上 下
37 / 41
第四章

【4】嘘と惚れ薬(後編)

しおりを挟む
「ジャスティーン、香だ。何か焚いている。吸うと危ない。レベッカが少し吸った」

(アーノルド様の声だ。近くにいたの……? だめだ。なんだろう、気持ち悪い)

 エルトゥールは立ち上がれないまま、前のめりに倒れて地面に額をつきそうになる。その寸前、体が浮いた。固い腕にしっかりと抱きかかえられる感覚。
 ふわっと馴染みのある匂いが立ち上る。
 混ざり合ったスパイスの香りが、肌にほのかに残っているらしい。
 吸い込むと、少しだけ呼吸が楽になった。

「なるほど、この濃厚な緑の匂いで誤魔化して、変な香を吸わせたわけだ。飲み物から摂取させる必要はなくて、話を長引かせて薬が効くのを待っていたと。殿下、物はおさえた?」

「見つけた。今マクシミリアンに持たせて外に出した。おそらく『魔法』マニアの侯爵がお抱えの魔導士に作らせた、しびれ薬のようなものだと思う。……効果が女性にだけ限定される」

 目を瞑ったまま、エルトゥールはその声を聞いていた。

(女性にだけ……。レベッカ、来ないでって言ったのに、アーノルド様と来ていたんだ。それで吸ってしまった……。だとするとジャスティーン様も危ない。だからセドリックはあんなに余裕が。私とジャスティーン様が倒れるのを待っていて……)

 女性の身動きを封じた上で、何を企んでいたというのか。「子どもが産めない体にはしない」と言っていた以上、狙いは明らかだ。魔力と遺伝の関係ははっきりしていないにも関わらず、魔導士を妻に迎えたい者は多い。子を産ませるために。

「セドリック。この場を囲んでいたお前の手の者は全部始末した。待っていても助けはこない。この妙な香に関しては、違法薬物として調べが済み次第、侯爵家ごと追及する。逃げられると思うな」

(アルの声、体に響く……)

「ジャスティーン様……、逃げて」

 吐き気を堪えながらエルトゥールが名を呼ぶと、低い笑い声が耳に届いた。
 まるで男装している時に意識して出しているような声で、目を瞑って聞くと本当に男性がそこにいるように錯覚する。

「ありがとう、姫。俺にはこれ、効かないんだよね。女性にしか作用しない『惚れ薬』なんて、やってくれたものだよ。レベッカはどこ?」
「表で休ませている。レベッカが倒れなければ気づくのがもっと遅れただろうが、かわいそうなことをした。人はつけているが、早くお前が行ってくれ」
「了解」

 ジャスティーンは「残念だったね」とひどく明るい声でセドリックを煽り、去って行った。

「ジャスティーン嬢には効かない……? それにしても殿下、姫を救いに御自らこの場に現れるとは。噂は事実と認めたようなもの。エルトゥール姫は、王子を誘惑した希代の悪女の汚名をかぶるやもしれませんね」

 セドリックの捨て台詞を聞きながら、アーノルドは厳しい声で答える。

「俺がひとりで来るわけないだろう。証言者もいないようでは、俺が権力をかさに着て、お前に濡れ衣を着せて失脚させたと言われかねない。それこそ、不都合な事実を隠すために。それはお前の見込み違いで、俺と姫の間には、後ろ暗いことは何もない。シェラザードの件も、公表されても一向に構わない。俺と姫が働いていることは、学校側も把握している」
「何故殿下があのような店で」

 声に混じる侮蔑。見下した口調。
 アーノルドはその問いには答えなかった。
 すぐにいくつもの話し声やざわめきが押し寄せてきて、セドリックを引っ立てていくのが聞こえた。
 周囲と二、三会話を交わして、アーノルドが歩き始める。
 やがて、人の気配がなくなった頃、エルトゥールはアーノルドから慇懃な口ぶりで尋ねられた。

「気分はどうですか」

 エルトゥールは、開かない目をこじ開けてなんとか言った。

「とても悪いです。多少の毒には耐性がありますし、魔力もあるはずなのに……」

 何か仕掛けてくるとわかっていたのに、いいようにやられてしまったのが悔しい。
 唇をかみしめたエルトゥールを抱き直して、アーノルドはひどく心配そうな声で囁いてくる。

「……遅くなって悪い。もう少し早く来たかった。この後、エルの側にはついていられないけど、ゆっくり休んで。仕事も休みで良いから」
「仕事」
「言っておかないと、来そうだから、エルは。動き回るのは、後遺症が無いか確認が取れて、十分に回復してからだ。イルルカンナの王女に手を出そうとしたセドリック並びに侯爵家の罪は重い。メリエム様もこの件、黙っていないだろう。安心して任せてくれ。全部良いようにする」

(「エル」と「姫」が混ざってて、距離感滅茶苦茶ですよ、殿下)

 エルトゥールは脱力感に身を任せてアーノルドの胸に額を寄せながら一言だけ告げた。

「ありがとう、アル」

(「アーノルド殿下」が長すぎて、言えないんです、今は)

 自分に言い訳して、深い溜息とともに意識を手放した。

 * * *

 目を覚ましたら、部屋の中には夕陽が差し込んでいて、ベッドの横の椅子にリーズロッテが腰かけていた。

「エル姉さま。解毒に関しては問題なく終わっています。とても力の弱い魔導士のものだったみたいで、楽に済みました」
「レベッカは」
「大丈夫です。今はジャスティーンが側についています。香の本体に関しても、ドロシー先生が確認しています」

 そっか、と返事をしてから、エルトゥールは毛布の下から手を出して、指の先まで動かしてみる。
 最初は痺れのような違和感があったが、すぐに消えた。

(何か忘れてる……、何か大切なこと……)

 記憶を順番に辿って、気がかりだったことに行きつく。

「女性に効果がある薬が、ジャスティーン様には効かない……」
「それは……、そうなんです。ジャスティーンには効きません」

 リーズロッテに素直に認められて、エルトゥールは口をつぐんだ。
 これまでの出来事が頭の中を駆け巡る。ヒントはたくさんあって、答えも目の前にある。
 ジャスティーンにまつわる様々なことが、腑に落ちる。違和感が埋められていく。だが、その意味するところがまだ実感できない。

(もしそうだとしたら、二人の婚約はどうなるんだろう。アーノルド殿下は、以前、婚約の解消の可能性に触れていたことはあったけど。私は、期待したくなくて敢えて触れないようにしてきた。期待……。私、嫌な奴。ジャスティーン様を邪魔者みたいに。たとえ殿下の横が空いたとしても、そこは……)

 エルトゥールが持ち上げていた手を顔の上に置いたところで、リーズロッテが控えめな口調で言った。

「もともと、アーノルド様は第三王子として、いずれ臣籍降下する身。成人後、その後ろ盾に公爵家がつく予定で、二人の婚約は、生まれる前から決められていました。それが間違いだったのですけど、様々な思惑が絡んで、ジャスティーンが生まれた後にも訂正されませんでした。事情を知る者は多くありませんが……。ジャスティーンは卒業後、体調不良を理由に田舎に引きこもり、折を見て、殿下との婚約を解消。その裏で、別の名前や地位を用意して、本人が望むのであれば国外にでも出す。そういう手筈になっていたんです」

 醜聞を気にしてアーノルドから逃げ回るエルトゥールに、何か言いたそうにしていた理由。
 ジャスティーンは女性ではなく、婚約も解消される予定なのだ。

「これは内緒ですよ。エル姉さまはまだ知らないこと。薬の見せた幻覚か何かです」
「うん。わかった。まだ頭が追いついていないし、幻覚だと思う」

 両手で顔を覆った。目を押さえていないと、涙が浮かんできそうで、エルトゥールは「少し寝るね」と断って横を向いた。
 
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

【完結】冷酷眼鏡とウワサされる副騎士団長様が、一直線に溺愛してきますっ!

楠結衣
恋愛
触ると人の心の声が聞こえてしまう聖女リリアンは、冷酷と噂の副騎士団長のアルバート様に触ってしまう。 (リリアン嬢、かわいい……。耳も小さくて、かわいい。リリアン嬢の耳、舐めたら甘そうだな……いや寧ろ齧りたい……) 遠くで見かけるだけだったアルバート様の思わぬ声にリリアンは激しく動揺してしまう。きっと聞き間違えだったと結論付けた筈が、聖女の試験で必須な魔物についてアルバート様から勉強を教わることに──! (かわいい、好きです、愛してます) (誰にも見せたくない。執務室から出さなくてもいいですよね?) 二人きりの勉強会。アルバート様に触らないように気をつけているのに、リリアンのうっかりで毎回触れられてしまう。甘すぎる声にリリアンのドキドキが止まらない! ところが、ある日、リリアンはアルバート様の声にうっかり反応してしまう。 (まさか。もしかして、心の声が聞こえている?) リリアンの秘密を知ったアルバート様はどうなる? 二人の恋の結末はどうなっちゃうの?! 心の声が聞こえる聖女リリアンと変態あまあまな声がダダ漏れなアルバート様の、甘すぎるハッピーエンドラブストーリー。 ✳︎表紙イラストは、さらさらしるな。様の作品です。 ✳︎小説家になろうにも投稿しています♪

脅迫して意中の相手と一夜を共にしたところ、逆にとっ捕まった挙げ句に逃げられなくなりました。

石河 翠
恋愛
失恋した女騎士のミリセントは、不眠症に陥っていた。 ある日彼女は、お気に入りの毛布によく似た大型犬を見かけ、偶然隠れ家的酒場を発見する。お目当てのわんこには出会えないものの、話の合う店長との時間は、彼女の心を少しずつ癒していく。 そんなある日、ミリセントは酒場からの帰り道、元カレから復縁を求められる。きっぱりと断るものの、引き下がらない元カレ。大好きな店長さんを巻き込むわけにはいかないと、ミリセントは覚悟を決める。実は店長さんにはとある秘密があって……。 真っ直ぐでちょっと思い込みの激しいヒロインと、わんこ系と見せかけて実は用意周到で腹黒なヒーローの恋物語。 ハッピーエンドです。 この作品は、他サイトにも投稿しております。 表紙絵は、写真ACよりチョコラテさまの作品(写真のID:4274932)をお借りしております。

聖女を騙った少女は、二度目の生を自由に生きる

夕立悠理
恋愛
 ある日、聖女として異世界に召喚された美香。その国は、魔物と戦っているらしく、兵士たちを励まして欲しいと頼まれた。しかし、徐々に戦況もよくなってきたところで、魔法の力をもった本物の『聖女』様が現れてしまい、美香は、聖女を騙った罪で、処刑される。  しかし、ギロチンの刃が落とされた瞬間、時間が巻き戻り、美香が召喚された時に戻り、美香は二度目の生を得る。美香は今度は魔物の元へ行き、自由に生きることにすると、かつては敵だったはずの魔王に溺愛される。  しかし、なぜか、美香を見捨てたはずの護衛も執着してきて――。 ※小説家になろう様にも投稿しています ※感想をいただけると、とても嬉しいです ※著作権は放棄してません

【完結】聖女召喚に巻き込まれたバリキャリですが、追い出されそうになったのでお金と魔獣をもらって出て行きます!

チャららA12・山もり
恋愛
二十七歳バリバリキャリアウーマンの鎌本博美(かまもとひろみ)が、交差点で後ろから背中を押された。死んだと思った博美だが、突如、異世界へ召喚される。召喚された博美が発した言葉を誤解したハロルド王子の前に、もうひとりの女性が現れた。博美の方が、聖女召喚に巻き込まれた一般人だと決めつけ、追い出されそうになる。しかし、バリキャリの博美は、そのまま追い出されることを拒否し、彼らに慰謝料を要求する。 お金を受け取るまで、博美は屋敷で暮らすことになり、数々の騒動に巻き込まれながら地下で暮らす魔獣と交流を深めていく。

異世界召喚されたけどヤバい国だったので逃げ出したら、イケメン騎士様に溺愛されました

平山和人
恋愛
平凡なOLの清水恭子は異世界に集団召喚されたが、見るからに怪しい匂いがプンプンしていた。 騎士団長のカイトの出引きで国を脱出することになったが、追っ手に追われる逃亡生活が始まった。 そうした生活を続けていくうちに二人は相思相愛の関係となり、やがて結婚を誓い合うのであった。

こわいかおの獣人騎士が、仕事大好きトリマーに秒で堕とされた結果

てへぺろ
恋愛
仕事大好きトリマーである黒木優子(クロキ)が召喚されたのは、毛並みの手入れが行き届いていない、犬系獣人たちの国だった。 とりあえず、護衛兼監視役として来たのは、ハスキー系獣人であるルーサー。不機嫌そうににらんでくるものの、ハスキー大好きなクロキにはそんなの関係なかった。 「とりあえずブラッシングさせてくれません?」 毎日、獣人たちのお手入れに精を出しては、ルーサーを(犬的に)愛でる日々。 そのうち、ルーサーはクロキを女性として意識するようになるものの、クロキは彼を犬としかみていなくて……。 ※獣人のケモ度が高い世界での恋愛話ですが、ケモナー向けではないです。ズーフィリア向けでもないです。

悪役令嬢、追放先の貧乏診療所をおばあちゃんの知恵で立て直したら大聖女にジョブチェン?! 〜『医者の嫁』ライフ満喫計画がまったく進捗しない件〜

華梨ふらわー
恋愛
第二王子との婚約を破棄されてしまった主人公・グレイス。しかし婚約破棄された瞬間、自分が乙女ゲーム『どきどきプリンセスッ!2』の世界に悪役令嬢として転生したことに気付く。婚約破棄に怒り狂った父親に絶縁され、貧乏診療所の医師との結婚させられることに。 日本では主婦のヒエラルキーにおいて上位に位置する『医者の嫁』。意外に悪くない追放先……と思いきや、貧乏すぎて患者より先に診療所が倒れそう。現代医学の知識でチートするのが王道だが、前世も現世でも医療知識は皆無。仕方ないので前世、大好きだったおばあちゃんが教えてくれた知恵で診療所を立て直す!次第に周囲から尊敬され、悪役令嬢から大聖女として崇められるように。 しかし婚約者の医者はなぜか結婚を頑なに拒む。診療所は立て直せそうですが、『医者の嫁』ハッピーセレブライフ計画は全く進捗しないんですが…。 続編『悪役令嬢、モフモフ温泉をおばあちゃんの知恵で立て直したら王妃にジョブチェン?! 〜やっぱり『医者の嫁』ライフ満喫計画がまったく進捗しない件~』を6月15日から連載スタートしました。 https://www.alphapolis.co.jp/novel/500576978/161276574 完結しているのですが、【キースのメモ】を追記しております。 おばあちゃんの知恵やレシピをまとめたものになります。 合わせてお楽しみいただければと思います。

愛を知らない「頭巾被り」の令嬢は最強の騎士、「氷の辺境伯」に溺愛される

守次 奏
恋愛
「わたしは、このお方に出会えて、初めてこの世に産まれることができた」  貴族の間では忌み子の象徴である赤銅色の髪を持って生まれてきた少女、リリアーヌは常に家族から、妹であるマリアンヌからすらも蔑まれ、その髪を隠すように頭巾を被って生きてきた。  そんなリリアーヌは十五歳を迎えた折に、辺境領を収める「氷の辺境伯」「血まみれ辺境伯」の二つ名で呼ばれる、スターク・フォン・ピースレイヤーの元に嫁がされてしまう。  厄介払いのような結婚だったが、それは幸せという言葉を知らない、「頭巾被り」のリリアーヌの運命を変える、そして世界の運命をも揺るがしていく出会いの始まりに過ぎなかった。  これは、一人の少女が生まれた意味を探すために駆け抜けた日々の記録であり、とある幸せな夫婦の物語である。 ※この作品は「小説家になろう」「カクヨム」様にも短編という形で掲載しています。

処理中です...