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嵐の前触れ

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「晴れていたら星が綺麗だったでしょうね」
 私はガラス越しの外を見てそう思った。嵐の夜空に星なんて見えるわけがない。だけど、それを想像するだけでロマンチックだ。
 柱にかけてある時計は19時を示している。サンルームには大きめなソファとテーブルがあり、本が置いてある。
「ここでよく過ごすんですか?」
「うん。俺はここでよく本を読むんだ。あ、これ、ここに置き忘れてたのか」
 真人はテーブルの上にある本を取った。何度も読み返した物のようで、丁寧に扱ってあっても、小さな傷があったりと、傷みが所々に見られる。
「その本。何度も読んでいるわね」
「まぁね、無農薬栽培も少しは考えものなのかもってこの本を読むと思うよ」
 真人はその本のタイトルを私に見せてくれた。
「『農薬とライ麦』?」
「ライ麦パンの話は知ってる?」
「麦角菌で集団ヒステリーを起こした事件ですか?」
 たしかあれは、授業で習った事だが、麦角菌に汚染されたパンを食べて、錯乱状態に陥った人たちを片っ端から魔女裁判にかけたという事件。という記憶があった。
 現代ではにわかに信じられない事だが、あの当時はそれがまかり通っていたのだ。娯楽も情報もないあの時代は閉鎖された環境で、ああなるのは仕方ない気がする。
 集団の心理をよく知っていて利用する人間が私は怖い。あれは確か一人の人間が言い出した事から始まっている。
「そうそれ。あれ、幻覚作用もあるらしいね。ペヨーテやチョウセンアサガオもあるけど、麦角菌に関しては作る側が気を付けないと被害が大きくなる」
 確かにその通りだ。知らない間にそれを手に取ることだってあるのだ。
 食品を作る人間は人の命に強く関わっている。真人はそれが言いたいのだろう。
「買ったライ麦パンに入っていたら。防ぎようがないですからね」
「そうなんだよ」
 真人のような人が居る会社なら、安心で安全な食品を提供してくれそうな気がした。
 彼はきっと、敷かれたレールという認識ではなく、自分の意思でサイガフーズで働いている気がした。
 だからこそこんなにも熱心に勉強をしているのだろう。
「この本。ここで、読みたかったんだけどね。でも、これじゃあ」
 困ったように真人は上を見る。そこは、バケツの中の水を投げつけたように、真っ暗な夜空が滲んで見えた。
 強い風もあるため、ドドドドと音を立てガラスは揺れていて割れないだろうかと不安になってくる。
「やっぱり、こんな雨じゃダメですね。やめておけば良かった」
 香織は残念そうに目を伏せる。
 なんだか誘ってもらったのに申し訳なくなる。天候はどうしようもできないけれど。
「香織。鳴海さんに気を使ったつもりかもしれないけど、かえって気を使われているから」
「鳴海さん。ごめんなさい。あの二人は毒気が強いから、嫌な思いしちゃったんじゃないかなって思って、気分転換に誘ったんだけど」
 香織は気を使って誘ってくれたのか。そう思うと心が温かくなってくる。
 そこに下心があろうとも、不安な時にこうやって接してくれる事が、私はうれしい。
「ありがとうございます」

「ここに、何か想い出があるんですか?」
 何となく、連れてきてくれたということは、何か思い入れがありそうな気がした。
「え?」
 それを認めたかのように香織は頬を赤くさせる。やはりそうか。
 彼女は素直で可愛らしい人だな。真面目な真人と恋人同士なのも納得だ。二人並ぶと絵になるくらいお似合い。
「ここは、香織との子供の時からの想い出が詰まっているんです」
「そう、ここから星空を二人で見ていたの」
 二人は互いの絆を確かめ合うように、ぎゅうっと手を握りあった。
「大切な想い出の場所まで連れてきてくれて嬉しいです」
 本当にお似合いの二人。私は彼氏など一度も居た時期はなく、時々、恋愛に憧れてしまう。
 脇目も振らずに一心不乱に生きてきたから、恋も知らず、子供の時に比べると何に対しても頑なになった気がする。
 もしも、恋をするならどんな人がいいだろう。

『鳴海様』

 ふと、頭に浮かんだのは朔也だったが、慌ててそれを打ち消す。
 彼が優しいのは仕事だから、そして、今回の件が終われば二度と逢うことはない。でも、なぜだろうこんなにも気になってしまうのは、植物の蔓が日を浴びて伸び、私の心に少しずつ絡み付いていくようだ。
 このまま好きになったらきっと。雁字搦めになって身動きが取れなくなる。
 もし、そうなったら。私はどうしたらいい……?
 一夏の淡い憧れが、大火傷して一生残る醜い痕になってしまえば、私は彼の事を忘れられないだろう。彼はきっとすぐに私の事なんて忘れてしまうけれど。
 それに、私から何かアプローチをかける勇気なんてない。せいぜい話しかけるだけで精一杯だ。


「鳴海さん。ごめんなさいね」

 香織に声をかけられて、私は考えるのをやめた。
「雨が降ってなかったら。もっといい景色を見せてあげられたのに」
 真人は残念そうにこちらを見る。彼らもきっと私と二度と逢うことがないと思っているからこそ、ここを案内してくれてそれなりに親切なのだろう。
 そう思うと、少しだけ胸が痛む。結局血の繋りがあっても他人であることには変わりないのだ。

「いえ、案内してくれてありがとうございます」
「書斎とか他にいい場所があったのに」
 香織は肩を落とすと、慰めるように真人がその背中をさすり「大丈夫だよ」と声をかけた。
 二人はとても仲がむつましく、見ているこっちの頬が赤くなってくる。
 いいな、羨ましい。と、素直に思えるくらい。

「仲がいいんですね」
「ええ、お互い初恋なんです」
「真人さん」
 香織は照れたようにはにかんだ。

 初恋の人か。真っ先に思い出したのは夕顔の少年だった。彼は今、何をしているのだろう。
 きっと、朔也くらいの年齢になっているはずだが。

「初恋の人と付き合えるなんて素敵ですね」
「ありがとう。でも、付き合うだけなら運が良ければできるよ」
「え?」
 二人はお互いの顔を見て強く頷いた。
「俺達は結婚したい」
「だけど、私達はお祖父様に反対されていてできないの。法律上はなんの問題もないのに」


 二人の言葉に母親と与一が、一緒に居られなかった理由は何だったのだろう、と私はぼんやりと考えていた。
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