夢巡

茶竹抹茶竹

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5章『The Brander』

19話「泡沫」

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 周囲の建物の入口へ、隙間の路地へ、地下鉄への入口へ、洪水は盛んに流れ込んでいく。奔流は塊であるかのように暴れまわっている。足を止めれば直ぐに追いつかれるのは間違いない。
「麻木、あの少女を追います。位置情報を捕捉出来ますか」
「出来てるけど、それより洪水に巻き込まれないでよ」
「最悪の場合、泳ぎ方も指示してください」
「冗談でしょ」
 追跡する私の姿を認識してか、少女は空中を蹴った。見えない壁を蹴るかのような動き。ほぼ垂直に勢いよく跳んでいく。宇宙飛行士が無重力下で自在に移動している映像を連想した。
 しかし少女の夢によって事象化した奇跡にも、高度と飛行速度の限界が存在するらしい。全速力で追えば姿を見失うほどではない。
 街中で短機関銃を抱えて全力で走る私の姿に周囲の通行人は驚き足を止め、そして次いで迫ってくる水の奔流に初めて気が付き悲鳴を上げた。そのまま悲鳴は水音に呑み込まれ圧し潰されていく。
 あの洪水は私には止めようがない。
 だからこそ。
 少々手荒な手段を私は選択する。
 少女が空中で軌道を変えようとした隙を狙って私は短機関銃を構える。
 少女は重力の影響を無視して空中にいる。飛行の際の推進力は脚力だ。私には観測出来ない見えない壁を空中に生成し、それを蹴ることで移動している。何らかの外部装置やその背に翼があって揚力を得ているわけでもない。
 少女は空中を泳いでいるのだ。不可思議な光景でも、そこには何らかの法則が存在している。悪夢の様でありながら整然とした夢。
 蹴り足の方向で進行方向は予測出来る。
 当てないように狙いを定め、進行方向の先に存在する高層ビルの壁面を狙って撃った。その行く手を阻む為だ。弾丸が飛翔すると金糸のような光の跡を描く。
 跳ね上がる銃身を無理やりに抑え込む。銃の激しい反動を鮮明に認識する。
 弾丸に破られた窓の破片が飛び散る。銃声を聞いた少女が咄嗟に空中を蹴った。空中で身を捻り翻し、射線から逃れるために宙を舞う。それを追って照準を合わせ直す。続けて発砲する。
 追い立てられるようにして少女は地面へ向けて急降下した。
 予想外の動きに私は手を止める。
 私の脳裏に浮かんだのは地表に激しく叩きつけられる少女の光景であった。
 だが、そうはならなかった。
 落ちてきた少女が地面に触れた瞬間、地面は水面を打つように柔らかく揺れた。硬い地面が液体に変化してしまったかのように少女は飛び込み、地面の下にその姿を消す。足元は舗装された道路、その表面には隙間も穴も存在しない。
 少女の存在が消失した。
 現実世界で覚醒した際、通信が途絶えることで夢の世界の身体は光の粒子となって消える。通信のごく僅かな遅延によって生じた情報の相違性が事象の残滓を生じさせるからだ。だが、少女の消え方はそれとは違う。地面を通り抜けたかのように振る舞い、一瞬で姿を消した。
 そんな筈があるかと私は麻木を呼ぶ。 
「麻木、目標を見失いました。現実世界で覚醒した時の消え方じゃない、どこかにまだいる筈です!」
「古澄ちゃんの足元で位置情報は途絶えてる。でも通信が途絶したわけじゃない」
「どういうことですか」
「存在はしてるんだよ」
「ですが姿はどこにも確認できません」
「まさか階層が違うのかも。あの子、世界の裏側に潜り込んだってこと?」
「どういう意味ですか」
「仮想空間を創るときに、管理者領域にアクセスできるように抜け穴は仕込むことはあるけど、そんな都合よくその場所に来れるはずが……、そもそも地面のテクスチャを貫通したところで新宿の地下構造物とぶつかるわけだし。直下にオブジェクトが存在しない空白部分に抜け穴が造れるとか?」」
「麻木?」
「あの子は多分、仮想世界として定義された場所の裏側にいるんだ」
「オブジェクトの裏側に入り込んだということですか。そんな致命的なバグがあるとは、今まで確認できていません」
「ううん、違う。多分あの子がいるのは管理者領域」
 麻木の言葉の意味を理解した。
 目に映る景色や物質や事象の全ては、電子神経を介して脳がそう認識できるように設定されているデータでしかない。
 私達が今立っているこの場所も地面だと認識出来るデータで、私達がここに立っているのは仮想世界の文法によって地面であると定義されているからだ。世界は無限ではなく私達が世界として認識できる領域とその境界線が存在している。
 仮想世界を成立させる為のプログラムが存在する管理者領域もまた、仮想空間内部に存在し隣接している。ウェブアプリケーションそのものを、フルダイブによって知覚し操作できるようになったからだ。
 それはいわば世界の外、世界の裏側。仮想空間において私達が認識できる「世界」として設定された領域の外側に、少女は逃げ込んだということだ。
 その事実に麻木が声を絞り出す。
「あたし達は夢の世界を事象としてしか観測出来ない。仕組みは分かっていても、あたし達は境界線の外側へは踏み込めない。あたし達に提供されているのは設定された領域を世界として認識する為のデータだけだから。仮にその地面を掘り返してみても世界の裏側に通じているわけじゃない」
「ですが、あの少女はこの地面の下に存在していると」
「あの子は仮想世界の裏側に踏み込んだんだよ、いとも簡単に。あの子は管理者領域に入り込む権限を持ってるんだ」
 背後から迫っていた濁流が足を止めた私を呑み込んでいった。
 水中の瓦礫が私の身体を押し退ける。全身が水底へと沈み、猛り狂った水流が身体を持ち上げる。視界が乱れ景色が反転する中で上下の感覚を失いそうになる。もがいても流れに逆らうことは出来ず後頭部を水底にぶつけた。瓦礫も人も車も七色に光る操縦桿も分厚い手裏剣で出来た靴も紐状の毛布も溶けた蒸留酒の瓶も全ては水に流れていく。
 混沌とした景色に私は目を閉じる。
 世界との接続が途切れる瞬間、麻木の声が脳内で響く。
「夢の世界を創ったのは、あの子かもしれない」
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