あやかし猫社長は契約花嫁を逃さない

有沢真尋

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【3】

朝の目覚めは爽やかに

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 ――これから冬になるというのに、何もこの季節に出発しなくても。

 咎めるように響いた女性の声は、いったい誰のものであったのか。
 視界を染める薄墨の空は、明ける間際の暁闇。
 草木もまだ眠る静けさの中、空気は冷たく透き通り、まるで世界で他に生きている物は誰もいないかのような錯覚を引き起こす。

 ――ここよりも、ずっと寒いのでしょう? きっと、暮らしていけないわ。
 ――冬になる前に生活の基盤を作る。少なくとも、ある程度は目処をつけたいから、今行くんだ。ずっとそばにいられなくて悪かったね。

 若い男の声だ。妹を気遣う兄のような話しぶり。
 二人の短い会話から、これは別れの場面だ、と察せられた。

 ――あなたがいなくなってしまったら、私はどうすればいいの。もう猫から人間に、戻れなくなるかもしれない。
 ――その心配は無いよ。この能力は、二人揃って初めて成り立つ。俺が遠くにいる間、そもそも君は猫になることがない。猫にならなければ、人間に戻れないと心配する必要もない。

 猫になるひとと、猫から人間に戻す役割のひと。
 いつか知れない過去のある時点で、彼らはなんらかの理由で袂を分かった。
 以来、彼女は猫になることなく。
 おそらく、彼にはその後二度とまみえることもなかった。

(こうして、猫になる能力そのものが眠りについた。対となる相手が現れる、その日まで)

 夢を見ながらにして、これは夢だと気付いている。けれど明晰夢のような自由度はそこにはなく、動かしがたい現実をただ見ているだけ。

「……、また会おう」

 自分の唇が動いて、誰かの名を呼んだ。果たせない約束を口にした。その感覚を追いかけるように龍子は指で唇をなぞる。
 いま呼んだばかりの名前がもう、思い出せない。
 夢からは、そこで醒めた。


 * * *


 目の前の現実を理解するのに、時間を要した。

(ええっとぉ……? 昨日は夜遅くに部屋に訪ねてきた猫チャン社長を招き入れて魔性のコタツの虜一丁上がりで野生を剥ぎ取って……。途中で一回起きて、正体をなくした猫チャンを抱っこしておふとんで寝直したわけですが……)

 猫ではなく度が過ぎたイケメンが、横ですやすやと寝息をたてていた、朝。
 さらっさらで柔らかそうな茶色の髪の毛(三毛猫の名残)。滑らかで毛穴の見当たらない肌。香気と色気の漂う目元に、伏せられているがゆえによくわかる睫毛の長さ。
 全面広告に使用しても鑑賞に耐えうる、それどころかいつまでも見ていられる端正な寝顔が、額がぶつかるほどの至近距離に。
 神々しすぎるその美貌を、龍子は息を止めて見ていた。

(人間の状態でこれだけ美しいんだから、そりゃ猫になったら超弩級の可愛いさなのも頷ける……。人間にしておくのは惜しい、間違いなく)

 もちろん現実逃避の一種である。
 猫だったら良かったのになぁ、という。
 ひとまず、気づかれないようにそーっと息を吐き出し、ほんの少しの振動も伝わらないように気をつけて気をつけて、後退を試みた。
 その努力を無にするように「ん……」と寝返りを打った猫宮が腕を伸ばしてきた。逃げる間もなく、その腕にとらわれてしまう。

「~~~~!!」
「ん……?」

 声に鳴らない悲鳴、寝ぼけたまま起きない猫宮。
 抱き枕よろしくぎゅっとその胸に抱き寄せられて、龍子は腹をくくった。

(枕になろう、枕に。猫になれる人間がいるんだから、私だって気合と気の持ちようで枕にくらいなれるはず。枕に……)

 なれない。
 悲しいまでに、人間のままだった。
 肌触りの良い、上質そうな黒のスウェット。やけに良い匂いのするその布越しに、腕やら胸やらの引き締まって固い感触が伝わってきて、龍子は万事休す、と目を瞑った。

「朝……」

 低い声が耳をかすめて、猫宮が起きる気配。
 そして訪れる沈黙。










「ああ……」

 龍子を抱き寄せていた腕から力が抜けて、深い溜息が吐き出される。

「しゃ、社長、落ち込まないでくださいね? これはですね、事故だと思うんですよ。私は猫チャンと寝たかった。社長もまさかこのタイミングで人間に戻るつもりはなかったと、私はそう思うんですよね、うんうん」

 精一杯フォローしながらちらっと上目遣いにうかがうと、落ち込んだ顔をした猫宮と目が合う。透き通るような綺麗な目に、悲しげな色が浮かんでいた。

「その、いろいろと……、今後の補償について話し合う必要がありそうだ。弁護士を手配しよう」
「何もないですよ!? それを言ったら猫チャンを布団に引きずり込んだ私にも非があることになりますので! これはもう事故ってことで双方痛み分けです!」
「そうか。じゃあとりあえず……、寝直す」

 ストレスが限界を迎えたのか、猫宮はくた、と全身を脱力させて目を瞑ってしまった。

「社長ーッ! 召されている場合ですかーっ。そこは寝ないでくださいよっ」
「寝て起きたらこう、すべてがいい感じになってるといいなって」
「超ウルトラハイパー他力本願なこと言い出した!? そんなこと言うなら私も寝ますとも!」
「そうしよう」

 諦めきった猫宮に同意をされて、龍子もやけになって目を閉じた。伸ばされたままの猫宮の腕にまだ頭部が乗っていて、腕枕状態になっている、とその瞬間に気付いたがもう遅い。さりげなく距離を置くタイミングは逃してしまった後。
 もはや我慢比べのような時間が一分、二分……と経過していくうちに、龍子の中ではもともとさほどなかった深刻味が溶け消えて、どうでも良くなってきた。
 朝の爽やかな光の中、着心地の良いパジャマを身に着け、アンティークの天蓋付きベッドで惰眠を貪るなんてほんの三日前の自分には想像もつかない贅沢。
 そして横には自社の社長が……。

「わあああああああああああ」

 我慢比べ終了、敗者古河龍子。
 状況の異様さに耐えきれず跳ね起きる。
 さすがに本当に寝直してはいなかったのか、猫宮もそこで体を起こした。

「古河さん、肺活量すごいな」
「感心するところそこですか!? ありがとうございます!!」

 闇雲に言い返しているうちに、猫宮がするりとベッドから出て行く。寝ていたときにはよくわからなかったが、存在感のある長身。
 部屋の隅のコタツコーナーに目を向け、「あれは本当に呪具だな」と呟きながらドアへと向かう。
 見送りがてら、龍子もその後を追った。
 ドアまでたどりつき、真鍮製のドアノブに手をかけながら、猫宮が振り返る。

「朝食はどうしよう。何か食べたいものは」
「食べられるものならなんでも……、あ、もしかして私が作るんでしょうか」
「いや、いい。あるもので済ませよう」

 会話しながらドアを開けたところで。

「おはようございます。お部屋にはいらっしゃらないようでしたし、スマホもつながらなかったのでどうしたのかなって思っていたんですけど……、そういうことでしたか」

 にこーっと笑った犬島が立っていた。
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