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第2話 まぶしい

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 ガラス張りの壁から初夏の陽射しが差し込むラウンジ。グループ用に椅子とテーブルが並べられたそこは、いつも学生で混み合っている。僕は隅っこに二人分の席を見つけた。衣真くんに居場所を連絡する前に、自動ドアが開いて衣真くんが入ってきた。
 一番奥の席から離れていても、一瞬で衣真くんだと分かった。きょろきょろとラウンジを見回す仕草が、どことなく小動物感があってかわいいから。
 すぐ立ち上がって呼べばいいのに、僕は少しだけ、ほんの少しだけ衣真くんが僕を探す姿を見ていたくなった。僕の席は奥まっているから、衣真くんは考えるときの癖で口をちょんと尖らせて、それから小首を傾げた。やっぱり小動物だ。かわいい。
 あれ。僕、衣真くんのことを「かわいい」と思ってる!?
 どうして声をかけないなんて意地悪をしてしまうんだろう。僕は自分の行動にショックを受けて、慌てて立ち上がった。そのとき、ほんの一瞬、ちかっと僕の胸底の本音が光った。

 ——衣真くん、僕を見つけてよ。

 かっこいい衣真くんに、見つけてほしかった。
 僕は自分の子どもっぽさが心底恥ずかしくて、大声で衣真くんを呼んだ。

「衣真くーん!!」

 ぱっと振り向いた衣真くんは、僕が勢い余ってあまりの大声で呼んだものだから、くすくす笑って口に手を当てた。
 「かわいい」を封印してしまいたいのに、心の中でぴかぴか光って漏れ出してくる。かっこよくてかわいい、僕の……。
 あれ。衣真くんは僕のなんなんだろう。サークルの同期。きっとまだ「友人」ではない。
 なんて考えているうちに衣真くんは僕のところへやってきた。

「やあ。こんにちは」

 今どきの大学生は「やあ。こんにちは」なんて言わない。でも文語めいた挨拶が衣真くんにはよく似合ってしまう。その目の奥にきらめく知性がそうさせるのだろうか、と思って、僕はやっぱり衣真くんをすごくかっこいいと思った。

「こんにちは」
「席取ってくれてありがとう」
「いえいえ。時間を取ってくれてありがとう」

 衣真くんはどっこいしょ、とパンパンに膨らんだリュックを下ろす。その中にはすごい量の本が詰まっていると、サークルで1ヶ月一緒に過ごして分かってきた。その本を読む時間を割いて僕に付き合ってくれるのは、もしかして、すごく幸運なことなのかもしれない。

「こちらこそ。あのリスト、僕の方がすごく勉強になった」

 衣真くんはリュックを漁る手を止めて、僕に笑顔を向けた。

「え、そうなの……?」

 僕のたった5ページ分のリスト。僕がばかだから、理系だから、読む力がないから、宿題の半分も進まずに放り出した……。また、腐ったジャムがぐつぐつと疼き始める。

「あのリストには、すごく大切な哲学の問いがたくさん詰まってる。僕も、一旦自分の学びを振り返って、学び直すことがたくさんあったんだよ」

 衣真くんは僕に、ホチキス留めされたリストを渡した。一見僕が送ったリストに見えたけど、そうではなかった。僕の挙げた疑問点一つひとつに、事典の引用がびっしりぶら下がっている、衣真くんが作ってくれたリストだった。

「すごい……衣真くん、ここまでしなくても……」
「ふふ。ちょっと大変だった」

 衣真くんはまたくすくす笑う。

「ごめん、僕は最後までやらなかったのに……」

 心がきゅうっと狭くなって、その中にどろりとしたジャムがあふれる。恥ずかしい気持ち。情けない気持ち。年下の衣真くんと自分を比較し始めたら、ジャムはもう我が物顔で僕の心を占領した。ぐずぐず。ぐじゅぐじゅ。自分を卑下する気持ちがあふれ出して、僕はどうしようもなくて泣いてしまいそうになった。

「ううん。僕が伊藤くんを甘く見ていたから、第一章全部を宿題にしてしまったの。伊藤くんはすごかった。ごめんね」
「え……?」

 少し眉を下げて上目遣いで謝られても、何のことだか分からない。

「話が飛ぶようだけど、この大学にはプライドの高い人が多いでしょう。ぼくも含めて、ね」

 グサっと僕の心の一番恥ずかしいところを刺されて、僕はもう本当にいたたまれなかった。僕はプライドが高い。僕よりすごい人をいくら目の当たりにしても、自分のプライドにすがりついてぐじゅぐじゅに腐ってゆく。それがすごく恥ずかしくて、またどろどろの心を抱えてしまう。
 でも、衣真くんも、同じなのかな。

「衣真くんも?」
「うん。だから伊藤くんのリストに、こてんぱんにされた。いくつもの用語を、ぼくは説明できなかったから」
「衣真くんでも、そうなの」

 あの5ページを、衣真くんは完璧に説明できるのだと思っていた。

「そう。ぼくは、理解したつもりで鼻にかけてきただけだったんだ」

 安心したのはほんの一瞬で、やっぱり衣真くんに圧倒されてしまう。僕は「鼻にかけてきただけだったんだ」なんて、こんなにさらりと言えやしない。
 衣真くんはちら、と僕を見たけれど、話を続けた。

「この大学の人たちは、『分からない』ことを恥ずかしがるじゃない。でも伊藤くんは、分からなかった部分を全部挙げてくれたんでしょう? ほかの人なら見逃してしまったり、分かったフリをして誤魔化して、自分が『分かっていない』ことを隠そうとしたりする、そんなところまで、全部」
「……そうかもしれない」
「それは本当にすごいことだよ。分からないことを『分からない』と言える伊藤くんは、すごいと思った」

 衣真くんのまっすぐな目に見つめられて、僕はどうしたらいいかわからなくて細い声で「ありがとう」とだけ言って、目を逸らした。
 衣真くんの前だから、かっこつけて頑張っただけだよ。普段はもっと手を抜いて生きてるよ。講義で分からないところがあってもスルーして、僕はそうやって生きてるよ。
 そんなこと、言えやしなくて、言えやしないことが僕のプライドの証明のようで、もう頭がぐるぐるになった。

「ありがとう。ぼくはまだ何も理解していないことを、教えてくれて」

 衣真くんの穏やかな声が、ずっと頭の中に響いていた。

 衣真くんは丁寧に言葉を重ねて、僕のリストに説明を加えてくれた。ときには二人で考え込むこともあった。ほんの些細な言い回しで使われている普通の単語を深掘りすると、哲学の迷路に迷い込んでしまうのだ。
 哲学って、こういう学問なんだ。この学問の奥深さに比べたら、衣真くんすら入り口に立っているだけのような、そんな途方もない知の営み。
 衣真くんが僕を先導してくれる人でよかった。僕は衣真くんになら、「それってどういうことなの」と素直に質問できる。そして僕の賢い案内人は、僕の質問を歓迎して、ゆっくり、時折あごに手を当てて考え込みながら、丹念に言葉を紡いでくれる。
 考え考え、ゆっくりと言葉を交わす。それは今までに経験のない、静かな波に揺られるような、充足感のある時間だった。

 次の読書会の約束をして、ラウンジを出たところで別れた。

「忙しくなったらいつでも言って。読書会はいつお休みにしても構わない。哲学は逃げたりしないから」

 目を細めて笑って、ひらひらっと手を振りながら衣真くんは大講義室の方へ去っていった。
 確かに、数千年の営みである哲学は、少し休んだくらいで逃げやしない。
 でも、衣真くんはどうなの。

 次の講義に向かいながら、しみじみと思った。

 ——僕は衣真くんの言葉を分かりたい。

 衣真くんが時折口にする難しいセリフを分かりたい。それは……衣真くんをもっと分かりたいから?
 衣真くんはかっこよくてかわいくて、僕の……「友人」になってほしいから、なんだろうか?
 友人と呼ぶには、衣真くんはちょっときらきらしすぎているような気がして、僕は新緑の木漏れ日に目をぱしぱしとしばたたかせた。
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