芋虫(完結)

毛蟹葵葉

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 次の日の朝も水津は部屋にいた。正確に言えば、まだベッドの中にいて私の寝顔を見ていたようだ。いつもなら、部屋からいなくなっているはずなのに。

「おはよう」

 まるで、恋人に向けるような無防備な柔らかい笑み。それに私は愛されているかのように錯覚しそうになる。
 いつかは終わる関係だとわかっているからこそ、胸が苦しい。

 「おはよう」と、返すと大きな手が耳朶に触れて、頬に口付けが落とされた。その甘やかな空気に目眩がする。

「今年は一緒にいられないけど、来年は一緒に年を越そうよ」

 きっと、水津はこれを本気で言っているのだろう。
 実現しなさそうな約束に、私は苦笑いを浮かべそうになるのを堪えて心にもない返事をした。

「そうね。たのしみ」

 来年の今頃はどうなっているのか私にはわからない。もしかしたら、水津の言う通りになっているのかもしれない。
 約束を信じてしまえばそれに縋りつきそうな気がして怖かった。
 気がつけば水津がこの関係を持ち出してきた時に危惧した「痛い女」に自分がなりかけていることに気がつく。

「今は行けないけど、暖かくなったら行きたいところある?」

「え?」

 また吐き出される言葉に勘違いしないようにと何度も自分に言い聞かせる。そうしないと、彼に執着してしまいそうだから。

「どこでもいいんだよ。海でも、フェスとかでもさ」

 水津は私の気持ちなど知らずに、気軽に提案をしてくる。きっとその日は来ないのに。
 ただ、水津に言われて気がついたことがある。
 私はどこにも行ったことがない事に、一人で行くには勇気がいる事だから。

「そうね。また、海に行きたいかな、フェスは行ったことないわ」

「じゃあ、行こうよ。凛子って本当にどこにも行ったことないんだな。面白いよ。誰かと行っても、一人で行っても」

 水津の意外な言葉に私は首を傾ける。一人で行くという選択肢は今までなかった。

「一人で行く事があるの?」

「まあね、意外と楽しいよ」

「ふぅん」

 気のない返事をするけれど、内心では少しだけ驚いた。

「寂しい奴って思った?」

「そんなことないよ。一人で楽しむっていいかもね」

 考えてみればいい大人だから、一人で遊びに行くのも変なことではない。
 たとえ水津が居なくなっても、私一人でどこにでも行ける気がした。

「……俺がいるんだから付き合わせてよ」

 水津は私の考えを察したかのように、寂しそうに存在を忘れるなと言い出す。

「うん、ありがとう」

 まだ、水津と関係を解消したわけでないのだ。居なくなった時の事を先に考えるのは失礼だ。

「今年の年越しは誰かと過ごすの?」

 答えが分かりきっている質問に、私はクスリと笑ってしまう。家族と縁を切ってからずっと一人で年越ししているから。
 誰かに一緒に過ごそうと誘われる事もない。それなのに、水津は不安そうな顔をして聞いてくるのだ。

「一人よ。あ……」

 一人だと言いかけて私はある事を思い出した。

「どうしたの?」

「柏木くんと食事に行くの」

 彼と一緒に年を越すわけではないが、水津には伝えておいた方がいいかもしれない。伝える必要のある関係ではないけれど。

「……そう」

「あ、あのね、進藤さんのこと相談したくて」

 柏木の名前を出してなぜが落胆している水津に、私は慌ててその理由を付け加える。
 本当は柴多に買う予定のネクタイピンもあるけれど、それを言ったら怒り出しそうな気がしたのでやめた。
 なぜか、水津は柴多のことを気にしているようなので。

「そういう理由じゃ、ダメだって言えないね」

 水津は進藤の対応を思い出したのか、困ったような顔をした。

「ごめんなさいね。なんだか変に勘違いされて嫌な思いしたでしょう?」

 進藤がなぜここまでこじらせてしまったのか、わからないが彼も嫌な思いをしていると思う。
 そのトリガーは間違いなく私のような気がしていた。

「凛子は悪くないから気にしなくていいよ。柏木さんと相談していい案が出るといいね」

 柏木なら人付き合いが上手なので、いい答えを出せるかもしれない。

「そうね。進藤さんと和解できればいいんだけど」

「気にしなくていいよ。凛子は悪くないんだから」

「……うん。みんなと仲良くするって難しいわね」

「合わない奴もいるからね。そこは、上手に付き合えない奴が悪いんだよ」

 確かにその通りだが、進藤がここまでこじらせてしまった理由は水津だ。それなのに、そんな事を言うのか。
 いや、そのせいで心が離れてしまったから仕方ないのかもしれない。

「新卒の子を相手に手厳しいわね」

「そりゃあね。迷惑だからさ」

「……」

 水津の言葉の冷たさに空恐ろしさを私は感じていた。
 いつか、今しがた彼が吐いた冷たい言葉を、そのまま私に向けられそうな気がする。

「どうかした?」

 自分の吐いた言葉の冷徹さにも気がつかない様子で私に声をかけた。

「なんでもない」

 砂粒を噛みつぶすような嫌な感覚を持ちながら私は無理に笑った。
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