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第3話 こころの深いひと
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「ヘアピン男子」なんてウソじゃないか。検索しても出てくるのはイラストとコスプレばかり。あの美容師さん、テキトーな性格だな。でもあまりに髪が邪魔なものだから、なんとか髪がまとまって見えるようにピンを留めた。
今日は衣真くんとの読書会が控えている。トイレで手を洗ってから、なんとなく鏡の前で髪を整えた。ゆるんでしまったピンを直して、ポロシャツの衿の角度も直す。最近古着屋で買ったお気に入りを着てきたのだ。
——だって衣真くんに会えるから。
何が「だって」なのか、自分でも説明できない。さわさわと波立つ心の理由を知りたくない。何かを予感しているけれど、これ以上その予感を見つめたくない。
そうして僕は、波打ち際に立って、心のざわめきが波となり裸足の足を濡らすのに気づかないフリをしている。
「伊藤くーん!」
ラウンジに席を取った衣真くんが僕を呼ぶ。そのときひときわ大きな波が立ち、僕のくるぶしまでを濡らした。そんな感じがした。
僕は衣真くんを「衣真くん」と呼ぶ。衣真くんは僕を「早暉くん」とは呼ばない。それってすごく、なんだか……なんなんだろう。
もやもやとした心を隠すように口角を上げて、衣真くんの取ってくれた席へ。
「ヘアピンデビューしたんだね! おしゃれだねえ」
「え、そうかな……でもありがとう」
正直あまりおしゃれとは思っていないのだけど、衣真くんに「おしゃれだ」と言われたことで僕の心の波はさざめいて、心がくすぐったい。
「伊藤くんはいつもおしゃれだからすごいよ」
なんだか照れてしまって、口を結んで横を向く。「いつも」だなんて。衣真くんは思ったより僕のことを見てくれているのかもしれない。いつも僕を見て、おしゃれだと思ってくれてるのかな。
「髪を伸ばすなんて、すっごくおしゃれ。ぼくはそんなこと思いつきもしない」
衣真くんが心底感心した口ぶりで褒めてくれる。僕は本当に恥ずかしくてくすぐったくて、まともにお礼も言えなくなる。
衣真くん、そんなに僕を見てるんだ。もしかして衣真くんって僕のこと……。
「関根さんもおしゃれだよねえ。高一から髪を伸ばしてるんだって。あんな長い髪、大変だろうけど綺麗だよね」
「え、あ、うん」
膨らんだ期待は、パチンと弾けて消えた。
「内山さんのパーマもおしゃれだよねえ。ぼくなんか全然似合いそうにない」
内山さんは、サークルの先輩だ。衣真くんは彼のことも褒める。
「えっと……似合わないこともないと思うけど……衣真くんは、ほかの人のことをよく見てるね」
衣真くんが「いつも」見てるのは僕だけじゃなかった。恥ずかしい。プライドが腐ったジャムみたいな恥ずかしさじゃない。耳の先がちりちりと熱くなるような、どうにもいたたまれない恥ずかしさ。
「よく見てるのかなあ。好きな人たちのことにはよく気づいてしまうだけじゃないかな」
「好きな人たち……」
衣真くんが言う「好き」の単語はきっと呪文だったから、世界は一瞬金色のヴェールをかけられ、祝福された。そのヴェールが大いなる手に取り去られても、僕の目にはその一瞬の輝きが焼き付いて消えない。
それなのに、衣真くんの「好き」は僕の胸のなかでもぞもぞと居心地悪そうに落ち着かない。ズレているんだ、何かが。
「うん。伊藤くんも好きだし、関根さんも内山さんも好き。ぼくの周りには素敵な人が多いからしあわせだよ」
そう、衣真くんの「好き」は、世界をやわらかな眼差しで包み込む、博愛の「好き」だ。
僕にも、関根さんにも内山さんにもダメダメなところがあって、お互いそれを分かっていて、好きだったり嫌いだったりする。でも衣真くんは何かもっと深い心を……そう、海のような心を持っていて、その海はダメダメな僕たちをあたたかく飲み込んでしまえる。
そうして衣真くんは「好き」で「しあわせ」と言う。春の陽射しに温められた日向ぼっこの猫みたいに、笑う。
なのにどうして、僕はまっすぐに衣真くんを見られないんだろう。目の前の人の幸福な笑顔に、ガジガジとノイズが入るのはなぜなんだろう。
「衣真くんが素敵だから、いい人が集まるんだよ」
空々しいセリフを、空々しくないみたいに言った。本当は、ダメダメな僕らを包み込む深い心の衣真くんがすごいのに。
僕がダメダメだって、気づいてほしくなかったから。僕がダメすぎて、衣真くんのあたたかい海から放り出されたくなかったから。僕は本当に、俗っぽい人間です。
「ぼくはそんなに素敵かなあ。よく生きたいと思ってるけど、できてるかは分からない」
「よく生きたい」。ああ、この人は、こんなに高潔な人間だったのか。
「よく生きる、って思えてる時点ですごいよ」
「……でも実践は難しい。『正しい』と『よい』は違ったりする」
衣真くんの言葉は難しい。哲学の読書会を続ければ、僕はこの人の言葉を漏らさず理解できるようになるのだろうか?
「好きな人がたくさんいるのは、『よい』生き方なの?」
「……? いいえ。それは……意識してそうなってるわけじゃない……ぼくの性格だろうね」
衣真くんは目線を逸らして、考え込みながらゆっくり言葉を紡いだ。そんな話し方が、衣真くんの瞳の奥にきらめく知性をあらわにする。そのセリフが、衣真くんの深い深い心を証明する。
僕はすっかり打ちのめされて、なぜか涙がにじんできた。悟られないように目を逸らす。
衣真くんは、綺麗だ。くりっとした黒目がちな瞳はかわいらしいように見えて、そのまつ毛の先にはちかちかと、この人の心の美しさが瞬いている。
「衣真くんのこと、もっと知りたいな」
「ほんと!? ぼくも伊藤くんともっと仲よくなりたいな」
嬉しそうに身を乗り出して言ってくれるけど、誰にだって同じセリフを言うんでしょう。
誰にとってもちかちかと綺麗な、誰に対してもあたたかく深い海の心で包み込む、みんなの衣真くん。
「衣真くんも? 嬉しい」
ウソじゃないけどホントでもない返事をするとき、喉の奥がチクっと痛んだ。
今日は衣真くんとの読書会が控えている。トイレで手を洗ってから、なんとなく鏡の前で髪を整えた。ゆるんでしまったピンを直して、ポロシャツの衿の角度も直す。最近古着屋で買ったお気に入りを着てきたのだ。
——だって衣真くんに会えるから。
何が「だって」なのか、自分でも説明できない。さわさわと波立つ心の理由を知りたくない。何かを予感しているけれど、これ以上その予感を見つめたくない。
そうして僕は、波打ち際に立って、心のざわめきが波となり裸足の足を濡らすのに気づかないフリをしている。
「伊藤くーん!」
ラウンジに席を取った衣真くんが僕を呼ぶ。そのときひときわ大きな波が立ち、僕のくるぶしまでを濡らした。そんな感じがした。
僕は衣真くんを「衣真くん」と呼ぶ。衣真くんは僕を「早暉くん」とは呼ばない。それってすごく、なんだか……なんなんだろう。
もやもやとした心を隠すように口角を上げて、衣真くんの取ってくれた席へ。
「ヘアピンデビューしたんだね! おしゃれだねえ」
「え、そうかな……でもありがとう」
正直あまりおしゃれとは思っていないのだけど、衣真くんに「おしゃれだ」と言われたことで僕の心の波はさざめいて、心がくすぐったい。
「伊藤くんはいつもおしゃれだからすごいよ」
なんだか照れてしまって、口を結んで横を向く。「いつも」だなんて。衣真くんは思ったより僕のことを見てくれているのかもしれない。いつも僕を見て、おしゃれだと思ってくれてるのかな。
「髪を伸ばすなんて、すっごくおしゃれ。ぼくはそんなこと思いつきもしない」
衣真くんが心底感心した口ぶりで褒めてくれる。僕は本当に恥ずかしくてくすぐったくて、まともにお礼も言えなくなる。
衣真くん、そんなに僕を見てるんだ。もしかして衣真くんって僕のこと……。
「関根さんもおしゃれだよねえ。高一から髪を伸ばしてるんだって。あんな長い髪、大変だろうけど綺麗だよね」
「え、あ、うん」
膨らんだ期待は、パチンと弾けて消えた。
「内山さんのパーマもおしゃれだよねえ。ぼくなんか全然似合いそうにない」
内山さんは、サークルの先輩だ。衣真くんは彼のことも褒める。
「えっと……似合わないこともないと思うけど……衣真くんは、ほかの人のことをよく見てるね」
衣真くんが「いつも」見てるのは僕だけじゃなかった。恥ずかしい。プライドが腐ったジャムみたいな恥ずかしさじゃない。耳の先がちりちりと熱くなるような、どうにもいたたまれない恥ずかしさ。
「よく見てるのかなあ。好きな人たちのことにはよく気づいてしまうだけじゃないかな」
「好きな人たち……」
衣真くんが言う「好き」の単語はきっと呪文だったから、世界は一瞬金色のヴェールをかけられ、祝福された。そのヴェールが大いなる手に取り去られても、僕の目にはその一瞬の輝きが焼き付いて消えない。
それなのに、衣真くんの「好き」は僕の胸のなかでもぞもぞと居心地悪そうに落ち着かない。ズレているんだ、何かが。
「うん。伊藤くんも好きだし、関根さんも内山さんも好き。ぼくの周りには素敵な人が多いからしあわせだよ」
そう、衣真くんの「好き」は、世界をやわらかな眼差しで包み込む、博愛の「好き」だ。
僕にも、関根さんにも内山さんにもダメダメなところがあって、お互いそれを分かっていて、好きだったり嫌いだったりする。でも衣真くんは何かもっと深い心を……そう、海のような心を持っていて、その海はダメダメな僕たちをあたたかく飲み込んでしまえる。
そうして衣真くんは「好き」で「しあわせ」と言う。春の陽射しに温められた日向ぼっこの猫みたいに、笑う。
なのにどうして、僕はまっすぐに衣真くんを見られないんだろう。目の前の人の幸福な笑顔に、ガジガジとノイズが入るのはなぜなんだろう。
「衣真くんが素敵だから、いい人が集まるんだよ」
空々しいセリフを、空々しくないみたいに言った。本当は、ダメダメな僕らを包み込む深い心の衣真くんがすごいのに。
僕がダメダメだって、気づいてほしくなかったから。僕がダメすぎて、衣真くんのあたたかい海から放り出されたくなかったから。僕は本当に、俗っぽい人間です。
「ぼくはそんなに素敵かなあ。よく生きたいと思ってるけど、できてるかは分からない」
「よく生きたい」。ああ、この人は、こんなに高潔な人間だったのか。
「よく生きる、って思えてる時点ですごいよ」
「……でも実践は難しい。『正しい』と『よい』は違ったりする」
衣真くんの言葉は難しい。哲学の読書会を続ければ、僕はこの人の言葉を漏らさず理解できるようになるのだろうか?
「好きな人がたくさんいるのは、『よい』生き方なの?」
「……? いいえ。それは……意識してそうなってるわけじゃない……ぼくの性格だろうね」
衣真くんは目線を逸らして、考え込みながらゆっくり言葉を紡いだ。そんな話し方が、衣真くんの瞳の奥にきらめく知性をあらわにする。そのセリフが、衣真くんの深い深い心を証明する。
僕はすっかり打ちのめされて、なぜか涙がにじんできた。悟られないように目を逸らす。
衣真くんは、綺麗だ。くりっとした黒目がちな瞳はかわいらしいように見えて、そのまつ毛の先にはちかちかと、この人の心の美しさが瞬いている。
「衣真くんのこと、もっと知りたいな」
「ほんと!? ぼくも伊藤くんともっと仲よくなりたいな」
嬉しそうに身を乗り出して言ってくれるけど、誰にだって同じセリフを言うんでしょう。
誰にとってもちかちかと綺麗な、誰に対してもあたたかく深い海の心で包み込む、みんなの衣真くん。
「衣真くんも? 嬉しい」
ウソじゃないけどホントでもない返事をするとき、喉の奥がチクっと痛んだ。
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