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私達は小さなソファ席に向かい合うように座った。
「あの、今日は本当にありがとう、他にも人がいるのに僕に声かけてくれて」
柏木が突然照れたようにお礼を言い出すから、私もなんだか照れ臭くなってきた。
頼れる相手がいなくて頼ってしまったのだが、向こうがそう思ってくれるならなんだか嬉しい。
「仕事で一番仲のいい人が柏木くんだったから、それよりも、貴重なお休みもらっちゃってごめんなさいね」
そう思いつつもそれがリップサービスの可能性も否定できずに、休日を割いてくれた彼に申し訳なさを感じていた。
「いえ、全然。凄く楽しかったから。本当に嫌じゃなかったらまた誘って欲しいです」
今日何度目かの誘って欲しいは本音だろう、そう思うと私は気兼ねなく誘える友達が出来そうでとても嬉しくなっていた。
会社を辞めても彼とは付き合いが続きそうだ。
「柏木くんも誘ってもらえると嬉しいかな。付き合わせてばかりで申し訳なくなるから」
「それなら、喜んで」
それだけ話すと私達の間に沈黙が生まれた。
不思議だ。会社だと空き時間にどれだけ話しても足りないのに、ここだと何を話したいのか全く考えつかない。
「何だろう、会社だと話したいのに話せなくて、ここだと話せるのになんか話せないわね」
「二人きりだし。改まった場所だからじゃない?」
「そうかしら?」
「きっと」
確かに静かなカフェだと大人のカップルのようで、友人の気軽さでは雰囲気的に話しにくい気がする。
「今度どこか行きたいところあったら言って、一緒に行きましょ。ライブでもどこでも。」
柏木とならどこに行っても楽しく穏やかな気分になれる気がした。
「そうね」
スッと柏木の華奢で綺麗な手が、机の上に乗っている私の手の上に重ねられた。
「っ、えっ?」
私が突然のことに目を見開くと、柏木は拒絶しないでほしいと目で訴えてきた。
「ダメですか……?」
「……」
気まずさに何も言えずにいると、ふとある事に気がついた。会社をやめるとまだ伝えていないことを。
今、言ってしまおう。そうじゃないと、ずるずると引きずって最後まで言えない気がした。
「あ、あのね、私……」
私が口ごもりながら話し出すと声が小さかったのか、柏木が身を乗り出して耳を傾けるように近づいてきた。
「うん?」
「柏木くん、言わなきゃいけない事があるの」
私が改まったように背筋を伸ばすと、柏木の喉が上下するのか見えた。
「……」
「あの、私」
言わなきゃいけない。でも、もう同僚じゃなくなるなんて言いにくい。
「無理しないで。ゆっくり言えばいいですから」
柏木は急かさないように私の瞳を見て、そっと重なっている手を撫でた。
彼の優しさを感じて私の心はとても温かくなっていく。だけど、本当に。離れるのが寂しく感じる。
「あのね」
「うん……」
「あの」
私は柏木の手の下にある自分の手を強く握りしめた。これから言う言葉に自分が悲しくならないように。
「私、仕事辞めるの」
「は?え?」
柏木は、ポカンと口を開ける。私の言うことが予想外だった様子で。
「あの、ごめんなさい、貴方が主任になるの。引継ぎとか大変だと思うけど」
「そのタイミングでそれぇ!?」
私が説明すると柏木はようやく思考が働くようになったのか、少しだけ大きな声で私を非難した。
「あ、ごめんなさい?」
突然そんな予想外の事を言われると、柏木でも状況整理が出来なかったのだろう。
「謝らなくていいですから」
「そう」
「僕が勝手に期待しただけですから、確かにおかしいもんな雰囲気に飲まれてた」
柏木が何か呟いていたけれど聞こえなかった。
「はぁ、せっかく近付けたと思ったのに、離れていくんですね」
柏木が寂しそうに微笑んだ。私も同じだった。どうして、水津と関係なんて持ってしまったのだろうか、後悔しても無意味だけれど、そんな事を考えてしまう。
どうせ辞めてしまうなら、辞めるのが苦しくなる前に辞めてしまえばよかった。
「ごめんね、決めたことだから」
私はその気持ちは変わらずに柏木に伝えると彼は困ったように顔を歪めた。
「なんで辞めるの」
言いにくそうに、だけど、どうしても聞きたいみたいで強い瞳を私に向けて彼は問いかけた。
「何もかも嫌になったの」
その一言に柏木は沈黙した。
「前の婚約破棄の事知ってるよね?」
「はい」
柏木は俯きながら返事をした。私が何もかも嫌になった理由を。
「あの時からずっと無理してたの、誰も信用できなくてみんなと壁を作って」
私は進藤の件を言える範囲で彼に話した。
「このままずっとあそこ居たら心を乱されて疲れるだけで、意地でも辞めないつもりだったけど、辛いなって思い始めたら何もかもがこう……嫌になって」
このまま、あそこ居たらきっと私は壊れる気がした。水津との思い出を見るのも辛いけれど、何かある度に婚約破棄の事を持ち出して『私が、だから悪い。信用ならない』とまで言われるのも。
進藤のように激しく責め立てられたことはなかったが、陰で時々言われている事を私は知っている。知らないフリが出来るほど図太くいられなかった。
「そう、ですか」
柏木は、とても悲しそうに私の話を聞いてくれた。
「ごめんなさい」
「なんでそんなに悩んでたの言ってくれなかったの?」
彼は真っ先にそれを思ったのだろう。だけど言えるわけがない。
私達の関係は上司と部下なのだから。
「言えないよ、君は私の部下なんだから」
「……」
柏木も思い至ったようだ。私達の関係は友人でもあるけれど上司と部下でもあることに。
「引継ぎよろしくね」
私すべてを任せるように重なっている彼の手を握手するようにぎゅっと握りしめた。
「辞めるのいつですか?」
柏木は急に顔を赤らめてそう聞いてきた。
「ボーナスもらって、6月にその事を伝えて、引き継ぎとか色々と考えて9月には辞めるつもり」
「……代休と有休ってどのくらい残ってますか?」
柏木に聞かれて、私はそれを数えた。
偏頭痛で休むことが増えたけれど、それでも、子供がいる部下のかわりに出社する事もあって、それなりに残っていた気がする。
「トータルで一ヶ月くらいかな」
「もったいないっ、絶対に損ですよ!もう少し頑張って、全部それ消費して冬のボーナス貰って辞めましょうよ!」
「え、えぇ!?」
突然の柏木の申し出に私は驚いてしまう。
確かに、9月から2ヶ月我慢して仕事をすれば、ボーナスがもらえる。だけど、そんな事してもいいのだろうか。
「今まで頑張ったんですから、むしり取れるところまで頑張りましょうよ!ケツの毛まで!再就職先決まってないんでしょう?ボーナス有れば二ヶ月は生活できますよ」
柏木が痛いところをついてきて、反論することはできなかった。確かにボーナスが有れば2ヶ月は慎ましく生活ができる。
「……うん、わかった」
「凛子さん、頑張りすぎだから辞めたらゆっくり休んでくださいね」
引き留めておいて最後にフォローをする事をやめない柏木の姿は、部下にとって最善を考える上司そのものだった。
「……柏木くん、貴方、絶対に頼りになる上司になるわ」
私は自分の見る目が間違っていなかった事を自画自賛した。
「頑張って凛子さんのかわりになります」
彼は鼻息荒く言うけれど、その目標のポイントはどこかズレている。
「私のかわりじゃないの、貴方が主任になるのよ」
「そうですけど、凛子さんみたいに出来ませんよ。僕」
そう言いつつもそつなくこなすことが出来ると私は思ってる。
柏木にしては珍しく不安げで、私はなぜか楽しくなってきた。
こんな柏木なんて一生拝むことなんて出来ないだろうし。
「あのね、主任って主に任せるから主任なのよ」
クククと笑いながら彼にさりげなくプレッシャーをかける。
「それプレッシャーですからね」
柏木はすぐにそれに気がついたのか私を軽く睨み付けた。
いつか私の場所を取られると思っていたが、まさか自分から譲るなんて思いもしなかった。
仕事で一番の脅威の彼とまさか友達になれるなんて。
「うふふ。私の苦しみを少しくらい味わいなさい」
「凛子さん。怖いですよ」
柏木は今度は眉をよせてわざとらしく怯えた表情を作った。
「私は怖い女なのよ」
「貴女ほど毒気のない人なんて居ませんよ。本当に無邪気」
柏木は、どこか慕情が含まれるような瞳で私を映した。
「私が仕事辞めたらその敬語も聞けなくなるのね」
私はもう、彼の時々崩れる敬語が聞けなくなるのが寂しく惜しいなと思えた。
「そうですね」
「なんかしんみりしてきちゃった。ごめんね。一番最初に柏木くんには話したくて。他の人には内緒だからね?」
「わかりました」
柏木は二度と会えないかのように、とても寂しそうな返事をした。
仕事を辞めたら会う回数はグッと減るけれど、前以上に深い話しができるななんて私は思っていた。
「あの、今日は本当にありがとう、他にも人がいるのに僕に声かけてくれて」
柏木が突然照れたようにお礼を言い出すから、私もなんだか照れ臭くなってきた。
頼れる相手がいなくて頼ってしまったのだが、向こうがそう思ってくれるならなんだか嬉しい。
「仕事で一番仲のいい人が柏木くんだったから、それよりも、貴重なお休みもらっちゃってごめんなさいね」
そう思いつつもそれがリップサービスの可能性も否定できずに、休日を割いてくれた彼に申し訳なさを感じていた。
「いえ、全然。凄く楽しかったから。本当に嫌じゃなかったらまた誘って欲しいです」
今日何度目かの誘って欲しいは本音だろう、そう思うと私は気兼ねなく誘える友達が出来そうでとても嬉しくなっていた。
会社を辞めても彼とは付き合いが続きそうだ。
「柏木くんも誘ってもらえると嬉しいかな。付き合わせてばかりで申し訳なくなるから」
「それなら、喜んで」
それだけ話すと私達の間に沈黙が生まれた。
不思議だ。会社だと空き時間にどれだけ話しても足りないのに、ここだと何を話したいのか全く考えつかない。
「何だろう、会社だと話したいのに話せなくて、ここだと話せるのになんか話せないわね」
「二人きりだし。改まった場所だからじゃない?」
「そうかしら?」
「きっと」
確かに静かなカフェだと大人のカップルのようで、友人の気軽さでは雰囲気的に話しにくい気がする。
「今度どこか行きたいところあったら言って、一緒に行きましょ。ライブでもどこでも。」
柏木とならどこに行っても楽しく穏やかな気分になれる気がした。
「そうね」
スッと柏木の華奢で綺麗な手が、机の上に乗っている私の手の上に重ねられた。
「っ、えっ?」
私が突然のことに目を見開くと、柏木は拒絶しないでほしいと目で訴えてきた。
「ダメですか……?」
「……」
気まずさに何も言えずにいると、ふとある事に気がついた。会社をやめるとまだ伝えていないことを。
今、言ってしまおう。そうじゃないと、ずるずると引きずって最後まで言えない気がした。
「あ、あのね、私……」
私が口ごもりながら話し出すと声が小さかったのか、柏木が身を乗り出して耳を傾けるように近づいてきた。
「うん?」
「柏木くん、言わなきゃいけない事があるの」
私が改まったように背筋を伸ばすと、柏木の喉が上下するのか見えた。
「……」
「あの、私」
言わなきゃいけない。でも、もう同僚じゃなくなるなんて言いにくい。
「無理しないで。ゆっくり言えばいいですから」
柏木は急かさないように私の瞳を見て、そっと重なっている手を撫でた。
彼の優しさを感じて私の心はとても温かくなっていく。だけど、本当に。離れるのが寂しく感じる。
「あのね」
「うん……」
「あの」
私は柏木の手の下にある自分の手を強く握りしめた。これから言う言葉に自分が悲しくならないように。
「私、仕事辞めるの」
「は?え?」
柏木は、ポカンと口を開ける。私の言うことが予想外だった様子で。
「あの、ごめんなさい、貴方が主任になるの。引継ぎとか大変だと思うけど」
「そのタイミングでそれぇ!?」
私が説明すると柏木はようやく思考が働くようになったのか、少しだけ大きな声で私を非難した。
「あ、ごめんなさい?」
突然そんな予想外の事を言われると、柏木でも状況整理が出来なかったのだろう。
「謝らなくていいですから」
「そう」
「僕が勝手に期待しただけですから、確かにおかしいもんな雰囲気に飲まれてた」
柏木が何か呟いていたけれど聞こえなかった。
「はぁ、せっかく近付けたと思ったのに、離れていくんですね」
柏木が寂しそうに微笑んだ。私も同じだった。どうして、水津と関係なんて持ってしまったのだろうか、後悔しても無意味だけれど、そんな事を考えてしまう。
どうせ辞めてしまうなら、辞めるのが苦しくなる前に辞めてしまえばよかった。
「ごめんね、決めたことだから」
私はその気持ちは変わらずに柏木に伝えると彼は困ったように顔を歪めた。
「なんで辞めるの」
言いにくそうに、だけど、どうしても聞きたいみたいで強い瞳を私に向けて彼は問いかけた。
「何もかも嫌になったの」
その一言に柏木は沈黙した。
「前の婚約破棄の事知ってるよね?」
「はい」
柏木は俯きながら返事をした。私が何もかも嫌になった理由を。
「あの時からずっと無理してたの、誰も信用できなくてみんなと壁を作って」
私は進藤の件を言える範囲で彼に話した。
「このままずっとあそこ居たら心を乱されて疲れるだけで、意地でも辞めないつもりだったけど、辛いなって思い始めたら何もかもがこう……嫌になって」
このまま、あそこ居たらきっと私は壊れる気がした。水津との思い出を見るのも辛いけれど、何かある度に婚約破棄の事を持ち出して『私が、だから悪い。信用ならない』とまで言われるのも。
進藤のように激しく責め立てられたことはなかったが、陰で時々言われている事を私は知っている。知らないフリが出来るほど図太くいられなかった。
「そう、ですか」
柏木は、とても悲しそうに私の話を聞いてくれた。
「ごめんなさい」
「なんでそんなに悩んでたの言ってくれなかったの?」
彼は真っ先にそれを思ったのだろう。だけど言えるわけがない。
私達の関係は上司と部下なのだから。
「言えないよ、君は私の部下なんだから」
「……」
柏木も思い至ったようだ。私達の関係は友人でもあるけれど上司と部下でもあることに。
「引継ぎよろしくね」
私すべてを任せるように重なっている彼の手を握手するようにぎゅっと握りしめた。
「辞めるのいつですか?」
柏木は急に顔を赤らめてそう聞いてきた。
「ボーナスもらって、6月にその事を伝えて、引き継ぎとか色々と考えて9月には辞めるつもり」
「……代休と有休ってどのくらい残ってますか?」
柏木に聞かれて、私はそれを数えた。
偏頭痛で休むことが増えたけれど、それでも、子供がいる部下のかわりに出社する事もあって、それなりに残っていた気がする。
「トータルで一ヶ月くらいかな」
「もったいないっ、絶対に損ですよ!もう少し頑張って、全部それ消費して冬のボーナス貰って辞めましょうよ!」
「え、えぇ!?」
突然の柏木の申し出に私は驚いてしまう。
確かに、9月から2ヶ月我慢して仕事をすれば、ボーナスがもらえる。だけど、そんな事してもいいのだろうか。
「今まで頑張ったんですから、むしり取れるところまで頑張りましょうよ!ケツの毛まで!再就職先決まってないんでしょう?ボーナス有れば二ヶ月は生活できますよ」
柏木が痛いところをついてきて、反論することはできなかった。確かにボーナスが有れば2ヶ月は慎ましく生活ができる。
「……うん、わかった」
「凛子さん、頑張りすぎだから辞めたらゆっくり休んでくださいね」
引き留めておいて最後にフォローをする事をやめない柏木の姿は、部下にとって最善を考える上司そのものだった。
「……柏木くん、貴方、絶対に頼りになる上司になるわ」
私は自分の見る目が間違っていなかった事を自画自賛した。
「頑張って凛子さんのかわりになります」
彼は鼻息荒く言うけれど、その目標のポイントはどこかズレている。
「私のかわりじゃないの、貴方が主任になるのよ」
「そうですけど、凛子さんみたいに出来ませんよ。僕」
そう言いつつもそつなくこなすことが出来ると私は思ってる。
柏木にしては珍しく不安げで、私はなぜか楽しくなってきた。
こんな柏木なんて一生拝むことなんて出来ないだろうし。
「あのね、主任って主に任せるから主任なのよ」
クククと笑いながら彼にさりげなくプレッシャーをかける。
「それプレッシャーですからね」
柏木はすぐにそれに気がついたのか私を軽く睨み付けた。
いつか私の場所を取られると思っていたが、まさか自分から譲るなんて思いもしなかった。
仕事で一番の脅威の彼とまさか友達になれるなんて。
「うふふ。私の苦しみを少しくらい味わいなさい」
「凛子さん。怖いですよ」
柏木は今度は眉をよせてわざとらしく怯えた表情を作った。
「私は怖い女なのよ」
「貴女ほど毒気のない人なんて居ませんよ。本当に無邪気」
柏木は、どこか慕情が含まれるような瞳で私を映した。
「私が仕事辞めたらその敬語も聞けなくなるのね」
私はもう、彼の時々崩れる敬語が聞けなくなるのが寂しく惜しいなと思えた。
「そうですね」
「なんかしんみりしてきちゃった。ごめんね。一番最初に柏木くんには話したくて。他の人には内緒だからね?」
「わかりました」
柏木は二度と会えないかのように、とても寂しそうな返事をした。
仕事を辞めたら会う回数はグッと減るけれど、前以上に深い話しができるななんて私は思っていた。
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