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【1】
その提案は魅力的
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猫宮颯司(29)
戦後経済を牽引した財閥系企業グループ「猫宮」、その猫宮家直系筋のプリンス。
都内有名大学を卒業後、渡米。二年間の海外留学を経て猫宮グループの中枢である不動産会社に平社員として入社。
激務の営業部門にて破竹の勢いで売上を叩き出し、またたく間に出世。つい先ごろ、社長に就任。政財界だけでなく、SNSやお茶の間ニュースでもずいぶん話題になった。
それは彼の若さだけではなく、プリンスの呼び名にふさわしい、その出自とわかりやすく抜きん出た容姿のせいでもある。
整いすぎた甘いマスク、高貴さを漂わせた切れ長の目元から鼻筋、上品な印象の薄い唇。
髪の毛はいかにも柔らかそうな茶色い猫毛で、頭身バランスは黄金率でなおかつ百九十センチに迫る長身。身につけているのは海外メーカーのオーダーメイドスーツ。
メディアに露出するたびにファンが増えているそうで、龍子も学生時代の友人から「龍子の会社の社長やばいよね!」と言われたことがある。
しかしなにせ大企業。社員も多く平社員の龍子と社長の猫宮なんて接点はおろか、直接顔を合わせたこともない。
関係性といえば「同じ地球上で同じ空気を吸っている」くらいの間柄。
友達に「やばい」と言われても「やばいらしいね」と言える程度だ。当然、これまで身近な存在として意識したことなど、ない。
その猫宮が。
学生時代から引っ越しのタイミングを逃して住み続けている安普請アパートの押入れから三毛猫の姿で現れ、人間となり、恐ろしく気難しい顔をしながら龍子の腕を引いて自社社長室まで拉致してくれるとは。
初めて通される、側面が総ガラス張りの高層階社長室。
きらきらの東京のイルミネーションを背景に、おっかない顔をしたままの猫宮社長。
呆然としている龍子に対し、そばに控えていた犬島が笑顔で言った。
「急なことでお履物がありませんね。失礼しました。いまスリッパをお持ちします」
「いや、そこではないですよ。そこではないです、わかっているのに話を逸らすのやめてくださいよ!」
龍子は犬島へ全力で言い返しながら、手首を掴んだままの猫宮の手を振り払った。
「せっ……セクハラとはギリギリ言いにくい範囲ですけど、社員の自宅に押しかけて社長室に拉致だなんて、社長やることが外道……えええええーっ」
雰囲気に負けてなるものかと弱気になる前にまくしたてたのに、途中で変な悲鳴を上げてしまった。
手を振り払って数秒後、猫宮がしゅぅぅ、と萎んで三毛猫になってしまったのだ。
見た。
たしかに見てしまった。人間が猫になるところを。
「猫チャン……?」
「おい、がらりと態度を変えるな。なんだそのちゃん付けは。俺だ俺、猫宮だ」
「しかも三毛猫ですか? あ~、茶色部分に若干社長の頭髪の痕跡が。そっか、三毛猫の雄って人間になるとイケメンなのか。それは高額取引されるなぁ……」
「ちょっと待て。何かおかしい。お前は何を言っているんだ」
分厚い絨毯の上で、龍子を見上げて騒ぐ三毛猫。逃げる様子はないので、この際よく見てみようと龍子はしゃがみこむ。近くで見ても実にかわいい猫で、頬が緩みにへらっとしまりなく笑ってしまった。
「猫チャン社長、黙っていた方がかわいいですよ。ちょっと触ってみていいですか?」
「猫チャンじゃなくて猫宮だって言ってんだろ。触るな。噛みつくぞ!」
シャアアアア、と威嚇してくる様が猫そのもので、龍子は腹を抱えて笑ってしまった。
そこにすかさず、犬島が口を挟む。
「触ってもらいましょう、社長。先程の猫から人間に戻ったきっかけは、お二人の接触かもしれません。再現できるか試してみましょう。なにしろ彼女は呪法で召喚した救世主なわけですから」
(異世界勇者召喚みたいなこと言い出したけど、ここ都内社長室……。呪法の有効範囲狭すぎない?)
物申したい気分でいっぱいの龍子をよそに、三毛猫がぐっと渋い表情になる。
「む……。たしかに、古河さんには猫化解呪能力がありそうだが……、発動条件は本当に接触か?」
チラッと猫は龍子を見上げた。懐かない猫が、それでも餌か猫じゃらしを気にしている素振りそのものだ。
(ドがつくツン猫が、何か言いたそうにこっちを見ている……! 仲間にしますよ!?)
龍子は猫が好きだった。猫宮社長は雲の上のひと過ぎて現実の人間と認識したことすらなかったが、それでも(社長と結婚して社長の姓になったら「猫」宮になれるなぁ)と考えたことはある。
その「猫」宮社長が龍子を横目でチラッ、チラッと見てくるのだ。龍子は満面の笑みで両手を差し出した。
「猫チャン? どこ撫でますか? おねだりしてくれるんですか? 可愛いですね!」
「くそっ。猫ハラスメントゆるすまじ人間風情が」
「社長、身も心も猫になりすぎですよ。ここはこだわりを捨てて彼女の手に身を任せてください。心は許さなくてもいいですから」
(犬島さんは悪の宰相ぶりをもう少しオブラートに包めばいいのに)
他人事ながらそう思わないでもない龍子だったが、この後彼らと長い付き合いになるだなんてこのときは露ほども思っておらず。
おいでおいで、と猫に向かって差し伸べた手を軽く揺らす。
三毛猫は、腰を下ろしつつ前足は揃えて体を伸ばした通称「エジプト座り」の状態のまま、器用な横移動で龍子に近寄ってきた。そして、嫌そうに目を瞑り、頭をそうっと龍子の手に押し付けてきた。
ふに
手に接触した耳が折れ、龍子が手加減しながら後頭部から首筋を撫でてみると、目を瞑ったままじっと耐えている。そのまま撫でる手が背中に移動し、顎の下に戻った。撫で続けることしばし。
ごろごろごろごろ
喉を鳴らし始めた。心なしか、猫の表情が「ほうっ」と和らいでいる。
連日の激務で疲労困憊だった龍子もまた、妙に癒やされてにこにことしてしまった。
その奇妙に凪いだ空気は、「む」と目を見開いた猫が、みるみる間に人間の男になったことで瓦解した。
床に長い脚を投げ出すようにして座り込んだ猫宮社長が、こつ然と現れる。
行き場を失った手が空を切り、龍子は思わず抗議した。
「猫を返してください! どこにやったんですか!」
「俺だって言ってんだろ! ここにいる、触りたければ触れ!」
「社長触って何が面白いんですか!」
全力で言われたから全力で言い返したのに、変な顔をされてしまう。
そこで悪の宰相、ではなく社長秘書の犬島が声をかけてきた。
「やはり彼女には猫化解呪に関する能力があるのは間違いないようです。が、その追求の前に、せっかく人間に戻れたんです。このすきにひとまず退社して家に帰りましょう。対策はそこからまた改めて」
「そうだな。ということで、古河さん。そこのドアと古河さんの自宅のつながりを切るので、その前に家に帰って必要なものを持ってここに帰ってきてほしい」
「持って……帰って……? ここへ?」
帰ったところで次元のつながりを切ってくれたらそれで終わりでは? と腑に落ちない顔の龍子に、人間の猫宮がこんこんと言った。
「古河さんには、猫化の解明まで俺のそばで過ごしてもらいたい。それまで自宅に帰すことはできない。公私ともに、俺の近くにいてもらう必要がある。もちろん手当は社内規定に照らして不足ない範囲で支給する」
(お金の問題だったっけ)
そう思った龍子であったが、一方でいま龍子はさる事情によりまとまったお金を必要としていた。出どころの怪しいお金に手を出すほどではなかったが、労働の対価として勤務先の会社で給料が上がるというのであれば、何もやましいことはなく好都合。
たとえ労働の内容が社長(猫)のお世話であっても……。
「わかりました。いま必要なものを持って帰ってくるので、お待ち下さい」
だいたいにして思考の死んだ限界社畜、細かいことを考えるのを放棄して虹色の境目を越えて自宅に戻る。
必要なもの、必要なものと辺りを見回したが思いつかない。ひとまず通帳と実印をかばんに詰め、スマホの充電器をコンセントから外したところで、もう一本のコードに気付いた。
それは、龍子の生活になくてはならないものに繋がっていた。
「準備できました」
よいしょ、と自宅と通じている社長室のドアから現れた龍子を、猫宮と犬島がぼんやりと見た。
先に反応したのは猫宮で、目を細めて言った。
「ずいぶんな荷物だな。それはコタツか?」
「コタツです」
コタツ布団は諦め、コタツだけを抱えた龍子はこの上なく真面目な顔で答えた。
くすっと笑った犬島が、爽やかに言った。
「重そうですね。お手伝いしますよ」
戦後経済を牽引した財閥系企業グループ「猫宮」、その猫宮家直系筋のプリンス。
都内有名大学を卒業後、渡米。二年間の海外留学を経て猫宮グループの中枢である不動産会社に平社員として入社。
激務の営業部門にて破竹の勢いで売上を叩き出し、またたく間に出世。つい先ごろ、社長に就任。政財界だけでなく、SNSやお茶の間ニュースでもずいぶん話題になった。
それは彼の若さだけではなく、プリンスの呼び名にふさわしい、その出自とわかりやすく抜きん出た容姿のせいでもある。
整いすぎた甘いマスク、高貴さを漂わせた切れ長の目元から鼻筋、上品な印象の薄い唇。
髪の毛はいかにも柔らかそうな茶色い猫毛で、頭身バランスは黄金率でなおかつ百九十センチに迫る長身。身につけているのは海外メーカーのオーダーメイドスーツ。
メディアに露出するたびにファンが増えているそうで、龍子も学生時代の友人から「龍子の会社の社長やばいよね!」と言われたことがある。
しかしなにせ大企業。社員も多く平社員の龍子と社長の猫宮なんて接点はおろか、直接顔を合わせたこともない。
関係性といえば「同じ地球上で同じ空気を吸っている」くらいの間柄。
友達に「やばい」と言われても「やばいらしいね」と言える程度だ。当然、これまで身近な存在として意識したことなど、ない。
その猫宮が。
学生時代から引っ越しのタイミングを逃して住み続けている安普請アパートの押入れから三毛猫の姿で現れ、人間となり、恐ろしく気難しい顔をしながら龍子の腕を引いて自社社長室まで拉致してくれるとは。
初めて通される、側面が総ガラス張りの高層階社長室。
きらきらの東京のイルミネーションを背景に、おっかない顔をしたままの猫宮社長。
呆然としている龍子に対し、そばに控えていた犬島が笑顔で言った。
「急なことでお履物がありませんね。失礼しました。いまスリッパをお持ちします」
「いや、そこではないですよ。そこではないです、わかっているのに話を逸らすのやめてくださいよ!」
龍子は犬島へ全力で言い返しながら、手首を掴んだままの猫宮の手を振り払った。
「せっ……セクハラとはギリギリ言いにくい範囲ですけど、社員の自宅に押しかけて社長室に拉致だなんて、社長やることが外道……えええええーっ」
雰囲気に負けてなるものかと弱気になる前にまくしたてたのに、途中で変な悲鳴を上げてしまった。
手を振り払って数秒後、猫宮がしゅぅぅ、と萎んで三毛猫になってしまったのだ。
見た。
たしかに見てしまった。人間が猫になるところを。
「猫チャン……?」
「おい、がらりと態度を変えるな。なんだそのちゃん付けは。俺だ俺、猫宮だ」
「しかも三毛猫ですか? あ~、茶色部分に若干社長の頭髪の痕跡が。そっか、三毛猫の雄って人間になるとイケメンなのか。それは高額取引されるなぁ……」
「ちょっと待て。何かおかしい。お前は何を言っているんだ」
分厚い絨毯の上で、龍子を見上げて騒ぐ三毛猫。逃げる様子はないので、この際よく見てみようと龍子はしゃがみこむ。近くで見ても実にかわいい猫で、頬が緩みにへらっとしまりなく笑ってしまった。
「猫チャン社長、黙っていた方がかわいいですよ。ちょっと触ってみていいですか?」
「猫チャンじゃなくて猫宮だって言ってんだろ。触るな。噛みつくぞ!」
シャアアアア、と威嚇してくる様が猫そのもので、龍子は腹を抱えて笑ってしまった。
そこにすかさず、犬島が口を挟む。
「触ってもらいましょう、社長。先程の猫から人間に戻ったきっかけは、お二人の接触かもしれません。再現できるか試してみましょう。なにしろ彼女は呪法で召喚した救世主なわけですから」
(異世界勇者召喚みたいなこと言い出したけど、ここ都内社長室……。呪法の有効範囲狭すぎない?)
物申したい気分でいっぱいの龍子をよそに、三毛猫がぐっと渋い表情になる。
「む……。たしかに、古河さんには猫化解呪能力がありそうだが……、発動条件は本当に接触か?」
チラッと猫は龍子を見上げた。懐かない猫が、それでも餌か猫じゃらしを気にしている素振りそのものだ。
(ドがつくツン猫が、何か言いたそうにこっちを見ている……! 仲間にしますよ!?)
龍子は猫が好きだった。猫宮社長は雲の上のひと過ぎて現実の人間と認識したことすらなかったが、それでも(社長と結婚して社長の姓になったら「猫」宮になれるなぁ)と考えたことはある。
その「猫」宮社長が龍子を横目でチラッ、チラッと見てくるのだ。龍子は満面の笑みで両手を差し出した。
「猫チャン? どこ撫でますか? おねだりしてくれるんですか? 可愛いですね!」
「くそっ。猫ハラスメントゆるすまじ人間風情が」
「社長、身も心も猫になりすぎですよ。ここはこだわりを捨てて彼女の手に身を任せてください。心は許さなくてもいいですから」
(犬島さんは悪の宰相ぶりをもう少しオブラートに包めばいいのに)
他人事ながらそう思わないでもない龍子だったが、この後彼らと長い付き合いになるだなんてこのときは露ほども思っておらず。
おいでおいで、と猫に向かって差し伸べた手を軽く揺らす。
三毛猫は、腰を下ろしつつ前足は揃えて体を伸ばした通称「エジプト座り」の状態のまま、器用な横移動で龍子に近寄ってきた。そして、嫌そうに目を瞑り、頭をそうっと龍子の手に押し付けてきた。
ふに
手に接触した耳が折れ、龍子が手加減しながら後頭部から首筋を撫でてみると、目を瞑ったままじっと耐えている。そのまま撫でる手が背中に移動し、顎の下に戻った。撫で続けることしばし。
ごろごろごろごろ
喉を鳴らし始めた。心なしか、猫の表情が「ほうっ」と和らいでいる。
連日の激務で疲労困憊だった龍子もまた、妙に癒やされてにこにことしてしまった。
その奇妙に凪いだ空気は、「む」と目を見開いた猫が、みるみる間に人間の男になったことで瓦解した。
床に長い脚を投げ出すようにして座り込んだ猫宮社長が、こつ然と現れる。
行き場を失った手が空を切り、龍子は思わず抗議した。
「猫を返してください! どこにやったんですか!」
「俺だって言ってんだろ! ここにいる、触りたければ触れ!」
「社長触って何が面白いんですか!」
全力で言われたから全力で言い返したのに、変な顔をされてしまう。
そこで悪の宰相、ではなく社長秘書の犬島が声をかけてきた。
「やはり彼女には猫化解呪に関する能力があるのは間違いないようです。が、その追求の前に、せっかく人間に戻れたんです。このすきにひとまず退社して家に帰りましょう。対策はそこからまた改めて」
「そうだな。ということで、古河さん。そこのドアと古河さんの自宅のつながりを切るので、その前に家に帰って必要なものを持ってここに帰ってきてほしい」
「持って……帰って……? ここへ?」
帰ったところで次元のつながりを切ってくれたらそれで終わりでは? と腑に落ちない顔の龍子に、人間の猫宮がこんこんと言った。
「古河さんには、猫化の解明まで俺のそばで過ごしてもらいたい。それまで自宅に帰すことはできない。公私ともに、俺の近くにいてもらう必要がある。もちろん手当は社内規定に照らして不足ない範囲で支給する」
(お金の問題だったっけ)
そう思った龍子であったが、一方でいま龍子はさる事情によりまとまったお金を必要としていた。出どころの怪しいお金に手を出すほどではなかったが、労働の対価として勤務先の会社で給料が上がるというのであれば、何もやましいことはなく好都合。
たとえ労働の内容が社長(猫)のお世話であっても……。
「わかりました。いま必要なものを持って帰ってくるので、お待ち下さい」
だいたいにして思考の死んだ限界社畜、細かいことを考えるのを放棄して虹色の境目を越えて自宅に戻る。
必要なもの、必要なものと辺りを見回したが思いつかない。ひとまず通帳と実印をかばんに詰め、スマホの充電器をコンセントから外したところで、もう一本のコードに気付いた。
それは、龍子の生活になくてはならないものに繋がっていた。
「準備できました」
よいしょ、と自宅と通じている社長室のドアから現れた龍子を、猫宮と犬島がぼんやりと見た。
先に反応したのは猫宮で、目を細めて言った。
「ずいぶんな荷物だな。それはコタツか?」
「コタツです」
コタツ布団は諦め、コタツだけを抱えた龍子はこの上なく真面目な顔で答えた。
くすっと笑った犬島が、爽やかに言った。
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