芋虫(完結)

毛蟹葵葉

文字の大きさ
上 下
62 / 70

62

しおりを挟む
話を終えて私達は帰ることにした。

「改札口まで送ってもいいですか?」

 カフェを出て柏木にそう言われて、少しだけ逡巡した。
 そこまで歩いてもらうのが申し訳なさと、もう少し話したいとう気持ちがあったので。
 柏木は私が辞めると言った直後だからか、離れるのが名残惜しいのかもしれない。

「じゃあ、お願いしてもいいかしら?」

 柏木と隣でポツリポツリと話ながら人気のない通路を歩いた。
 駅の方は人が多いけれど、私が乗る路線方面の地下通路は人が少なく誰も居ない。
 ひったくりや痴漢も時々あるらしく、気を付けてというポスターが所々に貼ってあった。運良く遭遇はしていないけれど。
 一人で歩くには少しだけ実は怖かったのでありがたい。
 柏木の明るい声が通路に響き、私は一人ではないのだと少しだけ安心できた。


「あの……」

 柏木が話している途中で急に立ち止まった。俯き何かを悩んでいるように見えたので、私は今後の事を悩んでいるのだろうと思った。
 彼の顔をチラリと見ると絶望と悲しみをごちゃ混ぜにしたような、なんともいえない表情をしていた。
よほど主任になる事が不安なのだろう。ふざけてからかって悪いことをした。
 何か前向きな事を言ってその不安を少しだけ軽くさせてあげたいけれど、余計な事を言ってかえって彼を不安がらせてしまいそうだ。

「柏木くん?」

 名前を呼ぶけれど反応はない。

「……」

 それは、突然だった。柏木は顔を上げてその両手で私の頭を抱えた。一瞬見えた表情には不安や悲しみは消えていた。
 あの短時間ですべての覚悟が決まったような、そんな強い表情をしていた。

「え……?」

 私は、突然頭を抱えられた事に驚いて後ろに仰け反ろうとしたけれど、彼の腕が私の腰に回されて身動きが取れなかった。
 ギュッと腰を締め付けられるように抱き締められて、私はビクッと身体全身に力を入れた。
 私の顔のすぐ横には柏木がいて、しっとりと濡れた息を左頬に感じた。

「腰、細い」

 柏木が私の耳元で低く呟くのが聞こえた。
 彼はとても穏やかな人で、いつもそれを崩さない印象が私の中ではあった。
 見た目が中性的なせいもあって、私は彼をあまり異性だと思った事が今までなかった。だけど、耳元で低く呟いた声は野性味があり、私の知らない彼の本質を垣間見た気がした。

「……っ」

 彼の腕の力は弱まることはなく、遠くへ旅立つ恋人を熱く抱擁しているようだ。
 柏木の濡れた荒い息遣いと、服越しからでも分かる熱い身体は切なさを帯びているようだった。

「っん」

 彼のしっとりと濡れた息遣い。私は水津に抱きしめられたあの感覚を思い出していた。
 それに耐えられなくて離して欲しいと彼の腕を弱く叩くけれど、あまり意味がなかった。
 まるで激情に駆られるように私の腰に回した腕の力が強まる。離してくれそうにない柏木に困り周囲に目線をやると幸い人は居なくて、ほんの少しだけ安心した。

 こんなところ誰かに見られたら……!

 ふいに彼の腕の力が弱まり、私は身体の力を抜いた。知らないうちに力を入れていたようだ。
 しかし、それが罠だったように彼の腕の力は強まり、その手が私の頭をガッと掴み彼の。そう、彼の顔が私の顔に近づいてきて。
 そのまま濡れた唇が正面衝突した。チュッと衝突をしたわりには、その音は柔かいものだった。
 私はあまりの事に目を開いたまま柏木の顔を見ていた。
 やっぱり可愛い顔してるわ。よくわからなくて、現実から目を逸らしてしまう。
 そして、あっという間に柏木の唇は何もなかったかのようにパッと離れた。
 これで離してもらえると私は思ったが、腕は腰に絡み付いたままで離してはくれない。
 落ち着こうと頭の中を整理し始めるが、余計に意味がわらなくなっていった。
 どういうこと!?そもそもなんで顔が正面衝突するの!?

「あ、あの」

 私は身体を捻り柏木から逃れようとすると、ようやく正気に戻ったように腕をバッと離した。
 そして、顔を真っ赤にさせて俯いた。
 もしかして、柏木の奇行はお酒に酔った物だったのか、飲み物に何か入っていたかもしれないと思い始めた。

「紅茶にお酒入ってた?」

 私はよくわからなくてそれを聞くと、彼は驚いた表情をしてギュッと眉間にシワを寄せた。

「あの、僕、謝りませんから」

「へ……?」

 柏木の急な変化に間の抜けた声が出てしまう。そこに、さらに爆弾が投下される。

「キスしたの謝りませんから……!」

 キスしたの私達!?

「あ、え?」

 間の抜けた声は変わらずに私の口からしまりなく溢れ出るが、柏木はそんな事は気にした様子はなかった。

「だって、突然辞めるなんて言う方が悪いじゃないですか!?」


「え、私が悪いの?」

「ちょっと、期待しちゃったし」

 何をどう期待したのかわからないけれど、彼の勢いに飲まれてしまう。

「ご、ごめんなさい」

「あぁ、もう」

 私が謝ると柏木は苛立ちを隠せない様子で頭を掻きながら途方に暮れた顔をした。
 そしてそのままズルズルと頭を抱えながらその場にしゃがみこんだ。

「だ、大丈夫?」

 私も同じようにしゃがみこみ。明らかに様子のおかしい彼に声をかけた。

「もう!」

 そう彼は怒ったように吐き捨てると突然立ち上がった。
 本当に忙しいな。そんな事をぼんやりと考えながら彼の顔を見る。そこには明らかな怒りや戸惑いはなかった。というよりも、普段通りに戻っている。

「突然あんな事してすみません、忘れてほしくないんですけど、忘れたかったら忘れてください」

 柏木はいつも通りの顔をして、そう言い残してその場から立ち去った。私はしばらく動けなかった。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

【R15】アリア・ルージュの妄信

皐月うしこ
ミステリー
その日、白濁の中で少女は死んだ。 異質な匂いに包まれて、全身を粘着質な白い液体に覆われて、乱れた着衣が物語る悲惨な光景を何と表現すればいいのだろう。世界は日常に溢れている。何気ない会話、変わらない秒針、規則正しく進む人波。それでもここに、雲が形を変えるように、ガラスが粉々に砕けるように、一輪の花が小さな種を産んだ。

私の中の深い闇

けいこ
ミステリー
私の容姿は醜い。 でも、あなたを好きになってしまった。 だから、私は綺麗になる。 邪魔な人間は排除しなきゃ。

復讐の旋律

北川 悠
ミステリー
 昨年、特別賞を頂きました【嗜食】は現在、非公開とさせていただいておりますが、改稿を加え、近いうち再搭載させていただきますので、よろしくお願いします。  復讐の旋律 あらすじ    田代香苗の目の前で、彼女の元恋人で無職のチンピラ、入谷健吾が無残に殺されるという事件が起きる。犯人からの通報によって田代は保護され、警察病院に入院した。  県警本部の北川警部が率いるチームが、その事件を担当するが、圧力がかかって捜査本部は解散。そんな時、川島という医師が、田代香苗の元同級生である三枝京子を連れて、面会にやってくる。  事件に進展がないまま、時が過ぎていくが、ある暴力団組長からホワイト興産という、謎の団体の噂を聞く。犯人は誰なのか? ホワイト興産とははたして何者なのか?  まあ、なんというか古典的な復讐ミステリーです…… よかったら読んでみてください。  

そして何も言わなくなった【改稿版】

浦登みっひ
ミステリー
 高校生活最後の夏休み。女子高生の仄香は、思い出作りのため、父が所有する別荘に親しい友人たちを招いた。  沖縄のさらに南、太平洋上に浮かぶ乙軒島。スマートフォンすら使えない絶海の孤島で楽しく過ごす仄香たちだったが、三日目の朝、友人の一人が死体となって発見され、その遺体には悍ましい凌辱の痕跡が残されていた。突然の悲劇に驚く仄香たち。しかし、それは後に続く惨劇の序章にすぎなかった。 原案:あっきコタロウ氏 ※以前公開していた同名作品のトリック等の変更、加筆修正を行った改稿版になります。

アナグラム

七海美桜
ミステリー
26歳で警視になった一条櫻子は、大阪の曽根崎警察署に新たに設立された「特別心理犯罪課」の課長として警視庁から転属してくる。彼女の目的は、関西に秘かに収監されている犯罪者「桐生蒼馬」に会う為だった。櫻子と蒼馬に隠された秘密、彼の助言により難解な事件を解決する。櫻子を助ける蒼馬の狙いとは? ※この作品はフィクションであり、登場する地名や団体や組織、全て事実とは異なる事をご理解よろしくお願いします。また、犯罪の内容がショッキングな場合があります。セルフレイティングに気を付けて下さい。 イラスト:カリカリ様 背景:由羅様(pixiv)

後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~

菱沼あゆ
キャラ文芸
 突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。  洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。  天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。  洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。  中華後宮ラブコメディ。

幸福物質の瞬間

伽藍堂益太
ミステリー
念動力を使うことのできる高校生、高石祐介は日常的に気に食わない人間を殺してきた。 高校一年の春、電車でいちゃもんをつけてきた妊婦を殺し、高校二年の夏休み、塾の担任である墨田直基を殺した後から、不可解なことが起き始める。

時の呪縛

葉羽
ミステリー
山間の孤立した村にある古びた時計塔。かつてこの村は繁栄していたが、失踪事件が連続して発生したことで、村人たちは恐れを抱き、時計塔は放置されたままとなった。17歳の天才高校生・神藤葉羽は、友人に誘われてこの村を訪れることになる。そこで彼は、幼馴染の望月彩由美と共に、村の秘密に迫ることになる。 葉羽と彩由美は、失踪事件に関する不気味な噂を耳にし、時計塔に隠された真実を解明しようとする。しかし、時計塔の内部には、過去の記憶を呼び起こす仕掛けが待ち受けていた。彼らは、時間が歪み、過去の失踪者たちの幻影に直面する中で、次第に自らの心の奥底に潜む恐怖と向き合わせることになる。 果たして、彼らは村の呪いを解き明かし、失踪事件の真相に辿り着けるのか?そして、彼らの友情と恋心は試される。緊迫感あふれる謎解きと心理的恐怖が交錯する本格推理小説。

処理中です...