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定義づくようでつかないもの= 5

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~小林side~


コーヒーは苦くて、ベイクドチーズケーキはほんのり甘くて。きっと選んでくれたコーヒー豆はケーキに合うはずなのに、ただただ苦味だけが口の中に広がっていく気がした。

「この後、どうする? さっき言ってた通りで、買いたい本があれば近場の書店に寄るけど」

の声に、「そうですね」とだけ返す。

「買うのは、その本?」

「はぁ、まあ…家でゆっくりと時間かけて読んでみようかなと」

「そっか。じゃあ、ケーキ食べ終わったら行こうか」

チラッと視界の端に、神田くんという店員の姿。

(気にしなきゃいいのに、どうしても気になってしまう)

見た目がカッコいい。身長もあるし、スラッとしている。カフェエプロンがめちゃくちゃ似合う上に、接客がスマートな感じ。あと、声もよかった。なにより一番引っかかったのが、水無瀬さんと。

(二人で並ぶと、様になるっていうか、バランスがものすごくいい。絵になるカップル)

自分で考えていることだけど、結構悲しい内容だな。昨日彼氏になった人で、他の人の彼氏になった姿を妄想してしまうという現実が、思ったよりも胸に来る。――痛い。

「ここの店に来るようになったキッカケって、なんですか? 紹介? それとも」

嫉妬は執着になってしまうなと頭に浮かんだ瞬間、一葉の声が聞こえてきそうで、別の声に変換したくて水無瀬さんに話しかける。

引っかかっていたことで、聞いても害がなさそうな方を。

「んー……なんだったっけな。たしか、教えてもらった気がするんだよね。結構前の話だから、記憶が曖昧でね。……どうかした?」

どうして聞かれたのか気にさせたんだろうか。逆に質問し返される。

「あー…ん、と。なんとなく?」

そう言いながら、手にしていた本のページをめくる。

「ふぅん」

納得していなさそうなのが、声だけでわかる。

「…………本、返してきますね。もうそろそろ食べ終わりそうだし」

「あ…っ、小ば」

なんだか居心地が悪くなってしまい、席を立つ。何か呼ばれかけていたようだけど、気づかなかったふりだ。

「えーと、確かこの辺だったような」

とかまるでひとり言っぽく呟きながら、本棚の前を右往左往。背中からの視線に気づいているのに、振り向く勇気はない。

いつまでも本棚にしまえないでいるところに、肩にトントンと何かが触れた。

「ん?」

触れられた側へと振り向くと、神田さんというあの店員がニッコリ微笑んで立っていて。

両手のひらを上にして指先までキレイにそろえた状態で「そちらの本、こちらで戻しておきますよ?」という言葉つきで、差し出されていた。

「え、でも」

本を預けてしまうと、視線の先にいる人のところに戻るのが早くなってしまう。

「どのお客様も、読み終えた後にこちらで本の返却を承っているので、お気になさらず。うちの店は初めてですよね? そのうち慣れられたその時にでも、ご自身で返却なさってもよろしいのでは?」

イケメンの営業スマイルの破壊力と圧が、思いのほか…怖い。

「それじゃ、お願いします」

「はい。かしこまりました」

文庫本を彼の手のひらにのせて、ため息をつきつつ席に戻る。

「説明しようとしたのに、行っちゃうからさ」

なぜかものすごくいい笑顔で、テーブルに肘をつきながらそう呟く水無瀬さん。

「俺の声、聞きとれていなかった? …そんなわけないよね? 席を立つ途中で名前を呼びかけていたんだからさー」

口角を上げて笑みを深める彼に、これはマズいのかもしれないと思いはじめる。

「…すみません」

「心がこもっていない謝罪はいらないよ? こ・ば・や・し・くん」

店でもこんな風に叱られたことがあった。

(たしかあの時は話をちゃんと理解できていなかったのに、何回も質問するのもと思って笑ってごまかそうとした時だ)

「支払いすませて、車に戻ろうか。約束通りに書店に連れていくから」

「……はい」

かもしれないじゃなく、マズい! 完全に怒らせている。

「ここの支払い、俺にさせてくれる? 誘ったの俺だしさ」

「あ、いや…でも」

バッグに手をかけて財布を取り出そうとする俺の名を、水無瀬さんがいつもより低めの声で呼ぶ。

「小林くん、言うこと聞こうか?」

と、どこか冷えた声で。

背中に冷たいものが走る…いつかどこかで味わった気がする感覚に、ギュッと財布を握ったまま動けない。

「…はい。ロック、このリモコンで解除したから、車に先に乗っててくれる?」

ピピッと車の鍵についている小さな機械を操作し、視線だけで入り口を示される。

神田さんとカウンターにいるマスターっぽい人に頭を下げて、無言で店のドアを引く。

ベルが小さく鳴って、外に出た後にもう一度閉まったタイミングで小さくドアの向こうで鳴ったのがかすかに聴こえた。

車へと向かうと、確かに鍵は開いていて。

「……乗っていいのか? いや…でも、ここの場所がハッキリわからないから、自力で移動のしようもないし。どっちにしても、明日職場で会うわけだし」

ドアを引き、後は乗るだけなのに乗れない俺。

逃げられるはずがないのに、逃げたくなる気持ちが消せない。

「…ぐっ」

葛藤したって、あの水無瀬さんに勝てる確証もない。自信もない。

諦めて車に乗り込み、シートベルトを装着してスマホを触るでもなくうつむいて待ち人を待ち続けた。

会計だけのはずが、10分くらい経ったのにいまだに戻ってこない。

「なんだろ、これ。放置されてる? ……水無瀬さんなら、お仕置きとか言い出しそう」

苦笑いをして、窓にコツンと頭をくっつけて目を閉じる。

――――怒らせた。

ケンカでもなんでもなく、ただ怒らせた。それが現状についての正解だろう。

(でもあの場で神田くんって店員との関係に言及なんかするのは、さすがによくないと思った。まわりに他のお客さんもいたわけだし)

「うまくできない……」

たとえ話。一葉とあのまま付き合う格好になっても、親にごまかすのも気持ちが一葉にないのも何もかもを嘘で包みこみながら過ごすなんて器用な真似、俺には出来なかったんじゃないか。

家族も含めて人付き合いの中で嘘が全くない付き合いなんて、誠実といえば誠実だとしても、人間らしくないような気がしなくもない。

どこかで嘘を吐いても、それがせめて誰かを傷つけるような嘘じゃなきゃいいなって感じでさ。

一葉にさっき送ったメールは、嘘じゃないはずだけどきっと一葉が欲しい情報は極端に少ないハズ。

彼氏っていつ出来たの? どんな人? 男と付き合うなら、自分にだってチャンスがあったんじゃないの? どうして同じ男の自分には振り向いてくれなかったの? …などなど。

何の情報もなく、ただ、『彼氏が出来たから、連絡してくんな』ってだけ。腕を突き出して、突き飛ばしたようなメールだ。

恋愛だけじゃなくても、元々そこまで人付き合いが上手かったわけじゃない。人並みってレベル。

(こんなんで、よく…接客業に飛びこんだな。俺)

職場の書店で、赤点手前程度の接客なんじゃないか。今のところ、特に誰かに何か言われたわけでもないけど。

こうなってしまうと、なんでもかんでも自信がなくなってしまう。悪いところだって思うのに、自分を追い込むのをやめられない。

「ダメだな、俺」

ふ…と目を開けてスマホを取り出し時間を見ると、20分ほど経過している。

「このまま車に乗ってていいのかな」

凹んでしまう。一人だと感じはじめたら、あっという間に深く沈んでいく。

「彼氏出来たけど、あっという間にまた一人だな。社内恋愛だから、さすがに気まずいし。……せっかく正社員になったけど、辞めなきゃいけないかもな」

また目を閉じて、胸の中を空にするように長い長い息を吐いた。

その瞬間、意識が途切れた。

「恋なんかしなきゃよかった…」

そう呟いたと同時に。

ゆらゆらと揺れる感覚。心地いい揺れだ。顔に触れるなにか冷たいものが、気持ちいい。

「…み……ず」

喉が渇いた。でもこのゆらゆらしてるのって、海の底とかっぽくないか? 

(じゃあ、口を開けたら水が飲めるんじゃ)

普通に考えたら、それは溺れるやつだから! とか突っ込まれかねないことが頭に浮かんで、かすかに口を開く。

すこしだけ開けた口から、ヒンヤリした水が入ってくる。体の中、カラカラだったのかな。

「…おい、し…ぃ」

海水なんだと思ったのに、味は普通の水だ。変なの。

「も、っと」

飲みたい。そう願ってまた口を開くと、水がゆっくりと潤してくれる。

「……は」

思わず息がもれるほど、体から力が抜けていった。

顔や首に冷たいものが触れて、その気持ちよさに顔がゆるむ。

気持ちよさを感じながら、さっき車の中で考えていたことが思い出された。

(恋なんかしなきゃよかった)

一葉に恋をされるのも、水無瀬さんと気持ちを交わすのも。恋愛に発展させないでも、人と人は繋がれるはず。

中途半端に恋愛感情なんか持つから、期待をしたり妬いたり執着しそうになったりするんだ。

「も…恋…んか、しなぃ…」

自分の目尻から涙がこぼれたのがわかる。

(あぁ、俺…また泣いてるのか)

母子家庭だった時、自分の病気のせいで母親がしなくてもいい苦労をしていると知った時、同級生たちが俺とは違って健康的で楽しく笑っているのを見た時、母親が再婚を決めたのが自分の病気のせいかと勘違いしていた時。

コッソリと母親がいない時に泣いたり、声を殺して泣いたりもした。

(俺はいつも誰かの前で泣けないんだな)

闘病中に一度口にして以降、母親から二度と言わないでと泣かしてしまった言葉。

「消えた……い」

あんな思いをして治療をし、あんなにも母親に無理させて働かせて、きっと自分が悪い子だから病気になったんだと思ったのが口にしたキッカケだった。

自分が消えてなくなれば、入院仲間の子と一緒に読んだ冒険もののやられた魔物みたいに、ジュ…ッと跡形もなく消えてしまえば母親は楽になれるんじゃないか? 自分だって辛くて苦しいことから逃げられるんじゃないかと思ってた。

(そんな簡単なことじゃないのに、な)

メルヘンでもファンタジーもない現実世界で、消えるとか…無理だ。

(それでも…っっ)

こんな自分は嫌だ。もうここから自分を変えるとか、こんな自分でもいいよって誰かを探して信じるってところまで行くこと自体が無理だ。

弱音を吐かない約束を自分とかわして、闘病生活が終わりを迎え、やればできるじゃんと自分を褒めて、出遅れたけどみんなと同じように高校も大学も卒業して、就職まで出来たのに。

それでもやっぱり自分を心の底から褒めてやれない。

どこまで行っても、俺は俺を認めない。認められない。こんな俺なんか、誰が好きになるって?

(こういうことを考えちゃうから、きっと俺はずっと一人ぼっちなんだ)

思考回路が退行していく。

「…ふ…ぅっ……っっ」

こんな風に泣いているのは、いつ振りか。

思い出そうとするのを邪魔するかのように、額にひやりとした何かの重さを感じた。

「………寂しい…」

視界が明るく開けていくのを感じながら、勝手に口からこぼれた胸の奥。

寂しいと自分が呟いたことに気づかないまま、自分がいる場所へ違和感を抱いた。

「ここ、どこ?」

眩しくて一度開けかけた目を瞬かせる。

「目が覚めた?」

その声がした方へと、目だけを動かすとその先にいたのは。

「水無瀬さん……」

出かけた時よりも髪がぐちゃぐちゃになっていて、不安げな瞳をした彼がいた。




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