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バケモノ姫の毒殺騒動
9.一路平安を彼女に祈る
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月明かりもない夜闇の中、中庭の一角がぼんやりと光っていた。
滅多に人の来ない東屋で、ユーディリアはじっと相手を待っていた。座っているテーブルには、お茶の用意がワンセットと、十数枚のクッキーが並べられている。
『―――』
将軍に指差された方へ顔を向けた。ここからは見えないが、どうやら、そこに―――
「さすがに夜は冷えるわね、マギー」
ユーディリアが東屋の影に声をかけると、闇がにじむように、黒い外套を羽織った影が姿を見せた。
「どうぞ、座って。料理長に無理を言って用意してもらったの」
フードをぱさり、と取ると、そこから栗色の髪の毛が流れ落ちた。
「……ユーディリア、様」
「どうぞ、今、お茶も入れるわ」
返事を待たず、分厚いティーコジーから取り出したポットを持ち上げ、二客用意されたカップに褐色の液体を注ぎいれる。
観念したのか、マギーはユーディリアの相向かいに腰を下ろした。その表情はユーディリアが見たこともないほど、固く強張《こわば》っている。
「くるみタルトの件はごめんなさいね、結局、一口も食べてないの」
マギーの手が小刻みに震える。
「あと、これも返します。あなたのものでしょう?」
手を伸ばしたユーディリアは、テーブルの中央に、コロン、と小物を転がした。それは、ランタンの灯りに照らされ、緑色に輝く。
マギーは慌てた様子で、それを掴み取ると、両手で包み込むようにしてそれを確かめた。そして、すぐに自分が落としたものだと分かったのだろう、ほぅっと息を吐いた。
「あと、証拠はないのだけれど、婚礼衣装も、あなたかしら?」
マギーは、ようやくユーディリアの姿を真っ直ぐに見た。
「……はい、姫様のおっしゃる通りですわ」
ようやく言葉を発してくれた相手に微笑むと、ユーディリアは自分のカップに口をつける。
「ハルベルト様の復讐のつもり?」
「はい。……だって、許せなかった。ハルベルト様の正妃になられるユーディリア様。わたしなんかにも優しくして下さって、この方が正妃になってくださるなら、と、そう、思っていたのに……!」
性格からして、ボロボロと涙を流すかと思っていたのに、予想を裏切ってマギーはキッとユーディリアを睨みつけた。
「いつから、ご存知でしたの? わたしと、ハルベルト様とのことを」
「あなたが、わたし付きの侍女になって間もなくよ。あまりに知れ渡っているものだから、てっきり、どちらかが故意に噂を流したのだと思ったのだけど?」
ユーディリアは、にっこりと微笑んでクッキーに手を伸ばす。
「姫様の、私に対する態度は変わらなかった……。あれは、暗黙のうちに認めていただいているのだと、そう思って、誠心誠意お仕えいたしましたのに……!」
バンッ!
激情に任せて立ち上がったマギーが、力任せにテーブルを叩いた!
「どうして、どうして、ハルベルト様をあんな目に……っ!」
「他の誰かから聞かなかったの? 親衛隊副隊長のベルナールを筆頭に、あの場にあなたの知り合いはたくさんいたでしょう?」
「私は、あなたに聞いているんです、姫様!」
ユーディリアは、深海の瞳でまっすぐにマギーを射抜いた。
「ハルベルト様が、国王にふさわしい器ではなかったからよ。いえ、正確に言うのであれば、動乱の後の国王に、ね」
「でも、あの方は……」
「優しかった? でも、為政者に必要なのは、むしろ冷酷さだわ。それを、あなたに理解してもらおうとは思わないけれど」
ユーディリアは、先ほどの衝撃で半分に減ってしまったティーカップの中身を飲み干した。
「ハルベルト様が、いまどのような状況か。マギー、あなたは知っている?」
「もちろんよ! ミレイスに送られて、監視付きの生活を送っていらっしゃると聞いているわ!」
ユーディリアは、小さく嘆息すると、昨日、リカッロから聞いたばかりの情報を舌に乗せる。
「軟禁中のハルベルト様は、世話役の侍女に手をつけて、孕ませてしまったそうよ」
その言葉に呆然と立ち尽くしたマギーは、やがて、脱力して、すとん、とイスに腰掛けた。
「嘘……」
「残念ながら、嘘ではないわ。優しく、見栄っ張りで、目先の快楽に弱いハルベルト様らしい行いよ」
ユーディリアはお茶セットを入れていたバスケットから、それを取り出すと、カフスを返した時と同様に、テーブルの中央に置いた。
「これは、わたしがハルベルト様から頂いたものよ。……マギー、あなたにあげるわ。売ってミレイスへの旅費にするなり、新しい何かを始めるなり、恋の形見として持っておくなり、好きにして結構よ」
それは、大粒のエメラルドがあしらわれた首飾りだった。
のろのろと緩慢な動作で、マギーの手がその宝飾品に伸びるのを確認したユーディリアは、席を立った。もう、彼女に用はない。一人にしておくのがいいだろう。
そのまま東屋を背にして二、三歩足を動かしたユーディリアだったが、大事なことを言っていないことに気付いて、足を止めて振り返った。
「ねぇ、マギー。今、こんなこと言っても信じてもらえないかもしれないけれど、……わたしは、あなたの入れるお茶が好きだったのよ」
そして、今度こそ背を向けて、ユーディリアは歩き出した。確かこっちの方でリカッロが待っているはず、と思いながら……
「修羅場になるかと思えば、とんだ愁嘆場で終わったッスね」
その声に、ユーディリアの全身が総毛だった。
「ペトルーキオ様?」
嫌々ながらも、その名前を口にする。
「約束通り、時間をいただけるんスよね?」
ユーディリアが拒絶の言葉を吐くより早く、伸びて来た手が、華奢な手首を掴む。
「こんな時間、こんな場所でなら、邪魔も入らないッス。さぁ、どうぞ、本音を口に―――」
手の甲に口づけようとするペトルーキオに、何とか抵抗しようと試みた矢先、
「あいにくだったな、アームズ公爵」
怒気を孕んだ低い声が、響いた。
「リ、リカッロ様?」
目に見えてうろたえるペトルーキオの隙をついて、ユーディリアは手を振り払った。そして、鳥肌を鎮めるために軽く二の腕をさする。
「オレのユーリに手を出すってことは、どういうことだか分かってるな?」
いきなり愛称を呼ばれたことよりも、その声に含まれた怒りに、ユーディリアは身体を竦ませた。
見れば、リカッロの手は剣の柄にかけられている。
まさか、公爵の地位にある者を切り捨てるつもりか、と血の気が引いた。
(ど、どうしよう……)
すると、先ほどまでキラキラした瞳で成り行きを見物していたベリンダが、こそこそと耳打ちをしてきた。
ユーディリアは、小さく頷く。少し勇気はいるが、良策に思えた。将軍の手を借りるより、ずっと穏便に終わらせることができる……はず。
ユーディリアは、リカッロの方に駆け寄ると、剣を掴んでいる右腕を押さえるように自分の腕をからめた。
「ペトルーキオ様、たいへん申し訳ないのですけど、わたしはリカッロを愛しておりますの。」
浮かべるのは王女として叩き込まれた優雅な笑み。
だが、ペトルーキオは驚いて目を丸くするものの、まだ引こうという気はないようだった。
それなら、とキッパリと断るにはどうしたら良いかと考えて、さらに言葉を連ねていく。
「わたしは、リカッロの歴戦をくぐりぬけたこの傷が、わたしを守ってくださるこの腕が、大好きなのです。ぬくぬくと育ったあなたには、持ち得ないものですわ。―――どうぞ、引っ込んでいらして?」
恥ずかしいセリフの上に、呼び捨てにするなんて、と思いつつ、笑みは崩さずにペトルーキオを見据える。
ようやく自分が道化になっていることを理解したのだろう。ペトルーキオは顔を歪める。
「今なら、妻の言葉に免じて、見なかったことにしてやってもいいぞ、アームズ公爵。……どうする?」
ダメ押しのリカッロのセリフに、小さく「失礼するッス」と答えたペトルーキオは足早に立ち去った。
その後姿をじっと見つめていたユーディリアだったが、足音が遠ざかっていくのを確認すると、まるで崩れるようにしゃがみこんだ。
「おい、どうした?」
心配そうに声をかけるリカッロに、自分の身体を抱きかかえるようにしたユーディリアは自分の両腕をさする。
「気が緩んだら、鳥肌が……。やっぱり、あの方は生理的に苦手です。―――あ、それと、呼び捨てにしてしまって、申し訳ありませんでした」
ベリンダに効果的だから、と言われて呼び捨てにしてしまったが、気を悪くしていないだろうか、とユーディリアは薄暗い中で彼を見上げる。
「別に。これからもそう呼んでもらって構わねぇよ。―――ボタニカ、そっちはどうだ?」
首を巡らせると、闇に溶け込む褐色の肌の副官が、姿を見せた。
「マギーは帰りましたよ。そちらも首尾は上々だったようで何よりです。……レ・セゾンの使者が鉱山視察から戻ってくる前に片付いて良かったですよ、本当に」
その言葉に、リカッロの手を借りて立ち上がったユーディリアが青冷めた。
(わ、すれてた―――)
「使者が戻って来るのは、いつでしたっけ?」
「明日の昼過ぎです。どうなさいました?」
「わたしったら、頂いた手紙のお返事をまだ、書いていませんでしたわ……」
それより何より、「青い花」の件をすっかり忘れていた。ここ数日、毒入りタルトや刺客の襲撃で頭をいっぱいにしてしまったのだ。
ちらり、とリカッロの顔を窺う。
(大丈夫、……よね)
「どうした、ユーリ?」
改めて愛称を呼ばれ、慌てて目を逸らす。何だか気恥ずかしい。
(―――でも)
きっと大丈夫。そんな風に思う自分がいる。本当は最初から分かっていたのだ。この人は、それを知っても、きっと態度を変えることはない。ただ、自分の踏ん切りがつかなかっただけ。
ユーディリアはぎゅっと拳を握り締め、外していた視線を、再びリカッロに戻した。
「リカッロ殿下、その、お伝えしたいことがあるのですが……」
「あれ、呼び捨てはどうした?」
ニヤニヤといつもの意地の悪い笑みを浮かべたリカッロに、ぐっと言葉に詰まる。
「……あれは、ペトルーキオ様に対する牽制です! その、突然、リカッロ殿下がわたしのことを愛称でお呼びになったので―――」
「ユーリ」
念を押されるように、また愛称で呼ばれ、さすがに鈍いと言われた彼女にも、呼び捨てにしろと要求されていることは分かった。
「……」
「ほら、どうした?」
こんなことで時間を無駄にするわけにはいかない、とユーディリアは、全身にぐっと力をこめた。
(呼び捨てにするだけ。何も難しいことじゃないんだから!)
「……リカッロ。お話したいことがありますの。できれば二人きりで」
小さい声で名前を呼んだことに、何か文句を言われるかと思ったが、目の前の青年は大げさに驚いた表情をして見せた。
「おーい、ボタニカ。オレ誘われちゃったよ。……よし、分かった。お前がそこまで言うなら、ゆっくりベッドでな」
ユーディリアの顔が真っ赤に染まる。
「ち、違います! 話したいのは、あの三人の調査報告の件ですっ!」
その言葉に、今度こそ素の表情で驚きを見せたリカッロは、すぐに気を取り直すと、よいしょ、とユーディリアを抱き上げた。
「ってーことだから、ボタニカ、後始末は頼んだ」
「はい、どうぞごゆっくり」
自分で歩けます!と騒ぐユーディリアを無視し、リカッロはそのまま中庭を後にした。
滅多に人の来ない東屋で、ユーディリアはじっと相手を待っていた。座っているテーブルには、お茶の用意がワンセットと、十数枚のクッキーが並べられている。
『―――』
将軍に指差された方へ顔を向けた。ここからは見えないが、どうやら、そこに―――
「さすがに夜は冷えるわね、マギー」
ユーディリアが東屋の影に声をかけると、闇がにじむように、黒い外套を羽織った影が姿を見せた。
「どうぞ、座って。料理長に無理を言って用意してもらったの」
フードをぱさり、と取ると、そこから栗色の髪の毛が流れ落ちた。
「……ユーディリア、様」
「どうぞ、今、お茶も入れるわ」
返事を待たず、分厚いティーコジーから取り出したポットを持ち上げ、二客用意されたカップに褐色の液体を注ぎいれる。
観念したのか、マギーはユーディリアの相向かいに腰を下ろした。その表情はユーディリアが見たこともないほど、固く強張《こわば》っている。
「くるみタルトの件はごめんなさいね、結局、一口も食べてないの」
マギーの手が小刻みに震える。
「あと、これも返します。あなたのものでしょう?」
手を伸ばしたユーディリアは、テーブルの中央に、コロン、と小物を転がした。それは、ランタンの灯りに照らされ、緑色に輝く。
マギーは慌てた様子で、それを掴み取ると、両手で包み込むようにしてそれを確かめた。そして、すぐに自分が落としたものだと分かったのだろう、ほぅっと息を吐いた。
「あと、証拠はないのだけれど、婚礼衣装も、あなたかしら?」
マギーは、ようやくユーディリアの姿を真っ直ぐに見た。
「……はい、姫様のおっしゃる通りですわ」
ようやく言葉を発してくれた相手に微笑むと、ユーディリアは自分のカップに口をつける。
「ハルベルト様の復讐のつもり?」
「はい。……だって、許せなかった。ハルベルト様の正妃になられるユーディリア様。わたしなんかにも優しくして下さって、この方が正妃になってくださるなら、と、そう、思っていたのに……!」
性格からして、ボロボロと涙を流すかと思っていたのに、予想を裏切ってマギーはキッとユーディリアを睨みつけた。
「いつから、ご存知でしたの? わたしと、ハルベルト様とのことを」
「あなたが、わたし付きの侍女になって間もなくよ。あまりに知れ渡っているものだから、てっきり、どちらかが故意に噂を流したのだと思ったのだけど?」
ユーディリアは、にっこりと微笑んでクッキーに手を伸ばす。
「姫様の、私に対する態度は変わらなかった……。あれは、暗黙のうちに認めていただいているのだと、そう思って、誠心誠意お仕えいたしましたのに……!」
バンッ!
激情に任せて立ち上がったマギーが、力任せにテーブルを叩いた!
「どうして、どうして、ハルベルト様をあんな目に……っ!」
「他の誰かから聞かなかったの? 親衛隊副隊長のベルナールを筆頭に、あの場にあなたの知り合いはたくさんいたでしょう?」
「私は、あなたに聞いているんです、姫様!」
ユーディリアは、深海の瞳でまっすぐにマギーを射抜いた。
「ハルベルト様が、国王にふさわしい器ではなかったからよ。いえ、正確に言うのであれば、動乱の後の国王に、ね」
「でも、あの方は……」
「優しかった? でも、為政者に必要なのは、むしろ冷酷さだわ。それを、あなたに理解してもらおうとは思わないけれど」
ユーディリアは、先ほどの衝撃で半分に減ってしまったティーカップの中身を飲み干した。
「ハルベルト様が、いまどのような状況か。マギー、あなたは知っている?」
「もちろんよ! ミレイスに送られて、監視付きの生活を送っていらっしゃると聞いているわ!」
ユーディリアは、小さく嘆息すると、昨日、リカッロから聞いたばかりの情報を舌に乗せる。
「軟禁中のハルベルト様は、世話役の侍女に手をつけて、孕ませてしまったそうよ」
その言葉に呆然と立ち尽くしたマギーは、やがて、脱力して、すとん、とイスに腰掛けた。
「嘘……」
「残念ながら、嘘ではないわ。優しく、見栄っ張りで、目先の快楽に弱いハルベルト様らしい行いよ」
ユーディリアはお茶セットを入れていたバスケットから、それを取り出すと、カフスを返した時と同様に、テーブルの中央に置いた。
「これは、わたしがハルベルト様から頂いたものよ。……マギー、あなたにあげるわ。売ってミレイスへの旅費にするなり、新しい何かを始めるなり、恋の形見として持っておくなり、好きにして結構よ」
それは、大粒のエメラルドがあしらわれた首飾りだった。
のろのろと緩慢な動作で、マギーの手がその宝飾品に伸びるのを確認したユーディリアは、席を立った。もう、彼女に用はない。一人にしておくのがいいだろう。
そのまま東屋を背にして二、三歩足を動かしたユーディリアだったが、大事なことを言っていないことに気付いて、足を止めて振り返った。
「ねぇ、マギー。今、こんなこと言っても信じてもらえないかもしれないけれど、……わたしは、あなたの入れるお茶が好きだったのよ」
そして、今度こそ背を向けて、ユーディリアは歩き出した。確かこっちの方でリカッロが待っているはず、と思いながら……
「修羅場になるかと思えば、とんだ愁嘆場で終わったッスね」
その声に、ユーディリアの全身が総毛だった。
「ペトルーキオ様?」
嫌々ながらも、その名前を口にする。
「約束通り、時間をいただけるんスよね?」
ユーディリアが拒絶の言葉を吐くより早く、伸びて来た手が、華奢な手首を掴む。
「こんな時間、こんな場所でなら、邪魔も入らないッス。さぁ、どうぞ、本音を口に―――」
手の甲に口づけようとするペトルーキオに、何とか抵抗しようと試みた矢先、
「あいにくだったな、アームズ公爵」
怒気を孕んだ低い声が、響いた。
「リ、リカッロ様?」
目に見えてうろたえるペトルーキオの隙をついて、ユーディリアは手を振り払った。そして、鳥肌を鎮めるために軽く二の腕をさする。
「オレのユーリに手を出すってことは、どういうことだか分かってるな?」
いきなり愛称を呼ばれたことよりも、その声に含まれた怒りに、ユーディリアは身体を竦ませた。
見れば、リカッロの手は剣の柄にかけられている。
まさか、公爵の地位にある者を切り捨てるつもりか、と血の気が引いた。
(ど、どうしよう……)
すると、先ほどまでキラキラした瞳で成り行きを見物していたベリンダが、こそこそと耳打ちをしてきた。
ユーディリアは、小さく頷く。少し勇気はいるが、良策に思えた。将軍の手を借りるより、ずっと穏便に終わらせることができる……はず。
ユーディリアは、リカッロの方に駆け寄ると、剣を掴んでいる右腕を押さえるように自分の腕をからめた。
「ペトルーキオ様、たいへん申し訳ないのですけど、わたしはリカッロを愛しておりますの。」
浮かべるのは王女として叩き込まれた優雅な笑み。
だが、ペトルーキオは驚いて目を丸くするものの、まだ引こうという気はないようだった。
それなら、とキッパリと断るにはどうしたら良いかと考えて、さらに言葉を連ねていく。
「わたしは、リカッロの歴戦をくぐりぬけたこの傷が、わたしを守ってくださるこの腕が、大好きなのです。ぬくぬくと育ったあなたには、持ち得ないものですわ。―――どうぞ、引っ込んでいらして?」
恥ずかしいセリフの上に、呼び捨てにするなんて、と思いつつ、笑みは崩さずにペトルーキオを見据える。
ようやく自分が道化になっていることを理解したのだろう。ペトルーキオは顔を歪める。
「今なら、妻の言葉に免じて、見なかったことにしてやってもいいぞ、アームズ公爵。……どうする?」
ダメ押しのリカッロのセリフに、小さく「失礼するッス」と答えたペトルーキオは足早に立ち去った。
その後姿をじっと見つめていたユーディリアだったが、足音が遠ざかっていくのを確認すると、まるで崩れるようにしゃがみこんだ。
「おい、どうした?」
心配そうに声をかけるリカッロに、自分の身体を抱きかかえるようにしたユーディリアは自分の両腕をさする。
「気が緩んだら、鳥肌が……。やっぱり、あの方は生理的に苦手です。―――あ、それと、呼び捨てにしてしまって、申し訳ありませんでした」
ベリンダに効果的だから、と言われて呼び捨てにしてしまったが、気を悪くしていないだろうか、とユーディリアは薄暗い中で彼を見上げる。
「別に。これからもそう呼んでもらって構わねぇよ。―――ボタニカ、そっちはどうだ?」
首を巡らせると、闇に溶け込む褐色の肌の副官が、姿を見せた。
「マギーは帰りましたよ。そちらも首尾は上々だったようで何よりです。……レ・セゾンの使者が鉱山視察から戻ってくる前に片付いて良かったですよ、本当に」
その言葉に、リカッロの手を借りて立ち上がったユーディリアが青冷めた。
(わ、すれてた―――)
「使者が戻って来るのは、いつでしたっけ?」
「明日の昼過ぎです。どうなさいました?」
「わたしったら、頂いた手紙のお返事をまだ、書いていませんでしたわ……」
それより何より、「青い花」の件をすっかり忘れていた。ここ数日、毒入りタルトや刺客の襲撃で頭をいっぱいにしてしまったのだ。
ちらり、とリカッロの顔を窺う。
(大丈夫、……よね)
「どうした、ユーリ?」
改めて愛称を呼ばれ、慌てて目を逸らす。何だか気恥ずかしい。
(―――でも)
きっと大丈夫。そんな風に思う自分がいる。本当は最初から分かっていたのだ。この人は、それを知っても、きっと態度を変えることはない。ただ、自分の踏ん切りがつかなかっただけ。
ユーディリアはぎゅっと拳を握り締め、外していた視線を、再びリカッロに戻した。
「リカッロ殿下、その、お伝えしたいことがあるのですが……」
「あれ、呼び捨てはどうした?」
ニヤニヤといつもの意地の悪い笑みを浮かべたリカッロに、ぐっと言葉に詰まる。
「……あれは、ペトルーキオ様に対する牽制です! その、突然、リカッロ殿下がわたしのことを愛称でお呼びになったので―――」
「ユーリ」
念を押されるように、また愛称で呼ばれ、さすがに鈍いと言われた彼女にも、呼び捨てにしろと要求されていることは分かった。
「……」
「ほら、どうした?」
こんなことで時間を無駄にするわけにはいかない、とユーディリアは、全身にぐっと力をこめた。
(呼び捨てにするだけ。何も難しいことじゃないんだから!)
「……リカッロ。お話したいことがありますの。できれば二人きりで」
小さい声で名前を呼んだことに、何か文句を言われるかと思ったが、目の前の青年は大げさに驚いた表情をして見せた。
「おーい、ボタニカ。オレ誘われちゃったよ。……よし、分かった。お前がそこまで言うなら、ゆっくりベッドでな」
ユーディリアの顔が真っ赤に染まる。
「ち、違います! 話したいのは、あの三人の調査報告の件ですっ!」
その言葉に、今度こそ素の表情で驚きを見せたリカッロは、すぐに気を取り直すと、よいしょ、とユーディリアを抱き上げた。
「ってーことだから、ボタニカ、後始末は頼んだ」
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