芋虫(完結)

毛蟹葵葉

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 私達の関係は、割れて尖ったガラスが波によってゆっくりとなだらかな形になっていくように変化していった。
 考えてみれば最初から何でもできる柏木の事をとても警戒していた。しかし、その人柄は私の心の角をゆっくりとなだらかにさせていったのかもしれない。
 『引継ぎ』で仕事の内容をより確認する事が多くなると共に、私達は親密になっていった。
 そう、柏木とはいい友達だった。今ならはっきりと言える。会社の中で私と一番仲がいいのは彼だと。

「はぁ、言いたくない」

 私は柏木と一緒にお弁当をつついていた。
 あの休み明けから柏木は手作り弁当を持ってくるようになり、一緒にお昼を食べていた。
 9月がそろそろ終わる。時間が経過するのが遅いような早いような不思議な気分だ。
 代わり映えのない毎日だったせいで、何をしていたのかあまり記憶はない。
 ただ、一日が早く終わることばかり考えていた気がする。
 休みの消化のために私は11月から会社に来ない。遅くても10月の始めに同僚に退職の旨を伝えないといけなかった。

「いくらなんでも、その日に『辞めます!』なんて言って辞めたら人としてどうかと思いますよ」

 柏木は筋を通すタイプの人間なので、そんな我が儘を言った私を冷たい目で見て言った。前よりも言葉に容赦はない。

「柏木くん冷たい」
「だってそうでしょ?」

 私が柏木を非難しても彼はとても涼しい顔をしていた。

「分かってるけど、変に気を使われるのが嫌なのよね」

 私が困ったように苦笑すると柏木も納得顔をした。

「わからなくはないですけどね」

「余計な詮索をされそうだし」

「その辺はうまく逃げるしかないですね。頑張って!」

 私は話を逸らしたりするのが苦手だ。そもそも、口下手もいいところなのだ。
 そこまで詮索好きな人はいないと思うけれどしつこく聞かれるかもしれない。それが困るのだ。

「柏木くんは私が居なくなっても大丈夫だけど」

「大丈夫じゃないですよ!僕、主任なんて向いてないですよ」

 柏木は私の大丈夫という言葉に過敏に反応した。
しかし、適任者は彼しか居なくて『どうしようもないじゃない』と私は思った。

「とてもそつなくこなしてると思うわよ?柏木くんにしか任せられないし」

 私なりに励ましてみるが逆効果だったらしく、ムスッとした顔は継続していた。

「どの口が言います?今日は水津ぶん殴りそうになりましたよ」

 柏木の口から水津の名前が出てきて、私は思わず嫌な汗をかいた。
 彼とはただの同僚の関係に戻っている。もう、何もないと思っていたのに、こんなふうに反応するなんて本当に私は……。忘れられていないのだと改めて思い知る。
 しかし、殴りそうになったという物騒な言葉に私はすぐに現実に戻った。
 柏木と仲が良くなって改めて思ったのは、意外と気が短い事だった。しかし、それがかえって親しみを持てた。誰にでも欠点があるのだと思えて。

「……あのね」

 それはダメよ。と言おうとしたが柏木がさらに話続けた。

「本当に何なんですかアイツ急に態度悪くなって」

 引き継ぎの影響で柏木と二人きりで話す場面が多くなったからなのか、坊主憎けりゃ袈裟まで憎いってやつなのだろう。
 本当に大人げない。水津もそれを相手にして怒る柏木も。
 それなのに、そんな事をしていたのに私は全く気が付かなかった。

「そ、そうなの?」

「凛子さん鈍いから気が付かないですよね~」

 柏木はじっとりと私を睨み付けきた。

「僕はすぐに気がついたのに、注意もしたのに……」と口を尖らせてそっぽを向いてしまった。

「本当にアイツ陰湿。さっさと本社に戻れっての……」

 彼は吐き捨てるように水津の事を言う。
 水津は何をやったのだろう。柏木の怒りっぷりを見ているとかなり酷い態度のようだ。

「落ち着いて、ね?」

 私が柏木を慰めるように背中をそっと撫でると、彼は机に突っ伏して。少しどころかかなりの絶望的な声で呟く。

「凛子さん居なくなったら僕死んじゃう。社会的に」

 社会的に死ぬとはなんだろう。おそらく、殴るとかボコボコにするとか、ひっぱたくとか、自転車で轢くとか、ドラム缶に詰めて海に沈めるとかそういう系な事をだろうか。

「それだけはやめて」

 私はゾッとして彼をたしなめると、「だから……」と情けない声で話が始まった。

「本当に愚痴だけでもいいから聞いてくださいよ……」

 柏木に情けない顔で頼まれると嫌とはいえなかった。

「もちろん」

 嫌な予感がするなと思いながら、私は柏木の口を聞くという約束をしてしまった。
 そして、ついに私が退職をする旨を伝える日がついに来た。
 月始めの朝の挨拶を終えて、私は口火を切る。

「伝えたい事があります」

 何を言い出すのだろう?とみんなのざわつきを感じながら私はその先を言った。

「私は12月の最終日に退職します。代休と有給の関係で今月の最終日から仕事には来ません。あと、少しですが、よろしくお願いします」

 私が深々と頭を下げると、みんな「え、嘘でしょ……」と、口々に話しているのが聞こえた。

「あの、それは本当に?」

 不思議なことに、私に一番最初に質問して来たのは水津だった。
 その顔には戸惑いがあり、憎くて仕方ない女が退場するのだから、手を叩いて指を差して嗤えばいいじゃないと思った。

「その予定です。今までありがとうございました」

 私が上司の仮面を被って受け答えすると、水津は驚いた顔をしていた。まるで、辞めると言い出すなんて思ってみなかったように。
 あれから、水津からまだ何もされていない。もしかしたら、今、この場でセクハラの件を言い出すかも。と、私は身構えてすぐにやめた。
 どうせ、辞めるのだ。それなら、なんでも言い返してやろうという気分になっていた。
 それに、関係があった事が知られて痛手を負うのは彼の方だ。
 もう、何をされても絶対にやり返してやる。やられっぱなしなんて嫌だから。
 けれど、水津は底のない穴のような黒い瞳で私を見ていた。きっと、様子を見ているのだろう。
 だからなのか、一瞬だけ私は水津に恐怖を感じて背筋が凍りついた。
 もう、水津なんて怖くない。何をされても、どれだけ痛め付けられても私は平気だ。そう言い聞かせる。
 だってもう、彼の顔を見ても苦しみや悲しみも感じないのだから。
 私は大丈夫。一人で立っていられる。たとえ水津の事を忘れられなくても。
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