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第一話『妙に涼しい客室の本当の怪談話』
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怒鳴り合う声で目が覚めた。お隣か向かいの客室か、男と女の喧嘩だ。甲高い声が優勢で、太い声は次第に小さくなって消えた。延長戦や敗者復活戦は勘弁して欲しい。
あの嫌なアラーム音に叩き起こされる生活から離れて、もう一ヵ月弱が過ぎた。俺は今、東南アジア某国の首都にいる。世界一周を目指して旅立ったのだが、入国スタンプはまだ一国だけだ。一都市と言い換えてもいい。
何がどうしてこうなったのか、理由はまあハッキリしている。この街が悪い。この街の居心地が良すぎるのが悪い。バックパッカーと呼ばれる長期旅行者によると、一箇所に長く留まることを“沈没”というらしい。
「沈没って言ったらイメージが最悪だけど、実際はそうでもなくって、ラッキーの部類だ。長く居座るってことは、過ごしやすくて楽しいってことだろ。一泊しただけで逃げ去るように出ていく街も多い。その逆ってことだろ」
ドレモンが先輩風を吹かした。いつものことでもある。先輩は顔と体が丸っこいので、ドレモンと呼ばれている。割りと近くにある熱帯の国では、有名な猫型ロボットのことをそう呼ぶのだそうだ。
一生誰かに披露することない無駄知識だが、先輩はポケットの代わりに、たくさんの引き出しを持っている。旅先で生活するうえでの知恵が詰まった引き出しだ。
「黒いTシャツは避けたほうがいい」
初めて会った時、ドレモンはそう言った。俺が着ていたお洒落な黒TシャツにNGを出して来たのだ。まったくもって余計なお世話で、面倒な奴だと思ったが、三週間ぐらいして猫型先輩の言っていることが正しいと判った。
真っ黒なシャツは繰り返し雑に手洗いすると、表面が白っぽくなって見すぼらしくなるのだ。繊維が毛羽立つのか、原因は不明だが、薄汚れて見える。いわゆるくたびれたTシャツの完成で、こうなると原状回復は不可能に近く、加速度的に見すぼらしくなる。
「例の部屋に入った日本人、一泊もしないで直ぐに出て行ったらしい」
喧嘩の声で目覚めた後、宿の一階にある飯屋に行くと、ドレモン先輩がいた。午前中から昼過ぎのおやつタイムまで、たいてい奥の席に座っている。変わり者ではない。同じように過ごす連中は他に五人ぐらいいて、話し相手が来るのを待ち構えている。
「三○三号室のことですか?」
相当にヤバい部屋があるという話は、この街に来て早々に耳にした。俺が泊まっている安宿ではなく、ドレモンが長逗留している近くの激安ホテルである。
「やっぱり出るんですかね」
「その日本人、若い奴だったらしいけど、見ちゃったのかどうかは誰も知らない。夜の十時過ぎくらいかな、顔面真っ青にして出てったってさ。夕方にチェックインしてから何時間も経ってないし、変だろ」
その客室に一泊して直ぐに出ていく旅行者は珍しくもないという。ただ昨夜の青年のように、わずか数時間でチェックアウトするケースはこれまでなかったらしい。
ちょっと前に俺は先輩に案内されて問題の三○三号室を訪れた。掃除のおばちゃんがベッドメイクをしている時、中に入れて貰ったのだ。その部屋だけ妙に涼しいとの評判だったが、よく判らなかった。
一部しか冷房設備のない安ホテルだ。ある強者の日本人は、同じ値段で涼しいなら儲けもんだと言って泊まったが、強烈な金縛りに遭遇して二日ともたず退散した。金縛りの最中に、親子の霊を目撃したという。
「親子の霊ってのが、気になりますね。普通は一体で出てくるもんでしょ」
二日で根を上げた強者は笑い者にされた。幽霊話が真剣に語られ始めたのは、その何年か後だ。卒業旅行でやってきた大学生が幽霊を見たと騒ぎ出した。明け方、ふと目覚めると二つの影が部屋の扉近くにぼうっと立ってたという。親子ではなく老婆と女の子で、古めかしい服装をしていたらしい。
「海外旅行は初めての大学生で、来て三日目ぐらいだった。もちろん泊まった部屋の幽霊話なんて聞いてない。それなのに二人組ってところは一致してたんだよ」
確かに偶然の一致として片付けるのは難しい。それ以降、三○三号室の幽霊は真実味を帯びて語り継がれることになった。何年も経たずに、尾ヒレも付いた。二人組とは別に日本人の幽霊が出るといった話は、尾ヒレに違いない。ただし、それこそが、安宿に巣食う古株連中を震わせる一番の怪談だとドレモン先輩は言う。
「どうゆうことですか?」
「そんな古い話じゃないらしいけど、うちのホテルで日本人の爺さんが死んだんだよ。年寄りって言っても六十代半ばくらいだ。体を壊して、病院にも行かず、ある日、血を吐いた姿で発見された」
「遺体で見付かったのが、三○三号室ってわけですか」
「たぶん違う。古株連中が住んでるのは五階とか上の階だ。孤独死ってのがポイントなんだと思う」
牢名主と呼ばれる古株の日本人は、見た目五十歳以上が多く、七十代くらいの老人もいる。帰りを待つ家族もいなければ、帰る故郷もないという。この街で果てる覚悟なのかどうか、本人に聞かなければ判らないが、最期は恐らく一人だ。遺体で発見された人は、所持品をあらかたホテルの従業員に奪われ、一文なしに等しかった…
俺は二十代後半で、ドレモンは三十代前半だ。孤独死と聞いてもピンと来ないが、年を食うとやたら不安になるらしい。いつか理解できる時が来るとは思うが、まだまだ先で、それに孤独死を嫌うのは単純な恐怖心であって怪談とは種類が違う。
「可哀想ではあるけど、おっさんの霊は怖くなさそう。何度も出て来るっていう二人組のほうは、凄く嫌な感じがする」
目撃した大学生は、老婆の格好が妙だったと繰り返した。後日、旅行者仲間と雑談していた時、誰かが持っていたガイドブックを見て、奇声を発したそうだ。掲載されている写真の女性と同じ服なのだという。山岳部の少数民族に残る伝統的な衣装。古くから今に残る質素な野良着と一緒だった。
首都の真ん中で、そんな服を着ている女性はいない。件の大学生は少数民族に興味がなく、旅に出る前に関連の写真や映像を見たことはなかったらしい。ガイドブックを見て、初めて知ったのだ。
幽霊について、それは脳内にあるイメージの投影に過ぎないと語る否定派がいる。長い髪や白い服といったイメージから頭に浮かんだ錯覚だ、と。そうであるなら、大学生が見た古風な姿の幽霊をどう解釈するのか?
俺も日本にいた頃は、どちらかと言えば否定派だったのだが、この街で暮らすようになって変化が起きた。熱帯の国で惰眠を貪り、昼間から酒を飲んでいるせいではない。
ここでは、目に見えない何かと人々が同居し、隣り合わせで暮らしている。民俗学者や宗教学者が語るような高尚な信仰論ではない。もっと身近で、剥き出しになって存在しているのだ。
あの嫌なアラーム音に叩き起こされる生活から離れて、もう一ヵ月弱が過ぎた。俺は今、東南アジア某国の首都にいる。世界一周を目指して旅立ったのだが、入国スタンプはまだ一国だけだ。一都市と言い換えてもいい。
何がどうしてこうなったのか、理由はまあハッキリしている。この街が悪い。この街の居心地が良すぎるのが悪い。バックパッカーと呼ばれる長期旅行者によると、一箇所に長く留まることを“沈没”というらしい。
「沈没って言ったらイメージが最悪だけど、実際はそうでもなくって、ラッキーの部類だ。長く居座るってことは、過ごしやすくて楽しいってことだろ。一泊しただけで逃げ去るように出ていく街も多い。その逆ってことだろ」
ドレモンが先輩風を吹かした。いつものことでもある。先輩は顔と体が丸っこいので、ドレモンと呼ばれている。割りと近くにある熱帯の国では、有名な猫型ロボットのことをそう呼ぶのだそうだ。
一生誰かに披露することない無駄知識だが、先輩はポケットの代わりに、たくさんの引き出しを持っている。旅先で生活するうえでの知恵が詰まった引き出しだ。
「黒いTシャツは避けたほうがいい」
初めて会った時、ドレモンはそう言った。俺が着ていたお洒落な黒TシャツにNGを出して来たのだ。まったくもって余計なお世話で、面倒な奴だと思ったが、三週間ぐらいして猫型先輩の言っていることが正しいと判った。
真っ黒なシャツは繰り返し雑に手洗いすると、表面が白っぽくなって見すぼらしくなるのだ。繊維が毛羽立つのか、原因は不明だが、薄汚れて見える。いわゆるくたびれたTシャツの完成で、こうなると原状回復は不可能に近く、加速度的に見すぼらしくなる。
「例の部屋に入った日本人、一泊もしないで直ぐに出て行ったらしい」
喧嘩の声で目覚めた後、宿の一階にある飯屋に行くと、ドレモン先輩がいた。午前中から昼過ぎのおやつタイムまで、たいてい奥の席に座っている。変わり者ではない。同じように過ごす連中は他に五人ぐらいいて、話し相手が来るのを待ち構えている。
「三○三号室のことですか?」
相当にヤバい部屋があるという話は、この街に来て早々に耳にした。俺が泊まっている安宿ではなく、ドレモンが長逗留している近くの激安ホテルである。
「やっぱり出るんですかね」
「その日本人、若い奴だったらしいけど、見ちゃったのかどうかは誰も知らない。夜の十時過ぎくらいかな、顔面真っ青にして出てったってさ。夕方にチェックインしてから何時間も経ってないし、変だろ」
その客室に一泊して直ぐに出ていく旅行者は珍しくもないという。ただ昨夜の青年のように、わずか数時間でチェックアウトするケースはこれまでなかったらしい。
ちょっと前に俺は先輩に案内されて問題の三○三号室を訪れた。掃除のおばちゃんがベッドメイクをしている時、中に入れて貰ったのだ。その部屋だけ妙に涼しいとの評判だったが、よく判らなかった。
一部しか冷房設備のない安ホテルだ。ある強者の日本人は、同じ値段で涼しいなら儲けもんだと言って泊まったが、強烈な金縛りに遭遇して二日ともたず退散した。金縛りの最中に、親子の霊を目撃したという。
「親子の霊ってのが、気になりますね。普通は一体で出てくるもんでしょ」
二日で根を上げた強者は笑い者にされた。幽霊話が真剣に語られ始めたのは、その何年か後だ。卒業旅行でやってきた大学生が幽霊を見たと騒ぎ出した。明け方、ふと目覚めると二つの影が部屋の扉近くにぼうっと立ってたという。親子ではなく老婆と女の子で、古めかしい服装をしていたらしい。
「海外旅行は初めての大学生で、来て三日目ぐらいだった。もちろん泊まった部屋の幽霊話なんて聞いてない。それなのに二人組ってところは一致してたんだよ」
確かに偶然の一致として片付けるのは難しい。それ以降、三○三号室の幽霊は真実味を帯びて語り継がれることになった。何年も経たずに、尾ヒレも付いた。二人組とは別に日本人の幽霊が出るといった話は、尾ヒレに違いない。ただし、それこそが、安宿に巣食う古株連中を震わせる一番の怪談だとドレモン先輩は言う。
「どうゆうことですか?」
「そんな古い話じゃないらしいけど、うちのホテルで日本人の爺さんが死んだんだよ。年寄りって言っても六十代半ばくらいだ。体を壊して、病院にも行かず、ある日、血を吐いた姿で発見された」
「遺体で見付かったのが、三○三号室ってわけですか」
「たぶん違う。古株連中が住んでるのは五階とか上の階だ。孤独死ってのがポイントなんだと思う」
牢名主と呼ばれる古株の日本人は、見た目五十歳以上が多く、七十代くらいの老人もいる。帰りを待つ家族もいなければ、帰る故郷もないという。この街で果てる覚悟なのかどうか、本人に聞かなければ判らないが、最期は恐らく一人だ。遺体で発見された人は、所持品をあらかたホテルの従業員に奪われ、一文なしに等しかった…
俺は二十代後半で、ドレモンは三十代前半だ。孤独死と聞いてもピンと来ないが、年を食うとやたら不安になるらしい。いつか理解できる時が来るとは思うが、まだまだ先で、それに孤独死を嫌うのは単純な恐怖心であって怪談とは種類が違う。
「可哀想ではあるけど、おっさんの霊は怖くなさそう。何度も出て来るっていう二人組のほうは、凄く嫌な感じがする」
目撃した大学生は、老婆の格好が妙だったと繰り返した。後日、旅行者仲間と雑談していた時、誰かが持っていたガイドブックを見て、奇声を発したそうだ。掲載されている写真の女性と同じ服なのだという。山岳部の少数民族に残る伝統的な衣装。古くから今に残る質素な野良着と一緒だった。
首都の真ん中で、そんな服を着ている女性はいない。件の大学生は少数民族に興味がなく、旅に出る前に関連の写真や映像を見たことはなかったらしい。ガイドブックを見て、初めて知ったのだ。
幽霊について、それは脳内にあるイメージの投影に過ぎないと語る否定派がいる。長い髪や白い服といったイメージから頭に浮かんだ錯覚だ、と。そうであるなら、大学生が見た古風な姿の幽霊をどう解釈するのか?
俺も日本にいた頃は、どちらかと言えば否定派だったのだが、この街で暮らすようになって変化が起きた。熱帯の国で惰眠を貪り、昼間から酒を飲んでいるせいではない。
ここでは、目に見えない何かと人々が同居し、隣り合わせで暮らしている。民俗学者や宗教学者が語るような高尚な信仰論ではない。もっと身近で、剥き出しになって存在しているのだ。
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