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話を終えて私達は帰ることにした。
「改札口まで送ってもいいですか?」
カフェを出て柏木にそう言われて、少しだけ逡巡した。
そこまで歩いてもらうのが申し訳なさと、もう少し話したいとう気持ちがあったので。
柏木は私が辞めると言った直後だからか、離れるのが名残惜しいのかもしれない。
「じゃあ、お願いしてもいいかしら?」
柏木と隣でポツリポツリと話ながら人気のない通路を歩いた。
駅の方は人が多いけれど、私が乗る路線方面の地下通路は人が少なく誰も居ない。
ひったくりや痴漢も時々あるらしく、気を付けてというポスターが所々に貼ってあった。運良く遭遇はしていないけれど。
一人で歩くには少しだけ実は怖かったのでありがたい。
柏木の明るい声が通路に響き、私は一人ではないのだと少しだけ安心できた。
「あの……」
柏木が話している途中で急に立ち止まった。俯き何かを悩んでいるように見えたので、私は今後の事を悩んでいるのだろうと思った。
彼の顔をチラリと見ると絶望と悲しみをごちゃ混ぜにしたような、なんともいえない表情をしていた。
よほど主任になる事が不安なのだろう。ふざけてからかって悪いことをした。
何か前向きな事を言ってその不安を少しだけ軽くさせてあげたいけれど、余計な事を言ってかえって彼を不安がらせてしまいそうだ。
「柏木くん?」
名前を呼ぶけれど反応はない。
「……」
それは、突然だった。柏木は顔を上げてその両手で私の頭を抱えた。一瞬見えた表情には不安や悲しみは消えていた。
あの短時間ですべての覚悟が決まったような、そんな強い表情をしていた。
「え……?」
私は、突然頭を抱えられた事に驚いて後ろに仰け反ろうとしたけれど、彼の腕が私の腰に回されて身動きが取れなかった。
ギュッと腰を締め付けられるように抱き締められて、私はビクッと身体全身に力を入れた。
私の顔のすぐ横には柏木がいて、しっとりと濡れた息を左頬に感じた。
「腰、細い」
柏木が私の耳元で低く呟くのが聞こえた。
彼はとても穏やかな人で、いつもそれを崩さない印象が私の中ではあった。
見た目が中性的なせいもあって、私は彼をあまり異性だと思った事が今までなかった。だけど、耳元で低く呟いた声は野性味があり、私の知らない彼の本質を垣間見た気がした。
「……っ」
彼の腕の力は弱まることはなく、遠くへ旅立つ恋人を熱く抱擁しているようだ。
柏木の濡れた荒い息遣いと、服越しからでも分かる熱い身体は切なさを帯びているようだった。
「っん」
彼のしっとりと濡れた息遣い。私は水津に抱きしめられたあの感覚を思い出していた。
それに耐えられなくて離して欲しいと彼の腕を弱く叩くけれど、あまり意味がなかった。
まるで激情に駆られるように私の腰に回した腕の力が強まる。離してくれそうにない柏木に困り周囲に目線をやると幸い人は居なくて、ほんの少しだけ安心した。
こんなところ誰かに見られたら……!
ふいに彼の腕の力が弱まり、私は身体の力を抜いた。知らないうちに力を入れていたようだ。
しかし、それが罠だったように彼の腕の力は強まり、その手が私の頭をガッと掴み彼の。そう、彼の顔が私の顔に近づいてきて。
そのまま濡れた唇が正面衝突した。チュッと衝突をしたわりには、その音は柔かいものだった。
私はあまりの事に目を開いたまま柏木の顔を見ていた。
やっぱり可愛い顔してるわ。よくわからなくて、現実から目を逸らしてしまう。
そして、あっという間に柏木の唇は何もなかったかのようにパッと離れた。
これで離してもらえると私は思ったが、腕は腰に絡み付いたままで離してはくれない。
落ち着こうと頭の中を整理し始めるが、余計に意味がわらなくなっていった。
どういうこと!?そもそもなんで顔が正面衝突するの!?
「あ、あの」
私は身体を捻り柏木から逃れようとすると、ようやく正気に戻ったように腕をバッと離した。
そして、顔を真っ赤にさせて俯いた。
もしかして、柏木の奇行はお酒に酔った物だったのか、飲み物に何か入っていたかもしれないと思い始めた。
「紅茶にお酒入ってた?」
私はよくわからなくてそれを聞くと、彼は驚いた表情をしてギュッと眉間にシワを寄せた。
「あの、僕、謝りませんから」
「へ……?」
柏木の急な変化に間の抜けた声が出てしまう。そこに、さらに爆弾が投下される。
「キスしたの謝りませんから……!」
キスしたの私達!?
「あ、え?」
間の抜けた声は変わらずに私の口からしまりなく溢れ出るが、柏木はそんな事は気にした様子はなかった。
「だって、突然辞めるなんて言う方が悪いじゃないですか!?」
「え、私が悪いの?」
「ちょっと、期待しちゃったし」
何をどう期待したのかわからないけれど、彼の勢いに飲まれてしまう。
「ご、ごめんなさい」
「あぁ、もう」
私が謝ると柏木は苛立ちを隠せない様子で頭を掻きながら途方に暮れた顔をした。
そしてそのままズルズルと頭を抱えながらその場にしゃがみこんだ。
「だ、大丈夫?」
私も同じようにしゃがみこみ。明らかに様子のおかしい彼に声をかけた。
「もう!」
そう彼は怒ったように吐き捨てると突然立ち上がった。
本当に忙しいな。そんな事をぼんやりと考えながら彼の顔を見る。そこには明らかな怒りや戸惑いはなかった。というよりも、普段通りに戻っている。
「突然あんな事してすみません、忘れてほしくないんですけど、忘れたかったら忘れてください」
柏木はいつも通りの顔をして、そう言い残してその場から立ち去った。私はしばらく動けなかった。
「改札口まで送ってもいいですか?」
カフェを出て柏木にそう言われて、少しだけ逡巡した。
そこまで歩いてもらうのが申し訳なさと、もう少し話したいとう気持ちがあったので。
柏木は私が辞めると言った直後だからか、離れるのが名残惜しいのかもしれない。
「じゃあ、お願いしてもいいかしら?」
柏木と隣でポツリポツリと話ながら人気のない通路を歩いた。
駅の方は人が多いけれど、私が乗る路線方面の地下通路は人が少なく誰も居ない。
ひったくりや痴漢も時々あるらしく、気を付けてというポスターが所々に貼ってあった。運良く遭遇はしていないけれど。
一人で歩くには少しだけ実は怖かったのでありがたい。
柏木の明るい声が通路に響き、私は一人ではないのだと少しだけ安心できた。
「あの……」
柏木が話している途中で急に立ち止まった。俯き何かを悩んでいるように見えたので、私は今後の事を悩んでいるのだろうと思った。
彼の顔をチラリと見ると絶望と悲しみをごちゃ混ぜにしたような、なんともいえない表情をしていた。
よほど主任になる事が不安なのだろう。ふざけてからかって悪いことをした。
何か前向きな事を言ってその不安を少しだけ軽くさせてあげたいけれど、余計な事を言ってかえって彼を不安がらせてしまいそうだ。
「柏木くん?」
名前を呼ぶけれど反応はない。
「……」
それは、突然だった。柏木は顔を上げてその両手で私の頭を抱えた。一瞬見えた表情には不安や悲しみは消えていた。
あの短時間ですべての覚悟が決まったような、そんな強い表情をしていた。
「え……?」
私は、突然頭を抱えられた事に驚いて後ろに仰け反ろうとしたけれど、彼の腕が私の腰に回されて身動きが取れなかった。
ギュッと腰を締め付けられるように抱き締められて、私はビクッと身体全身に力を入れた。
私の顔のすぐ横には柏木がいて、しっとりと濡れた息を左頬に感じた。
「腰、細い」
柏木が私の耳元で低く呟くのが聞こえた。
彼はとても穏やかな人で、いつもそれを崩さない印象が私の中ではあった。
見た目が中性的なせいもあって、私は彼をあまり異性だと思った事が今までなかった。だけど、耳元で低く呟いた声は野性味があり、私の知らない彼の本質を垣間見た気がした。
「……っ」
彼の腕の力は弱まることはなく、遠くへ旅立つ恋人を熱く抱擁しているようだ。
柏木の濡れた荒い息遣いと、服越しからでも分かる熱い身体は切なさを帯びているようだった。
「っん」
彼のしっとりと濡れた息遣い。私は水津に抱きしめられたあの感覚を思い出していた。
それに耐えられなくて離して欲しいと彼の腕を弱く叩くけれど、あまり意味がなかった。
まるで激情に駆られるように私の腰に回した腕の力が強まる。離してくれそうにない柏木に困り周囲に目線をやると幸い人は居なくて、ほんの少しだけ安心した。
こんなところ誰かに見られたら……!
ふいに彼の腕の力が弱まり、私は身体の力を抜いた。知らないうちに力を入れていたようだ。
しかし、それが罠だったように彼の腕の力は強まり、その手が私の頭をガッと掴み彼の。そう、彼の顔が私の顔に近づいてきて。
そのまま濡れた唇が正面衝突した。チュッと衝突をしたわりには、その音は柔かいものだった。
私はあまりの事に目を開いたまま柏木の顔を見ていた。
やっぱり可愛い顔してるわ。よくわからなくて、現実から目を逸らしてしまう。
そして、あっという間に柏木の唇は何もなかったかのようにパッと離れた。
これで離してもらえると私は思ったが、腕は腰に絡み付いたままで離してはくれない。
落ち着こうと頭の中を整理し始めるが、余計に意味がわらなくなっていった。
どういうこと!?そもそもなんで顔が正面衝突するの!?
「あ、あの」
私は身体を捻り柏木から逃れようとすると、ようやく正気に戻ったように腕をバッと離した。
そして、顔を真っ赤にさせて俯いた。
もしかして、柏木の奇行はお酒に酔った物だったのか、飲み物に何か入っていたかもしれないと思い始めた。
「紅茶にお酒入ってた?」
私はよくわからなくてそれを聞くと、彼は驚いた表情をしてギュッと眉間にシワを寄せた。
「あの、僕、謝りませんから」
「へ……?」
柏木の急な変化に間の抜けた声が出てしまう。そこに、さらに爆弾が投下される。
「キスしたの謝りませんから……!」
キスしたの私達!?
「あ、え?」
間の抜けた声は変わらずに私の口からしまりなく溢れ出るが、柏木はそんな事は気にした様子はなかった。
「だって、突然辞めるなんて言う方が悪いじゃないですか!?」
「え、私が悪いの?」
「ちょっと、期待しちゃったし」
何をどう期待したのかわからないけれど、彼の勢いに飲まれてしまう。
「ご、ごめんなさい」
「あぁ、もう」
私が謝ると柏木は苛立ちを隠せない様子で頭を掻きながら途方に暮れた顔をした。
そしてそのままズルズルと頭を抱えながらその場にしゃがみこんだ。
「だ、大丈夫?」
私も同じようにしゃがみこみ。明らかに様子のおかしい彼に声をかけた。
「もう!」
そう彼は怒ったように吐き捨てると突然立ち上がった。
本当に忙しいな。そんな事をぼんやりと考えながら彼の顔を見る。そこには明らかな怒りや戸惑いはなかった。というよりも、普段通りに戻っている。
「突然あんな事してすみません、忘れてほしくないんですけど、忘れたかったら忘れてください」
柏木はいつも通りの顔をして、そう言い残してその場から立ち去った。私はしばらく動けなかった。
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