上 下
272 / 545
第三章 荒れる聖域。しかしその聖なるは誰がためのものか

第十九話 黄金の林檎(5)

しおりを挟む
   ◆◆◆

 その頃――

 南の森の中で、ヘルハルトは穏やかな時を過ごしていた。
 ヘルハルトの記憶はまだ戻っていなかった。
 もう戻ることは無いのかもしれない、ヘルハルトはそう思い始めていた。
 しかしそれでもいい、ヘルハルトはそう思っていた。
 言葉はまだ少ししかわからないが、村の人達とは問題無くやっていけている。
 農作業ばかりの単純な繰り返しの毎日。
 刺激的なことと言えば、たまに連れて行ってくれる漁や狩りの手伝いの時くらい。
 だが、心が退屈に潰されることは無かった。
 みんな優しいのもあるが、新しい家族と上手くいっていることが理由として大きかった。
 新しい家族は娘と母親と祖父の三人。
 娘の名はハルティナ。母親のほうはイメルダという。
 寝たきりの祖父を二人が世話している。
 ハルティナの父親がいない理由を聞いたことは無い。知りたいと思ったことも無い。
 だが、ハルティナは父の存在を近くに感じているという。自分の中にいるという。だから寂しくないという。
 そしてその頭の中にいるハルティナの父も、自分のことを新しい家族として受け入れているという。
 奇妙な話だが、なぜだか信じることができた。
 そんな娘のハルティナと一緒に今日も朝から農作業をしている。
 つらいと思ったことは無い。
 この娘とイメルダのためにがんばりたい、真剣にそう思えている。
 ヘルハルトの心は充実していた。
 が、一つだけ厄介なことがあった。
 それは、

「……っ」

 時々来るこの頭痛だ。

「どうしたの? また頭痛いの?」

 駆け寄ってこようとするハルティナを「大丈夫だ」と手で制する。
 しかしそれは大丈夫と言える痛みでは無かった。
 この娘を心配させたくない、ただそれだけのやせ我慢。
 だが、その痛みは長く続きそうであった。
 もう何度も経験している。だからわかる。
 痛みがおさまるまでやせ我慢を続けることはできないことも予想がついていた。
 だからヘルハルトは農作業の手を止めて言った。

「ちょっと治療師さんのところに行ってくるよ」

   ◆◆◆

 幸いなことに、治療師はいつものところにいた。
 台の上に体を横たえ、頭を見てもらう。
 間も無く、いつもの『お約束』が始まった。

「……ッ!」

 それはさらなる激痛。
 治療師に見てもらい始めると必ず痛みが増す。
 歯を食いしばらねば耐えられないほどの痛み。
 しかしヘルハルトはここに通い続けている。
 なぜなら、これが終わると痛みがウソのように引き、体も心も軽くなるからだ。
 だからヘルハルトは治療師を信頼していた。
 だが、今日はいつもより痛みが激しい。
 その理由と共に治療師は謝罪を述べた。

「すまないな、今日は痛み止めを切らしてしまっていて。もう少しで終わるから我慢してくれ」

『もう少しで終わる』という部分がウソであることをヘルハルトは分かっていた。
 だが、ヘルハルトは頷きを返した。
 ヘルハルトは黙って痛みに耐えるという選択肢を選んだ。治療師への信頼がそうさせていた。

 だが、ヘルハルトは知らなかった。
 完全に騙されていることに。これは治療では無いことを。

   ◆◆◆

 その夜――

「……」

 夕食を終えた治療師は、疲労感と共に一日を振り返っていた。
 紙巻タバコの煙を吹かし、疲労感を煙と共に吐き出しながら思い返す。
 思い浮かぶのはやはりヘルハルトのことだった。今日の疲労感の原因だからだ。
 ヘルハルトの状態はどんどん悪くなっている。『治療』はだんだん困難になってきている。
 そう思った直後、

「……フッ」

 思わず、治療師の口から吹き捨てるような笑みがこぼれた。
 ヘルハルトにやっていることを『治療』と表現したことがおかしかったからだ。
 治療じゃ無い。ただの破壊だからだ。
 ヘルハルトの脳は回復しようとしている。かつての自分を取り戻そうとしている。
 自分はその邪魔をしているのだ。
 ヘルハルトの頭痛はその破壊によるもの。
 ヘルハルトの脳には大量の種を仕込んでいる。
 脳の神経網が活発化し、再生が始まるとその種が割れる仕組みになっている。
 種の中にあるのはもちろん毒。攻撃的な虫だ。
 しかし最近は種だけでは処置が完了しなくなってきた。自分が直接虫を送り込まないと再生を止められなくなってきた。
 その周期も早くなってきている。最近は三日に一度になった。
 ゆえに、

「……」
 
 治療師にとってヘルハルトは憂鬱の原因の一つになっていた。
 このままだと、いつかはヘルハルトを抑えきれなくなるかもしれない。
 だが、いっそのことそうなったほうがいいのではないか、最近はそう思うようにもなっていた。
 そう思うようになった理由は、もう一つの憂鬱の原因のせいであった。
 治療師は望みをいまだに叶えられていなかった。
 ヘルハルトがかつて使っていたあの作業場をいまだに手に入れられていなかった。
 それどころか、状況はさらに悪化していた。
 作業場を占拠している狂人はさらに数を増やしていた。
 作業場は増築が繰り返され、ちょっとした要塞のようになっている。
 もはや見た目は作業場の雰囲気を残していない。完全に軍事拠点だ。
 しかしやつらはあんなところに拠点を構築してどうするつもりなのか?

「……」

 そこで治療師は思考を切った。
 嫌な予感しか浮かばなかったからだ。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

超常の神剣 タキオン・ソード! ~闘神王列伝Ⅰ~

駿河防人
ファンタジー
 「ちょっと運命的かもとか無駄にときめいたこのあたしの感動は見事に粉砕よッ」  琥珀の瞳に涙を浮かべて言い放つ少女の声が、彼の鼓膜を打つ。  その右手には片刃の長剣が握られていた。  彼は剣士であり傭兵だ。名はダーンという。  アテネ王国の傭兵隊に所属し、現在は、国王陛下の勅命を受けて任務中だった。  その任務の目的の一つ、『消息を絶った同盟国要人の発見保護』を、ここで達成しようとしているのだが……。  ここに至るまで、彼の義理の兄で傭兵隊長のナスカと、その恋人にして聖女と謳われたホーチィニ、弓兵の少女エルと行動を共にしていたが……。紆余曲折あって、ダーンの単独行動となった矢先に、それは起こった。  咄嗟に助けたと思った対象がまさか、探していた人物とは……というよりも、女とは思わなかった。  そんな後悔と右頬に残るヒリヒリした痛みよりも、重厚な存在感として左手に残るあり得ない程の柔らな感覚。  目の前には、視線を向けるだけでも気恥ずかしくなる程の美しさ。  女性の機微は全く通じないし、いつもどこか冷めているような男、アテネ一の朴念仁と謳われた剣士、ダーン。  世界最大の王国の至宝と謳われているが、その可憐さとは裏腹にどこか素直になれない少女ステフ。  理力文明の最盛期、二人が出会ったその日から、彼らの世界は大きく変化していき――琥珀の瞳に宿る想いと追憶が、彼の蒼穹の瞳に封じられていた熱を呼び覚ます。  蒼穹の激情へと至る過程に、彼らの絆と想いが描く軌跡の物語。

異世界のんびりワークライフ ~生産チートを貰ったので好き勝手生きることにします~

樋川カイト
ファンタジー
友人の借金を押し付けられて馬車馬のように働いていた青年、三上彰。 無理がたたって過労死してしまった彼は、神を自称する男から自分の不幸の理由を知らされる。 そのお詫びにとチートスキルとともに異世界へと転生させられた彰は、そこで出会った人々と交流しながら日々を過ごすこととなる。 そんな彼に訪れるのは平和な未来か、はたまた更なる困難か。 色々と吹っ切れてしまった彼にとってその全てはただ人生の彩りになる、のかも知れない……。 ※この作品はカクヨム様でも掲載しています。

恋をした公爵令嬢は貧乏男爵を今度こそ子爵に出世させることにした

kkkkk
恋愛
私の名前はマーガレット・マックスウェル・ウィリアムズ。ヘイズ王国では国王に続く2位の地位にあるウィリアムズ公爵家の長女。 ウィリアムズ公爵家は私が夫を迎えて継ぐ予定なのだけど、公爵令嬢である私は恋をした。貧乏男爵のロベール・ル・ヴァクトに。 公爵家と男爵家には身分の差がある。私がロベールと婚約するためには、今の爵位(男爵)から伯爵くらいまで引き上げないといけない。 私はロベールを子爵にするために『邪魔な子爵を潰す作戦』を実行した。要は、不正を行う貴族を捕まえること。 2人の子爵を逮捕することに成功した私。子爵をもう1人逮捕できればロベールを子爵にすることができる、とヘイズ王と約束した。 だから、今度こそはロベールを子爵にする! この物語は、私が恋したロベールを、私の婚約者として外野から文句が言われないくらいまで出世させていく話。 ※物語の都合上、時代設定は近代〜現代にしています(一部異なる部分もあります)。一般的な令嬢ものと設定が異なりますので、ご了承下さい。 なお、この物語は『恋をした公爵令嬢は貧乏男爵を出世させることにした』および『恋をした公爵令嬢は貧乏男爵を子爵に出世させることにした』の続編です。前作を読まなくても分かるように書いていますので、特に前作から読んでいただく必要はありません。 前作に興味のある方は下記をご覧下さい。 『恋をした公爵令嬢は貧乏男爵を出世させることにした』 https://www.alphapolis.co.jp/novel/904259942/719752371 『恋をした公爵令嬢は貧乏男爵を子爵に出世させることにした』 https://www.alphapolis.co.jp/novel/904259942/965804448

黒髪の死霊術師と金髪の剣士

河内 祐
ファンタジー
没落貴族の三男、根暗な性格の青年のカレルは神から能力が与えられる“成人の儀”で二つの能力が授けられる。 しかし、その能力は『死霊術』『黒魔術』と言うこの世から疎まれている能力だった。 貴族の体面を気にする父の所為で追い出されたカレル。 屋敷を出て行ったカレルは途中、怪物に襲われるがある女性に助けられる。 その女性は将来の夢は冒険者の団体……クランを創り上げ世界一になること。 カレルはその女性と共にクラン造りに協力する事になり……。

ラグナ・リインカーネイション

九条 蓮
ファンタジー
高校二年生の海堂翼は、夏休みに幼馴染と彼女の姉と共に江の島に遊びに行く途中、トラックの事故に巻き込まれてしまい命を落としてしまう。 だが彼は異世界ルナティールに転生し、ロベルト・エルヴェシウスとして生を受け騎士団員として第二の人生を歩んでいた。 やがてロベルトは18歳の誕生日を迎え、父から貰ったプレゼントの力に導かれてこの世界の女神アリシアと出会う。 彼女曰く、自分は邪悪なる者に力を奪われてしまい、このままでは厄災が訪れてしまうとのこと。 そしてアリシアはロベルトに「ラグナ」と呼ばれる力を最期に託し、邪悪なる者から力を取り戻してほしいとお願いして力尽きた。 「邪悪なる者」とは何者か、「厄災」とは何か。 今ここに、ラグナと呼ばれる神の力を持つ転生者たちの、旅路の記録をここに残そう。 現在なろうにおいても掲載中です。 ある程度したら不定期更新に切り替えます。

異世界に転生したのでとりあえず好き勝手生きる事にしました

おすし
ファンタジー
買い物の帰り道、神の争いに巻き込まれ命を落とした高校生・桐生 蓮。お詫びとして、神の加護を受け異世界の貴族の次男として転生するが、転生した身はとんでもない加護を受けていて?!転生前のアニメの知識を使い、2度目の人生を好きに生きる少年の王道物語。 ※バトル・ほのぼの・街づくり・アホ・ハッピー・シリアス等色々ありです。頭空っぽにして読めるかもです。 ※作者は初心者で初投稿なので、優しい目で見てやってください(´・ω・) 更新はめっちゃ不定期です。 ※他の作品出すのいや!というかたは、回れ右の方がいいかもです。

異世界転生したのだけれど。〜チート隠して、目指せ! のんびり冒険者 (仮)

ひなた
ファンタジー
…どうやら私、神様のミスで死んだようです。 流行りの異世界転生?と内心(神様にモロバレしてたけど)わくわくしてたら案の定! 剣と魔法のファンタジー世界に転生することに。 せっかくだからと魔力多めにもらったら、多すぎた!? オマケに最後の最後にまたもや神様がミス! 世界で自分しかいない特殊個体の猫獣人に なっちゃって!? 規格外すぎて親に捨てられ早2年経ちました。 ……路上生活、そろそろやめたいと思います。 異世界転生わくわくしてたけど ちょっとだけ神様恨みそう。 脱路上生活!がしたかっただけなのに なんで無双してるんだ私???

異世界でゆるゆるスローライフ!~小さな波乱とチートを添えて~

イノナかノかワズ
ファンタジー
 助けて、刺されて、死亡した主人公。神様に会ったりなんやかんやあったけど、社畜だった前世から一転、ゆるいスローライフを送る……筈であるが、そこは知識チートと能力チートを持った主人公。波乱に巻き込まれたりしそうになるが、そこはのんびり暮らしたいと持っている主人公。波乱に逆らい、世界に名が知れ渡ることはなくなり、知る人ぞ知る感じに収まる。まぁ、それは置いといて、主人公の新たな人生は、温かな家族とのんびりした自然、そしてちょっとした研究生活が彩りを与え、幸せに溢れています。  *話はとてもゆっくりに進みます。また、序盤はややこしい設定が多々あるので、流しても構いません。  *他の小説や漫画、ゲームの影響が見え隠れします。作者の願望も見え隠れします。ご了承下さい。  *頑張って週一で投稿しますが、基本不定期です。  *無断転載、無断翻訳を禁止します。   小説家になろうにて先行公開中です。主にそっちを優先して投稿します。 カクヨムにても公開しています。 更新は不定期です。

処理中です...