EQ200

凛快天逸(Rinkai Tensor)

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 ドシン。
 IR機体が大地を踏み鳴らす音だろうか、地震のようなそんな振動を大地を通じて愛九は感じた。

 北海道侵略計画の日の早朝。

「あの時の夢を、絶対に叶えてやるんだ……」
 愛九は果てしない夢を見ていた。それは彼を史上最大の犯罪者に仕立て上げた夢だった。小学校時代、自分の天才的なEQを使って、理想社会を創り上げようとしていたあの時。



 EQ200の天才として生まれてきた僕は、どこか普通の人と見る世界が違っていた。
 EQという概念は、心の知能指数を指し示す言葉である。自身や周囲の人達の感情を適切に察知し、うまく扱う能力で、複雑で入り組んだ社会を生きていく上で欠かさない。
 だがそのEQを極めて高く生まれ持った僕は、まさか、特殊な能力を持っていたのだ。

 小学校。
 僕が入学した学校は普通だった。特にエリート校でもなければ、最底辺というわけでもない。ただ中間に位置する平凡な教育施設。
 学校という環境において、時空を超えて存在するのがいじめだ。そして僕の通う小学校でも例外という事はなかった。

「おい、今日もパン買ってきたんだろうな?」
 いじめっ子のリーダー格の男子生徒は、いじめられっ娘の彼女に話しかける。
 昼休みの時間の教室。授業が終わって教師が外に出た途端に、いじめっ子の彼が声を上げたのだった。その間、他の生徒はただ昼食の準備を開始する。

「えっと、その、お金なくて、その……」
 いじめられっ娘は、気まずそうに答える。
「はああ!?」
「ご、ごめんなさい……」
「んじゃ、バツ決定な」
 いじめっ子のリーダーは無情にもそんな彼女に暴力を振るう。

「痛いよ……や、やめて……」
「てめぇが悪いんだろ!!!」
 と理不尽な台詞を吐きながら、彼は彼女を痛みつける。
「ちゃんと持ってこないのが悪いんだぞ」
「そ、そうだぞ」
 彼女を逃がさないようにと、リーダー格の部下たちだろうか、取り巻き二人が、取り囲むように立っている。一人はメガネを掛けている優等生。もう一人の方はあまり乗り気ではないらしい気弱な人物だ。どうやら戸惑っている風にも思える。

「誰か、助けなさいよ」
 そんないじめの現場を遠くから見ながら、クラスの生徒がポツリと呟いた。彼女は自分から問題に干渉していく積極性はないものの、それを問題と認識することは出来るのだ。他の生徒も同様である。
「無理よ」
「そうだ。あいつだしな」
 という結論。
 そして誰も助けの手を差し伸べる事はなく、いじめは紡がれていくのだった。

「……」
 一番後ろの席から、僕は、そんなイジメの様子を眺めていた。
 僕はずっと脳内でストーリーを描いていた。いじめっ子がいじめをやめるようにするシナリオだ。もし僕が神様なら、なんて考えてエンディングまで持っていくのだ。
 頭の中でストーリーを創る行為は、物心がついたときからの癖だった。社会の中で辛い状況に相対した時、それは顕著に姿を現した。
 本来なら、そんな脳内妄想など意味のない行為だ。
 でもそれはEQ200の僕にとって、現実となる。なぜなら僕には特別な力があるから。
 
「僕になら、出来るはずだ」
 力強く拳を握り込めてから、呟いた。
 僕の能力はきっと神様から与えられた特別な贈り物なんだ。ずっと善人として社会の為に奉仕しようと、悪を嫌い、正義を貫こうとしてきた。これこそが僕の使命。

 そして一つの決断を下した。それは自分の人生を根本的に変える決断だった。

「よし、操ってみよう」
 EQ200として生まれた僕には、人を操るという特殊な能力が宿っている。その事実には小学校に進学する前に気づいた。でも僕はそれを直ちに使用することはなかった。
 罪悪感が僕を縛ったのだ。EQが他の人よりも高いからといって、他人を操るという行為が正当化されるわけじゃない。他人は自分の意志で生活して、決断をし、そして人生を紡いでいく。もし僕が能力を使って横から介入していったら、それは何らかの罪になるはずだ。

 だからこれまで能力を封印していた。
 そしてこれからもその予定のはずだったのだが。
「や、やめてよ……」
「やだね」
 目の前で繰り広げられるイジメは、ただひたすら過激化していく。いじめっ子は苛烈な暴力を振るうまでに。そしていじめられっ娘の彼女は血を流す。
 僕は堪えられなかった。

 いじめっ子を直接操作して死に追いやるのは駄目だ。まずそんな異様な事態に発展したら、余計な注目を集めてしまうだけだ。僕の特殊能力に感づく人間もいるかもしれない。
 他にも理由がある。自然な過程で彼が死に追い込まれなければ、いじめられっ娘の彼女はきっと罪悪感を感じてしまうからだ。自分のせいで彼が死んでしまった、と。
 そこでEQ200の天才の脳内に、一つのストーリーが閃いた。

 一時間目が近づくと、いじめっ子達は教室から出ていった。そして教室内には平和が取り戻された。もっともいじめられっ娘の彼女の心は依然として抉られているのは変わりないのだが。

 彼は、いじめられっ娘に近づいていった。
「――さん、大丈夫?」
 彼女は泣くのを隠しながら、答える。
「う、うん、平気」
 だがしかし彼女の顔は、返答と明らかな乖離を見せていた。
「僕がなんとかしてみせるよ。だから安心して」
 そう言うと、彼は彼女の席から離れていく。





 授業が一式終わり、放課後の時間に突入。
 弛緩した空気にともに、生徒たちが一気に教室から出ていく。その勢いに任せずに、僕はただ教室にとどまった。どうやらイジメられっ娘である彼女も既に何処かに行ったようだ。
 教室に残ったのは、僕といじめっ子の連中だけだ。都合がいい。

「あれ?あいつ、どっかいったのかよ。つまんねーな」
「うん。今日は何をするの」
「……」
 という会話する彼らを、僕は後ろの席からただ観察する。
 最初は、地盤を侵食していくが大切だ。人間は一つの環境の中で他人との関係性で生きている。だからもし、いじめっ子が孤立してしまえば、状況は覆されていく。
 
 それでは誰を最初に操作していくか。
 リーダー格の部下である、あの太り目の男子生徒を最初にターゲットにしよう。
 彼は明らかにいじめっ子集団の中でも、ランクの一番低い生徒だ。いつも集団の中で怯えて、顔色を窺って生きている。
 そして彼はイジメという行為に罪悪感を感じてもいる。だから、リーダーである彼がイジメを続けようとした時、やんわりと止めるように促す。もちろんそれは抑止力になることもないが。
 僕の脳内は、ここで一つの物語を紡いだ。

「まずは彼を利用して、いじめっ子集団を瓦解させよう」
 高EQ保持者として生まれてきた人間には、人間の感情を他人よりも理解し、把握できる能力が備わっている。そのキャンバスを元に、あらゆるストーリーを描くことが出来る。
 そしてEQ200という感情の天才である彼は、物語の天才でもあった。彼は生まれながらにしての芸術家でもあり、努力の天才でもあった。

 僕の視線は、優等生の生徒に注がれた。

「俺、ちょっとトイレ行ってくる」
 と優等生の生徒に乗り移った彼が発言した。いじめっ子達の談義中に手を上げたのだ。
「なんだ?トイレか?」
 するとリーダー格の生徒が訊いてきた。彼は気がついていない。優等生は操られているという事実に。
「ああ。ほら、行こうぜ」
「え?あ、うん」
 操作されている優等生は、気弱ないじめっ子を連れて、教室から出た。教室にはいじめっ子のリーダーだけが残っている。

 廊下から男子トイレに移動。
 そこで操作を継続させながら、僕は彼を操っていく。
「なあ、あいつのことなんだけど。やっぱり最近、やり過ぎだよな」
 というのが僕が言わせた台詞だった。既に彼がイジメに対して否定的な意見を持っている事は把握できていた。だからそれを突いて、彼に同調させるのだ。
「え?やっぱり、君もそう思ってたの?」
 思ったとおりだ。彼はグループ内で孤立していたと思っていたのだろう。だがこれで仲間が出来た。
 
 優等生の操作を続けて、彼にこう言わせる。
「ああ、ずっと思ってたさ。でもあいつの前じゃ、言えなくて」
 彼は演技を強要された。心の芯から辛いと思わせるように、そして同調を強要させるように。
 すると効果覿面だった。
「良かった!君も仲間だったんだ!」
「ああ、そうだ、仲間だ。今日からもう、あいつとは絡むのはやめようぜ」
「え!?でも、そ、そんな事したら、あいつから何言われるか、わからないよ」

 学校という環境において特定のグループに属することは死活問題である。もし自分が孤立してしまったり、劣勢なグループに入ってしまったりしたら、その時点で学生生活は大きく左右されてしまうのだ。
 だから弱気な彼はそこを懸念しているのだ。もし自分がいじめっ子達のグループから抜けて、孤立してしまったりしたら、大変だ、と。

 だがこの返答、想定済みだ。
「大丈夫だって。俺が他の連中に口合わせしておくから。お前は何もリスクを背負うことはない」
 こう言っておけば、気弱なあいつでも僕の計画から逃げ出す恐れはない。
「ほ、ほんとに?ありがとう!」
「ああ、任せてくれ」
 そしてトイレを終えた二人は、いじめっ子のグループから抜け出した。そして他の健全なグループにへと鞍替えしたのだ。

 教室には戻らずに、昇降口にまで移動していく。そして下校している他の同級生たちに声を掛ける。
「なあ、俺たちも混ぜてくれよ」
 操作されている優等生が言うと、同級生たちが困惑したような表情で反応した。
「あれ?お前ら、あいつのグループじゃなかったのか?」
「もう止めたんだ。あいつ、最近になってまた過激になったんだよ。もうついてけないよ」
「そうだったのか。あいつ、まじでうざいよな。授業中も妨害してくるし、それにさ――」
「同感だ」
 などという簡潔な会話を済ませると、彼らは昇降口から靴を切り替えて、外に出ていった。 
 そこで僕は操作を終了した。

「あれ、おかしいな?さっきまで俺は何してたんだ?つうか、どうして俺はお前たちとつるんでんだよ」
 操作が解除されると、優等生は意識を取り戻し、頭を掻いた。
「どうしたんだ?。お前がさっき、俺たちのグループに入るって言ったんだよ」
「あ?ああ、そうだったっけ?」
「んだよ?言い出しっぺのお前が今更拒絶すんのか?」
 強く言われると、彼は屈服せざるを得なかった。例えそれが自分の意思で行われていない決断だとしても。なぜなら彼は同調せざるを得ないのだ。
「し、しねーよ。しかたねーな……」


 そんな光景を、僕は教室の窓から眺める。
「あれ?まだかよ。あいつら、トイレ長いな……」
 視線を窓から教室内部へと移動させる。そこには、一人の生徒の姿。教室で一人だけ取り残されたいじめっ子のリーダー。彼は既に孤立してしまった。

 全ては彼の目論見通りだった。
 EQ200の天才は全て見通したのである。物語を脳内で作り出して、そして現実で再現する。演者は操られて、多彩な感情を駆使して、最終的な目的を果たす。
 そうしていじめっ子集団は一日で崩壊していった。

 癌は駆除されなければ、ならない。
 そうだ。これは正義なんだ。他人を操って害である個人を排除して、教室、学校という環境の全体の向上に努める善。
 あいつさえ消えてくれれば、みんなは喜ぶ。なら、そうしない理由はないだろう。むしろ、これは義務でもあるのかもしれない。
 
 だって僕はEQ200の天才なんだ。
 僕になら、みんなの感情は手に取るように分かるし、一体どんな未来に向かっていけばいいか、僕が一番良く知っている。
 やってやるんだ。この能力で、あいつを死に追い込むんだ。
 そう決意を固めた彼は、再び、いじめっ子集団の観察を開始する。
「まだまだ、計画は始まったばかりだ」

 これからさらに操作する人間の範囲を広めていこう。前回は同じ教室の生徒だけだったが、それ以外にも、教師や他の教室の生徒。上級生も含めよう。
 さらにシナリオは膨張していき、エンディングを見せる。
 最終的に学校から糾弾されるなんていう結末もいいだろう。精神的な糾弾は、肉体的なものよりも、辛いものだ。これは高いEQを有する人間にとっては常識とも言える人間に対する洞察の一つだった。
 そうなれば、きっと彼は自然と死に追い込むだろう。社会に居場所を奪われて、孤立。そして死を救いだと考え出すからだ。

 僕は直接、彼を殺す必要はない。状況が彼を殺すのである。
 僕は自分なりの正当化を図った。



 1週間後、変貌を遂げた学校という一つの世界に、 いじめっ子のリーダー格の男子生徒が登校してきた。
「な、なんだよ、お前ら」
 登校して、いつものようにいじめを開始しようとすると、周辺の生徒達が執拗に視線を注いでくる。これまで誰でも咎める事はしなかったのに。
「おい、どうしたんだよ。はやくこいつ、いじめよーぜ」
 と、彼は先週まで一緒にいじめに加担していた取り巻き二人を呼びかける。

「俺には関係ないね」
「僕も」
 これまで一緒だった部下の男子生徒も近寄ることはせずに、別の同級生たちのグループと一緒に、まるで汚物を見るかのように、立っているのだ。
「なんだよ、裏切るのかよ!」
 という仲間の反応に逆ギレしながら、彼が近寄ろうとすると、教室の扉が開かれる音がした。

「おい、お前。ちょっと面貸せよ」
 すると下級生の教室に上級生の生徒が入ってきた。どれも屈強な体躯を宿した男子生徒だった。明らかに体格差があり、喧嘩慣れしている雰囲気をしている。

「な、何するんだよ!」
 情けない彼の叫びは誰の耳にも届くことはなかった。そのままいじめっ子のリーダーは、奇しくも、いじめの標的になることになった。
「こっちこいよ」
 屈強な上級生たちは、ただ力づくで彼を連行していく。
「誰か!助けてくれ!」
 いじめっ子のリーダーは助けを求める。だがしかし誰も助けの手を差し伸べる生徒はいなかった。

「ざまーみろ」
「自業自得だよ」
 彼のこれまでの悪質な行為が仇となったのだ。いじめっ子として学校で悪名高い彼に、誰も慈悲を見せる事はなかった
 そして正義感の強い人間が現れるようなら、
「やぱいって、流石に。僕ちょっと、助けに行ってくるよ」
「止めたほうがいいよ」
「え?」
 と他のクラスメイトから勇敢な行為を止められる。

 そして勇敢な彼はクラス内を見渡した。そこには同級生たちが怪訝な目線でこちらを眺める光景があった。まるでお前がいじめの行為を止めようとするならば、お前も悪役になる、と言わんばかりの無言の圧力だった。
「い、今のは、嘘だよ、嘘。ほら、僕は何も手を出さないから」
 無言の圧力に押されて、彼は椅子に座って、クラスのヒエラルキーに従属した。



「お、おい!どこに連れて行くんだよ!」
 上級生たちは、いじめっ子のリーダー格を教室から引きずり出していくと、廊下に連れていく。階段を上っていきながら、無情にもこう告げる。
「痛めつけてやるからな」
「屋上までこい」
「ま、待ってくれ!」

 叫び声が校舎中にに響いていく。そして反響は二人の人物に届いた。
「もう学校には慣れましたかな、――先生」
 一人の人物は、教頭先生である。彼は、別の先生に話しかけながら、廊下を歩いている。 
「ええ。もうすっかり……あれ?もしかして、あれは、いじめですか?」
 もう一の人物は学校に赴任してきたばかりの新人教師だった。やる気に溢れた正義感の強い理想的な若い先生だった。
「ん、いじめですって?」

 廊下に顔を出して眺めていた僕は、そんな光景を目の当たりにした。
「しまった、どうやら教師に目撃されたようだ……教師が介入してくるのを何とか防ぐ必要がある」
 僕は一抹の懸念を抱いた。
 だが一瞬で、それを達成するシナリオを脳内で弾き出した。教師たちをもコントロールすればいいのだ。彼らを操って、いじめを無視するようにする。


 僕は思考の風を吹かせた。


「きゃ!」
「おう!」
 という教頭先生と新人教師が素っ頓狂な声を上げた。
「風、ですかね……?」
「かまいたちですかな……?」
 
 教室から廊下、そして瞬く間に職員室に風が貫いていき、最終的に一人の人物に辿り着いた。

 普通の人間なら、これは罪だ。異常行為であり、決して許されない行為だろう。
 だが僕はEQ200の天才だ。あらゆる人間の感情に対して天才的な直感と洞察を持つ。例えそこに道徳、倫理的な壁が聳え立とうが、天才には許される。
 なぜなら僕は全体の為に人間を操作するのだから。これは自分の利益の為にやっているのではない。一人の悪は、全体の幸福の為なら、抹消されてもいいはずだ。
 考えても見れば、当たり前のことだ。一体どうして、いじめという非人道的行為の為に、いじめられっ娘はもちろん、それを目撃する他の生徒も不幸にならなければならないのだろうか。

 椅子に座りながら、僕は思考に耽った。
 僕の心の視線は、職員室の校長先生に照射された。
 先程いじめを目撃した教頭先生は、職員室に入室すると、学校の長に報告しようとしていた。職員室の奥の席に座っていた校長先生に話しかける。

「――校長、大変です」
 その瞬間、校長先生に乗り移った。
「どうしたんだね」
「実は、校内でいじめを発見したのです。どうしますか?」
「ほう、それなら絶対に黙っておくように」
 校長先生の消極的な対応に、教頭先生は既に返答の内容を半ば期待していた。これまでの校長の思考や行動からは逸脱しないものだったからだ。

「そ、そうですよね」
「当たり前だ。学校でいじめなどがあったら面倒な事になる。決して教育委員会にはバレないように努めてくれ」
「わ、わかりました」
 学校の頂点に立つ校長から強く指示されれば、教頭は従属することしか出来なかった。次期校長というポストを狙う彼は、いじめなどという行為に対して興味はなかったのだ。ただ自分の出世だけが双眼に映る。



「ですって、先生」
「ああ、分かってる」
 そんな二人の会話の様子を見ていたのは、他のベテラン教師陣だった。
 彼らは教頭先生のすぐ下のランクであり、逆らうことが出来ない。だから教頭の発言にはいつも敏感にならざるを得ない。いつも社会的地位の高い人物の行動や顔色を窺っているのだ。
 
 その時、先程同じようにいじめを目撃した二人目の教師が報告しようとしていた。
「――先生、実は相談があるんです。あの先程、校内でいじめを目撃したんですけど……」
 新人の教師が、ベテランの教師に助けを乞うように話しかける。
「先生。それは見なかったことにしたほうが良いですよ」
「え?ど、どうしてですか?」
「この学校では、そうなっているんです。もし自分から干渉するようなことでもあれば、教職を失うことにも繋がります」
「で、でも!」

 ベテラン教師からそう言われ何とか反論を試みようとすると、新人教師は職員室に目を配らせる。他の職員たちが異様な視線を集中させていた。
 ざわざわざわ。
 じろじろじろ。
 ひそひそひそ。
「えっと……」

 他の教師からの無言の圧力だった。学校という一つの世界では、教師という大人にも階級は当然ながら存在する。そして彼らは独立してはいけないのだ。校長が発言した事をベテラン教師陣が敏感に理解して、さらに彼らの発言、態度が、下の階級の教師陣へと伝播させるのだ。
「先生、何もリスクを負って行動する必要はありませんよ。ただ見過ごしていれば、それで自分の保身にもなるでしょう」
 さらにベテラン教師は、さらなる追撃を放つ。
「そ、そうですよね。えっと、私、やっぱり黙っておきますね」

 新人教師は、同調圧力に屈せざるを得なかった。
 誰だって楽な方に流れてしまうのだ。職を失いかけるというリスクはもちろんのこと、そしてもし自分一人がいじめに干渉してしまえば、この職員室という空間で居づらくなるだろう。それならば、黙って見過ごしたほうが楽である。

「僕はやっぱり、EQ200の天才だ」
 ポツリと席で呟いた。
 EQ200の天才は人間の根源的な弱点に漬け込んだ。教師と生徒という所詮他人同士の関係性など、極めて希薄なものだ。ならば生徒の為に自分のリスクを犯すことはないだろうと。

 そして教師陣はいじめ黙認派に移行した。それ以降誰がいじめを目撃しても、まるで何事もなかったかのように通り過ぎるだけ。
「これで学校は僕のものだ」
 職員室の端にいる先生の心を覗き込みながら、彼は呟いた。
 
 人間の精神を熟知するEQ200の天才は、学校全体を意のままに操っていく。一番ヒエラルキーの低い生徒から学校の頂点に立つ校長先生の精神までを巧妙に操作して、己の意思を貫いていく。
 本来なら止められる堂々としたいじめ行為でも、誰も干渉する人間など現れなかった。
 そしていじめは加速度的に過激化を見せていく。数人程度で行われていたいじめも、集団化していった。学校全体がまるで彼に対していじめを行っているようだった。



「そこのお前、た、助けてくれ……」
 屋上で上級生からいつものように苛烈な暴力を受ける彼。 
 逆転していた。これまでひ弱な女子生徒にいじめを続けていた彼が、今では上級生から暴力を受けている。そして惨めに助けを乞う。
 僕は屋上の扉の隙間から、ただその様子を眺めていた。
 勧善懲悪。これこそが自然の摂理なのである。彼は懲罰を受ける必要があったのだ。


 
 そして数カ月後。
 予め予測していた事件が発生した。いじめっ子だった彼は自殺したのだ。飛び降りだった。自宅の高層マンションから身を投げだして、即死。
 僕は歓喜した。いじめっ子の死を持って、学校は幸せの一途を辿るであろうと。癌のない環境は繁栄を極めていくだろうと。

 だが現実は異を唱えた。
 それからというもの、学校側はいじめ問題について社会から糾弾された。学校のトップである校長先生は連日のマスコミ対応に疲弊、鬱になって退職。
 教員や生徒も同じだった。他の学校や組織から糾弾を受けて、不幸の道を下っていったのだ。干渉しなかったのに、彼らはまるで同情しているようだった。
 そして一番の驚きは、他でもないイジメられっ娘の彼女だった。

「ど、どうして、落ち込んでいるの」
 あの凄烈な事件後、陰雲とした教室の中で、僕は彼女に訊ねた。
 どうしてなの。 僕の頭にはそれだけで一杯だった。僕は彼女の為、そして全体の為に自分の能力を発揮したのだ。
 悪が消えるならば、みんなが喜ぶはず。それなれば、手段は問わない。
 それなのに。

「私の、せいなんだ、これ……」」
「え……?」
「全部、私が虐められてたせいで、起きちゃったんだ」
「そ、そんな事無い!」
 僕は必死に彼女に主張した。
 彼女は何も罪はない。彼女はただいじめを受けてそれで苦しんでいた。悪いのは全ていじめっ子だ。あいつが学校の癌だったのだ。

「私がいけないの!私のせいで、私のせいで……」
 とうとう彼女は机に泣き崩れてしまった。
 僕はただそんな様子を眺めることしか出来なかった。

 そしてさらに数日後。
 事態は、EQ200の天才にも予測できなかった、一つの事件へと収束を見せていく。
 いつものように登校を済ませて、教室に到着。すると教室は異常な雰囲気を見せていた。誰も会話せずに、ただ黙々としている。
 そして僕は一つの事実に気づいた。なぜかいじめられっ娘の彼女がいないのだ。風邪か何かで今日は欠席するのだろうか、などと考えていると、

「大変だ!屋上で飛び降りしようとしている奴が居るぞ!」
 という大声が廊下から飛び込んできた。
「飛び降り!?」
 僕は突然のニュースに困惑した。
 そしてそれからすぐに席から立ち上がり、教室のベランダに躍り出て、上を向いた。屋上の安全柵には誰も確認できないが、それでも、屋上から聞こえる声はあった。

「来ないで!!!」
 いじめられっ娘の彼女の声だった。間違いなく、自殺しようとしているんだろう。あのいじめっ子が自殺したのは彼女の責任であると考えて、罪悪感で自分を責め立てているんだ。
「は、早まるな!」
 生徒と教師陣は彼女の自殺を引き留めようと、苦心しているらしい。でも効果はない。ただ彼女は意思を貫こうとしている。
 そして堪えられずに自分の命を持って償おうとしている。

 僕はベランダから教室に戻り、席から思考の烈風を吹かせた。教室から廊下、屋上にまで移動すると、さらに自殺しようとしている彼女まで辿り着こうとするが、その直前。
 僕は彼女を視界に入れて、能力を発揮しようと努力した。でも時は既に遅かった。

「さようなら」
 遺言を空に揺蕩わせて、彼女は羽根もないのに、空に飛翔したのだ。もし羽根のない人間が空を飛べば、一体どうなるか。
「待って!!!」 
 という僕の言葉も、既に彼女の耳に届くはずもなく、ただ空虚に虚空を貫いて、虚しく霧散していった。
 僕が思考から覚めると振り返り、窓の外に視線を投げた。すると飛び降りしている彼女の双眸と僕のそれが重なり合った。
 ベランダまで移動すると、端の部分を両手で掴みながら、凄惨な地上の光景を目撃した。校庭に衝突して血まみれになった姿の彼女。
 
「!!!」
 それは、EQ200の天才である自分が招いた最悪の結果だった。個人ではなく全体の為に、高いEQを利用しようとしたのに、最終的には、いじめっ子を死に追いやり、いじめられっ娘が追うようにして自分で死を選んだ。

「ど、どうして……」
 理解できなかった。
 僕は彼女が飛び降りるのを目撃した後、ベランダに身体を伏せて、嘔吐した。自分の行った行為に対して、激烈な後悔、反省をしたのだ。

「ぜ、絶対に……」
 僕はなんて愚かな事をしたんだ。
 EQ200の天才でも、人間の感情を完璧に予測することは出来ないのだ。

「絶対に、彼女の死を無駄にしない……」

 だからこそ、僕はこれから人間を操作し続けない。
 そして理想の社会などを創り上げるのも、やめよう。
 誰も不幸にならずに、幸せに暮らせる社会なんて、幻想に過ぎない。

 その為ならば、EQ200の天才の、僕の頭脳なんて、無駄になってもいい。

 そしてEQ200の天才の、小学校時代に幕が閉じた。



 ドシン。
 IR機体による振動だろうか、地震のようなそんな波長を、母なる大地を通じて感じた。

「――――!?」

「なんだ悪夢か……」
 択捉島の冷たい風が、一人の男の蒸気した頬を撫でた。
 零千零血は悪夢を思い出していた。それは彼を日本の最北にまで追いやった原因だった。小学校時代、自分の天才的なEQを使って、理想社会を創り上げようとしていたあの時。

「択捉林檎でも収穫するか……」
 零血は起き上がると、一つだけの豆電球を消そうとする。が、豆電球は故障していた。どうやら買い替え時のようだった。
 それから択捉林檎を一つだけ食べてから、粗末な山小屋から退出した。
 既に時刻は朝。択捉島は原始的な自然が今でも色鮮やかに残っている。文明社会からは限界まで乖離しており、人間嫌いな零血にとっては最高のパラダイスだった。
 零血は択捉林檎農家として、自足自給の生活を送っていた。人と顔を合わせることは一度もなく、ただ芳醇に実る択捉林檎と向き合いながら、平和な生活をしていたのだ。
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