受けたセルヴィスが、衝動的に行ってしまった或ることが原因だった・・・。
いつの間にかの王太子妃候補
しろねこ。
恋愛
婚約者のいる王太子に恋をしてしまった。
遠くから見つめるだけ――それだけで良かったのに。
王太子の従者から渡されたのは、彼とのやり取りを行うための通信石。
「エリック様があなたとの意見交換をしたいそうです。誤解なさらずに、これは成績上位者だけと渡されるものです。ですがこの事は内密に……」
話す内容は他国の情勢や文化についてなど勉強についてだ。
話せるだけで十分幸せだった。
それなのに、いつの間にか王太子妃候補に上がってる。
あれ?
わたくしが王太子妃候補?
婚約者は?
こちらで書かれているキャラは他作品でも出ています(*´ω`*)
アナザーワールド的に見てもらえれば嬉しいです。
短編です、ハピエンです(強調)
小説家になろうさん、カクヨムさんでも投稿してます。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる