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彼の本心
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「…こうやって毎日会ってるけど」
「カルミアと一時でも離れたくないんだよ。君と離れると、胸が空っぽになったみたいなどうしようもない気持ちになるんだ。……俺の部屋で囲まれる気はない?」
「何度も言ってるけど僕はこの部屋が好きなんだよ。ここは庭園がよく見える。それに日当たりだっていい。そもそもギルの部屋に移ったら、この宮殿はどうなるの?財政の無駄遣いも良いところだよ」
カルミアが暮らしているこの部屋は、王宮の離れにひっそりと佇む離宮の中にある。この宮殿は、ギルバートの別邸という名目で建てられた。正確には、カルミアを監禁するために建てられた宮だったわけだが。
クロエを含めた数人の使用人と、信頼の置ける騎士達しか住む事を許されていない。王子や王女、王国の重要な役職を任されている要人ですら、周囲の立ち入りを禁じられている。
カルミアはどうしてもギルバートの部屋に移る気になれなかった。 隅々まで歩けば息が上がる程カルミアの部屋も広いが、ギルバートの部屋はその比ではないのだろう。 窮屈とは程遠いが、広すぎる空間はどうも落ち着かない。正直に言えば、この部屋だってあと半分は縮めてくれても構わなかった。ギルバートの許可さえ貰えれば、クロエの部屋の隣に移りたいくらいだ。クロエ曰く、使用人の部屋は機能性を重視した小さな部屋らしい。
それに彼の部屋に移ったら、ギルバートが職務に励んでいる以外の時間はずっと一緒になるだろう。ギルバートは歓迎だろうが、カルミアは就寝間際のあの癒しの時間も失われる、と思うと是が非でも阻止したい気持ちだった。まぁ、心配しなくても、この国が身分社会である以上、この国の要人がそれを許してくれないだろうが。
話をすり替えるように、カルミアは別の話題を振った。
「ギル、何か欲しい物はない?僕に出来る事は限られてるけど、褒美があれば、人は何でも頑張れるだろ?なんでも好きな事を言ってみて」
「…褒美」
ギルバートは顔を上げた。僅かに口元を綻ばせたその表情は、何か企んでいるようにも見える。
「なんでもいいの?」
「まぁね」
「――じゃあカルミアが欲しい」
「…ギル。それは褒美なの?」
褒美も何も、カルミアはギルバートの所有物。彼が求めれば、拒むことは出来ない。褒美とは、日常では味わえない特別な事を言うのだろう。普段も存分に味わえるものの何が褒美なのだろう。カルミアは理解に苦しんでいた。
「…ん」
ギルバートは、小さな音を立てて、カルミアの唇に触れるだけのキスを落とした。温かな感触が唇を掠める。
まるで愛おしい物を見るようなギルバートの眼差しに、カルミアはこそばゆい気持ちになって、顔を背けた。
「これ以上ない褒美だよ。俺にはカルミア以上に特別なものなんてないんだから」
「…とく、べつ」
(ギルは僕の事をどう思っているのだろう。大切にされているのは分かってる。贔屓してくれているのも。そうでなかったらとっくの昔に、僕はお払い箱にされてる)
――でもギルバートの愛は、本当の愛ではない。
カルミアは俯き、唇を強く噛んだ 。
アーダルベルト王国は、同性愛が認められている国だった。前世の長谷川樹が暮らす日本では考えられない事だが、これといって偏見もない。一夫多妻制で、貴族の中には男の妃や側室が多くいる。カルミアが十五年間身を置いていた娼館にも、男娼と言われる存在が多くいた。見目さえ良ければ、女だけでなく男も性の対象にこの国はなるのだ。
この国では位の高い存在であればあるほど、妾を持つ。館に通うのは、妾も持てない低位の者、というのがこの国の認識だ。
ギルバートは一国の王太子。僕をこの城に置いている理由は、言わば、性を吐きだすための道楽だからだ。それがカルミアの認識だった。
(ギルバートは僕を道具としか思ってない。足枷をつけて繋いでおくのだって、他人に大切な玩具を取られたくないからだ。思わせぶりな態度をいくらギルバートがしようとも関係ない。勘違いするな)
カルミアは自分に言い聞かせるように、何度も心の中で繰り返した。
「…じゃあ今夜、体を清めて待ってるよ」
「日を越すまでには必ず行くよ」
再び右胸に手を持ってきて、小さく頭を下げると、ギルバートは優しそうに微笑んで、カルミアの頭を撫でた。
「――ギルバート様」
砂糖菓子のように甘ったるい空気を仲裁するように、クロエの冷たい声が響き渡る。
二人分の視線がクロエに向く。朝食の用意を済ませたクロエが、両手を腹の前で重ねて、長いテーブルの横で立っていた。
刺繍が施されたクロスの敷かれたテーブルは、二人用の豪華な朝食があしらわれている。カルミアとクロエの分だ。
「カルミア様はまだ朝食を済まされておりません。朝食が冷めてしまいますので、お話は食事の後になさってください」
「…カルミア、俺も一緒に食べていいかな。実は忙しくてまだ済ませてないんだ。それに今は少しでも長く君と居たい」
「...クロエ、用意出来る?」
「既にご用意が出来ております。お席にお掛けください」
本来、その朝食はクロエの分だった。
しかし爵位のない使用人が王太子と食事の席を共にするなんて、前代未聞。クロエは身分を弁えているのだろう。
(僕だって爵位もないし、娼館を営む両親の間で生まれた賤しい人間なんだけど。
ろくな生き方だってしてないし。王太子と食事を共にしていい身分じゃないんだけどな)
しかし命を拾われた所有物は、主人の頼みを背くことは出来ない。
ごめん、お昼は一緒に食べよう。と目でクロエに伝えると、クロエは気にしないで下さい、という様に首を横に振った。
カルミアはいつも座っている定位置に腰を掛けた。向かい側の席にギルバートの朝食が広げられているのだが、何故かギルバートはカルミアの隣に座った。頬杖を打ち、楽しそうにカルミアの横顔を見つめている。
今日の朝食は野菜の煮込まれたスープに、チーズの入ったふわふわのオムレツ。ワインで煮込まれた牛頬肉に色とりどりのサラダ。それからテーブルの中央には、ケーキスタンドが置いてある。上段には、宝石のようなケーキが幾つも飾ってあり、下段はバターが練り込まれたクロワッサンや、ジャムのついたスコーン、具材の詰まったサンドウィッチで敷き詰められている。食の細いカルミアには到底食べきれない量だが、見ているのが楽しくなるような煌びやかさだ。クロエが淹れてくれた紅茶のいい香りが立ち込める。
前世の樹の癖で、胸の前で両手を合わせて、食べ始める。最初に手を付けたのは、スープだった。野菜の甘みが優しく舌に染み渡る。母親の手料理はこういう感じなのだろうか。温かい感情が胸に広がって、小さく息を吐いた。
「…美味しい」
「カルミア様は、甘い味付けを好まれますからね。実は蜂蜜を隠し味に加えているのですよ」
厨房の料理人に一任すればいいのに、何故かクロエは料理を自ら作り、カルミアに食べさせたがる。朝から晩までカルミアの世話に王城の掃除、衣類やリネンの洗濯に茶葉や珈琲豆の買い出し。クロエはいつも忙しそうだ。その上、寝る間を惜しんで料理までしている。三時のティータイムに出るおやつですら、クロエ作だ。カルミアはクロエの体が心配だった。
クロエに料理なんてしなくてもいいんだよ、と休ませたい一心で言ってみても、断固として首を縦に振らない。楽しみのない生活の中で、せめてカルミア好みの美味しい食事を食べて欲しい、という彼女なりの気遣いなのだろう。
クロワッサンを口に運ぼうとケーキスタンドに手を伸ばす。すると遮られるように、唇に何かを押し付けられた。視線を落とすと、それは一口大のスコーンだった。押し付けている人物はやはりギルバート。何が楽しいのか、当の本人はニコニコと満面の笑みを浮かべている。
「…ギル。僕は一人で食べられるよ。もう子供じゃないんだから。それにギルだって早く食べないと冷めるよ」
「俺が食べさせたいからこうしてるんだよ。ほら、食べて」
さらに強く押し付けられる。一度言い出したら誰が何を言っても聞かないと知っているカルミアは、おずおずと口を開いてスコーンを含んだ。甘い苺ジャムの風味が口内に拡がる。兎のようにもぐもぐと可愛らしく咀嚼しているカルミアを、ギルバートは優しい眼差しで見つめている。
「次は何が食べたい?」
「…オムレツ」
ギルバートはオムレツをナイフで小さく切り、カルミアの口に運んだ。その姿はさながら親鳥のようだ。次々と運ばれるオムレツに、カルミアは一生懸命口を動かして、嚥下する。悠長に味を堪能している暇なんてない。オムレツの最後の一欠けらまで飲み下すと、カルミアはテーブルの上の折り畳まれたナプキンを手にとって口を拭いた。
「ギルさぁ。こんな鳥のような真似をして楽しい?」
「楽しいよ。俺がいないと何も出来ないくらい、カルミアが俺に依存すればいいなってずっと前から思っていたんだ。...そうだ。今度から着替えも、食事も、風呂も、全部俺が手を貸すよ。」
「…いい加減にしろよ。ギルは、僕をペットか何かだと思っているだろ。僕を縛り上げて、自由を奪って。その上、人間の尊厳まで奪おうとするなんて冗談じゃない!!」
カルミアは憤慨した。手にしていたナプキンをぐしゃりと握り潰す。
唇を噛みしめながら睨みつけると、ギルバートは大きく目を見開いた。温厚な子猫が飼い主に爪をを立てたことに驚いたのだろう。
「...ペットじゃない」
ギルバートは手にしていた銀のフォークをテーブルの上に置いた。そして悲しそうに赤栗色の睫を伏せ、カルミアから視線を逸らした。
「ペットなんて思ったこともない」
「じゃあ、僕はギルにとって何なの?…分からないだよ。僕とギルはどういう関係なのか。――ギルが本当は僕をどう思っているのか」
相手の呼吸が筒抜けになる程の静寂が包む。時計の秒針の音だけがやけに耳につく。
カルミアは、自分の心の中を渦巻くこの感情が何なのか分からず、困惑していた。
(最近の僕は変だ。ギルバートとの関係に変に名前をつけたがる。ギルバートが僕をどう思ってるかやけに気になる。僕は一体どうしたのだろう…。これじゃあまるで…)
ーーギルバートに恋をしてるみたいじゃないか。
『俺の名前はギルバート。何処にも行く宛がないのなら、俺の元においでよ』
過去の記憶が走馬灯のように甦る。
ギルバートに拾われたあの日。
命を救われたカルミアは、ギルバートによって王城に連れ込まれた。当時のカルミアは見るにも絶えない状況だった。手足に広がる火傷の痕。枝のように細い体。意識も朦朧としていて、一人で歩く事すらままならない。誰もが死を彷彿とさせる程、弱りきっていた。
ギルバートはそんなカルミアを、王宮の客間に置いた。食事を与え、火傷の治療を施し、 懸命に世話をした。半月が経った頃、カルミアはすっかり元通りになっていた。火傷の痕も、見る影もないくらいに薄れた。骨も浮き出なくなった。
あの頃のカルミアは、心底からギルバートに尊敬と信頼を寄せていた。ギルバートは一国の王太子。どこぞの馬の骨とも知らない子供を匿うのは、さぞ大変だっただろう。周囲に強く反対されたはずだ。
見返りも求めず、無償の愛を注いでくれるギルバート。ギルバートの目は何時だって優しい。娼館で見てきたような、欲情に塗れた男達の目とは全然違う。過去の境遇から人間不信に陥っていたカルミアにとって、ギルバートは暗闇に射す一筋の光のようだった。
ーーそんなカルミアの想いを裏切ったのは、ギルバートだった。
きっかけは腹違いの兄であり、王位継承権第二位のヨハン・コロンビーナが、カルミアの元に訪れた事だった。当時の王宮では、カルミアの噂が蔓延していた。
”次期国王のギルバートが、絶世の美貌を持つ少女を妃にしようとしている”と。当時のカルミアは胸下まで髪が伸びていて、一見少女のようにも見えた。おそらく王宮に連れられた際に、カルミアを遠目で見た者がそのような噂を流したのだろう。
王城は、様々な思惑と欲望が渦巻く場所だ。己こそが妃になろうと目論む者、次期国王のギルバートを取り入れたい者、ギルバートの即位を阻止したい者 。そんな奴らにとって、カルミアは恰好の的だった。ギルバートはカルミアを匿い、強欲な人間達から遠ざけるようにして守っていた。
しかしギルバートが一番危惧している人物が、ヨハンだった。
本来、王位継承権は第一子であるヨハンが継承するはずだった。
けれど”あんな事”があってせいで、ヨハンは継承権を手放ざる負えなかった。ヨハンは国王の座に執着している。
ヨハンは間違いなくカルミアに接触するだろう。ギルバートから寵愛を受けたカルミアを人質に取り、王位を譲れと揺さぶりをかけるはずだ。愛は時に足枷となる事を、ヨハンは知っていた。思惑通り、ヨハンはカルミアに接触した。
「カルミアと一時でも離れたくないんだよ。君と離れると、胸が空っぽになったみたいなどうしようもない気持ちになるんだ。……俺の部屋で囲まれる気はない?」
「何度も言ってるけど僕はこの部屋が好きなんだよ。ここは庭園がよく見える。それに日当たりだっていい。そもそもギルの部屋に移ったら、この宮殿はどうなるの?財政の無駄遣いも良いところだよ」
カルミアが暮らしているこの部屋は、王宮の離れにひっそりと佇む離宮の中にある。この宮殿は、ギルバートの別邸という名目で建てられた。正確には、カルミアを監禁するために建てられた宮だったわけだが。
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話をすり替えるように、カルミアは別の話題を振った。
「ギル、何か欲しい物はない?僕に出来る事は限られてるけど、褒美があれば、人は何でも頑張れるだろ?なんでも好きな事を言ってみて」
「…褒美」
ギルバートは顔を上げた。僅かに口元を綻ばせたその表情は、何か企んでいるようにも見える。
「なんでもいいの?」
「まぁね」
「――じゃあカルミアが欲しい」
「…ギル。それは褒美なの?」
褒美も何も、カルミアはギルバートの所有物。彼が求めれば、拒むことは出来ない。褒美とは、日常では味わえない特別な事を言うのだろう。普段も存分に味わえるものの何が褒美なのだろう。カルミアは理解に苦しんでいた。
「…ん」
ギルバートは、小さな音を立てて、カルミアの唇に触れるだけのキスを落とした。温かな感触が唇を掠める。
まるで愛おしい物を見るようなギルバートの眼差しに、カルミアはこそばゆい気持ちになって、顔を背けた。
「これ以上ない褒美だよ。俺にはカルミア以上に特別なものなんてないんだから」
「…とく、べつ」
(ギルは僕の事をどう思っているのだろう。大切にされているのは分かってる。贔屓してくれているのも。そうでなかったらとっくの昔に、僕はお払い箱にされてる)
――でもギルバートの愛は、本当の愛ではない。
カルミアは俯き、唇を強く噛んだ 。
アーダルベルト王国は、同性愛が認められている国だった。前世の長谷川樹が暮らす日本では考えられない事だが、これといって偏見もない。一夫多妻制で、貴族の中には男の妃や側室が多くいる。カルミアが十五年間身を置いていた娼館にも、男娼と言われる存在が多くいた。見目さえ良ければ、女だけでなく男も性の対象にこの国はなるのだ。
この国では位の高い存在であればあるほど、妾を持つ。館に通うのは、妾も持てない低位の者、というのがこの国の認識だ。
ギルバートは一国の王太子。僕をこの城に置いている理由は、言わば、性を吐きだすための道楽だからだ。それがカルミアの認識だった。
(ギルバートは僕を道具としか思ってない。足枷をつけて繋いでおくのだって、他人に大切な玩具を取られたくないからだ。思わせぶりな態度をいくらギルバートがしようとも関係ない。勘違いするな)
カルミアは自分に言い聞かせるように、何度も心の中で繰り返した。
「…じゃあ今夜、体を清めて待ってるよ」
「日を越すまでには必ず行くよ」
再び右胸に手を持ってきて、小さく頭を下げると、ギルバートは優しそうに微笑んで、カルミアの頭を撫でた。
「――ギルバート様」
砂糖菓子のように甘ったるい空気を仲裁するように、クロエの冷たい声が響き渡る。
二人分の視線がクロエに向く。朝食の用意を済ませたクロエが、両手を腹の前で重ねて、長いテーブルの横で立っていた。
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「カルミア様はまだ朝食を済まされておりません。朝食が冷めてしまいますので、お話は食事の後になさってください」
「…カルミア、俺も一緒に食べていいかな。実は忙しくてまだ済ませてないんだ。それに今は少しでも長く君と居たい」
「...クロエ、用意出来る?」
「既にご用意が出来ております。お席にお掛けください」
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しかし爵位のない使用人が王太子と食事の席を共にするなんて、前代未聞。クロエは身分を弁えているのだろう。
(僕だって爵位もないし、娼館を営む両親の間で生まれた賤しい人間なんだけど。
ろくな生き方だってしてないし。王太子と食事を共にしていい身分じゃないんだけどな)
しかし命を拾われた所有物は、主人の頼みを背くことは出来ない。
ごめん、お昼は一緒に食べよう。と目でクロエに伝えると、クロエは気にしないで下さい、という様に首を横に振った。
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今日の朝食は野菜の煮込まれたスープに、チーズの入ったふわふわのオムレツ。ワインで煮込まれた牛頬肉に色とりどりのサラダ。それからテーブルの中央には、ケーキスタンドが置いてある。上段には、宝石のようなケーキが幾つも飾ってあり、下段はバターが練り込まれたクロワッサンや、ジャムのついたスコーン、具材の詰まったサンドウィッチで敷き詰められている。食の細いカルミアには到底食べきれない量だが、見ているのが楽しくなるような煌びやかさだ。クロエが淹れてくれた紅茶のいい香りが立ち込める。
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「…美味しい」
「カルミア様は、甘い味付けを好まれますからね。実は蜂蜜を隠し味に加えているのですよ」
厨房の料理人に一任すればいいのに、何故かクロエは料理を自ら作り、カルミアに食べさせたがる。朝から晩までカルミアの世話に王城の掃除、衣類やリネンの洗濯に茶葉や珈琲豆の買い出し。クロエはいつも忙しそうだ。その上、寝る間を惜しんで料理までしている。三時のティータイムに出るおやつですら、クロエ作だ。カルミアはクロエの体が心配だった。
クロエに料理なんてしなくてもいいんだよ、と休ませたい一心で言ってみても、断固として首を縦に振らない。楽しみのない生活の中で、せめてカルミア好みの美味しい食事を食べて欲しい、という彼女なりの気遣いなのだろう。
クロワッサンを口に運ぼうとケーキスタンドに手を伸ばす。すると遮られるように、唇に何かを押し付けられた。視線を落とすと、それは一口大のスコーンだった。押し付けている人物はやはりギルバート。何が楽しいのか、当の本人はニコニコと満面の笑みを浮かべている。
「…ギル。僕は一人で食べられるよ。もう子供じゃないんだから。それにギルだって早く食べないと冷めるよ」
「俺が食べさせたいからこうしてるんだよ。ほら、食べて」
さらに強く押し付けられる。一度言い出したら誰が何を言っても聞かないと知っているカルミアは、おずおずと口を開いてスコーンを含んだ。甘い苺ジャムの風味が口内に拡がる。兎のようにもぐもぐと可愛らしく咀嚼しているカルミアを、ギルバートは優しい眼差しで見つめている。
「次は何が食べたい?」
「…オムレツ」
ギルバートはオムレツをナイフで小さく切り、カルミアの口に運んだ。その姿はさながら親鳥のようだ。次々と運ばれるオムレツに、カルミアは一生懸命口を動かして、嚥下する。悠長に味を堪能している暇なんてない。オムレツの最後の一欠けらまで飲み下すと、カルミアはテーブルの上の折り畳まれたナプキンを手にとって口を拭いた。
「ギルさぁ。こんな鳥のような真似をして楽しい?」
「楽しいよ。俺がいないと何も出来ないくらい、カルミアが俺に依存すればいいなってずっと前から思っていたんだ。...そうだ。今度から着替えも、食事も、風呂も、全部俺が手を貸すよ。」
「…いい加減にしろよ。ギルは、僕をペットか何かだと思っているだろ。僕を縛り上げて、自由を奪って。その上、人間の尊厳まで奪おうとするなんて冗談じゃない!!」
カルミアは憤慨した。手にしていたナプキンをぐしゃりと握り潰す。
唇を噛みしめながら睨みつけると、ギルバートは大きく目を見開いた。温厚な子猫が飼い主に爪をを立てたことに驚いたのだろう。
「...ペットじゃない」
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「じゃあ、僕はギルにとって何なの?…分からないだよ。僕とギルはどういう関係なのか。――ギルが本当は僕をどう思っているのか」
相手の呼吸が筒抜けになる程の静寂が包む。時計の秒針の音だけがやけに耳につく。
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ギルバートはそんなカルミアを、王宮の客間に置いた。食事を与え、火傷の治療を施し、 懸命に世話をした。半月が経った頃、カルミアはすっかり元通りになっていた。火傷の痕も、見る影もないくらいに薄れた。骨も浮き出なくなった。
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見返りも求めず、無償の愛を注いでくれるギルバート。ギルバートの目は何時だって優しい。娼館で見てきたような、欲情に塗れた男達の目とは全然違う。過去の境遇から人間不信に陥っていたカルミアにとって、ギルバートは暗闇に射す一筋の光のようだった。
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