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バケモノ姫の嫁入り騒動
10.勝者は不機嫌に罵倒する
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対峙するその瞳から険が消えたのが分かったのだろう。リカッロが木剣を下ろした。
ユーディリアは肩で息をしながら俯き、ちらり、と自分の手のひらを見た。
(う、わ……)
自国にいた頃、ユーディリアの能力が有用か無能かを判定するために、将軍に思い切り剣を振ってもらったことがあった。その時も散々な状態で、もう二度とそんなことさせるかと思ったものだったが、その遥か上を行く状況だった。
(将軍、あなたの身体じゃないんだから、自重してください!)
心の中で悲鳴を上げるが、それでは既に彼女の身体から離れてしまった将軍の耳に届かないことは承知していた。
突かれた右肩はもちろんのこと、二の腕、手首、手のひら、背筋、脇腹、太もも、ふくらはぎ、足の裏、――痛くない場所を探す方が難しかった。吹き出す汗は、体を酷使したことによるものか、はたまた痛みによる冷や汗か。たぶん両方だろう。
とりあえず、リカッロに対して何か言わなければと思うが、口は酸素を欲していて声を出す余裕もない。
「おい、大丈夫か?」
「……」
まだ返事のできる状態でないと悟ったリカッロは、自分の叩き落とした練習用の木剣を拾い上げ、顔を険しく歪めた。
「お前……」
乱暴に彼女の手首を掴み、その手のひらを確認する。皮がずる向けて血が滲み、そこに汗が加わったぐちゃぐちゃの状態に、リカッロは行儀悪く舌打ちをした。
「おい、ザッカード! 箱持って来い」
リカッロが声を張り上げると、小柄な兵が慌てて詰所の方へ駈け出した。
「お前ら、こいつの実力は十分確かめただろ? ヒマ持て余してねぇで、とっとと持ち場に戻れ!」
突然の解散命令に、不満の声を上げる者も少なくなかったが、副官のボタニカ以下、側近数名が彼の言葉を忠実に守り、手合わせをしていた鍛練場の一角から兵達を追い出しにかかった。
その流れに逆らい、ザッカードと呼ばれた兵が小さな箱を小脇に抱え、水差しを手に持って走ってくる。
「お前は、阿呆か」
ようやく呼吸の整ってきたユーディリアは顔を上げて力なく微笑んだ。
「ですから、木剣で手合せなどできない、と申しましたのに」
応急手当用の箱を持って駆け寄って来たザッカードは、ユーディリアの手のひらを見て、顔をしかめた。
「これは、ひどい……。リカッロ様、処置は中で行いましょう。ここで行うには時間がかかり過ぎます」
「そうか。ボタニカ、先に行って中からもヤジ馬追っ払え」
ようやく兵を散らして戻って来たボタニカは、今度は中へと駆けだした。それを確認したリカッロは、ユーディリアに「暴れるなよ」と言い置いて、軽々と彼女の体を持ち上げた。
「あの、わたし、歩けますっ」
「うるさい、黙れ」
なぜか不機嫌な様子のリカッロの迫力に負け、ユーディリアは、しゅん、と俯いた。
正直、歩くのもつらい状況なので、ありがたいと言えばありがたいのだが、どうにも顔が近くて恥ずかしい。何とか気を逸らせようと視線を泳がせると、彼の首筋を伝い落ちる汗が目に止まった。
訓練を受けた人間にとって、ああいった打ち合いがどのぐらい疲れるものなのかは知らないが、少なくとも汗をかかせることはできたわけだ。
そう考えると、将軍の技量に賞賛を贈ってもいい気がする。もう少し、体を大事にしてくれるのなら、手放しで褒められるのだけど。
運ばれた部屋の端に置いてある仮眠用の寝台に座らされたユーディリアの前で、ザッカードと呼ばれた兵が浅い桶に水を張り、その中にユーディリアの両手をゆっくりと沈ませていった。
しびれるような痛みに、ユーディリアの身体にぐっと力が入る。
「痛ぇんなら、そういう顔ぐらいしろよ」
不愉快だ、と見下ろすリカッロに、ユーディリアは「運んでいただいてありがとうございました」と頓珍漢な言葉を返した。
ザッカードは医師に近い役割なのだろう。慣れた手つきで汚れを落とした手を優しく拭うと、白い軟膏を傷口に塗り始めた。ユーディリアは力を込めてその痛みに耐えているものの、表情は至って平然としたままだ。どうやら、リカッロはそれが気に食わないらしい。
「リカッロ殿下、あの、先に申し上げておきたいのですが―――」
「……なんだ?」
「私、今日は一日寝て過ごすと思いますので、用事がありましたら、明日以降にしていただけますか?」
どこかズレた発言に、リカッロは無言で顎を掴み、顔を引き上げた。ユーディリアは突然のことに、目を大きく見開いた。
「当たり前だ」
怒りを孕んだ声でそれだけ言うと、リカッロは右手でユーディリアの顎を掴んだまま、左手を胸に伸ばした。
ユーディリアの顔が目に見えて強張るが、両手は治療中で動かすこともできない。動かしたとしても振り払われるのがオチだった。
しゅるり、と胸元のリボンを解き、無造作に襟を掴んだリカッロは、そのままユーディリアの右肩を露わにする。赤黒くなった腕の付け根を見て、小さく舌打ちした。
「内出血で止まってるといいんですけど」
薬を塗り終えたザッカードが、くるくるとユーディリアの細い手に包帯を巻きながら、ちらり、と肩口を見て言った。
「避け損なったわたしのせいですもの。どうか気になさらないでくださいな」
ユーディリアはそう口にするものの、将軍があれを意図して受けたであろうことは、容易に想像がついた。そして、ユーディリアが気づいていることを、リカッロが気づかないわけはない。だが、リカッロはそれについては言及しなかった。
「……お前、どこであんなもん身につけた?」
「さぁ?」
「あれだけの動き、判断は、よほどの実戦経験でもない限り、できないもんだ。そうだろ?」
包帯を巻き終わって右肩を診ようとするザッカードに場所を譲り、リカッロは座るユーディリアの真正面に腕組みをして立った。
「だが、お前の手はおよそそんなものとは無縁な、弱っちいもんだ。そうすると、道理に合わない。……どういうことだ?」
「大変申し訳ありません。その質問にはお答えできませんの」
ユーディリアの青い瞳に、その強い意志を見てとったリカッロは、今日何度目かの舌打ちをして、彼女に背を向けた。
この怖いやり取りを不憫にも間近で聞く羽目になったザッカードは、びくびくしながら、右肩を診察していた。
「え、えぇと、骨には異常はないようです。おそらく、内出血だけでしょう。……とはいえ、場所が関節ですから、くれぐれも安静にしてくださいね」
ユーディリアにそう告げると、水差しから直接水分を補給していたリカッロが振り返った。その姿に、自分も喉が渇いていたユーディリアは、部屋に戻ったら水をもらおう、と思う。すると、それを察したのか、「飲むか?」とリカッロが尋ねてきた。
「あ、はい、いただけますか?」
リカッロは手近にあったコップに水を注ぐと、ユーディリアに向けて突き出す。それを受け取ろうと、軋む身体で手を伸ばしたユーディリアは、ふと、その動きを止めた。
指の付け根は包帯でぐるぐる巻きにされているが、できるだけ傷口に触れたくはない。とすると、指先でコップを掴むことになる。だが、その肝心の指先は、ぷるぷると震えて、力が入らなかった。
ユーディリアは短く嘆息した。
「申し訳ありません。やっぱり遠慮しま―――す?」
顎を掴まれ、上を向かされたユーディリアは、薄く開いた口に湿った柔らかいものが押し当てられるのを感じ、そこから流れてきた水を喉の奥に追いやった。
一瞬、何が起きたのか分からなかった。
「まだ飲むか?」
さっきまでの不機嫌はどこへやら、一転、上機嫌でコップを揺らして見せたリカッロは、意地の悪い笑顔を浮かべた。
ユーディリアの震える指が、自分の唇に触れた。口移しで水を飲まされたと分かっていたが、認めたくはない。
雰囲気を敏感に感じ取ったザッカードは、「僕はこれで……」と詰所から逃げ出した。少し離れていたところで様子を窺っていた副官ボタニカは、見ていられないとばかりに目を逸らす。
「どうした?」
「い……」
「い?」
いやぁっ!という決して小さくない悲鳴とともに、ユーディリアの左腕が大きく振り上げられた。混乱しきった頭で痛みも忘れた上の結果だった。
だが、予想された動きだったのだろう、その手首をリカッロは難なく掴み止めた。
「おいおい、ケガ人は大人しくしてろよ」
急な動きに、腕と手と脇腹がずきずきと痛む。ユーディリアはリカッロを睨みつけたまま、大きく深呼吸した。怒りで赤く染まった視界の端に、妙にキラキラとした笑みを浮かべているベリンダを見つけ、ユーディリアは何とか平静を取り戻すきっかけを捕まえて、言葉を絞り出した。
「……とりあえず、お仕事も山積しておりますでしょう? どうぞお戻りください。わたしは自室に戻っておりますので」
「また、そのクソつまんねぇ顔に戻りやがった。……おい、ボタニカ、お前もこの部屋から出ていけ!」
「リカッロ様! だめです! いけません! ケガ人相手に何をするって言うんですか!」
「うるせぇ、黙れ」
「黙りません! リカッロ様は、どうぞお仕事にお戻りください!」
ユーディリアはリカッロの怒りのツボが分からず、ただただ目を見開いて成り行きを見守るしかできない。
「ボタニカ、てめぇ……」
「そんな顔したって譲りませんよ。この立ち会いだって、時間捻り出すのにどれだけ苦労して時間調整したと思っているんですか。―――私が姫を部屋までお送りします」
ボタニカの手が伸び、ユーディリアの手首を掴むリカッロの手を払いのけた。
そして、リカッロは副官を無言のまま睨みつけた。
「引きませんよ。あなたの目の前にいるのは、あなたの部下ではなく、負傷したレ・セゾンの姫君です。何かあっては困ります」
ボタニカは一歩も引かず、ユーディリアを隠すように間に入った。
しばらく、王子とその副官が無言で睨み合う。
折れたのはリカッロの方だった。
「……ちっ、仕方ねぇな。言ったからには、きちっと送れよ」
「はい、もちろんです」
リカッロはちらりとユーディリアを一瞥すると、踵を返して靴音荒く出て行った。
「ありがとうございます」
「いいえ、こちらこそ申し訳ありません。不快な思いをさせてしまいました」
その言葉を聞いて、ユーディリアは、なるほど、この副官がブレーキ役なのかと妙に納得した。
「あなたも仕事がおありでしょう? わたしのことは構いませんから、どうぞお戻りくださいな」
ユーディリアは寝台から腰を上げ、踏ん張りがきかずに、二、三歩よろめいた。
「いいえ、だいぶお疲れのご様子ですし、送り届けることも私の仕事ですから」
ボタニカは慌てて手を伸ばしてユーディリアを支えた。
ユーディリアは自分の身体がいかにボロボロか改めて自覚し、ボタニカの申し出を受けることにした。
ユーディリアは肩で息をしながら俯き、ちらり、と自分の手のひらを見た。
(う、わ……)
自国にいた頃、ユーディリアの能力が有用か無能かを判定するために、将軍に思い切り剣を振ってもらったことがあった。その時も散々な状態で、もう二度とそんなことさせるかと思ったものだったが、その遥か上を行く状況だった。
(将軍、あなたの身体じゃないんだから、自重してください!)
心の中で悲鳴を上げるが、それでは既に彼女の身体から離れてしまった将軍の耳に届かないことは承知していた。
突かれた右肩はもちろんのこと、二の腕、手首、手のひら、背筋、脇腹、太もも、ふくらはぎ、足の裏、――痛くない場所を探す方が難しかった。吹き出す汗は、体を酷使したことによるものか、はたまた痛みによる冷や汗か。たぶん両方だろう。
とりあえず、リカッロに対して何か言わなければと思うが、口は酸素を欲していて声を出す余裕もない。
「おい、大丈夫か?」
「……」
まだ返事のできる状態でないと悟ったリカッロは、自分の叩き落とした練習用の木剣を拾い上げ、顔を険しく歪めた。
「お前……」
乱暴に彼女の手首を掴み、その手のひらを確認する。皮がずる向けて血が滲み、そこに汗が加わったぐちゃぐちゃの状態に、リカッロは行儀悪く舌打ちをした。
「おい、ザッカード! 箱持って来い」
リカッロが声を張り上げると、小柄な兵が慌てて詰所の方へ駈け出した。
「お前ら、こいつの実力は十分確かめただろ? ヒマ持て余してねぇで、とっとと持ち場に戻れ!」
突然の解散命令に、不満の声を上げる者も少なくなかったが、副官のボタニカ以下、側近数名が彼の言葉を忠実に守り、手合わせをしていた鍛練場の一角から兵達を追い出しにかかった。
その流れに逆らい、ザッカードと呼ばれた兵が小さな箱を小脇に抱え、水差しを手に持って走ってくる。
「お前は、阿呆か」
ようやく呼吸の整ってきたユーディリアは顔を上げて力なく微笑んだ。
「ですから、木剣で手合せなどできない、と申しましたのに」
応急手当用の箱を持って駆け寄って来たザッカードは、ユーディリアの手のひらを見て、顔をしかめた。
「これは、ひどい……。リカッロ様、処置は中で行いましょう。ここで行うには時間がかかり過ぎます」
「そうか。ボタニカ、先に行って中からもヤジ馬追っ払え」
ようやく兵を散らして戻って来たボタニカは、今度は中へと駆けだした。それを確認したリカッロは、ユーディリアに「暴れるなよ」と言い置いて、軽々と彼女の体を持ち上げた。
「あの、わたし、歩けますっ」
「うるさい、黙れ」
なぜか不機嫌な様子のリカッロの迫力に負け、ユーディリアは、しゅん、と俯いた。
正直、歩くのもつらい状況なので、ありがたいと言えばありがたいのだが、どうにも顔が近くて恥ずかしい。何とか気を逸らせようと視線を泳がせると、彼の首筋を伝い落ちる汗が目に止まった。
訓練を受けた人間にとって、ああいった打ち合いがどのぐらい疲れるものなのかは知らないが、少なくとも汗をかかせることはできたわけだ。
そう考えると、将軍の技量に賞賛を贈ってもいい気がする。もう少し、体を大事にしてくれるのなら、手放しで褒められるのだけど。
運ばれた部屋の端に置いてある仮眠用の寝台に座らされたユーディリアの前で、ザッカードと呼ばれた兵が浅い桶に水を張り、その中にユーディリアの両手をゆっくりと沈ませていった。
しびれるような痛みに、ユーディリアの身体にぐっと力が入る。
「痛ぇんなら、そういう顔ぐらいしろよ」
不愉快だ、と見下ろすリカッロに、ユーディリアは「運んでいただいてありがとうございました」と頓珍漢な言葉を返した。
ザッカードは医師に近い役割なのだろう。慣れた手つきで汚れを落とした手を優しく拭うと、白い軟膏を傷口に塗り始めた。ユーディリアは力を込めてその痛みに耐えているものの、表情は至って平然としたままだ。どうやら、リカッロはそれが気に食わないらしい。
「リカッロ殿下、あの、先に申し上げておきたいのですが―――」
「……なんだ?」
「私、今日は一日寝て過ごすと思いますので、用事がありましたら、明日以降にしていただけますか?」
どこかズレた発言に、リカッロは無言で顎を掴み、顔を引き上げた。ユーディリアは突然のことに、目を大きく見開いた。
「当たり前だ」
怒りを孕んだ声でそれだけ言うと、リカッロは右手でユーディリアの顎を掴んだまま、左手を胸に伸ばした。
ユーディリアの顔が目に見えて強張るが、両手は治療中で動かすこともできない。動かしたとしても振り払われるのがオチだった。
しゅるり、と胸元のリボンを解き、無造作に襟を掴んだリカッロは、そのままユーディリアの右肩を露わにする。赤黒くなった腕の付け根を見て、小さく舌打ちした。
「内出血で止まってるといいんですけど」
薬を塗り終えたザッカードが、くるくるとユーディリアの細い手に包帯を巻きながら、ちらり、と肩口を見て言った。
「避け損なったわたしのせいですもの。どうか気になさらないでくださいな」
ユーディリアはそう口にするものの、将軍があれを意図して受けたであろうことは、容易に想像がついた。そして、ユーディリアが気づいていることを、リカッロが気づかないわけはない。だが、リカッロはそれについては言及しなかった。
「……お前、どこであんなもん身につけた?」
「さぁ?」
「あれだけの動き、判断は、よほどの実戦経験でもない限り、できないもんだ。そうだろ?」
包帯を巻き終わって右肩を診ようとするザッカードに場所を譲り、リカッロは座るユーディリアの真正面に腕組みをして立った。
「だが、お前の手はおよそそんなものとは無縁な、弱っちいもんだ。そうすると、道理に合わない。……どういうことだ?」
「大変申し訳ありません。その質問にはお答えできませんの」
ユーディリアの青い瞳に、その強い意志を見てとったリカッロは、今日何度目かの舌打ちをして、彼女に背を向けた。
この怖いやり取りを不憫にも間近で聞く羽目になったザッカードは、びくびくしながら、右肩を診察していた。
「え、えぇと、骨には異常はないようです。おそらく、内出血だけでしょう。……とはいえ、場所が関節ですから、くれぐれも安静にしてくださいね」
ユーディリアにそう告げると、水差しから直接水分を補給していたリカッロが振り返った。その姿に、自分も喉が渇いていたユーディリアは、部屋に戻ったら水をもらおう、と思う。すると、それを察したのか、「飲むか?」とリカッロが尋ねてきた。
「あ、はい、いただけますか?」
リカッロは手近にあったコップに水を注ぐと、ユーディリアに向けて突き出す。それを受け取ろうと、軋む身体で手を伸ばしたユーディリアは、ふと、その動きを止めた。
指の付け根は包帯でぐるぐる巻きにされているが、できるだけ傷口に触れたくはない。とすると、指先でコップを掴むことになる。だが、その肝心の指先は、ぷるぷると震えて、力が入らなかった。
ユーディリアは短く嘆息した。
「申し訳ありません。やっぱり遠慮しま―――す?」
顎を掴まれ、上を向かされたユーディリアは、薄く開いた口に湿った柔らかいものが押し当てられるのを感じ、そこから流れてきた水を喉の奥に追いやった。
一瞬、何が起きたのか分からなかった。
「まだ飲むか?」
さっきまでの不機嫌はどこへやら、一転、上機嫌でコップを揺らして見せたリカッロは、意地の悪い笑顔を浮かべた。
ユーディリアの震える指が、自分の唇に触れた。口移しで水を飲まされたと分かっていたが、認めたくはない。
雰囲気を敏感に感じ取ったザッカードは、「僕はこれで……」と詰所から逃げ出した。少し離れていたところで様子を窺っていた副官ボタニカは、見ていられないとばかりに目を逸らす。
「どうした?」
「い……」
「い?」
いやぁっ!という決して小さくない悲鳴とともに、ユーディリアの左腕が大きく振り上げられた。混乱しきった頭で痛みも忘れた上の結果だった。
だが、予想された動きだったのだろう、その手首をリカッロは難なく掴み止めた。
「おいおい、ケガ人は大人しくしてろよ」
急な動きに、腕と手と脇腹がずきずきと痛む。ユーディリアはリカッロを睨みつけたまま、大きく深呼吸した。怒りで赤く染まった視界の端に、妙にキラキラとした笑みを浮かべているベリンダを見つけ、ユーディリアは何とか平静を取り戻すきっかけを捕まえて、言葉を絞り出した。
「……とりあえず、お仕事も山積しておりますでしょう? どうぞお戻りください。わたしは自室に戻っておりますので」
「また、そのクソつまんねぇ顔に戻りやがった。……おい、ボタニカ、お前もこの部屋から出ていけ!」
「リカッロ様! だめです! いけません! ケガ人相手に何をするって言うんですか!」
「うるせぇ、黙れ」
「黙りません! リカッロ様は、どうぞお仕事にお戻りください!」
ユーディリアはリカッロの怒りのツボが分からず、ただただ目を見開いて成り行きを見守るしかできない。
「ボタニカ、てめぇ……」
「そんな顔したって譲りませんよ。この立ち会いだって、時間捻り出すのにどれだけ苦労して時間調整したと思っているんですか。―――私が姫を部屋までお送りします」
ボタニカの手が伸び、ユーディリアの手首を掴むリカッロの手を払いのけた。
そして、リカッロは副官を無言のまま睨みつけた。
「引きませんよ。あなたの目の前にいるのは、あなたの部下ではなく、負傷したレ・セゾンの姫君です。何かあっては困ります」
ボタニカは一歩も引かず、ユーディリアを隠すように間に入った。
しばらく、王子とその副官が無言で睨み合う。
折れたのはリカッロの方だった。
「……ちっ、仕方ねぇな。言ったからには、きちっと送れよ」
「はい、もちろんです」
リカッロはちらりとユーディリアを一瞥すると、踵を返して靴音荒く出て行った。
「ありがとうございます」
「いいえ、こちらこそ申し訳ありません。不快な思いをさせてしまいました」
その言葉を聞いて、ユーディリアは、なるほど、この副官がブレーキ役なのかと妙に納得した。
「あなたも仕事がおありでしょう? わたしのことは構いませんから、どうぞお戻りくださいな」
ユーディリアは寝台から腰を上げ、踏ん張りがきかずに、二、三歩よろめいた。
「いいえ、だいぶお疲れのご様子ですし、送り届けることも私の仕事ですから」
ボタニカは慌てて手を伸ばしてユーディリアを支えた。
ユーディリアは自分の身体がいかにボロボロか改めて自覚し、ボタニカの申し出を受けることにした。
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