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迷い夢

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 歩いている……空気がくすんだ、霊安室に続くかに思える廊下を。
 電車とバスを乗り継いで4時間かかる、故郷の総合病院……冬の陰気な西日が奥へ連なる古びた窓から差し、僕のスーツをうっすら照らす。
 入院中の母のことで病院から呼び出された僕はエレベーターで2階に上がると208号室を捜したが、ユリとかアサガオといった名前が付けられ、自動ドアで区切られた病棟をそれぞれ突き当りまで往復してみたものの、部屋番号は236号室や251号室で、分類も消化器科や小児科といったものばかり。目当ての精神科病棟が見当たらない。
 なぜ、見つからないのか。
 この病院――母の病室に来るのは、初めてではないのに。
 いや……本当にそうだっただろうか?
 ちょうど見かけた廊下端のウォールラックから病院案内図を取り、捜す……目を皿にしてようやく見つけ、現在位置を確認して歩き出した僕は、自動販売機の前を通って角を曲がり、奥へ、端へと進んだ。行き当たった重い扉を引き開けてさらに歩くと、フロストガラスがはめ込まれた壁とドアが阻む。ドアノブをつかんで回してみたが、鍵がかかっていて開けることができない。僕は横の壁にインターフォンがあるのに気付き、黒いボタンを人差し指で押した。
 

 夢を見た。
 僕は会社の同僚を責めていた。その僕と、同僚とをもう一人の自分が脇からぼんやり眺めている。
 はっきりしないが、責めている理由は仕事絡みらしい。
 だけど、僕の夢はいつもぼやけている。ひどい近視のように。だから誰を責めているのか漠然と分かっても判然とはしない。もしかしたら僕の認識は錯覚で、責められているのは自身なのかもしれなかった。
 僕……僕だと思われる者に一方的に責められた同僚らしき存在は、耐えきれなくなったのか身を翻して外へ逃げ出すと、近くの壁をスパイダーマンさながらによじ登り始めた。中世ドイツ風の4階建てビル……傾斜のきつい煉瓦色の屋根に立った同僚は、たちまち宙に身を投げてしまった。その軌跡を追って目を落とした僕には何の感情も無く、投身の事実を書類に判でも押すみたいに淡々と頭の中で処理した。


 週刊誌やコミックが傾いて並ぶテレビラックの上で、ワンパターン時代劇ドラマが垂れ流されている。精神科病棟……食堂の椅子に座った僕は、テーブルの下に両手を隠して母をじっと待っていた。周りでは病衣を着た患者たち数名が不規則に置かれたテーブルの席にぽつんぽつんと座っているが、それらの顔は皆うつろで、どことも知れない先に各々視線を向けている。そのうちの一人、車椅子に座ってテーブルを前にするボサボサ白髪頭の老婆が目を固く閉じ、あごをやや上げて、怒りと絶望がない交ぜに見える表情をしているのがいやに僕をざわつかせる……やがて崩れ落ちるのを待つ皺だらけの顔を恐る恐るうかがい、はたしてまぶたの裏に何を見ているのだろうかと考えると不意に磔にされた感覚に襲われ――叫び出したくなるのを押し殺してかぶりを振り、目をそらして別方向にあるテレビの画面に没入しようとしたとき、中年の看護師に連れられた小柄な人影がこちらへやって来た。
 母。
 灰色の髪を後ろで束ねた60半ばの女は、焦点が定まらない目を前方に向けてふらふら歩き、看護師に指示されるまま僕の向かいに座った。半開きの口から魂が漏れ出てしまったようで、見た目の印象は面影も残さず朽ちた廃屋という比喩が相応しかった。
 また水を飲み過ぎて倒れてしまったのですよ、と母の横に座った看護師があらためて報告する。そうですかと僕は答えて母に大丈夫かと声をかけてみたが、母は僕ではない誰かを視界に映して吐息に似た声を発しただけ……父は2年前に他界、きょうだいも妻もいない僕は、仕事があるので昼夜見守りが必要な母を引き取れない。そういう事情がある。だから、どこかの施設が空くまでお願いしますと看護師に頭を下げた途端――突然、車椅子の老婆が膝でテーブルを下からドンドンと突き上げて顔を真っ赤に染めた。看護師が慌ててそばに寄りなだめるといくらか治まったが、閉じられた目も苦しげな皺の顔も相変わらず。追い立てられる心持になった僕は、看護師への挨拶もそこそこに母を残してフロストガラスの方へ向かい、鍵を開けてもらって扉の外に出た。
 背中で鍵の締まる音が小さく響いた。


 夢を見た。
 また、ピントが合わない夢を見ている。
 僕の前にいる同年代……20代後半から30代らしきぼやけた存在。彼、彼女たちは僕に故郷のことをいろいろ質問する。何とかは知っているかとか、どこそこはどんなふうかとか……しかし、それらに答えられない僕は、次第に詰問調にさらされていく。
 知らない。
 分からない。
 いたたまれなくなり、故郷は自分が上京してから開発が進み、町並みも何もかもがすっかり変わってしまっているからと言い訳をする……商店街は様変わりし、母校も建て替えや統廃合になり、生家でさえ取り壊され、土地を売り払われて……あるのは、むくろじみた空き家……父が別の場所に建てた、自分には馴染みの無い家だけなのだと……


 迷路の住宅街……点々と冷たく灯る街灯。
 世界を氷結させる、凍てついた暗闇。
 路地の向こうに見え隠れする、くねった線路……それを道しるべに自宅マンションへ歩く僕……
 どうして、こうなったのか。
 故郷を後にこっちへ戻って来て、そのまま独り飲んだからだったか……?
 終電に乗り損ねた僕の財布にはわずかな小銭しか残っておらず、タクシーを拾うのはもちろん終夜営業の店で朝まで時間を潰すこともできなかった。駅前のベンチには同じように乗り損ね、持ち合わせも無いらしい会社員風の男が座り込んで背中を曲げ、頭を抱えたまま微動だにしないでおり、その姿に逃げ出したい衝動がこみ上げた僕は急いで離れ、ひたすら歩いているのだ。コートのポケットに両手を深く突っ込んで身を縮こめ、足早に。
 帰りたい。
 家に帰りたい。
 駆り立てられ、全身に突き刺さってくる寒さと足に蓄積していく疲労に抗ってただただ進む。何十分も、何時間も……
 家……
 僕の家……
 右かかとが靴ずれで破れ、血がソックスにじわじわにじむのが分かる……両足の筋肉が痛みに悲鳴を上げて歩くどころか立っていることさえつらく、気を抜くとたちまち倒れそうになる。いっそのこと、身を投げてしまえば楽になれるのかもしれない……解放されたいという考えが頭をかすめる。それでも、僕は憑かれたように闇の底を歩き続けた。
 僕の家を、探し求めて。
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