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第四章 神秘はさらに輝きを増し、呪いとなってアランを戦いの場に連れ戻す
第三十四話 武技乱舞(14)
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◆◆◆
次の日――
サイラスは粗末な椅子に座ってじっと考え込んでいた。
傍にはフレディの姿がある。
が、サイラスは彼のことが意識に全く入らないほどに集中していた。
「……」
サイラスはヨハンに言われたことを思い出していた。
――
「サイラス」
「……なんだ」
「……お前のところに『使者』は来たか?」
「……」
この期に及んでヨハンは何を言いたいのだ? そう思ったサイラスは沈黙を返した。
間も無く、ヨハンが言葉を続けた。
「サイラス、ガストンという者のことを覚えているか?」
これにサイラスは「ああ」と頷きを返した。
ガストンとはカルロが守る最終防衛線に突撃し、そして散った将のことだ。
彼のことをサイラスはその時に抱いた哀れみと共に記憶していた。
そしてサイラスの頷きを見たヨハンは再び口を開いた。
「あの時、ガストンに勝ち目はあったと思うか?」
サイラスは正直に答えた。
「……百回挑んだとしても、百回ともカルロが勝つだろう」
サイラスの答えに対し、ヨハンが再び尋ねる。
「妙だと思わないか?」
「……」
サイラスは何も言えなかった。
妙といえば当然妙だ。だから当時、自分はヨハンに一言物申した。
そしてそれをねじ伏せ、事を強行したのは誰でも無いヨハンではないか。
そう思ったサイラスがそれを口にするよりも早く、ヨハンが再び声を上げた。
「……あの時、私はある商人達といくつかの約束を交わしていた」
なんだそれは? とサイラスが尋ねるまでも無く、ヨハンはそれを声に出した。
「それはガストン達を始末するかわりに対価をもらうというものだった」
その商人達はなぜガストンを殺したがっていたのか。
それもヨハンは語った。
「当時、ガストン達は戦場で次々と功績を挙げていた。そしてそれは彼の発言力の増加に繋がっていた。その発言力をガストン自身は使っていなかったが、彼の背後についていたある女商人が教会に対して声を上げ始めていた」
話を聞きながら、サイラスは事の全体像を頭の中におおざっぱに描いていた。サイラスはよくある商人達の権力闘争だと思っていた。この時は。
「商人達が目障りだったのはガストン本人では無く、彼を援助していたその女のほうだったのだ。ガストンを消すことで女から発言力を奪うという算段だった」
そして、ヨハンはサイラスもよく知っている結果を語った。
「そして事は実行され、ガストンは死んだ」
サイラスはここまでの話を聞いて頷きを返した。残酷だが、かけひきとしてありえる、と思ったからだ。
が、妙な点は当然残っている。あまりにも強引すぎる下策であるという点がその一つだ。要は女商人を押さえつければいいだけの話である。そのためにガストンを殺すなどというのは、あまりにも無理矢理な手段に感じる。もっと穏やかで損失が少なく、そして証拠と禍根が残らない手がいくらでもあるはずなのだ。
しかしヨハンはそれよりも妙なことを語り始めた。
「しかしその後、妙な事になった。まず、私が商人達と交わしていた約束の一つが破られたのだ。一度に支払われるはずであった金と奴隷兵、そして兵糧などの報酬が、複数回に分けてという形に変えられたのだ」
それで何が困るのか、サイラスが見当をつけたその答えをヨハンはそのまま口に出した。
「これに私は怒りを返した。時間をかけて複数回では駄目なのだ。それではガストンの穴は埋まらない」
当時あの地にはカルロを睨み、押さえつけるための戦力が集められていた。だからヨハンもいた。だが数が減ってしまうと単純にその抑止力が減る。
しかし、ガストン達がいなくなったくらいならばまだ何とかなるはずであった。
だから当時、サイラスはヨハン含む教会の上層部に進言していた。カルロを抑えている間に他の部隊を迂回させ、敵の首都を別方向から攻めるべきだと。
だがその後、軍がそのように動くことは無かった。軍は愚かにもカルロと正面から対抗することになり、そしてそんなこと出来るはずも無く、戦線はされるがままに押し下げられた。
サイラスは自分の提案は無視されたのだと、その時は単純にそう思っていた。
それは間違いであることをヨハンは語り始めた。
「そして妙な事はそれだけでは終わらなかった。当時お前が提案した通り、我々は敵の首都を多方面から攻める作戦を立てていた。私はその作戦の参加者を決めようとした。しかし出来なかった」
サイラスが「何故だ?」と尋ねると、ヨハンは意外な答えを返した。
「兵站が伸ばせなかったのだ」
これにサイラスは「そんな馬鹿な」と声を上げそうになった。
そもそもあの作戦は、カルロを奇襲するところから既に算段は整っていたのだ。もしカルロを殺し損ね、途中で戦線に復帰されても問題無い様に計算されていたのだ。
兵站とは戦闘支援の総称である。部隊の戦闘力を維持、または向上させるための物資の補給線、駐屯し守らせるための要塞などの設備とその整備、兵の展開手段とその確保などのことだ。
その計算の中に兵站は当然入っていた。どこに拠点を立て、どのように補給を行うのかなどに関して緻密な計算がされていたことをサイラスは十分すぎるほど知っていた。なぜなら、サイラスが作戦立案者であり、計算の一部もサイラス自身が行ったからだ。
そしてあの作戦はかなり上手く行っていた。カルロを殺し損ねたが、復帰された時点で既に我々は敵の首都の目前までに迫っていた。
軍の一部を迂回させ、多正面作戦を行うのも問題無かったはずだ。あともう一押しだったはずなのだ。
サイラスはそう思った。
しかしそれはサイラスの計算が正しかったならば、サイラスが計算に使った数字が、下から報告された値に嘘偽りが無ければ、の話なのである。
全ての事に絶対は無い。事故か何かで事情が変わってしまうことは当然ある。しかし、サイラスはそれらも考慮してかなり余裕を持たせていた。サイラスにとってヨハンが口にしたことは信じ難いことであり、自身の能力を否定されたことによる怒りすら湧き上がる内容であった。
そんなサイラスの気持ちを察する事無く、ヨハンは言葉を続けた。
「兵糧も何もかもがぎりぎりだった。知らぬ間に我々の兵站線は伸びきっていたのだ」
「……」
サイラスは何も言えなかった。
誰かが嘘をついていたということになる。兵站を管理していた者の誰かが。
それはもしかしたら自分が信頼している人間かもしれない。自分が信じた数字は全て嘘だったかもしれないのだ。
そしてそんな考えにサイラスがさらなる怒りを抱き始めた瞬間、ヨハンが口を開いた。
「この一連の流れに強烈な不信感を抱いた私は独自に調査を行った。兵站を管理していた人間の身辺を調べる一方で、疑惑の発端となった女商人を追った」
女商人という単語にサイラスは意識を強く引かれた。なぜだか、女のことが気になっていた。
そしてそれはヨハンも同じであったようだ。
「女の調査には特に力を入れた。私は女に目星をつけていた。なぜなら、女の動向に不審な点があるのを私は既に知っていたからだ。
商人達からガストンの話を持ちかけられた際、私はまず独自の手段を取った。要は女を黙らせればいいわけだからな。
私は私兵を使って女を捕まえようとした。しかしそれは失敗に終わった。返り討ちにされたのだ。商人にしてはやけに強いな、としか思わなかった。その時は」
その単純な評価が間違いであったことをヨハンは語った。
「そしてガストンの死後、女の異常性は色濃くなった。姿を消したのだ」
確かにおかしいが、一時的に姿を隠しただけという可能性が残っている。
サイラスはそう思ったが、直後のヨハンの言葉がその可能性をとても低いものにした。
「私が兵を差し向けたから怯えて隠れたのかもしれないと、最初は思った。だが、調べていくうちにその考えは消えた」
サイラスが「なぜだ?」と問うと、ヨハンは即答した。
「女がやっていた商売は、元々は私にガストン殺害を依頼した商人達が抱えていたものだった。要は女と商人達は繋がっていたのだ。
この事を私が問い詰めると、調子に乗った女が歯向かい始めただけだと商人達は答えた。当然、私はその言葉を信じず、調査を進めた。
だが、そこから大した進展は無かった。兵站の計算が誤っていた原因のいくつかは突き止めたが、それらはどれも事故なのか失敗なのか、故意なのかわからぬような些細なものを積み重ねたものばかりで、疑惑を晴らす決定打にはならなかった」
そしてヨハンは一呼吸分間を置いた後、最も重要なことを語り始めた。
「そんな時だ。私の前に『使者』が現れたのは」
この展開にはさすがのサイラスも黙って耳を傾ける以外に無かった。
「あれは確か三年前、ラルフを手に入れた直後くらいのことだ。その者はある夜、私の部屋に突然現れ、こう言ったよ。
『あなたにひとつ忠告をしにきたわ。戦力を温存して勝ちなさい。そして出来るならば、相手の戦力も減らさず取り込みなさい』と」
女性の言葉遣いから、サイラスは「もしや」と思った。
そしてヨハンも当時同じ考えを抱いたことを語った。
「私はそいつに向かって『何者だ!』と声を上げながら確信したよ。この侵入者は探していた女商人だと。女は結局最後まで名乗らなかったが、『あるところから来た使いの者』とだけ答えた。
そして女は私の足元に一枚の紙切れを放り投げながら言った。『そこに書かれている連中を信じては駄目』だと。ラルフは大切に扱え、多くの者が狙っている、とも言った。そういえば、この事は誰にも話してはダメだ、もし話せば私はあなたを殺さなければならなくなる、などと釘も刺されていたな。……今から死ぬ私には関係の無いことだが」
ヨハンは珍しい自虐的な笑みを口尻に浮かべながら、言葉を続けた。
「女はそれだけ言った後、窓から出て行った。その時に私は見たのだ」
サイラスが「何をだ?」と尋ねると、ヨハンは答えた。
「女は屋根から屋根へ軽々と跳び移っていたのだ。それを見た私は、まるで『偉大なる一族』のようだ、と思った」
これにサイラスの心は揺れた。
しかしサイラスは考えようとはしなかった。
これだけでは何も判断がつかないからだ。偉大なる一族は敵かもしれないと考えるのはあまりに早計。情報が足りない。
サイラスは理性でこの動揺をねじ伏せた。その直後、ヨハンの口が開いた。
「しかしその後、女の消息は完全に消えてしまった。私は女の調査を一時中断し、紙に書かれていた者達の方に力を入れた。そして、私はその者達に共通点があることに気がついた。ほとんどが奴隷商人、または交易商で、全員が外界と何かしらの繋がりを持っていたのだ」
これにサイラスの心は先とは比べ物にならないほどに揺れた。
サイラスの思考は既に一つの答えを導き出していた。
サイラスの心はそれに衝撃を受けたのだ。
そして間を置かず、ヨハンの口が答え合わせを始めた。
「こいつらは商売のために戦争を引き伸ばしているのだろうかと、最初は思った。しかし、女が残した『戦力を温存しろ』という言葉が引っかかった。そして私はある事を、我が一族が魔力至上主義の道を歩み始めた理由を思い出した。
それはいずれ来るであろう外界からの侵略に備えるためというものであった。外界の脅威を声高に叫び始めたのは盾の一族で、我が祖先はそれに乗っただけだが。
しかしその後、長い時間が過ぎたが盾の一族の祖先が危惧したようなことは起こらなかった」
ヨハンは何かを悟ったかのような表情で言葉を続けた。
「その過程で、盾の一族は我々から距離を取るようになった。なぜそうするようになったのかを彼らは語らなかったが、理由は察しがつく。彼らは我が祖先がやっていたことに嫌気が差したのだ。はっきり言って、我が祖先が盾の一族に協力し始めたのは大きな商売がしたかっただけだ。盾の一族が声高に叫んでいた『国を強くし、守る』などという信念めいたものは我が祖先の心には全く無かったのだ。ゆえに教会は醜いものになってしまった」
そこまで言ってヨハンは目つきを元に戻し、サイラスと視線を合わせた。
ヨハンは真っ直ぐな目をしていた。
その憑き物が落ちたかのような目で、ヨハンは語った。
「……話が少しそれてしまったが、サイラス、私はこう思っているのだ。我々は既に攻撃を受けているのではないか、と。戦争を長引かせて双方を疲弊させ、全体の戦力を減らすという工作をしかけられているのではないかと。
そう思った私は戦いから距離を置き、後進の育成とラルフの教育に力を入れるようになった。平行して戦力を手元に集めるための活動も行った」
ヨハンが前線に全く出てこなくなった理由のひとつであった。
「偉大なる一族にちょっかいを出したのはそれが理由だ。私は偉大なる一族を手元に置こうと考え、実行した。……そして私は敗れ、こうなった」
そこまで言ってヨハンは視線を落とし、口を閉ざした。
全て言い終わったのだろう。
「……」
サイラスは暫し考えた後、剣を振り上げた。
月に照らされた剣身が青白く光る。
瞬間、ヨハンは口を開いた。
「炎の一族と戦うことになったのも、もしかしたら……」
その口から出てきたのは、彼の心にふと湧いた疑惑であった。
「……」
しかしサイラスには沈黙しか返せない。わからないからだ。
黙るサイラスに対しヨハンが再び口を開く。
「……私の話が信じられぬか? ならば後で私の別荘を調べてみるといい。女から渡された紙が書斎の机の中にある」
「……」
これにもサイラスは何の言葉も返さなかった。
「……」
ヨハンの口も動く気配を見せなくなった。
しばらくして、サイラスは剣を振り下ろした。
次の日――
サイラスは粗末な椅子に座ってじっと考え込んでいた。
傍にはフレディの姿がある。
が、サイラスは彼のことが意識に全く入らないほどに集中していた。
「……」
サイラスはヨハンに言われたことを思い出していた。
――
「サイラス」
「……なんだ」
「……お前のところに『使者』は来たか?」
「……」
この期に及んでヨハンは何を言いたいのだ? そう思ったサイラスは沈黙を返した。
間も無く、ヨハンが言葉を続けた。
「サイラス、ガストンという者のことを覚えているか?」
これにサイラスは「ああ」と頷きを返した。
ガストンとはカルロが守る最終防衛線に突撃し、そして散った将のことだ。
彼のことをサイラスはその時に抱いた哀れみと共に記憶していた。
そしてサイラスの頷きを見たヨハンは再び口を開いた。
「あの時、ガストンに勝ち目はあったと思うか?」
サイラスは正直に答えた。
「……百回挑んだとしても、百回ともカルロが勝つだろう」
サイラスの答えに対し、ヨハンが再び尋ねる。
「妙だと思わないか?」
「……」
サイラスは何も言えなかった。
妙といえば当然妙だ。だから当時、自分はヨハンに一言物申した。
そしてそれをねじ伏せ、事を強行したのは誰でも無いヨハンではないか。
そう思ったサイラスがそれを口にするよりも早く、ヨハンが再び声を上げた。
「……あの時、私はある商人達といくつかの約束を交わしていた」
なんだそれは? とサイラスが尋ねるまでも無く、ヨハンはそれを声に出した。
「それはガストン達を始末するかわりに対価をもらうというものだった」
その商人達はなぜガストンを殺したがっていたのか。
それもヨハンは語った。
「当時、ガストン達は戦場で次々と功績を挙げていた。そしてそれは彼の発言力の増加に繋がっていた。その発言力をガストン自身は使っていなかったが、彼の背後についていたある女商人が教会に対して声を上げ始めていた」
話を聞きながら、サイラスは事の全体像を頭の中におおざっぱに描いていた。サイラスはよくある商人達の権力闘争だと思っていた。この時は。
「商人達が目障りだったのはガストン本人では無く、彼を援助していたその女のほうだったのだ。ガストンを消すことで女から発言力を奪うという算段だった」
そして、ヨハンはサイラスもよく知っている結果を語った。
「そして事は実行され、ガストンは死んだ」
サイラスはここまでの話を聞いて頷きを返した。残酷だが、かけひきとしてありえる、と思ったからだ。
が、妙な点は当然残っている。あまりにも強引すぎる下策であるという点がその一つだ。要は女商人を押さえつければいいだけの話である。そのためにガストンを殺すなどというのは、あまりにも無理矢理な手段に感じる。もっと穏やかで損失が少なく、そして証拠と禍根が残らない手がいくらでもあるはずなのだ。
しかしヨハンはそれよりも妙なことを語り始めた。
「しかしその後、妙な事になった。まず、私が商人達と交わしていた約束の一つが破られたのだ。一度に支払われるはずであった金と奴隷兵、そして兵糧などの報酬が、複数回に分けてという形に変えられたのだ」
それで何が困るのか、サイラスが見当をつけたその答えをヨハンはそのまま口に出した。
「これに私は怒りを返した。時間をかけて複数回では駄目なのだ。それではガストンの穴は埋まらない」
当時あの地にはカルロを睨み、押さえつけるための戦力が集められていた。だからヨハンもいた。だが数が減ってしまうと単純にその抑止力が減る。
しかし、ガストン達がいなくなったくらいならばまだ何とかなるはずであった。
だから当時、サイラスはヨハン含む教会の上層部に進言していた。カルロを抑えている間に他の部隊を迂回させ、敵の首都を別方向から攻めるべきだと。
だがその後、軍がそのように動くことは無かった。軍は愚かにもカルロと正面から対抗することになり、そしてそんなこと出来るはずも無く、戦線はされるがままに押し下げられた。
サイラスは自分の提案は無視されたのだと、その時は単純にそう思っていた。
それは間違いであることをヨハンは語り始めた。
「そして妙な事はそれだけでは終わらなかった。当時お前が提案した通り、我々は敵の首都を多方面から攻める作戦を立てていた。私はその作戦の参加者を決めようとした。しかし出来なかった」
サイラスが「何故だ?」と尋ねると、ヨハンは意外な答えを返した。
「兵站が伸ばせなかったのだ」
これにサイラスは「そんな馬鹿な」と声を上げそうになった。
そもそもあの作戦は、カルロを奇襲するところから既に算段は整っていたのだ。もしカルロを殺し損ね、途中で戦線に復帰されても問題無い様に計算されていたのだ。
兵站とは戦闘支援の総称である。部隊の戦闘力を維持、または向上させるための物資の補給線、駐屯し守らせるための要塞などの設備とその整備、兵の展開手段とその確保などのことだ。
その計算の中に兵站は当然入っていた。どこに拠点を立て、どのように補給を行うのかなどに関して緻密な計算がされていたことをサイラスは十分すぎるほど知っていた。なぜなら、サイラスが作戦立案者であり、計算の一部もサイラス自身が行ったからだ。
そしてあの作戦はかなり上手く行っていた。カルロを殺し損ねたが、復帰された時点で既に我々は敵の首都の目前までに迫っていた。
軍の一部を迂回させ、多正面作戦を行うのも問題無かったはずだ。あともう一押しだったはずなのだ。
サイラスはそう思った。
しかしそれはサイラスの計算が正しかったならば、サイラスが計算に使った数字が、下から報告された値に嘘偽りが無ければ、の話なのである。
全ての事に絶対は無い。事故か何かで事情が変わってしまうことは当然ある。しかし、サイラスはそれらも考慮してかなり余裕を持たせていた。サイラスにとってヨハンが口にしたことは信じ難いことであり、自身の能力を否定されたことによる怒りすら湧き上がる内容であった。
そんなサイラスの気持ちを察する事無く、ヨハンは言葉を続けた。
「兵糧も何もかもがぎりぎりだった。知らぬ間に我々の兵站線は伸びきっていたのだ」
「……」
サイラスは何も言えなかった。
誰かが嘘をついていたということになる。兵站を管理していた者の誰かが。
それはもしかしたら自分が信頼している人間かもしれない。自分が信じた数字は全て嘘だったかもしれないのだ。
そしてそんな考えにサイラスがさらなる怒りを抱き始めた瞬間、ヨハンが口を開いた。
「この一連の流れに強烈な不信感を抱いた私は独自に調査を行った。兵站を管理していた人間の身辺を調べる一方で、疑惑の発端となった女商人を追った」
女商人という単語にサイラスは意識を強く引かれた。なぜだか、女のことが気になっていた。
そしてそれはヨハンも同じであったようだ。
「女の調査には特に力を入れた。私は女に目星をつけていた。なぜなら、女の動向に不審な点があるのを私は既に知っていたからだ。
商人達からガストンの話を持ちかけられた際、私はまず独自の手段を取った。要は女を黙らせればいいわけだからな。
私は私兵を使って女を捕まえようとした。しかしそれは失敗に終わった。返り討ちにされたのだ。商人にしてはやけに強いな、としか思わなかった。その時は」
その単純な評価が間違いであったことをヨハンは語った。
「そしてガストンの死後、女の異常性は色濃くなった。姿を消したのだ」
確かにおかしいが、一時的に姿を隠しただけという可能性が残っている。
サイラスはそう思ったが、直後のヨハンの言葉がその可能性をとても低いものにした。
「私が兵を差し向けたから怯えて隠れたのかもしれないと、最初は思った。だが、調べていくうちにその考えは消えた」
サイラスが「なぜだ?」と問うと、ヨハンは即答した。
「女がやっていた商売は、元々は私にガストン殺害を依頼した商人達が抱えていたものだった。要は女と商人達は繋がっていたのだ。
この事を私が問い詰めると、調子に乗った女が歯向かい始めただけだと商人達は答えた。当然、私はその言葉を信じず、調査を進めた。
だが、そこから大した進展は無かった。兵站の計算が誤っていた原因のいくつかは突き止めたが、それらはどれも事故なのか失敗なのか、故意なのかわからぬような些細なものを積み重ねたものばかりで、疑惑を晴らす決定打にはならなかった」
そしてヨハンは一呼吸分間を置いた後、最も重要なことを語り始めた。
「そんな時だ。私の前に『使者』が現れたのは」
この展開にはさすがのサイラスも黙って耳を傾ける以外に無かった。
「あれは確か三年前、ラルフを手に入れた直後くらいのことだ。その者はある夜、私の部屋に突然現れ、こう言ったよ。
『あなたにひとつ忠告をしにきたわ。戦力を温存して勝ちなさい。そして出来るならば、相手の戦力も減らさず取り込みなさい』と」
女性の言葉遣いから、サイラスは「もしや」と思った。
そしてヨハンも当時同じ考えを抱いたことを語った。
「私はそいつに向かって『何者だ!』と声を上げながら確信したよ。この侵入者は探していた女商人だと。女は結局最後まで名乗らなかったが、『あるところから来た使いの者』とだけ答えた。
そして女は私の足元に一枚の紙切れを放り投げながら言った。『そこに書かれている連中を信じては駄目』だと。ラルフは大切に扱え、多くの者が狙っている、とも言った。そういえば、この事は誰にも話してはダメだ、もし話せば私はあなたを殺さなければならなくなる、などと釘も刺されていたな。……今から死ぬ私には関係の無いことだが」
ヨハンは珍しい自虐的な笑みを口尻に浮かべながら、言葉を続けた。
「女はそれだけ言った後、窓から出て行った。その時に私は見たのだ」
サイラスが「何をだ?」と尋ねると、ヨハンは答えた。
「女は屋根から屋根へ軽々と跳び移っていたのだ。それを見た私は、まるで『偉大なる一族』のようだ、と思った」
これにサイラスの心は揺れた。
しかしサイラスは考えようとはしなかった。
これだけでは何も判断がつかないからだ。偉大なる一族は敵かもしれないと考えるのはあまりに早計。情報が足りない。
サイラスは理性でこの動揺をねじ伏せた。その直後、ヨハンの口が開いた。
「しかしその後、女の消息は完全に消えてしまった。私は女の調査を一時中断し、紙に書かれていた者達の方に力を入れた。そして、私はその者達に共通点があることに気がついた。ほとんどが奴隷商人、または交易商で、全員が外界と何かしらの繋がりを持っていたのだ」
これにサイラスの心は先とは比べ物にならないほどに揺れた。
サイラスの思考は既に一つの答えを導き出していた。
サイラスの心はそれに衝撃を受けたのだ。
そして間を置かず、ヨハンの口が答え合わせを始めた。
「こいつらは商売のために戦争を引き伸ばしているのだろうかと、最初は思った。しかし、女が残した『戦力を温存しろ』という言葉が引っかかった。そして私はある事を、我が一族が魔力至上主義の道を歩み始めた理由を思い出した。
それはいずれ来るであろう外界からの侵略に備えるためというものであった。外界の脅威を声高に叫び始めたのは盾の一族で、我が祖先はそれに乗っただけだが。
しかしその後、長い時間が過ぎたが盾の一族の祖先が危惧したようなことは起こらなかった」
ヨハンは何かを悟ったかのような表情で言葉を続けた。
「その過程で、盾の一族は我々から距離を取るようになった。なぜそうするようになったのかを彼らは語らなかったが、理由は察しがつく。彼らは我が祖先がやっていたことに嫌気が差したのだ。はっきり言って、我が祖先が盾の一族に協力し始めたのは大きな商売がしたかっただけだ。盾の一族が声高に叫んでいた『国を強くし、守る』などという信念めいたものは我が祖先の心には全く無かったのだ。ゆえに教会は醜いものになってしまった」
そこまで言ってヨハンは目つきを元に戻し、サイラスと視線を合わせた。
ヨハンは真っ直ぐな目をしていた。
その憑き物が落ちたかのような目で、ヨハンは語った。
「……話が少しそれてしまったが、サイラス、私はこう思っているのだ。我々は既に攻撃を受けているのではないか、と。戦争を長引かせて双方を疲弊させ、全体の戦力を減らすという工作をしかけられているのではないかと。
そう思った私は戦いから距離を置き、後進の育成とラルフの教育に力を入れるようになった。平行して戦力を手元に集めるための活動も行った」
ヨハンが前線に全く出てこなくなった理由のひとつであった。
「偉大なる一族にちょっかいを出したのはそれが理由だ。私は偉大なる一族を手元に置こうと考え、実行した。……そして私は敗れ、こうなった」
そこまで言ってヨハンは視線を落とし、口を閉ざした。
全て言い終わったのだろう。
「……」
サイラスは暫し考えた後、剣を振り上げた。
月に照らされた剣身が青白く光る。
瞬間、ヨハンは口を開いた。
「炎の一族と戦うことになったのも、もしかしたら……」
その口から出てきたのは、彼の心にふと湧いた疑惑であった。
「……」
しかしサイラスには沈黙しか返せない。わからないからだ。
黙るサイラスに対しヨハンが再び口を開く。
「……私の話が信じられぬか? ならば後で私の別荘を調べてみるといい。女から渡された紙が書斎の机の中にある」
「……」
これにもサイラスは何の言葉も返さなかった。
「……」
ヨハンの口も動く気配を見せなくなった。
しばらくして、サイラスは剣を振り下ろした。
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田舎貴族の四男のヨナン・グラスホッパーは、貧乏貴族の養子。義理の兄弟達は、全員戦闘系のレアスキル持ちなのに、ヨナンだけ貴族では有り得ない生産スキルの大工スキル。まあ、養子だから仕方が無いんだけど。
だがしかし、タダの生産スキルだと思ってた大工スキルは、じつは超絶物凄いスキルだったのだ。その物凄スキルで、生産しまくって超絶金持ちに。そして、婚約者も出来て幸せ絶頂の時に嵌められて、人生ドン底に。だが、ヨナンは、有り得ない逆転の一手を持っていたのだ。しかも、その有り得ない一手を、本人が全く覚えてなかったのはお約束。
勿論、ヨナンを嵌めた奴らは、全員、ザマー百裂拳で100倍返し!
そんなお話です。
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